日はすっかり落ちていた。雨は夕方のうちに上がって、千切れた雲の隙間に星がいくつか覗いている。桟橋のあちこちにランタンが吊るされ、濡れた板の上に黄色い光の輪を落としていた。
ベアトリーチェが、書類鞄を抱えて桟橋を戻ってきた。
「受理されました。エンツォも承認済みです。——いつでも始められます」
「ありがとう。なら、始めるわよ」
カリーナが懐中時計を開いて、針の位置を確かめた。
「急いで仕上げるわよ。ピエトロ、開けて頂戴」
左エンジンのカウルが外され、左バンクのヘッドが夜気に晒された。ピエトロがかがみ込み、油に汚れた手でナットを一本ずつ緩めていく。
「サービスじゃ時間が足りなかったからな。今度はきっちりやる」
顔も上げずにピエトロが言った。傍らでカリーナが予備パーツの木箱を開け、油紙に包まれた新しいガスケットを取り出して、ランタンの光に翳して確かめている。
フィンが上着の袖をまくり上げた。それを見て、カリーナが首を振った。
「あなたたちは先に食べてきなさい。本部の食堂テント、まだやってるわよ」
「俺も手を貸す」
「食べてからよ。倒れられたら、直す物がひとつ増えるだけだわ」
フィンは何か言いかけて、やめた。まくった袖をそのままに、顎でアリスを促した。
◇◇◇◇◇
本部テントの脇に、大会が用意した食堂の天幕が張られていた。配膳台の大鍋から、シチューの湯気が上がっている。フィンとアリスは皿とパンを受け取って、桟橋の見える端の長机についた。よその桟橋は夕餉の灯りばかりで、工具の音が続いているのはガネットのところだけだ。
フィンはスプーンを動かしながら、視線だけを何度も桟橋へやっていた。
「……気になりますか」
「音がな」
フィンは皿から顔を上げずに言った。
「SS11の終盤、油圧の針が下がっていくのを見ながら飛んだ。ゴールで止めるまで、左はよく保ってくれた。……直せる見込みはある。ピエトロとカリーナがいて、部品もある。ただ、本当に直ったかどうかは、組んで回してみるまでは何とも言えん」
「試運転……今夜のうちに、ですね」
「ああ。それまでは俺にも、カリーナにも分からん」
アリスのスプーンは、さっきから同じところを往復していた。フィンがちらりとそれを見る。
「食え。腹が減ってると計算を間違えるぞ」
「……はい」
シチューは熱くて、少し塩が濃かった。それでも喉を通ると、体が急に自分の空腹を思い出した。パンを千切って浸しながら、アリスは桟橋のランタンの灯りを見ていた。
フィンが皿を空けて、スプーンを置いた。
「アリス。頼みがある」
「はい」
「明日の三本は、全部逆回りだ。同じコースでも、逆から入れば別物だぞ。目印の見え方から、風の受け方までな。夜のうちに、頭へ入れ直しておいてくれ」
「……分かりました」
「機体はあいつらが戻す。明日の空は、お前の仕事だ」
フィンは立ち上がって食器を返しに行き、戻ってくると袖をまくり直した。
「俺は手伝ってくる。ゆっくりでいい、ちゃんと食っていけ」
そう言い残して、桟橋のほうへ歩いていった。
◇◇◇◇◇
皿を返して桟橋に戻ると、作業は本格的に始まっていた。
ジョバンニが尾翼の根元に膝をついている。
「尾翼はどうなの」
カリーナが声を投げた。
「フィンが片肺で、ペダルを踏みっぱなしで帰ってきたんだ。リンケージに緩みが出てねえか、今のうちに全部見とく。ついでに縁も、もうひと叩き追い込んでおく。工場並みとはいかねえがな」
板金ハンマーと当て金の、乾いた音が短く響いた。コクピットにはニコラが上半身を突っ込んで、計器盤の裏で小さなペンライトを動かしている。
「フランチェスカ、右はどう?」
「キャブレターの調整です。左を開けたついでに、両方揃えておかないと」
カウルの下から答えが返った。細いドライバーで調整ねじを少しずつ回しては、目盛りを確かめている。エンツォは桟橋の端に腕を組んで立っていた。自分では工具を握らず、手の空いた者に短く声を掛けては、次の持ち場へ回している。
