碧海のサルティーナ   作:あんさん

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第26話 海峡

 夜明け前に、ふっと目が覚めた。

 昨日より少しだけ長く眠れた気がする。テントの天井をぼんやり見上げてから、寝袋の中で手を開いて、また閉じた。指先は、震えていなかった。まだ暗くて冷たい空気の中で、自分の体が昨日より少しだけ落ち着いていることに、アリスは気づいた。

 寝袋から這い出して、冷えた空気を深く吸い込んだ。

 テントを出ると、暗がりの中で、すでにルナの整備班が動いていた。燃料缶を桟橋へ運ぶ足音と、缶のぶつかる鈍い音が、薄明の空気に響いている。

 

「おう、起きたか」

 

 桟橋の端で腕を組んでいたエンツォが、振り向きもせずに言った。

 

「今日は長丁場だ。朝飯をしっかり食え。水も多めに積んでおけ」

 

「はい」

 

「何度も言ったが、リエゾンはタイムじゃない。正確さだ。CPを全部通って、指定の時間に間に合えばいい。焦るなよ」

 

「わかっています。……エンツォさんたちは」

 

「クラス3の連中と一緒に、先に出る。カリーナとトーノも乗せていく。競技機はCPを回る分だけ遠回りになるからな。直行する俺たちのほうが、少し早くマリーナに着く。お前たちが下りる頃には、サービスの支度はできてるはずだ」

 

 ケータリングのテントから、フィンが戻ってきた。パンを齧りながら、もう片方の手にフライトブックを持っている。

 

「アリス。海図の確認は、終わってるな」

 

「はい。昨夜もう一度なぞりました。CPの位置と、推測航法に切り替えるポイントを、鉛筆で入れてあります」

 

「見せてみろ」

 

 アリスが膝の上で海図を広げた。北大陸の海岸線から南へ、一本の航路が鉛筆で引かれている。その線の途中に、小さな丸印がいくつも打ってあった。

 

「出発してしばらくは、無線航法です。沿岸の標識局が二つ使えます。……ここまで」

 

 指先が、海図の上をゆっくり滑っていく。

 

「このあたりから、標識局の電波が届かなくなります。ここから先は推測航法です」

 

「風の読みは」

 

「出発前に、ノアの天候情報を確かめます。上空の風は飛んでみないとわからないので、あとは飛びながら補正します」

 

「いいだろう。後半は」

 

「サルティーナが見えてきたら、地文航法に戻します。島の形と海岸線で位置を合わせて、マリーナ・グランデに入ります」

 

 フィンは海図を見下ろしたまま、小さく頷いた。

 

「この海は、何度も飛んでる。地形も潮目も、体が覚えてる。……だが、レースで飛ぶのは初めてだ。CPを落とすな。今日は、それだけでいい」

 

「はい」

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 桟橋の先では、先行のチームが次々と離水し、低く海へ出ていった。ガネットの出発時刻が、少しずつ近づいてくる。

 アリスは後席に乗り込んだ。膝の上に海図とフライトブック、計算尺、それに時計。手順どおりに並べて、ヘッドセットを被る。今日は、手が震えていなかった。昨日よりほんの少しだけ、一つひとつの動きが体に馴染んでいる。

 

「次だ」

 

 フィンがスロットルに手をかけた。桟橋の係員が、旗を振り下ろす。

 

 エンジンが唸りを上げ、満載の機体を押し出すように、水面が加速で流れていく。フロートが幾度か跳ね、重さを引きずりながら、機首がじわりと持ち上がった。燃料を積みきった分だけ、離水は長い。いつもより一呼吸ぶん長く水面を切ってから、機体はようやく宙に浮いた。

 高度を取るにつれ、北大陸の海岸線が、ゆっくりと後方へ遠ざかっていく。前を向けば、もう海だけが、一面に広がっていた。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 最初のCPは、沿岸に立つ灯台だった。

 

「CP1、右手前方。灯台、確認しました」

 

「見えた。通過する」

 

 灯台の真横を抜けると、アリスはカテゴリBの周波数に耳を澄ませた。少し置いて、大会側の管制が、抑揚のない声でガネットの通過時刻を読み上げる。

 

「……予定どおり、です」

 

 アリスはフィンにそう伝えてから、聞き取った時刻を、手元のノートに書き込んだ。

 

