夜明けの桟橋に、湿った風が流れていた。南西から吹いてくる風は、昨日よりどこか重たい。北の空には鉛色の雲が分厚く積み上がって、底のほうが暗く沈んでいた。
今日はDay+5、リエゾンの二本目。マリーナ・グランデから北大陸のポルト・ヴァルナへ、三日前に飛んできた海を逆向きにたどる長い移動になる。
テントを出ると、ルナの整備班が機体に工具箱や予備パーツ、燃料缶を積み込んでいた。クラス3は今日も一足先に発つ。ガネットがヴァルナに下りる頃には、サービスの支度が整っている手筈だ。
「天気は」
フィンが尋ねた。
「北大陸側から崩れ始めてるな。今日のリエゾンに影響はない。だが明日は雨が入る」
「明日か」
「Day+6のSSにまともにかかりそうだ。雨の中を飛ぶことになるだろう。備えとけよ」
「ああ、分かった」
エンツォはそう言い残すと、機体のほうへ戻っていった。
入れ替わるように、ガネットの最終確認を終えたカリーナが、布で手を拭きながら近づいてくる。
「尾翼の修理、昨夜のうちに詰めたわ。ラダーの渋さも消えてる。エンジンも異常なし。燃料は満載よ」
「助かる」
フィンが小さく頷いた。
アリスはガネットの前で、抱えてきた海図を開いた。逆向きの航路は昨夜のうちにもう一度なぞり直している。
「準備はいいか」
「はい。行きの記録と照らし合わせてあります」
「よし、行くぞ」
◇◇◇◇◇
リエゾンの出発時刻が来た。TCを通過し、マリーナ・グランデの水面を離れる。前に広がるのは、三日前とまったく同じ海だ。ただ、空だけが違う。北へ向かうほどに雲が厚みを増していく。
最初のCPを通過した。カテゴリBの無線にCP4通過確認が入り、アリスはフライトブックに時刻を書き込んだ。CP5を越えると、無線局の声が遠のいた。
ここから推測航法だ。行きで一度飛んでいる。風の癖も、海面の色の変わり方も、体が覚えている。計算尺で位置を割り出し、海図に鉛筆で点を落としていく。やがて、風が西寄りに回り始めた。
「風が西に回ってます。針路を二度、左に修正します」
「了解」
フィンが機首をわずかに振った。
推測航法に入って一時間ほどで、雲の底が低くなってきた。今の高度では、もう雲の底に近すぎる。
「高度を下げたほうがいいです。雲の下のほうが視界が取れます」
「下げる」
高度を下げると、波頭の形がはっきり見えるところまで海面が近づいた。波の向きで、計算した風向がそのまま確かめられる。数字と、目の前の海が、ぴたりと重なっている。
出発から五時間ほどたったあたりで、アリスが気付いた。
「フィンさん、後ろから一機近づいてきます」
「ああ、見えた」
遠くにぽつりと機影が見えた。単発で、翼端が丸い。青い塗装に白い線が一本走っている。近づくにつれ、その形がはっきりしてきた。スクデリア・オーシャンのコバルト・タイド——マリエッティの機体だ。航路がちょうど重なっている。マリエッティの操縦席から、ひらりと手が振られた。
フィンが翼を軽く振って応えた。機体が一度ゆっくりとロールし、また水平に戻る。
「マリエッティさん、ですね」
「ああ。同じ航路を選んだんだな」
二機はしばらく並んで飛んだ。それぞれの速度がわずかに違うので、やがてマリエッティの機体が少しずつ前方へ離れていく。青い翼が、雲の下で小さくなっていった。
(あの翼の下にも、同じ風が吹いてる)
広い海の上を、同じ向きに飛んでいる人がいる。胸の奥に、ぽっと小さな灯がともった。
そこからは、長い海だった。計算尺と海図だけが相手の時間が続く。位置を出し、点を落とし、風を読み直す。その繰り返しが何時間も続いた。
夕方に近づいた頃、前方の雲の下に、陸影がうっすらと現れた。
「前方、方位〇〇五。陸影が見えます」
「見えた。北大陸だ」
地文航法に切り替える。海岸線の形を、海図と照らし合わせていく。
「ほぼ、予定通りの位置です! CP6、左手前方。岬の先端、灯台です」
「OK、通過する」
ポルト・ヴァルナの港が見えてきた。雲は厚いが、雨はまだ落ちていない。着水し、桟橋へ向かう。先に着いたルナの機体のそばで、トーノが手を振っていた。機体を桟橋に固定し、パルクフェルメの封印を受ける。
「お疲れさま。ペナルティなし。リエゾン二本目も順調ね」
カリーナがそう言って、テントの方角を指した。
「そろそろリザルトがHQの掲示板に出てる頃じゃない? 行って来たら」
