碧海のサルティーナ   作:あんさん

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第27話 毒牙

 朝、テントを出ると、湿った空気が頬に触れた。

 昨日までの青空は消えて、灰色の雲が低く広がっている。南西からの風は弱いが、肌にまとわりつくような重さがあった。

 

(……空気が重い……? 今日は、荒れなければいいけど)

 

 テントの前で足を止めて、フライトブックを開いた。昨夜つけた書き込みが並んでいる。今日のSSを逆方向から飛ぶための目印——岩の形、建物の位置、旗の色。順方向では背景に沈んでいたものが、逆方向では正面に来る。エンツォさんが言っていた。逆回りだと景色がまるで違う、同じコースだと思うな、と。

 

「準備はいいか」

 

 フィンがテントの脇に立っていた。もうフライトブックを小脇に抱えている。

 

「はい。逆方向の目印、全部見直しました」

 

「OK、行くぞ」

 

 桟橋への道すがら、離れた区画が目に入った。一機だけ、まだ係留されたままの機体に整備員が群がっている。カウルが開いて、短く怒鳴る声が水面を渡ってきた。

 

(……こんな時間まで。どこのチームかしら)

 

 桟橋に着くと、カリーナがすでにガネットの点検を終えていた。トーノが係留を外し、ニコラが無線の確認を済ませている。

 

「異常なし。昨日のままよ。視界は良し、風も弱い。SSに障るものはないわ」

 

「了解」

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 SS6、カーラ逆回り。昨日アリスが海図と突き合わせてゲートを拾った岩礁地帯を、反対から辿る。スタートゲートを通過した。

 

「ゲート1、左手前方。岩礁の手前、赤い旗」

 

「見えた」

 

 フィンが速度を上げた。岩礁地帯に入ると海面の色が変わり、黒く濡れた岩の頭が水面のすぐ下に透ける。旗は岩の向こう側だ。

 昨夜確かめた逆方向の目印は、鉛筆の書き込みどおりの位置にある。昨日序盤の目印にした白い建物は、逆方向では終盤に来る。

 

(……合ってる。逆から見ると、岩壁の色の変わり目が目印になるのね)

 

「ゲート2。岩壁の色の変わり目、その先です」

 

「了解」

 

 昨日のコースを逆に辿ると、行きと帰りが重なって、地形が頭の中で立体になる。

 スロットルがわずかに開いた。エンジン音が半音上がる。攻めている。昨日のカーラより明らかに速い。ゲートの来る間隔が詰まり、アリスは次の目印を先読みして声に出した。遅れれば、このペースでは通り過ぎる。

 

「折り返し。湾の奥、すぐ来ます」

 

「旋回する。掴まれ」

 

 機体が傾いた。旋回のGで体が座席に押しつけられる。視界が回り、海面がせり上がって——水平に戻った。

 

(……ついていけてる。今のコール、間に合った)

 

 帰路の海面は曇りを映して灰色だったが、旗は見える。残りのゲートを確実に拾い、ゴールゲートを通過した。時計を読み、通過時刻を控える。

 

(……一度も、コールを外さなかった)

 

 着水して、次のSSに備えた。水を飲んで、フライトブックを次のコースに開く。手は、震えていなかった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 SS7、ゴルフォ逆回り。海岸線沿いを昨日と反対側から入る。カーラほど地形は入り組んでいない。スタートゲートを通過した。

 

「ゲート1、右手前方。漁港の赤い屋根」

 

「見えた」

 

 視界は開けていて、昨日見た建物が逆の順に現れてくる。SS6のリズムが体に残っていて、コールの間合いは自分でもわかるほど安定している。

 

「ゲート2、左手。岬の先端、白い塔です」

 

「了解。いいぞ、そのタイミングだ」

 

 フィンが短く付け加えた。SS2で言われたのと同じ言葉だった。あのときは偶然だった。今は——偶然じゃないと、思いたかった。

 

(……噛み合ってきてる。フィンさんの旋回と、私のコールが——)

 

