朝の六時。港に面した宿の窓から、まだ薄い光が差し込んでいた。
廊下にエンツォの声が響く。
「起きてる連中から手を動かせ。日が上がったら桟橋が混むぞ。さっさと移動するぞ」
会場は港から水路を一つ越えた先にあった。
入り口の大きなゲートを抜けると、大会の紋章を掲げた旗竿が両岸に並んでいた。昨日入った一般係留地とは違う、雑多な音に包まれていた。エンジンの試運転、金属を叩く音、号令、笛。それらが水面で重なって、遠くからも近くからも返ってくる。旗の奥に、サービスパークと呼ばれる区画が広がっていた。
(……凄い)
桟橋が何本も伸びている。その一つ一つに機体が停められ、周囲にはテントや仮設の作業台、燃料ドラムを並べた区画、工具を広げた整備スペースが並んでいた。まだ朝の早い時間だというのに、あちこちで人が動いている。聞き取れない言葉が飛び交い、すれ違う人間の顔つきも島とは違う。
アリスは旗竿の下を抜け、桟橋の並びを目で追いながら歩いた。声が出なかった。
「……これ、全部がレースのためですか」
「そうだな。二年に一回の世界大会だから力の入れ方が違う」
フィンは前を向いたまま答えた。
アリスは頷くことさえ忘れて周囲を見ていた。島の港とは比べものにならない。ジュリアのカフェの前でポスターを見た夜には、想像もしなかった光景だった。
二つ隣の区画を通りかかったとき、アリスの足が止まった。
テントの数が違う。並んでいる機体が三機。整備班の人数も明らかに多い。工具はすべて専用の棚に収まり、燃料缶は自前のラックに整然と積まれている。テントの上にはスポンサーのロゴが大きく掲げられていた。作業台の上には計器類が並び、整備班の誰もが揃いの作業着を着ている。
「チーム・ノルディックだ」
エンツォが横目で言った。
「クラス1の本命だな。あそこは三機体制で、整備班だけで二十人はいる」
「……そんな大きなチームも出ているのですね」
エンツォは肩をすくめた。
「うちは規模じゃ勝てん。だけどな、うちだってちょっとしたものだぜ。プライベーターでクラス2出場、さらにサポートチーム付きだ。上から数えた方が早いチームだぞ」
「そうなのですね」
アリスは小さく頷きながら、もう一度ノルディックの区画に目を戻した。
その桟橋の先で、背の高い男が機体の点検をしていた。白い機体は塗装まで端正で、纏っている空気が一段違う。
昨日、マリエッティの横で言葉を交わしたときと違い、真剣な表情だった。整備班を従え、自分の区画で機体を見ている。前回の総合優勝者が、競技者として準備をしている姿だった。
「……あれはエリオさんですか。このチームだったんですね。さすが優勝候補という雰囲気があります」
フィンは少しだけ足を緩めた。
「皆さん、凄い人ばかりですね」
「ここはそういう場所だ。だけどアリスもその列にいるんだぞ」
フィンが歩きながら言った。
足音と金属音が、さっきより遠く聞こえた。自分がここに立っていることが、急に心許なくなりかける。
さらに歩くと、別の区画に見覚えのある痩せぎすの男が機体の横に立っていた。
(……あれは確かヴィペラさん)
距離があるのに、こちらへ顔を向けている。目を細めた笑みが貼り付いたまま動かない。
フィンは振り向きもしなかった。
「放っておけ」
「……はい」
アリスは視線を前に戻した。胸の奥が少しざわついていた。
◇◇◇◇◇
割り当てられた区画は、端から数えて七番目だった。
「うちの規模なら十分だな。テントを張るぞ。工具は内側、燃料缶は風下の端だ。動線を塞ぐなよ、入口は桟橋側だけだ」
エンツォが腕を組んで区画を見渡しながら、一息に指示を出した。
ルナの整備班が手慣れた様子でテントを立て始めた。骨組みを差し込み、幕を引き、ペグを打つ。声をかけなくても、次に誰が何を持つか決まっている。
「ここ、夜は海風が巻くわね。風対策は念入りにしてね」
ルチアがテントの幕を引きながら言った。
「やっとく」
ピエトロが無言でペグを増し打ちにかかった。
トーノが工具箱を開き、中身を作業台の上に並べ始める。
「ここに基本セットを出しておきますね。スペアの方は奥の木箱です」
「パーツの管理はトーノとピエトロで回してくれ。使ったら記録を残せよ」