 海岸線に沿って飛ぶあいだは、機体も気持ちも落ち着いていた。標識局の電波を受けて方位を確かめ、海図の上に、鉛筆で自分の位置を落としていく。練習で、何度も繰り返した手順だった。

 やがてCP2を通過する。海岸線の先端に突き出た岩礁が、よく目立つ目印だった。ここまでは、何も問題ない。

 

「CP2、通過。……ここから沖に出ます」

 

「わかった」

 

 フィンが機首を南へ向けた。海岸線が右手へ流れ、しだいに細く、遠くなっていく。前方には、もう水平線だけが、まっすぐ伸びていた。

 

(……ここから先は、私の仕事だわ)

 

 しばらくは、まだ標識局の電波が届いていた。海岸線が後方で水平線に溶けていく。その頃になって、方位針が小刻みに揺れ始めた。電波が弱くなっている。やがて、当てにならなくなった。

 

「無線航法は、ここまでです。推測航法に切り替えます」

 

「任せた」

 

 フィンの声は、いつもどおり平坦だった。操縦桿を握る手も、変わらない。機体を預ける——その意味を、たった一言に込めただけだった。

 アリスは計算尺を手に取った。出発前に確かめた風向と風速、いまの対気速度、経過した時間——それらを一つずつ掛け合わせて、今いる場所を割り出していく。海図の上に、鉛筆で小さく点を落とした。

 風が、予報と少しずれている。機体の揺れ方が、出発のときに思い描いていたよりも、わずかに横へ逃げている気がした。

 

「フィンさん。少しだけ、東へ流されています。風が、予報より西寄りから入っているのかもしれません」

 

「どのくらいだ」

 

「五度くらい。……補正します」

 

 計算尺で修正値を出し、新しい針路を読み上げる。

 

「針路、一八五から一九〇へ。修正してください」

 

「了解」

 

 フィンが機体をわずかに傾けた。針路が、静かに変わる。

 

 海の上には、何もなかった。目印になる島も、行き交う船もない。雲の形さえどこも似通っていて、頼りにならない。あるのは、計算だけだった。速度と、時間と、風。たったそれだけを束ねて、見えない一本の線の上を、機体は飛んでいる。

 三十分ごとに、位置を計算し直した。風の変わり方を肌で感じ取って、その都度、針路を直していく。数字が合っているのかどうかは、サルティーナが見えるまで、誰にもわからない。

 フィンは、何も聞かなかった。計算の途中で口を挟むこともなく、アリスが針路を告げれば、ただその通りに機体を向ける。問い返しもしない。

 

(……私の数字を、信じてくれているんだわ)

 

 そう思った瞬間、胸の奥が、きゅっと締まった。けれど、その熱を味わっている余裕はない。アリスは小さく息を吸って、また次の計算にかかった。

 

 一時間が過ぎ、二時間が過ぎた。聞こえるのは、エンジンの単調なうなりだけ。水平線は、いつまでも変わらない。ただ太陽の位置だけが、時間が確かに進んでいることを、静かに教えてくれた。

 三時間目に入った頃、風向きがまた変わった。今度は南西から。アリスは計算尺を走らせ、針路を三度ぶん戻す。フィンは、黙ってそれに従った。

 途中でふいに、フィンが口を開いた。

 

「水を飲んでおけよ」

 

「はい」

 

 言われて水筒を口に運び、初めて、喉がからからに渇いていたことに気づいた。計算に没頭していると、自分の体のことを、すっかり忘れてしまう。

 四時間を過ぎる頃には、腕が重くなってきた。計算尺をつまむ指が、芯から疲れている。それでも、手を止めるわけにはいかなかった。こうしている今この瞬間も、機体は飛び続けていて、風は少しずつ、ずれ続けているのだから。

 五時間、六時間。水平線は変わらない。フィンが、包みを差し出した。

 

「昼ごはんにするか。サンドイッチが用意されてる」

 

 受け取って齧りながら、計算を続けた。七時間、八時間。太陽が真上を過ぎ、ゆっくり西へ傾いていく。風は何度か向きを変え、そのたびに針路を直した。同じ作業の繰り返しだったが、一度として同じ数字は出なかった。

 十時間を過ぎた頃だった。ふと気づくと、眼下の海の色が、変わり始めている。北大陸の沿岸で見た冷たい灰青ではない。明るく澄んだ碧が、翼の下いっぱいに広がっていた。

 