 二つ目のゲートを通過した。次のゲートまで、しばらく海岸線が続く。空の雲が厚くなって、光が弱まった。

 そのとき——後方から、影が差した。

 はじめは雲の影だと思った。だが、影は動いていた。斜め後方から、確実に近づいてくる。

 機体だった。

 灰色の機体が、ガネットの右舷すぐ横に並んだ。翼端が視界に入るほど近い。

 息が止まった。手のひらに冷たい汗がにじんだ。さっきまで体に残っていたリズムが、一瞬で消えた。

 

「——フィンさん」

 

「見えてる。動くな」

 

 フィンの声は低く、硬かった。操縦桿を握る手が白くなっている。だが——その声には、驚きがなかった。

 灰色の機体が、脇をかすめるように前へ出た。後流がガネットを叩き、翼が押し下げられる。体が座席の中で横に傾いだ。前に出た機体は、そこで速度を落とした。みるみる距離が詰まる。

 

「下がる」

 

 フィンがスロットルを絞った。ガネットが減速する。前の機体も、合わせるように速度を落とした。航路を塞いだまま、離れない。

 フィンが針路を左へずらした。灰色の機体が左へ寄る。右へ戻す。右へ寄る。鏡のように、前を塞ぎ続ける。気流が乱れ続けて、機体が小刻みに揺れた。

 声を出そうとしたが、喉が張りついて開かなかった。

 

(……どうして。何のために、こんなことを——)

 

 フィンが右へ機体を傾けた。空いた脇を滑り抜けようとした、その瞬間——灰色の機体がこちらへ寄った。フィンが逆へ機体を振る。視界が大きく流れて——ガタリと、機体が揺れた。金属が擦れるような、短い音。衝撃が骨組みを伝って、座席の背からアリスの背中に届いた。ヘッドセットの向こうで、フィンの息が一度だけ乱れた。

 灰色の機体は前方で一度、見せつけるように翼を左右に振った。それから速度を上げて、離れていった。

 

(……事故じゃない。わざとだわ)

 

 翼の振り方が、嗤っているように見えた。

 

(——声を、出さなきゃ)

 

 アリスは唇を噛んだ。コールアウトが止まっている。止めたら、レースが止まる。止めるわけにはいかない。

 

「ゲート3。正面の——正面の岩。旗は、左側です」

 

 声が震えていた。それでも、出た。

 

「見えた」

 

 フィンの声は平坦だったが、操縦桿を握り直す動きが見えた。

 

「声は出てる。それでいい」

 

 短い言葉だった。それだけで、止まりかけた呼吸がひとつ戻った。

 

「折り返し。湾の奥です」

 

「了解。旋回する」

 

 旋回に入った瞬間、機首がわずかに右へ引っ張られた。さっきまではなかった偏りだ。フィンがペダルを強く踏み込むのが、座席越しに伝わる。

 

「……フィンさん。旋回のとき、少し——」

 

「わかってる。尾翼に何かもらった。飛べる。ゴールまで行く」

 

 フィンは速度をわずかに落とした。無理をしない。だが、止まらない。

 

「ゴール。正面です」

 

「行く」

 

 ゴールゲートを通過した。時計を読むまでもなく、タイムを大きく失ったのはわかった。

 着水のとき、フロートが水面を切る感触の中に、右への偏りがはっきりと出た。フィンが無線のスイッチを入れ、短く告げた。

 

「他機と接触した。尾翼にもらってる。ラダーが渋い」

 

 間があった。返ってきたカリーナの声は、硬かった。

 

「……わかったわ。桟橋に着けたら、降りないで待ってなさい」

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 マリーナ・グランデのサービスに入った。桟橋に着くと、カリーナが真っ先に尾翼に回った。ジョバンニが桟橋に膝をつき、トーノがフロートを押さえている。

 

「……尾翼の右側、塗膜に擦り跡があるわ。縁が曲がってる」

 

 カリーナの声が桟橋の下から上がった。間があって、続く。

 

「ラダーのリンケージに干渉してるわね。動きが渋くなってるの。旋回のとき左右差が出てるはずよ」

 

「出てる」

 

「応急でいいなら直せるわ。曲がった縁を叩いて戻して、リンケージの遊びを調整すれば、動きは戻せると思う。完全じゃないけど、残りのSSは飛べるようにするわ」

 