フィンが桟橋を歩き出した。アリスもあとを追う。ビバークの外れに設けられたHQテントの入口に、手書きの順位表が貼り出されていた。何組かのクルーが、それを見上げている。
フィンが表の前で足を止め、指でガネットの行をなぞった。
「十二位。変わらずだ」
首位との差は十二分近く。リエゾンでTC遅着を食ったチームがいくつかあるが、ガネットはクリーン。順位は動いていない。落ちてもいないが、上がってもいない。
フィンは北の空を見上げた。雲の底が、行きよりも低い。
「明日か」
テントに戻り、アリスはフライトブックを開いた。Day+6はSS9ノルテ、SS10エスティア、サービスを挟んでSS11コスタ。ノルテとエスティアはDay+1に飛んだコースだ。コスタは初めて飛ぶ。Day+1は晴れだった。明日は、雨だ。
視界が落ちれば、遠くの目印は霞んで見えなくなる。そのとき頼りになるのは、近くから拾えるものだけだ。建物の色、桟橋の形、岩の輪郭。代わりになりそうな目印を、近距離のものから順に書き込んでいった。
◇◇◇◇◇
雨だった。テントの布を叩く音で目が覚めた。Day+6、ポルト・ヴァルナ。テントを出ると、桟橋は灰色の雨に濡れていて、対岸の建物の輪郭がぼんやりとにじんでいた。
「HQの予報だ。雨は午後まで続くが、強くはならないと出てる」
桟橋の端で、マルコが腕を組んでいた。
フィンは灰色の空を見上げ、それから海面へ目を落とした。
「視界は落ちる。だがコースは海岸線沿いだ、地形で拾える。着水は、波を見てからだ」
カリーナがコクピットから顔を出した。
「機体は問題なし。始動も計器も正常よ。キャノピーの視界は落ちるけど、フィンなら飛べるでしょ」
「飛べる」
アリスは後席に乗り込み、フライトブックにカバーをかけた。昨夜書き込んだ近距離の目印が、ページに並んでいる。練習で雨の日に飛んだことはある。けれど、レースの最中に雨を飛ぶのは、これが初めてだった。
◇◇◇◇◇
SS9、ノルテ。Day+1の開幕日に、SS1として飛んだコースだ。あの日は晴れていた。青い空と、青い海。ゲートの旗がくっきりと見えた。今日は——どこを向いても灰色だった。
スタートゲートを通過する。
「ゲート1、右手前方——港の赤い屋根。近距離で確認」
「見えた」
雨で視界が流れ、遠くの目印が霞んでいる。昨夜のうちに書き込んでおいた代わりの目印を探す。フィンの操縦に迷いはない。視界が悪いぶん、速度を落として余裕をもった飛び方をしている。
「ゲート2、左手。岬の灯台は見えにくいです。代わりに、根元の防波堤を」
「了解。防波堤、見えた」
雨粒がキャノピーを叩き、視界の端が絶え間なく流れていく。それでも、海岸線そのものが道案内になってくれた。
「ゲート3、折り返しです」
「旋回する」
帰路に入ると向かい風に変わった。雨が正面から叩きつけてくる。キャノピーの視界がいっそう落ちた。
「ゲート4、ゴール。正面の桟橋、距離三百」
「行く」
ゴールを通過した。無線がゴール通過時刻を二度告げ、アリスはフライトブックにタイムを書き留めた。
機体はそのままエスティアのスタート水域へ向かい、着水して待機列についた。雨に煙る水面は細かく波立っていて、フロートの接水が少し荒れた。それでも、フィンの操作で機体はすぐに落ち着いた。
順番を待つあいだに、チーム無線が入った。
「SS9のリザルト、出たわよ。十三位。雨でみんなタイムを落としてる。差は小さいわ」
水を一口飲み、フライトブックのカバーについた水滴を拭って、次のページを開いた。
◇◇◇◇◇
SS10、エスティア。Day+1のSS2で飛んだコースだ。あの日、アリスのコールアウトが本番で初めてちゃんと機能した場所だった。
あのときと同じゲートを、今日は雨の中で潜る。
「ゲート1、右手。漁港の防波堤です」
「見えた」
フィンが速度を上げた。SS9で感覚を取り戻したのか、雨の中でも操縦に余裕がある。ゲート2を通過。ゲート3を通過。コースの半ばを過ぎたあたりで、操縦桿を握るフィンの手が止まった。
「……何か、変だ」
アリスは息を詰めた。
「……舵が重い。左に持っていかれる」
フィンが計器盤へ目を落とす。雨で薄暗いコクピットの中、針の位置を読み取った。
「油圧が落ちてる。左エンジンだ」
心臓が跳ねた。
(ここでエンジンにトラブル?)