「この色は……」

 

「サルティーナの海だ」

 

 フィンが、短く言った。

 

 アリスは海図を確かめ、推測航法の最後の計算と照らし合わせた。位置は、引いておいた航路からほとんどずれていない。練習で何度かこの海へ出た記憶が、数字の裏側で、そっと背中を支えてくれている。風の癖も、海の色が変わっていく頃合いも、頭より先に、体のどこかが覚えていた。

 

「前方に、島影が見えるはずです。方位一八五、ちょうど正面に」

 

 フィンが目を細めた。

 

「……見えた。サルティーナだ」

 

 水平線の上に、かすかな影が一つ、浮かんでいる。距離はまだ遠い。それでも、あの形を、アリスは知っていた。

 

「地文航法に、切り替えます」

 

「了解」

 

 島影は、少しずつ大きくなっていく。やがて海岸線の起伏が見え始め、アリスは海図と何度も見比べた。左手に開ける岬の形。右手へ細く続く砂浜の線。記憶の中の景色と、目の前の景色が、ゆっくりと一つに重なっていく。

 

「CP3、前方。アプローチブイ、確認しました」

 

「通過する」

 

 ほどなく、マリーナ・グランデの港が見えてきた。フィンが何度も降りた、馴染みの水面だ。今日はその桟橋に、いくつもの機体が肩を並べ、色とりどりの旗が夕風にはためいていた。

 高度を落とし、機首を立てる。フロートが茜に染まりかけた水面を撫で、やがて深く受け止められて、機体がぐっと沈んだ。水飛沫が散り、速度がみるみる落ちていく。朝に離水してから、もう十二時間半近くが経っていた。

 アリスはヘッドセットを外した。指がこわばっている。計算尺を握り続けた右手は、開ききるのに、少し時間がかかった。

 桟橋へ機体を寄せると、マルコが待っていた。係留索を手早く受け取りながら、片手に紙を一枚、ひらりと掲げてみせる。

 

「全CP通過、ペナルティなし。……上出来みたいだぞ」

 

 無線をチェックしていたマルコが報告する。

 前席で、フィンが小さく息を吐いた。振り返りはしない。けれど、首がわずかに、こちらへ傾いた。

 

「悪くない」

 

「……はい」

 

 アリスは海図を閉じた。手は、もう震えていなかった。数字が合った。計算が、最後まで通った。ただそれだけのことなのに、胸の底に、温かい手応えが残っている。フィンが機体を預けてくれた。十二時間半、自分の計算だけを頼りに飛んでくれた。その重さが、今はほんの少しだけ、心地よかった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 マリーナ・グランデのビバークは、港の東側に設けられていた。

 先に着いたチームは、もうテントを張り終えている。ルナの整備班が先回りして、ガネットの区画もあらかた整えてくれていた。燃料缶が並び、テントが立ち、作業台がきちんと据えられている。

 フィンがコクピットから降り、アリスもそれに続いた。足の裏が地面をとらえたとき、膝は、笑わなかった。昨日よりは、ずっとましだ。

 サルティーナの空気が、肌に触れた。潮の匂いからして、もう違う。北大陸の、冷たく乾いた風ではない。湿り気をふくんだ温かい風が、頬をやわらかく撫でていく。

 

(……懐かしい。この風……)

 

 サルティーナの島で過ごした日々の、あの空気だった。ジュリアのカフェの軒先や、海図を広げた桟橋で、いつも吸っていたのと同じ——湿って、温かい島の風。北大陸へ渡ってからは、すっかり忘れていた匂いだ。それが今、レースの空の下で、ふいに肌へ還ってきた。

 

「ぼうっとするな。明日はSSが三本だ。アイテナリーを確認するぞ」

 

 フィンに言われて、アリスは荷物の中から、急いでフライトブックを取り出した。

 しばらくして、フィンが水を飲みながら、ぽつりと言った。

 

「今日のリエゾン、悪くなかったな」

 

「はい」

 

「計算が合ってた。風の補正も、早かった」

 

 アリスは少しのあいだ黙ってから、小さく頷いた。

 

「……何度か、飛んだことのある海でしたから」

 

「それだけじゃない。飛ぶために必要なことが判っていた。それが大きい」

 