「どれくらいかかる」

 

「三十分で点検と応急処置はできるわ」

 

 ジョバンニが工具袋を持ち出し、金属を叩く音が桟橋に響き始めた。

 アリスも桟橋に降りた。隣の桟橋から別の機体が離水していく。その背中を見ながらパンを齧った。指先が冷えている。SS7の途中から始まった強張りが、まだ抜けない。

 パンの味がしない。それでも飲み下した。次がある。

 腕時計を見た。サービスはまだ半分以上残っている。時間は足りる。足りないのは、自分の落ち着きの方だった。

 

(……手が、まだ落ち着かない)

 

 フィンは桟橋に立って、腕を組んだまま作業を見ていた。何も言わない。口元が引き結ばれていて、目の奥に冷たいものがある。さっきまでとは違う顔だった。

 聞きたいことがあった。あの灰色の機体が誰なのか。なぜ寄ってきたのか。でも——今は聞けなかった。

 

(……あの人は、知っていたんだわ。あの機体が何をするかを)

 

 カリーナが擦り跡の横から顔を出した。

 

「フィン、これ見て」

 

 フィンが尾翼の傍にしゃがんだ。カリーナが擦り跡の端を指差した。

 

「この塗料の色、うちのじゃないわ。白い塗装の上に、灰色と黒い線が乗ってる。ぶつけた側の塗料が転写してるのよ」

 

 フィンはしばらくそれを見ていた。それから、低い声で言った。

 

「写真を撮っておけ。今は、それだけでいい」

 

「……わかったわ」

 

 カリーナは写真を撮ってから、付け加えた。

 

「ナイト・ストーカー、今朝のスタートが遅れてたって放送が入ってたわ。機体トラブルだそうよ。……よりによって、うちの近くの時間帯に落ちてきたわけね」

 

 だから後ろから来たのだ。アリスはそれを聞いて、ようやくSS7の光景が繋がった。

 カリーナは修理に戻った。やがて、手が止まった。

 

「応急修理は終わったわよ。ラダーの動き、確認して」

 

 フィンがコクピットに戻り、ペダルを踏んだ。尾翼のラダーが動いた。さっきよりは滑らかだが、完全ではない。

 

「右に少し渋い。だが飛べる」

 

「それ以上は今の工具じゃ無理よ。ビバークに戻ってから詰めるわ。パルクフェルメ中の整備はペナルティだけど——仕方ないわね。申請しておくわ」

 

「十分だ」

 

 フィンがコクピットから降りた。サービス終了まで、まだ少し時間があった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 SS8、セラ逆回り。スタートゲートを通過した。

 フィンの操縦が変わっていた。旋回は無理をせず、直線でスロットルを深く開けてタイムを削り取る。

 

「ゲート1、右手前方。港の灯台です」

 

「見えた」

 

 直線でエンジン音が太くなり、旋回が近づくと早めに絞って、ゆっくりペダルを踏む。右に偏ろうとする機体を押さえ込み、大きく回って、また直線。速度が乗る。

 

(……ラダーが渋い分を、ペダルの踏み方で補ってるんだわ)

 

 アリスは声を出し続けた。手はまだ震えていた。でも、声は出た。声を出している限り、体は動く。

 

「ゲート2、正面の崖。旗が左側に移ってます」

 

「了解」

 

「折り返し。砂浜の端です」

 

「旋回する」

 

 フィンが手前から速度を落とした。旋回に入る。機首が右へ流れかける。旋回半径が膨らんだ。崖が近づいてくる。岩肌の筋が見える距離だった。喉の奥が固まりかける。

 

(——見て。測って。言う。それだけ)

 

「右、まだ余裕あります」

 

 アリスの声に、フィンがさらにペダルを踏み込んだ。機体がぎりぎりで弧を描いて——崖の手前で、水平に戻った。

 

「……いいコールだ」

 

 フィンが短く言った。前を向いたまま、一度だけ頷いた。

 

「ゴール」

 

「行く」

 

 ゴールゲートを通過した。アリスは時計を読み、通過時刻を控えてから、フライトブックを膝の上に伏せて息を吐いた。

 