「大丈夫そうですか?」
だが前席のフィンは、もう次の手に移っていた。
「分からん、下がり続けてる。このまま回し続けたらまずい。左は落とす」
スロットルが動いた。左エンジンの音が変わり、回転がみるみる落ちていく。機首が左へ取られ——すかさずフィンがペダルを踏んで、押さえ込んだ。
右エンジンだけが全力で唸っている。飛んではいる。けれど、まっすぐには飛ばない。ペダルで押さえ続けていなければ、機首はずるずると左へ流れていく。右肩が座席に押しつけられる横滑りを、アリスは体で受け止めていた。計算ではなく、体そのものが、傾きの大きさを教えてくれる。
「ゲート4。正面、距離五百」
片肺のまま、機体はまだ真っ直ぐではなかった。それでも、アリスはゲートの数字だけは最後まで言い切った。
「見えた。行く」
フィンは速度を抑え、ラダーを踏み続けてゴールへ向かった。ゴール通過。無線がゴール通過時刻を二度告げた。
片肺での着水を、フィンはペダルとスロットルで切り抜けた。桟橋へのタキシングに入ったところで、フィンがチーム無線に告げた。
「左エンジンの油圧が落ちた。最後は右だけで飛んだ。これから桟橋に着ける」
少し間があって、カリーナの声が硬くなった。
「分かったわ、準備しておく」
桟橋には、もうカリーナたちが出て待っていた。機体を寄せて止めると、カリーナとピエトロが左エンジンのカウルに取りついた。
アリスはフィンに続いて桟橋に降りた。カウルの中を覗き込む人影の隙間から、断片だけが届く。カリーナの「……漏れてる」。ピエトロの低い舌打ち。工具が金属を叩く、硬い音。
(カリーナさんの声が、低い)
やがてカリーナがカウルから顔を上げた。
「三番と五番のシリンダーヘッドのガスケットから出てるわ。残量はギリギリね、エンジンを止めたのは良い判断よ」
マルコが桟橋を渡ってきて、カリーナの手元を覗き込んだ。フィンが訊いた。
「直せるか」
「ガスケット交換の予備はある。でも、ここでやるにはサービス時間が足りない。応急で増し締めして、オイルを足す。漏れを遅らせるだけだけど、次のSSは飛べるようにする。——根本の修理は、ビバークまで無理よ」
ニコラがオイル缶を運んでくる。カリーナとピエトロがヘッドのナットを一本ずつ締め直し、オイルを補充していく。手際は速いが、万全でないことは全員がわかっていた。サービスの残り時間が削られていく。
「SS6のローリング・サーフに続いて、サミット・シーカーがSS9で止まったわ」
マヌエラが順位表を片手に言った。
「脱落か」
「ええ。これで二チーム目ね」
フィンはすぐには答えず、左エンジンのカウルへ目を向けていた。
「SS10の順位は出ていて十一位ね。累計も十一位、トラブルのわりに大きく順位は落ちてないわ」
「次はSS11か」
「コスタです。初めて飛ぶコースで、距離は短めです。——スタートまで、あまり時間がありません」
アリスが答える。
フィンがカリーナのほうを向いた。
「オイルの量は?」
「上限まで入れてあるわ。SS11の距離ならぎりぎり保つか持たないか」
「左の出力は」
「ほぼ元通りまで戻せるわ。でも油圧には注意して。下がり始めたら即停止よ」
「分かった、それでいい」
「本格修理になれば、パルクフェルメ整備扱いよ。ペナルティ覚悟だけど、仕方ないわね」
「飛べるなら、ペナルティも安いもんさ」
「そうね、ゴールしないとね」
立ち上がったフィンを、励ますようにカリーナが笑った。
フィンがエンジンの横を離れ、コクピットのほうへ回り込んだ。アリスも続いた。左エンジンのカウルの隙間から、まだオイルの焦げた匂いが漏れていた。
「……幅寄せされて、尾翼を壊されて、今度はエンジンで」
