翌朝、HQの掲示板に受付スケジュールが貼り出されていた。
昨日の設営で動き回った疲れは残っているはずなのに、テント前にはルナの整備班が早くから出ていた。誰もが昨日より少しだけ顔つきが違って見える。マヌエラはすでにテントの前に立っていて、書類の束を胸に抱えていた。
「時間だな。受付に行くか」
フィンが言うと、マヌエラは書類鞄を抱え直した。アリスはその横で小さく頷いた。
「アリスの資格証は、すぐ出せるところに入れてあります」
「気が利くな」
「資格証は照合で引っかかることが多いんです。そういう時にすぐ取り出せないと、後ろの列が止まりますから」
マヌエラの口調はいつもより少し早かった。彼女自身も緊張しているのかもしれないと、アリスは横で思った。
◇◇◇◇◇
HQの受付カウンターには、すでに列ができていた。クラス別に窓口が分かれていて、クラス2の列には五組ほど並んでいる。どのチームも書類を手に持ち、前の組の動きを静かに眺めていた。
「次、どうぞ」
マヌエラが窓口に進んだ。
「チーム・ガネット、クラス2です」
書類を順番通りに差し出す。担当が一枚目から確認を始めた。エントリーフォームの控え、競技資格証、支払証明、FIA票──淀みなく進んでいく。
次にアリスのナビゲーター資格証が出たとき、担当の手がわずかに止まった。証明書を裏返し、発行機関を確認し、日付を見る。
(……何かあったのかしら)
アリスはカウンターの前で背筋を伸ばしたまま待った。胸の鼓動が、自分でも嫌になるくらい速い。
「ISAF発行ですね。問題ありません」
ようやく担当が証明書を返した。マヌエラがそれを受け取り、鞄に戻した。アリスは小さく息を吐いた。
別の窓口に移ると、周波数割当表と分厚い冊子を差し出された。フィンがフライトブックを手に取り、表紙をめくった。細かい数字と地図がびっしりと並んでいた。
「……えらい厚さだな」
「全部読み込んでくださいね。飛ぶだけ、というわけにはいきませんよ」
マヌエラが涼しい顔で言った。
「わかってる。ただそれが一番厄介なんだがな」
フィンが苦笑すると、マヌエラは唇の端だけで笑った。アリスは自分の分の周波数割当表を手にして、表を一度だけ目で追う。
(……これで、本当に出られるんだ)
大会で使う無線の割当なのだと思ったとたん、手の中の紙が急に重たく感じた。
◇◇◇◇◇
午後、テントに戻るとエンツォがガネットを腕組みで見ていた。
「検査で引っかかるところはないな?」
「今のところは。ただ、競技番号の文字高さがぎりぎりだったわ」
機首の前に立ったカリーナが、識別番号のステッカーを爪でなぞりながら答えた。
「規定はクリアしてるのか」
「クリアはしてる。けど、検査官が目を細める可能性はあるわね。今夜のうちに少し足しておく」
カリーナはそれだけ言って、テントの奥から塗料の缶を取り出した。ピエトロが養生テープを持って後を追った。動きに無駄がない。
フィンはパイプ椅子を引き寄せ、フライトブックを開いた。アリスも横に並んで、自分の一冊を膝に載せる。ページをめくると、SS一本ごとに、ゲートと目印と距離が、びっしりと詰まっていた。練習で何度も書いたものと同じ形だ。同じ形のはずなのに、量がまるで違う。
「……多いです」
思わず声が漏れた。
「一本ずつだ」
フィンは前を向いたまま言った。
「全部いっぺんに見るな。最初のゲートの入り、次に拾う目印、それだけ拾え。その先は、次に回せ」
「……はい」
アリスは鉛筆を握り直した。最初の一行に線を引く。一本、また一本。手を動かしているうちに、さっきの「多い」が、少しずつ「順番」に変わっていった。
その時、テントの外を蝶ネクタイの後ろ姿が通り過ぎた。例の実況屋のバーナビーだった。後ろにはカメラを担いだ男と無線中継の技師。今日はこちらの区画には立ち寄らず、軽く片手を上げて挨拶だけしていく。