 アリスは、膝に置いたフライトブックの上で指をそろえ、その言葉を、そっと胸の奥に仕舞った。

 

「ありがとうございます」

 

 うまく言葉にはできなかった。SSのときの手応えとも、少し違う。ただ、隣で同じ機体に乗って飛んでいる——その距離が、前よりもいくらか近くなった気がした。

 明日は、今日のコースを逆から回る。景色は変わる。それでも、やることは変わらない。目で見て、確かめて、声に出す。計算して、伝える。その繰り返しだ。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 翌朝。

 サルティーナの朝は、北大陸よりもずっと暖かかった。テントを出ると、海の向こうから、やわらかな光が差し込んでくる。空はよく晴れていた。風は穏やかで、桟橋に繋がれた機体の翼が、ゆっくりと上下に揺れている。

 今日はSSが三本——ゴルフォ、カーラ、セラ。途中にサービスを一度挟んで、三つのコースを飛ぶ。

 カリーナが、朝の点検を終えて戻ってきた。

 

「機体は問題なし。昨日の長距離でも、おかしなところは出てないわ」

 

「燃料は」

 

「SS二本ぶんと、予備。残りはサービスで補充するわ」

 

 フィンはフライトブックを開き、SS3——ゴルフォのコースノートに、もう一度目を走らせた。

 

「アリス。ゲートの位置は、頭に入ってるか」

 

「はい。昨夜、全部なぞりました。ゴルフォは海岸線沿いの往復で、ゲートは四つ。目印は、灯台と入り江の形です」

 

「カーラは」

 

「島の南側を回るコースです。ゲートは五つ。途中に、岩礁地帯を抜けるところがあります。地形が入り組んでいるので、そこは海図と照らし合わせながら読みます」

 

「セラは」

 

「西側の海岸です。ゲートは四つ。ここは練習で飛んだ海域に近いので、地形は覚えています」

 

「覚えてるのと、レースで通るのは別だぞ」

 

「……わかっています」

 

 フィンはフライトブックを、ぱたんと閉じた。

 

「行くぞ」

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 SS3、ゴルフォ。

 サルティーナの海岸線に沿った、往復のコースだった。とにかく光が強い。北大陸よりも水面の照り返しがきつく、ゲートの目印を探すたびに、アリスは何度も目を細めた。

 

「フィンさん、照り返しが……ゲートが見づらいです」

 

「水面じゃなく、岸を見ろ。目印は陸にある」

 

 フィンは無理をしない。落ち着いたペースで、一つずつ丁寧にゲートを拾っていく。四つを順に通過して、ゴールゲートを抜けた。

 着水して間もなく、チーム無線が入った。

 

「SS3、完了。順位はまだ集計中だけど……ペースは悪くないわよ」

 

 カリーナの声だった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 SS4、カーラ。

 島の南側を回るコースだった。岩礁地帯が入り組んでいて、海面の上からでは、ゲートの旗を見つけにくい区間がいくつもある。

 

「ゲート1、左手前方。……岩礁の間に、旗が立ってます」

 

「見づらいな」

 

「海図では、この位置です。岩の形と照らし合わせると——あの、二つの岩の間です」

 

「確認した。通過する」

 

 岩礁地帯を抜けるあいだ、フィンは機体を低く保った。水面がすぐ近くにある。黒く濡れた岩の頭が、フロートのすぐ下を、次々と過ぎていった。

 

「ゲート2。大きな入り江の手前、白い建物が目印です」

 

「あった」

 

 フィンが速度を上げた。少し、攻めている。さっきのゴルフォより、明らかにペースが速い。

 

「ゲート3。……右手の岩壁の切れ目、その奥に、旗があるはずです」

 

 アリスは海図とフライトブックを交互ににらみ、眼下の地形と一つずつ重ねていく。岩壁がどこまでも続いている。切れ目は——どこだ。

 

「……あそこです。岩壁の、色が変わっているところ」

 

「見えた」

 

 機体が、切れ目の奥の旗をかすめて通過した。アリスは、ほっと息をつく。事前に海図で当たりをつけておいて、よかった。飛びながら初めて探すには、あまりに厳しい位置だった。

 

「ゲート4、ゲート5を折り返して、ゴールです。……残りは、海岸線沿い」

 

「了解。飛ばすぞ」

 

