碧海のサルティーナ   作:あんさん

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第25話 開幕

「指示、ありました。離水位置へ向かってください」

 

 アリスの声が、最後で掠れた。

 

「わかった」

 

 係留が解かれ、機体が水面を滑り出した。先行の機体が次々に離水し、低く飛び立っていく。観客席の前を抜けるたびに、歓声が一段ずつ高くなった。

 アリスは膝の上で、地図板を両手で押さえていた。離さないと、手が震えているのが自分でわかる。

 

「深呼吸しろ。声がかすれてる」

 

「……はい」

 

 目を閉じて、深く吸って、吐く。もう一度。

 桟橋の係員が緑の小旗を振った。

 

「許可が出た。行くぞ」

 

「はい!」

 

 フィンがスロットルを開いた。エンジンが低くうなり、機体がゆっくりと水面を駆けて、ふわりと浮き上がった。

 程なくセレモニーフライトの会場が見えてきた。

 

「観客席の前を低く抜ける。手を振ってくれ」

 

 観客席のすぐ上を抜けていった。下に、人の顔がはっきり見えた。仮設されたスタンドは満席で、こちらを見上げ、口を開けて叫んでいる。その声が、エンジン音の隙間を縫って耳に刺さってきた。

 フィンが翼を振った。それだけで、足元の群衆がどっと沸いた。

 アリスも、震える手を上げて振り返した。応えるように、歓声がさらに膨れ上がる。

 歓声に交じって、実況するバーナビーの声が聞こえた。

 

「……こんなに、たくさん」

 

 声が漏れた。嬉しいのか、怖いのか、自分でもわからない。手を振って初めて目に入った人の数が、今になって背中を押してくる。喉が、また締まった。

 

「飛んでるんだな」

 

 フィンがぽつりと言った。アリスにというより、自分に言ったような声だった。前を向いたまま、それきり何も言わない。

 

「掴まってろ。旋回する」

 

「はい」

 

 機体が傾き、水面が斜めにせり上がった。水平に戻り、着水すると水飛沫が高く散り、フロートが水を切った。

 セレモニーフライトが終わった。

 ヘッドセットの中に、自分の長い吐息が響いた。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 SS1、ノルテ。

 機体はいったん待機水面へ回され、出走の順番を待った。一機ずつ、三分間隔。前の機体が、進入コースの先のゲートを通過して飛び去っていった。

 アリスは膝の上のノートをもう一度確認した。海岸線に沿って延びる五つのゲートと、進入コースのランドマーク。ブリーフィングで示された要点は、頭に入っている。

 

「スタートは枠の先頭で抜ける予定です」

 

「ああ、わかった」

 

「次は俺たちだ。四千まで上がってダイブする。タイミングを出せ」

 

「……はい」

 

 フィンがスロットルを開いた。エンジンが唸りを上げ、ガバナーがピッチを合わせて回転を保つ。機首が上がる。速度計の針が落ち、それと引き換えに、機体がぐんぐん高度を上げていった。上昇に力を食われて、機体が重くなったように感じた。やがて四千フィート。

 フィンが機首を下げ、ダイブに入った。海面がせり上がってきた。針が逆に振れ始めた。速度が乗りきったところでダイブブレーキを使ったのか、加速は頭打ちになった。

 アリスはストップウォッチと地図板を交互に見た。進入コースのランドマーク——沖の小島の南端が、前方に見えている。

 

「小島の南端まで、二・五海里。スタートまで……三十秒です」

 

「水平に入る」

 

 機首が起きて、視界が水平に戻った。ダイブブレーキが引き込まれ、過剰な速度がゆっくりと抜けていく。三百二十ノットまで上がっていた針が、二百八十、二百七十とじりじり落ちていった。

 ランドマークを通過した。続いて、ゲート手前に立てられた紅白の標識ブイが見えてきた。

 

「標識ブイ、通過。ゲートまで……予定どおりです。あと、十秒」

 