口に出すつもりは、なかった。けれど数え始めたら、止まらなくなった。
フィンが足を止めた。振り返りはしない。
「なあ、アリス。自分で望んでここにいるんだろ」
「え、あ、……はい」
「なら、トラブルもエントリー代のうちだ。今の状況を楽しめ」
「え?」
楽しめ、と言われて、楽しいはずがなかった。手は震えているし、左エンジンはオイルを漏らしている。けれど、望んでここにいる——その一言だけは、否定できなかった。
「ここに皆が居るのはお前が望んだからだろ。違うか?」
(あのとき、わたし、この海を飛ぶのが楽しみだった)
フィンはもう歩き出している。アリスは小走りで追いついて、後席に乗り込んだ。
「アリス」
前席から、フィンの声がした。
「途中で左を止めるかもしれん。速度が落ちたら、位置計算に注意しろ」
「——はい」
◇◇◇◇◇
SS11、コスタ。北大陸の西岸を、岩場と港を縫って飛ぶ。左エンジンの出力は戻っている。あとは、油圧の針が保つかどうかだ。
「ゲート1、右手。港の灯台です」
「見えた」
油圧の針を、コールアウトの合間に見る。下がっている。ゆっくりと、けれど確実に。ゲートを読み、針を見る。読んで、見る。三つ拾った。残りは一つ。
「フィンさん。油圧、また少し落ち始めてます——」
「わかってる。あと一つだ」
「ゲート4、ゴール。正面、距離四百」
「行く」
ゴールを抜けた瞬間、フィンが左エンジンを止めた。
「着水する」
水面が近づき、フロートが水を叩いた。片肺の着水は難しい。推力が左右で偏る。フィンは最後までペダルを踏み、機体をまっすぐに保った。右エンジンだけで桟橋へ寄せ、機体が止まると、左エンジンのカウルの隙間から白い煙がくすぶっているのが見えた。
「SS11、完了。——完走よ」
言葉は短く、いつもの張りがなかった。
フィンが右エンジンも切った。飛んでいるあいだ張り詰めていた体の力が、音が消えた瞬間にほどけた。
フィンが振り返った。
「よく声を出した」
「はい」
カリーナがサービスエリアへ走ってきた。左エンジンのカウルを見上げた瞬間、表情が変わった。
「煙が出てる。開けるわ」
カウルの留め具を外していく。開いた隙間から白い煙が抜け、オイルの焦げた匂いが、雨の匂いに混じって鼻を突いた。
フィンが先に桟橋へ降りていた。アリスも後席から降りた。足が桟橋の板を踏んだとき、自分がまだ計算尺を握っていることに気づいた。指を開くのに、力がいった。
マヌエラとベアトリーチェが、書類鞄を抱えて桟橋を小走りにやってくる。煙の上がるガネットを見て、マヌエラの足が一瞬止まった。
「煙……大丈夫なんですか」
「オイルが焼けてるだけ。火は出てないわ。中がどこまでやられてるかは、冷めてから見る」
カリーナが答えた。ベアトリーチェが頷いた。
「SS11のリザルトは十四位よ。——本格修理になるから、パルクフェルメ整備の申請は私が出してきますね」
フィンは何も言わず、ただ頷いた。
カリーナはエンジンが冷めるのを待って、点検にかかった。ピエトロがランタンを持って横に立つ。アリスは桟橋の端から、その手元を見ていた。カリーナの油まみれの指が、シリンダーの隙間を一つずつたどっていく。やがてその手が、止まった。
「——増し締めじゃ、もう抑えられない。ガスケットがもう駄目ね。丸ごと換えないと、明日は飛べないわ」
明日はDay+7。エスティアの逆回り、ノルテの逆回り、コスタの逆回り。三本のSSが控えている。だがそれも、この左エンジンが今夜のうちに直ればの話だ。
ランタンの灯りが、濡れた桟橋に長い影を落としている。カリーナの手は止まらない。工具を取り替え、覗き込み、また手を動かす。
アリスはその場を離れなかった。