 フィンがスロットルを開いた。機体がぐっと加速し、海岸線が窓の外を流れていく。残りのゲートは、どれも見つけやすい場所にあった。一つずつ確実に拾って、ゴールゲートを抜ける。

 

 着水したところで、チーム無線が入った。

 

「SS4、完了。——いいペースよ。SS3より上がってるわ」

 

 カリーナの声には、さっきより少しだけ、弾みがあった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 サービス。マリーナ・グランデ。

 桟橋へ戻ると、ルナの整備班が待ち構えていた。係留索を取り、機体を引き寄せ、間を置かずに点検へ入っていく。動きは、昨日のヴァルナで見たときと同じだ。どこにも無駄がない。

 カリーナが翼の下をのぞき込み、トーノがフロートを見ている。ニコラが無線機の調子を確かめ、ピエトロがエンジンカウルを開けた。

 

「異常なし。エンジン正常、油圧も正常。燃料、補充するわ」

 

 カリーナの報告は、相変わらず短い。

 アリスは木箱に腰かけて、パンを齧っていた。初めてサービスに入ったあの日は、水筒の蓋さえ、自分では開けられなかった。今日は、自分の手で蓋を回し、自分でパンを口へ運んでいる。指は、もう震えていない。

 そこへ、マヌエラが近づいてきた。

 

「CP通過の記録、全部確認しました。リエゾンもSSも、漏れはありません」

 

「ありがとうございます」

 

「次のSS5で、今日は最後ね。アイテナリーだと、セラのコースよ」

 

「はい。コースは、もう確認してあります」

 

 マヌエラは満足げに頷くと、帳面に何かを書きつけて、去っていった。

 

 サービスの一時間は、初めて入ったあの日よりも、ずっと短く感じた。何をすればいいか、もう体がわかっているからだ。食べて、飲んで、次のコースを頭に入れる。ただ、それだけだった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 SS5、セラ。

 島の西側の海岸。練習で何度も飛んだ海域に近い。地形が頭に入っているぶん、アリスのコールアウトは、タイミングが安定していた。次にどんな地形が現れるか先に読めるから、声を出す身構えが、間に合う。

 フィンが速度を上げる。今日三本目でも、集中はまるで途切れていない。ゲートを四つ拾って、ゴールゲートを抜けた。

 着水と同時に、チーム無線が入った。

 

「SS5、完了。今日三本の合計でも、クラス2で暫定七位。落ちてないわよ」

 

 アリスはコクピットから降りた。足の裏が地面をとらえても、今度は、膝が笑うことはなかった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 ビバーク。マリーナ・グランデ。

 日が落ちてから、アリスはテントの前で、今日の記録をつけた。ゲートを通過したタイム、コールアウトの覚え書き、風が変わった頃合いと、その向き。鉛筆の字は、昨日よりは、ずっと読みやすくなっている。

 機体の記録を終えたカリーナが、近づいてきた。

 

「明日は、今日飛んだ三つのコースを逆に回ることになるわ。逆から見ると、景色がまるで違って見えるの。同じコースだと思っちゃ駄目。ゲートの見え方も、目印も変わるわ。今夜のうちに、フライトブックで逆方向からの目印を、確かめておきなさい」

 

「わかりました」

 

 カリーナはそう言い残して、去っていった。

 入れ替わるように、エンツォが暫定順位の紙を手にやって来た。

 

「クラス2の順位表だ。さっきの七位で確定だ。リエゾンのペナルティなしが、効いてる。SSのタイムだけ見りゃ九位前後だが、リエゾンで順位を上げたな」

 

「クラス2の上は」

 

「首位とは、ほんの少し縮まって三分弱だ。上もクリーンだが、SSのタイムはトップと遜色ない」

 

「総合は」

 

「相変わらずエリオが頭ひとつ抜けてる。だが、あれはC1だ。別の土俵だな。カイザー・アドラーやアズール・スピア、ヴィペラも、C1の上のほうにいる」

 

 フィンの表情は、変わらなかった。

 

「三分差なら、十分だ」

 

「ああ。この位置を守れ。崩さなけりゃ、残れる」

 

 エンツォの言葉を噛みしめながら、テントに入り寝袋にもぐり込む。

 目を閉じると、昨日よりほんの少しだけ、早く眠りに落ちた。

 

 

 

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