「……速いな」

 

 フィンが短く言い、スロットルが戻されたか、減速を感じた。それでも、乗った速度はすぐには落ちない。

 

「五、四、三、……」

 

 アリスは時計を読み上げるだけで精一杯だった。自分たちが早いのか遅いのか、そこまで頭が回らない。港口の標識が、目の前で膨れ上がる。

 

「……通過です」

 

 スタートゲートが、足元を過ぎていった。

 すぐに、無線が割り込んできた。

 

『ガネット、スタート、十一時十九分五十七秒』

 

 オフィシャルの声が、時刻を二度繰り返す。

 

『十一時十九分五十七秒』

 

 アリスは震える手で、その数字をノートに書きつけた。自分のスタート枠は、十一時二十分ちょうど。書き留めた数字を見て、指が止まる。

 三秒、早い。

 

(……出るのが、早かった)

 

 血の気が引いた。フライングだ。フィンが速いと言ったのは、これだったのだ。

 

「ゲート1、右手前方……岬の、先端です」

 

 声がうわずった。さっきの数字が、頭から離れない。

 

「ああ」

 

「すみません。フライングかもしれません」

 

「ああ、分かっている。想定内だ」

 

 沈黙のまま、機体は飛び続けた。喉がカラカラだったが、何とか声を絞り出す。

 

「……目標の岬が見えます。次、ゲート2、その先の……えっと、湾の奥の、灯台です」

 

 コールが、半拍ずつ遅れていく。フィンは何も言わず、ゲートを確実に通過していった。それが、かえってこたえた。

 ゲート2を抜けると、しばらくは海ばかりだった。同じような岩場と入り江が、次から次へと窓の外を流れていく。アリスは膝の地図と眼下の海を何度も見比べ、次の目標を探した。コールとコールの間に、無音が長く挟まる。エンジンの単調なうなりだけが、ヘッドセットの中を満たしていた。

 どれくらい飛んだだろう。地図板を持つ指が、いつのまにかかじかんでいた。

 

「ゲート3、右手の岬を回り込んだ先。漁港の防波堤です」

 

「ああ」

 

 ゲート3を回り込み、また直線に入った。海はどこまでも開けている。

 

「ゲート4、その先の……島の影、灯標です」

 

「見えてる」

 

 ゲート4を抜けても、まだ終わらない。アリスは何度目かわからない時計を見た。残るゲートは、あと一つだった。

 

「ゲート5、正面の桟橋、目印は赤い旗です」

 

「見えた。行くぞ」

 

 ゲート5を越え、しばらく海上を飛ぶと、前方にゴールゲートのパイロンが見えてきた。

 ゴールゲートを通過した。すぐに無線が、ゴール通過時刻を二度告げる。アリスはタイムをノートに書き留めた。

 フィンが速度を落とすと、機体は高度を下げて着水し、サービスパークの桟橋へ向かった。水面は穏やかで、機体はゆっくりと進んでいく。その途中で、チーム無線が入った。

 

「SS1のリザルト、出たわよ。クラス2で十二位。スタートでフライング三秒、加算されてる」

 

 カリーナの声だった。やはり、と思う間もなく、声が続いた。

 

「でも、一時間以上飛ぶSSで三秒なんて誤差よ。気にしないこと。初戦で十二位なら、立派なものだわ」

 

「……はい」

 

 アリスは、ノートに書いた三秒の数字を、指でそっと隠した。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 ヴァルナのサービスパークに戻り、桟橋に着くと、ルナの整備班がすでに待ち構えていた。ロープを取り、機体を引き寄せ、桟橋に固定する。

 ピエトロがエンジンカバーを開けて覗き込み、しばらくして顔を上げた。カリーナがその報告を受けて、頷く。

 

「エンジンの目視は異常なし。フィン、油温、油圧、全部正常よね?」

 

「ああ」

 