(……最後まで、飛び切った。壊れた機体で)

 

 取り返せたかどうかは、夜の集計が教えてくれる。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 マリーナ・グランデに戻った頃には、日は西に傾き始めていた。日が落ちてから、カリーナとジョバンニが尾翼の本格修理に取りかかった。桟橋の端にランタンを灯し、縁を整形し、リンケージを調整し直す。

 エンツォが暫定順位の紙を持ってきた。

 

「今日の結果が出た。SS6は九位。SS7は十九位まで落ちたが、SS8は十五位まで戻してる。クラス2では七位から十二位に落ちた。SS7のロスがそのまま響いた。首位との差は十二分近くまで開いた」

 

(……十九位から、十五位。壊れた機体で、フィンが取り返した四つだわ)

 

「総合は」

 

「総合十一位。エリオが総合首位で変わらず。相変わらず別格だな。ヴィペラは総合十四位に落ちた」

 

 フィンは何も言わなかった。エンツォが声を落とした。

 

「あれはヴィペラか」

 

「ああ」

 

「接触したのか」

 

「かわした瞬間に翼端をもらったんだろう。こっちから当たりには行っていない」

 

「カリーナが塗料の転写を写真に撮ってある。ナイト・ストーカーの塗装色と一致するそうだ」

 

「見た」

 

 エンツォが腕を組んだ。

 

「ベアトリーチェに伝えてある。競技終了後に審査委員へ出す。だが——証拠は写真だけだ。映像がない以上、空中での接触は言い分が割れる。ペナルティが出るかは裁量次第だ。わかってるな」

 

「ああ。わかってる」

 

「やれることはやる」

 

 エンツォは紙を折りたたんで、去っていった。

 テントの前で、アリスはノートに今日の記録をつけていた。鉛筆の軸が指に食い込む。力の加減が、まだうまくいかない。

 フィンがテントの前に座り、水を飲んで空を見上げた。西の空に、わずかに茜色が覗いている。アリスは口を開いた。

 

「……次は、ああいうことがあったら——」

 

「何もするな」

 

 フィンの声は静かだったが、はっきりしていた。

 

「あの手の飛び方をする奴に、こっちから仕掛けたら終わりだ。やり返せば、こっちがペナルティを食う」

 

「でも——」

 

「何もするな。俺が飛ぶ。お前は声を出し続けろ。それだけでいい」

 

 アリスは黙った。しばらく沈黙があった。桟橋の方から、カリーナが金属を叩く音が聞こえている。

 フィンが水筒の蓋を閉めながら、小さくこぼした。

 

「……昔からだ」

 

「昔から?」

 

「あいつは昔からああだ。変わらない」

 

 それだけだった。フィンは立ち上がり、桟橋の方へ歩いていった。

 アリスはテントの前に残された。ノートを膝に置いたまま、フィンの背中を見ていた。

 SS7で幅寄せを受けたとき、フィンは怒っていなかった。驚いてもいなかった。知っていたのだ。あの機体が何をするか。あの男が何をする人間か。

 

(……昔からだ)

 

 その一言が、頭の中に残った。フィンとヴィペラの間には、自分が知らない時間がある。フィンの横顔に浮かんでいた冷たいものは、怒りではなかった。もっと古い、もっと深い場所にあるものだった。

 アリスにはまだ、それに名前をつけられなかった。

 桟橋からカリーナの声がした。

 

「修理完了よ。ラダーの動き、確認して」

 

 ペダルの動く音。金属が滑らかに滑る音。

 

「右の渋さが減った。十分だ」

 

「完全じゃないけどね。リエゾンまでに、もう少し詰めるわ」

 

「頼む」

 

 アリスはノートを閉じた。明日は北大陸へのリエゾンだ。

 

(……ノアの予報を、確認しなきゃ)

 

 寝袋に潜り込んで、目を閉じた。

 今夜は眠れない気がした。でも、明日もまた飛ぶ。声を出し続ける。それだけだ。

 目を閉じたまま、フィンの言葉が頭の中で繰り返された。

 昔からだ。

 明日も、あの灰色の機体は同じ空のどこかを飛んでいる。

 自分はまだ、何も知らない。

 

 

 

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