「あの方、また回ってるんですね」
「彼らは、各チームの動きを早いうちに掴んでおきたいんですよ。アナウンスの仕事ですからね」
マヌエラが手帳から目を上げずに答えた。
エンツォは機体の点検を一通り確認して、腕を組み直した。
「明日の検査準備はOKだ。受かればあとは飛ぶ者の仕事だ」
「わかっている」
フィンはフライトブックから目を上げ、短くそれだけ返した。
この日は、夕食が終わっても、フィンとアリスはフライトブックに取り組んでいた。
◇◇◇◇◇
検査当日の朝、検査官が区画を順に回っていた。
水面には各チームの機体が係留されたまま、朝の光を受けて浮いている。検査員は桟橋を渡り、一区画ずつ機体を確かめていく。番が近づくにつれ、サービスパーク全体が静かになっていくのが分かった。ガネットも係留されたまま、銀色の胴を水面に映している。
二つ離れた区画で、痩せぎすの男が一人、腕を組んで自分の機体の脇に立っていた。視線がふっとこちらへ流れて、目が合いそうになった瞬間、男はまた前に向き直った。
(……ヴィペラさん)
アリスは息を詰めて、その横顔から目を逸らした。フィンは最初から見ていなかった。
やがてガネットの区画にも、主任検査官がやって来た。オットー・ブレマーという名の、白髪の混じった男だった。表情を変えずにクリップボードを抱え、桟橋と作業台を使って、係留された機体の周囲を順に確認していく。
「競技番号」
検査官の目が少し止まった。顔を近づけ、番号の上端と下端に視線を走らせる。
「文字高さ、規定ぎりぎりです」
「昨夜補修しました。規定値はクリアしています」
カリーナが一歩前に出て答えた。検査官はメジャーを取り出し、上端から下端まで計測する。クリップボードに数字を書き込み、もう一度番号を見ると、識別表示の方へ視線を移した。
「識別表示、確認」
「無線、送受信」
ニコラが検査官側の無線機に応答した。「受信良好」とだけ返ってくる。検査官はカテゴリAとBの周波数を読み上げ、ニコラが受信を確認した。続いて割当カテゴリCに合わせ、短く送信する。
「安全装備」
カリーナがコックピットの脇から、二人分の浮力装置と信号筒を取り出して見せた。検査官は手に取り、留め具と封の状態を確かめてから戻す。
「FIA票、副署を」
マヌエラがすかさず票を差し出した。検査官は署名欄に目を落とし、自分のペンで一筆書き加える。最後に主翼付け根の取付部とフロート支柱を順に確認し、舵面を一度ずつ動かして、耐空状態をひととおり検めた。
「……合格です」
検査官はそれだけ言うと、検査完了票を差し出して次の区画へ移っていった。カリーナは表情を変えなかった。フィンも変えなかった。エンツォだけが、小さく息を吐いた。
カリーナが票を一度だけ確認して、封筒に入れた。
「これで出られるわ」
「ああ」
フィンが短く頷いた。アリスは横でその票を見ていた。紙一枚だが、この紙がなければスタートラインに並べないのだ。
◇◇◇◇◇
ブリーフィング用のテントへ向かうと、参加チームがすでに揃っていた。前の方にはクラス1の大手が陣取り、その後ろに小さなチームが続いている。フィンたちはやや後方の席に入った。
SS区間の概要説明とペナルティ規程の確認が続いた後、天候担当のノアという男が壇上に立った。肩の大きな男で、声に張りがある。
「序盤三日間は両海域とも安定しています。問題は中盤です。五日目から六日目にかけて、北大陸沿岸に低気圧が入る可能性があります。最終日は別の気圧の谷が南下してくるかもしれません」
スクリーンに等圧線の図が映る。フィンが少し顎を引いた。アリスはフライトブックの余白に「五〜六日目・北大陸・低気圧」「最終日・不確定」と書き込んだ。