「わかったわ。じゃあ燃料を補充して。残りはSS2だけだから、その分だけでいいわよ。余計に積めば重いだけだもの」

 

 ルナの整備班が、手際よく給油を始める。

 アリスはコクピットから降りたが、足が地面についた瞬間に膝が笑った。

 

「あっ……大丈夫?」

 

 マヌエラが駆け寄って、木箱を引き寄せてくれた。

 

「ここに座って。次のSSまで一時間あるから、少し休んでおくこと」

 

 マヌエラが水の入った瓶と、布に包んだパンを持ってきた。

 

「これを、食べてね」

 

「ありがとうございます」

 

 アリスは瓶を受け取ったが、手が震えていて蓋がうまく開けられない。マヌエラが黙ったまま蓋を回してくれた。

 水を一口飲んだ。乾ききった口の中に、ようやく水が回った。

 パンを齧る。今度は味がした。

 フィンはカリーナと何か話している。声までは聞こえないが、カリーナが頷いて、指で何かの動きを示している。舵面の話だろう、とアリスは見当をつけた。

 

「飲めた?」

 

 マヌエラがしゃがんで、アリスの顔を覗き込んだ。

 

「……まだ、終わった気がしないんです。体だけ降りてきて、頭がまだ上にいるみたいで」

 

「そうね。初めてなんだから当然かな。……でも、しっかりと飛んで帰ってきたでしょ。大丈夫よ」

 

 マヌエラはそれだけ言って、立ち上がった。

 アリスはパンの残りを口に押し込み、飲み下した。次のSSまで、あと一時間。膝は、まだ笑っていた。

 フィンが水を片手にやって来て、アリスの隣の木箱に腰を下ろした。

 

「スタート、フライングしました。三秒、加算されて……わたしが、出るのを止められなくて」

 

「お前は時計を読んでた。早いと気づいて舵を引いたのは俺だ。お前のせいじゃねえ」

 

 フィンは瓶を傾けてから、低く続けた。

 

「だが、スロットルを緩めたのは失敗だったな。フライングの三秒より、速度を殺したほうがタイムロスが大きかった。次は緩めないから、アリスは迷わず読め」

 

「……はい」

 

「気にすんな。お前のコールは、ちゃんと届いてた」

 

 それだけ言って、フィンは立ち上がった。

 アリスは、ノートに書いた数字を、もう一度見た。さっきより、少しだけ軽く見えた。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 SS2、エスティア。

 給油と点検を終えたガネットは、再び水面へ出て待機列についた。

 前の機体が進入コースのゲートを通過していった。

 

「今度は内陸のスラロームです。ゲートは六つ」

 

「ああ。さっきと同じだ。四千まで上がってダイブでスタートを切る。今度はタイミングを合わせるぞ」

 

「……はい」

 

「コールは早めにな。遅れて慌てるより、早すぎるくらいでちょうどいい」

 

「分かりました」

 

 ガネットが高度を取り、四千フィートからダイブに入った。速度が乗る。眼下に広がるのは、海ではなく緑の湖沼地帯だった。

 アリスはストップウォッチを握り直した。今度は、さっきより指が震えていない。

 

「次のランドマーク、岸の張り出しまで二・五海里。スタートまで三十秒」

 

「水平に入る」

 

 針が三百二十から落ちていく。減っていく速度を、アリスは目で追った。この速度なら、ランドマークからゲートまで何秒か——頭の中で数字がつながっていく。

 

「標識ポール、通過。……このまま。あと十秒……五秒、四、三、二、一、ゼロ、一、二、三……」

 

 スタートゲートを、機体が全速で通過した。今度は、枠を外さずフライングもしなかった。それだけのことが、ひどく大きく感じられた。

 

「ゲート1、左手前方、湖の南端の小屋」

 

「見えた」

 