左エンジンでは、ピエトロが最後のナットを抜くところだった。隣にしゃがんだフィンがシリンダーヘッドの縁に手を掛け、二人がかりでゆっくりと持ち上げる。座面が露わになり、ピエトロがランタンを寄せて、覗き込んだ。
「……運がいい。抜けたのはガスケットだけだ。合わせ面も、シリンダー側も無事だ」
「なら、今夜で終わるわね」
焼けた古いガスケットが剥がされた。カリーナが、それをランタンの光に翳す。三番と五番の周囲に当たる縁の二か所が黒く焼け、薄く波打っていた。
「ほら、見てごらんなさい。ここ、焼けて痩せてるでしょう。増し締めで保ったのは、今日までよ」
「これが……」
「そういうこと、こいつが犯人よ。……よくもまあ、半日保ってくれたものだわ」
ピエトロが座面をウエスで丁寧に拭い、傷のないことを指の腹で確かめてから、新しいガスケットを静かに置いた。フィンがヘッドの位置を支え、ピエトロが手を伸ばせば、言われる前に次のナットを渡す。トルクレンチの締まる音が、宵の桟橋に規則正しく響いた。フィンの手はもう油で真っ黒で、爪の間にまで黒いものが入り込んでいる。それでも、手を止めない。見ているうちに、胸の奥がきゅっと詰まってきた。
耳の奥に、さっきの言葉が残っていた。機体はあいつらが戻す。明日の空は、お前の仕事だ——なら、わたしは。
踵を返して、ベアトリーチェから今日のリザルトの控えを借り、自分のテントに戻った。ランタンに火を入れ、海図とフライトブックを広げる。エスティア、ノルテ、コスタ。三本ぶんのレグを、今度は逆からなぞり直していく。行きに右手へ見えた岬は、帰りには左へ来る。追い風で抜けた谷は、向かい風に変わる。変針点の手前の目印を、逆から見た形で一つずつ書き直した。
(……同じ海なのに、知らない海みたい)
ノルテの漁港の防波堤は、順方向なら岬を回り込んだ先に自然と見えてくる。逆から入ると、岬の陰を抜けるまで旗が見えない。フライトブックの余白に、防波堤、岬の陰、早めの目視——と書き込む。
それが終わってから、ノートを開いた。控えの数字を書き写していく。すぐ後ろのジャイアント・フックとは、三秒差。ペナルティを百二十と見て足せば、この一機に順位を渡すことになる。前のクリムゾン・ローズとは十二秒、ストーム・クラウドとは三十四秒。ペナルティを入れても、二分半前後で収まる。
(三秒に、百二十……)
ペンを持つ指に力がこもった。それでも、前の二機は消えていない。二分半なら、一日で返せる差だ。
ノートの隅に「可能性あり」と書いて、数字の下にまっすぐ線を引いた。それからノートを閉じて、テントを出た。
桟橋に戻ると、カリーナが懐中時計を片手に声を張っていた。
「二時間まで、あと四十分よ。締めに掛かって」
作業は終盤に入っていた。ピエトロがヘッドのナットを中央から外へ、決められた順に締め上げ、トルクレンチで一本ずつ確かめている。フィンはまだその横で、次のナットを黙って渡す役をやっていた。
フランチェスカがキャブレターの蓋を閉じた。
「調整、ひと通り終わりました。あとは回しながら合わせます」
「いいわね。仕上げは試運転でね」
「はい。回してみないと、本当のところは分かりませんし」
ニコラがコクピットから顔を出した。
「配線はひと通り見ました。油圧センサーの線が一か所、被覆が擦れかけていたので巻き直してあります。動作は問題ありません」
「放っておいたら、そのうち計器が狂っていたわね」
「たぶん。きちんとした修理は工場に戻ってからですけど、レースの間は保ちます」
ジョバンニが尾翼の前で立ち上がり、ハンマーを腰のベルトに戻した。
「尾翼は無事だ。テンションを張り直して、縁もあと少し均しておいた。心配いらねえ」
「ありがとう、ジョバンニ」
「礼はいらん。明日飛んで、壊さず帰って来ればそれでいい」
アリスはカリーナの横に立った。
「……計算、しました」
「何の?」
「ペナルティの分です。すぐ後ろとは三秒差でしたから、順位はひとつ渡すことになります。でも、前の二機とは、ペナルティを入れても二分半前後。明日一日で届く差です。……それに明日の三本は、どれも一度は飛んだコースの逆回りですから」