ブリーフィングが終わり、人が散り始めた頃、聞き覚えのある声が近づいてきた。
「おやおや、フィン。本当にクラス2で出るんだねえ。あの双発のおんぼろで、よく検査を通したものだ」
ルーカスだった。連れの男たちが後ろで笑っている。
「おまけにお嬢さんをコ・パイにねえ。途中で漂流でもしたら、彼女が可哀想じゃないか」
アリスが身を硬くしたが、フィンは振り向きもせずに席を立った。
「心配なら、自分の機体の整備でもしておけ」
「相変わらず可愛げのない男だ」
ルーカスは大仰に肩をすくめてみせる。フィンはそれだけ言うと、アリスを促してテントを出た。
◇◇◇◇◇
夕方、会場の広場に参加者が集まった。前夜祭といっても、テーブルに飲み物と軽い食事が並ぶだけの、ささやかなものだった。
「思ったより、静かなんですね」
アリスが小声で言うと、フィンは飲み物を手にしたまま頷いた。
「明日があるからな。騒ぐのは終わってからだ」
エンツォは別のチームの責任者と話し込み、カリーナは見知らぬ整備士に機体の話を振られて、いつのまにか熱心に応じている。マヌエラは隅の机で手帳を開いたままだった。それぞれが、それぞれの流儀で明日に備えていた。
ふと、広場の中ほどに人だかりができているのにアリスは気づいた。声の中心にいるのは、エリオだった。アリスが見ているのに気づいて、フィンも同じ方へ目をやった。
「……相変わらず、囲まれてますね」
「ああ」
アリスはもう一度、人垣の中心に目をやった。前にサルティーナで顔を合わせた時とも、昨日桟橋で挨拶した時とも違う、空気の密度がある。
(……名前を知っているのと、同じ水面を飛ぶのは、別のことなのね)
「……私たちも、あの中で飛ぶんですね」
「ああ。飛ぶ」
フィンはそう言って、グラスをテーブルに置いた。
その時、向こうの人垣が少し動いた。エリオが広場の端へ移動してきて、その目がこちらへ向いた。フィンと目が合った。一秒か、二秒か。エリオが小さく頷き、フィンも頷き返した。
人垣はまたエリオを囲み、声が戻った。
アリスはその一瞬を横で見ていた。隣のフィンの顔には、何も浮かんでいない。それが今のフィンの答えなのだろう。
◇◇◇◇◇
夜が深くなってから、フィンは一人で桟橋へ出た。ガネットは係留ロープに繋がれたまま、暗い水面に浮かんでいる。周囲は静まり返り、隣の区画のテントにだけ灯りが残っていた。フィンはガネットの機首に手を置いた。金属は夜の冷えを残している。
(明日、ここを出る。次に戻る時は、レースの途中だ)
準備は終わった。検査も通った。それでも、今夜は何かが違う。島を出る前夜とも、北大陸に着いた夜とも違った。
(後ろがもう、ない)
その時、桟橋の板を踏む音が、後ろから近づいてきた。
「……眠れないんですか」
振り返ると、上着を羽織ったアリスが立っていた。手にはランプを持っている。
「アリスこそどうした」
「私は、寝ようとしたら、目が冴えてしまって」
アリスはフィンの隣に並び、ガネットを見上げた。ランプの光が、機首の銀色の胴に短く触れる。
「明日から、本当に始まるんですね」
「ああ」
「フィンさん」
「なんだ」
「私、明日、ちゃんと役に立てるでしょうか」
短い沈黙のあと、フィンは前を向いたまま、ぽつりと答えた。
「……それは、飛んでみないとわからん」
アリスは少しだけ俯いて、それから小さく頷いた。突き放されたようでいて、不思議と落ち着く言い方だった。
「はい」
二人はしばらく黙ったまま、夜の港を見ていた。ガネットの胴が、ランプの光をやわらかく返している。明日、この機体に乗って、ここを出るのだ。
「冷えるぞ。戻れ」
「フィンさんも、もう戻ってくださいね」
「ああ」
桟橋を引き返す二人の足音が、夜の運河に低く響いた。