 フィンが速度を上げた。朝のSSよりも、明らかに速い。風切り音が強くなり、機体が細かく揺れた。湖面が近い。かすめるように飛んでいて、翼の影が湖面に映っているのが、ふっと一瞬だけ視界の隅をよぎった。

 

「ゲート2、正面の丘の向こう、林の切れ目です」

 

 アリスはノートと地形を交互に見ながら読み上げていく。声が、さっきよりは安定していた。目で見て、確かめて、声に出す。それを繰り返しているうちは、余計なことを考えずに済んだ。

 

「ゲート3、右旋回してすぐ、川の合流点です」

 

「了解。……いいぞ、そのタイミングだ」

 

 フィンが短く付け加えた。

 

(……今の、間に合った?)

 

 フィンが旋回を始める、その直前のコールだった。練習で何度もやり直した間合い。偶然かもしれない。それでも、一つだけ、噛み合った気がした。

 

「ゲート4、湖の北岸、白い建物」

 

「見えた」

 

 SS1と同じだ。ゲートとゲートの間には、長い飛行がある。湖と湿原が延々と過ぎていき、それでもアリスは今度こそ、目標を見失わなかった。地図と地形を照らして声に出す手順が、さっきよりは苦にならなかった。

 湖沼地帯の最奥を回り込む。速度は落とさない。フィンは攻めていた。朝より明らかに、機体を信頼した飛び方だった。

 

「ゲート5、目印は……丘の風車です」

 

「あった」

 

「ゲート6、ゴール。正面の桟橋のパイロンです」

 

「わかった」

 

 ゴールゲートを通過した。無線が入る。アリスは時間を書いてノートを閉じた。手の震えはまだ止まっていなかったが、字は、さっきよりは読めた。

 フィンが機体を降下させ、着水態勢に入った。フロートが水を切り、速度が落ちたところで、チーム無線が入る。

 

「SS2のリザルト──」

 

 カリーナの声が、一瞬だけ途切れた。

 

「──七位。ノルテより五つ上がってる。いいペースじゃない」

 

「上がったか」

 

 フィンが短く言った。その声に、隠しきれない張りがあった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 日が落ちる前にビバークのテントへ戻った。初日の全行程が、ようやく終わった。

 隣のテントでは、クルーがそれぞれ明日の準備を進めていた。

 

「初日の暫定順位、出たわよ」

 

 カリーナが近づいてきて、フィンとアリスの前で足を止めた。

 

「クラス2で九位。首位とは三分差。初日にしちゃ上出来よ」

 

「九位……」

 

「順位はともかく、三分差ならいい線だろ。トップは?」

 

「総合トップはエリオね。二位を五分ちぎってるから、ちょっとバケモノね」

 

「やれやれだな」

 

「同じクラスでなくてよかったわね」

 

「そうだな」

 

「明日はリエゾンよ。何度も飛んで慣れた距離でしょうけど、SSとは別の仕事になるわ。今夜のうちに、フライトブックをもう一度見直しておきなさい」

 

「はい」

 

 フィンが水を飲みながら、ぽつりと言った。

 

「まあ、悪くなかったな。初日にしちゃ、よくやった」

 

「……はい」

 

「SS2のゲート3、間に合ってたぞ。あのタイミングなら、次もいける」

 

 アリスは顔を上げた。フィンはこちらを見ていなかったが、確かにそう言った。

 

「ありがとうございます」

 

「明日のリエゾンは長いぞ。見直したら早めに寝とけ、頭使うからな」

 

「はい、おやすみなさい」

 

「ああ、おやすみ」

 

 アリスはテントに入った。

 しばらくフライトブックでルートのおさらいをして、寝袋に潜り込み目を閉じる。体は疲れているのに、目の裏ではまだゲートが流れていく。耳の奥に、フィンの「いいぞ」が残っていた。

 

(明日はサルティーナに飛ぶ)

 

 眠りに落ちる寸前、その実感だけが、ぼんやりと胸に残った。

 

 

 

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