カリーナが目を少し見開いた。それから、口元がゆっくりと緩んだ。
「……それ、今、自分で計算したの」
「はい」
「誰にも言われずに?」
「はい」
カリーナは何も言わずに、アリスの肩をぽんと叩いた。
桟橋の端から、エンツォの声がした。
「二分半、か」
「概算ですが」
「概算で十分だ。……今日はハリケーン・アイも止まった。これで三チーム目、終盤まで全機が残るレースじゃない。前を追って、完走する。順位は後からついて来るさ」
フィンがピエトロの横から腰を上げた。油に汚れた手をウエスで拭いながら、こちらを見る。
「……で、前は近いのか」
「二分半です」
「なら十分だ。やる事は変わらん。前を追うだけだ」
ピエトロが最後のナットにトルクレンチを掛けて確かめ、オイルと冷却液を注ぎ直した。カリーナが懐中時計を見てから、コクピットを指す。
「時間はあるわ。——回すわよ、フィン」
フィンがコクピットに上がった。スターターが回り、左エンジンが二度咳き込んで——かかった。回転が滑らかに上がっていく。
「油圧、正常。安定してる」
フィンが計器を見たまま言った。カリーナが開いたままのカウルへ検査灯を寄せ、ヘッドの継ぎ目を覗き込む。滲みは、出ていない。続けて右エンジンも目を覚まし、二つの排気音が少しずつ重なって揃っていった。フィンがスロットルをゆっくり動かして左右の同調を確かめ、ペダルを踏み込んで舵の動きを見る。
「舵も問題ない。引っかかりも出てない」
「……帰ってきたときの音が嘘みたいね」
カリーナが腕を組んだまま呟いた。エンジンが止まり、宵の静けさが戻る。ピエトロとフィンがカウルを戻し、留め具を一つずつ掛けていった。工具箱の蓋が閉まる。
「終わりだ」
短く言って、ピエトロがウエスで手を拭った。カリーナが懐中時計を確かめて、蓋を閉じる。
「上出来よ。報告は出しておくわ。……みんな、ご苦労さま。今夜はしっかり寝なさい」
ニコラが大きく伸びをして、ジョバンニが首を回し、フランチェスカがカリーナと短く言葉を交わして笑った。ランタンがひとつずつ消されていって、桟橋は静かになった。
アリスも自分のテントに戻り、毛布にくるまった。目を閉じる。工具の音はもう聞こえない。眠りは、すぐに来た。
◇◇◇◇◇
テントの外の足音で目が覚めた。幕が薄青く透けている。外に出ると、東の端が鉛色から群青へ、群青から薄い藍へと解けていくところだった。夜が明ける。整備班は湯気の立つカップを回し飲みしながら、白み始めた機体を眺めていた。
エンツォが桟橋の先まで歩いて、明るみ始めた空を見上げる。
「雲が抜けてきたな。今日は視程が戻る。……夕べはいい音だった。あれなら三本保つだろうさ。俺もそろそろ、自分の支度に掛かるとするか」
そう言い残して、ルナの係留区画の方へ歩いていった。
フィンが機体の脇に立って、油の染みが残る手を見下ろしていた。ウエスで拭っても、爪の間の黒だけは落ちていない。アリスはその横に並んだ。水平線の上に、淡い橙色が滲み始めている。
「……そろそろ時間だ。行くぞ」
「はい」
小さく、けれどはっきりと頷いた。
今日はDay+7。エスティアの逆回り、ノルテの逆回り、コスタの逆回り。
後席に乗り込むと、前席からフィンの声がした。
「今日も油圧の針は見えるな。……直したばかりだ、変わったら遠慮なく言え」
「はい、見えます」
膝の上には、夜のうちに逆からなぞり直した海図とフライトブックがある。
エンジンが回り始め、二つの音が揃って立ち上がっていく。昨日の終盤とは違う、揃った音だ。あの人たちが、ひと晩で取り戻してくれた音だった。
舫いが解かれ、機体が桟橋を離れる。振り返ると、整備班が並んでこちらを見ていた。ピエトロが油まみれの手を軽く上げ、フランチェスカが大きく振り返す。カリーナは腕を組んだまま、ひとつ頷いた。
スロットルが開いた。水面が後ろへ流れ出し、フロートが波を二度、三度と叩いて——ふっと、揺れが消えた。
朝の空へ、白い翼が上がっていった。