「了解です」
カリーナが駐機場の端を歩いて戻ってきた。
「係留のフックは問題ないわ。ただ、潮位が変わると浮きの下に波が入るから、係留ロープはゆとりを持たせて」
エンツォが「ジョバンニ、聞いたな」と振ると、板金職人のジョバンニが「あいよ」と無愛想に頷いた。
マヌエラとベアトリーチェは設営には手を出さず、テントの隅で帳面を広げていた。書類の束を一枚ずつ確かめながら、ペンで線を引いている。
マヌエラが手を止めて、ベアトリーチェに伝える。
「明日の参加確認に持って行く書類、もう一度確認し直します。フライトブックと周波数割当表は参加確認後の交付なので、受け取りの段取りを確認しておきました」
ニコラが無線機を開き、周波数を確かめていた。
「大会共通周波数は入ってます。個別割当は明日の参加確認後ですけど、受信テストだけ先にやっておきます」
「頼む」
それぞれが自分の持ち場で、黙って手を動かしている。指示待ちの時間はほとんどなかった。アリスは空いた手で燃料缶を並べ直し、ロープを束ね、テントの裾を押さえた。出来ることは限られている。それでも、立ち止まっている暇はなかった。
桟橋を見ると、昨日係留したガネットがそこにあった。フィンが傍に立っていた。
◇◇◇◇◇
昼前には設営はほぼ片づいた。
テントの下に作業台が二つ。工具は壁際の棚に並び、燃料缶は風下に積まれ、予備パーツの木箱にはトーノの手書きラベルが貼られている。大手チームに比べれば質素そのものだが、動線は無駄なく、手を伸ばせば必要な物に届く。
エンツォが腕を組んでテントの入口に立った。
「こんなもんだろう。あとは明日の参加確認が通れば、Day 0の機体検査に進める」
「明日はフィンと私とアリスで受付に行きます」
マヌエラが帳面を閉じた。
「受付書類は全部揃っていますが、念のため朝にもう一度確認します。午後はアリスさんとフィンさんで、アイテナリーをなぞっておいてください」
「コース情報はまだだろ?」
「はい。ですが、リエゾンの距離配分と時間の見積もりは今の資料で出来ます」
「わかった」
フィンが海図の束を取りに行った。アリスもそれに続く。
テントの下にパイプ椅子を二つ並べ、膝の上にアイテナリーと海図を広げる。
「まずはリエゾンの全体を見ろ。北大陸を出てサルティーナへ渡って、また北大陸に戻って、最後にもう一度サルティーナへ渡る」
アリスは海図に視線を落とし、ペンの先で航路をなぞった。
「移動日の距離と時間配分を頭に入れておけ」
「はい」
「SSの中身はフライトブックが来てからでいい、今はリエゾンの骨格だけ掴む」
「はい」
アリスは鉛筆で海図に線を引き始めた。北大陸のポルト・ヴァルナを出て、サルティーナのマリーナ・グランデへ渡り、島を回って北大陸に戻る。最後にもう一度サルティーナへ渡り、そこに最終ステージがある。その間にSS区間がいくつも挟まる。
「長いですね」
「ああ、だが何度か飛んだのがリエゾンで役立つ」
「はい」
フィンは海図の上を指でなぞった。
「リエゾンで遅れるなよ、それだけで順位が変わる」
アリスはペンを止めて、フィンの言葉を聞いた。
「SSのタイムも大事だが、リエゾンでペナルティを出さないのも大事だぞ。練習でやったことと同じだ」
「分かりました」
アリスは鉛筆を握り直した。海図の線は練習の時と同じだけれど、今度はこの線の上を本番で飛ぶ。
◇◇◇◇◇
午後が半分ほど過ぎた頃だった。
テントの前に、人影が立った。
「やあ、失礼。少しお時間いいですか」
蝶ネクタイを締めた男が、にこやかに手帳を掲げている。
「実況を担当しているバーナビー・ワッツです。今日は取材も兼ねて回っていまして」
マヌエラが対応に当たった。
「取材ですか?」
「ええ、まあ。各チームにご挨拶を兼ねて回っていまして。プライベーターのチームは特に話が面白いんですよ」
「取材対応はチーム監督を通してください」
「もちろんです。で、監督はどちらに?」
マヌエラがカリーナの方を示した。バーナビーは一度そちらへ向かい、短く言葉を交わして戻ってきた。
「お話を伺えますか。エントリーリストで拝見したんですが、双発機のクラス2で、しかもプライベーター。珍しい編成ですね」
バーナビーは楽しそうに手帳を開いた。
「パイロットのフィンさん。ご職業はサルティーナの運送屋さんだとか」
「運送屋っていうか、まあそうだな。荷物を運んで飯を食ってる」
「いいですね、その言い方。失礼ですが、お年は?」
「二十八だ」
「飛行歴は」
「おおよそ十年だな」
「ご年齢から逆算すると、軍にも?」
「悪いが、その話はノーコメントだ」
「これは失礼。では、機体のガネットについて。双発機ですが、運送機の改造ですか?」
「そうだ。仕事用の機体だ。プライベーターだからな。あるものを使ってる」
「なるほど。サルティーナでの運送業からストラトスへのきっかけは?」
「ストラトスは前から出たいと思っていた。今回は色々とタイミングが合った」
「タイミング。詳しく聞いてもいいですか?」
「機体と、人と、金が揃った。それだけだよ」
「シンプルですね。最後に、パイロットとして大切にしていることは?」
「最後まで飛ぶこと。勝つことより先に、それだ」
「いい言葉だ。実況で使わせていただきます。では、コ・パイロットのアリスさん。お若いですね。レースの経験は」
「レースは初めてです」
アリスが答えた。バーナビーのペンが走る。
「初めて? それでストラトスに。なかなかの度胸ですね。フィンさんに誘われた?」
「いいえ、自分で出ると決めました」
「ほう」
「島でポスターを見たときから、どうしても参加したくて。フィンさんに無理を言ってお願いしました」
バーナビーが目を細めた。
「いい話だ。使わせてもらいますよ、実況で」
「余計なことは言うなよ」
フィンが低い声で釘を刺した。バーナビーは気にした様子もなく、にこにこしたまま手帳を閉じた。
「もちろん。事実だけで十分面白いんです。プライベーターの物語ってのは、大手のプレスリリースより血が通ってますからね」
フィンは胡散臭げに目を細めた。
「ありがとうございました。レース、楽しみにしていますよ」
そう言って隣の区画へ歩いていった。振り返りもしない。あの速度で全チームを回っているのだろう。
「……手強い人ですね」
アリスが呟くと、マヌエラが眼鏡を押し上げた。
「実況屋は面白く伝えればいいと思ってるから。下手なことを拾われると面倒です」
「俺は何も言ってないだろ」
「だからです。黙っている人ほど、勝手に話を作られます」
「面倒だな」
フィンは小さく息を吐いて、海図に目を戻した。
◇◇◇◇◇
日が傾き始めたころ、設営の確認を終えたエンツォが、テントの入口に立って区画を見渡した。
「よし。明日の朝までに触るところはない。あとは参加確認が通れば、次は機体検査だ」
ルナの整備班が順に手を洗い、工具を片づけていく。カリーナはガネットの傍で最後の点検を済ませ、浮きの係留を確かめてからようやくテントに入った。
「問題なし。明日も早朝に一回見るけど、今日のところは大丈夫」
「飯にしよう。食堂で食えるのも今のうちだ」
エンツォが言った。
「宿の食堂、量はありましたし、味も悪くありません」
ベアトリーチェが言いながら帳面を閉じた。
全員が区画を出る中で、アリスだけがテントの出口で立ち止まった。
振り返ると、ガネットが桟橋に繋がれていた。銀色の胴が夕陽を受けて、鈍い橙色に光っている。その隣にも、その隣にも、別のチームの機体が並んでいた。旗が風に揺れている。テントの幕がはためいている。遠くでエンジンの試運転の音がした。
(これがストラトス・グランプリ……)
島のカフェで初めてポスターを見た夜。宝石を差し出してスポンサーになった夜。灯台を見失って何も言えなかった午後。紙とにらめっこして眠れなかった夜。全部が、この場所につながっていた。テントの下に並んだ工具も、燃料缶も、帳面の付箋も、ここで使うためにあった。
(……ここまで来られた)
でも、まだ始まっていない。スタートラインにもまだ立っていない。
「何してるんだ」
フィンの声がした。
「……この光景を見てました」
「食い損ねるぞ」
「はい」
アリスはガネットに背を向けて歩き出した。桟橋の板を踏む音が、昨日より少しだけはっきり聞こえた。