碧海のサルティーナ   作:あんさん

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第30話 失敗

 朝の空は、昨夜の雲がどこへ消えたのかと思うほど晴れていた。Day+7。北大陸、ポルト・ヴァルナ。SS12はエスティアの逆回り、SS13はノルテの逆回り、サービスを挟んでSS14はコスタの逆回り。三本のSSを飛ぶ一日だった。ガネットはスタート水域の待機列で、順番を待っていた。

 

「皆さん、凄いですね。あっという間に直していただけました」

 

「ああ、感謝しないとな」

 

 アリスは後席でフライトブックを開いた。昨夜の控えから書き写した数字が、そのまま残っていた。

 

「皆さんの頑張りに報いるには、少しでも挽回しないと」

 

「前を追って、完走するだけだ。順位は後からついて来る。欲をかくなよ」

 

 正しい言葉だった。だが、アリスの脳裏には、油まみれの手でシリンダーヘッドを戻していたピエトロの姿が残っていた。尾翼を叩いていたジョバンニ。配線を確認していたニコラ。混合気を詰めていたフランチェスカ。二時間の枠に収めて、ガネットを空へ戻してくれた。

 

(無駄にしたくない……)

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 SS12、エスティア逆回り。順番が来て、ガネットは離水した。高度を取り、ダイブで速度を乗せて水平へ移った。進入コースのランドマークを読み上げる声は、いつもどおりに出た。スタートゲートを通過した。

 

「ゲート1、右前方。丘の風車です。手前の尾根を目印に」

 

「見えた」

 

 フィンが機首を振った。昨日、体を座席へ押しつけた横滑りは、もうなかった。ゲート1を抜けた。湖と湿原が続き、行きに右手へ見えた岸が、今日は左から流れてきた。夜のうちに逆からなぞり直した目印が、ひとつずつその通りに現れた。次は湖の北岸、白い建物のゲート2だった。順回りでは湖を背にして見えた旗が、逆回りでは建物と重なった。朝日はまだ低く、建物の影が長く湖面へ伸びていた。

 

「ゲート2、白い建物の右手——」

 

 旗が見えなかった。逆光だった。壁が影になって、建物のどこが岸と接しているのかまで潰れていた。

 

「旗は?」

 

「見えません。影の先を足元と見て、張り出しと結びます。ゲートはその線の上です」

 

(進入線、予定どおり)

 

「建物の右、張り出しの先をかすめます」

 

「わかった」

 

 フィンが指示どおりに入った。建物の影を抜ける直前、旗が一瞬だけ見えた。ガネットはゲートを通過した。時計の表示が、アリスの目に入った。ゲート2への進入で、数秒を失っていた。

 

(……取り戻さないと)

 

 次の岸線が見えた。頭の中のコース図と重ねた。完全には合っていなかった。それでも、待てなかった。

 

「フィンさん、左へ。ゲート3へ直線で入れます」

 

「左だな」

 

「はい」

 

 フィンがバンクを入れた。岸線が傾いた。白い建物が後ろへ流れた。旋回を終え、機首が湖の奥へ向いた。

 正面にあるはずのゲート3が、なかった。見えている岸の形も違った。

 

「——待ってください。ゲート3が見えません」

 

 自分の声が遠く聞こえた。

 フィンはすぐに機体を水平へ戻した。速度を落とし、右へ機首を振った。丘、湖、岸線。地形を一つずつ拾って現在位置を取り直していた。

 

「右、二時。川の合流点だ」

 

 アリスも見つけた。右手の遠くに、ゲート3の旗が小さく見えた。直線では入れない位置だった。

 

(……早すぎた)

 

「……確認しました」

 

「行く」

 

 フィンが機首を向けた。湖面を低く回り込み、川筋が近づいてきた。遠回りになった。時計の数字が進んでいった。取り戻そうとして、さらに失った。ゲート3を通過した。

 

「……次、正面。湿原の、水路の分岐です」

 

「了解」

 

 残る区間を拾っていった。アリスはコールを続けたが、喉が硬く、目印の名前が一拍遅れて口から出た。ゴールゲートを抜けた。無線がゴール通過時刻を二度告げた。アリスは、その数字をすぐには書き留められなかった。

 

「ガネット、SS12完了」

 

 カリーナの声が無線に入った。

 

「ゲート3への進入を外しただけだ。機体は問題ない」

 

 フィンはそれだけ報告した。誰の指示だったかは言わなかった。アリスはフライトブックを開いたまま、次のページへ手を動かせなかった。しばらくして、カリーナから暫定結果が入った。

 

「SS12は十四位。累積は十三位のまま、落ちてはいないわ。首位差、千五百七十二」

 

(差が広がった……百二十は、最初から背負うと決めていた分。残りは——私が失った分)

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 機体はそのままノルテのスタート水域へ向かい、着水して待機列についた。

 SS13、ノルテ逆回り。列が進むあいだも、エンジンは回したままだった。アリスは次のページを開いた。指先が震え、紙の端が小さく鳴った。前の機体が一機ずつ離水しては、水面が静かになっていった。順番が来て、ガネットは空へ戻った。スタートゲートが近づいた。最初の目印は見えていた。次のゲートもわかっていた。それでも、声を出そうとすると、さっきの湖の岸が頭の中に重なった。

 

「アリス」

 

 フィンに呼ばれた。

 

「はい」

 

「次を読め。まだ終わってない」

 

 アリスはフライトブックの上で、指を握り直した。

 

「……ゲート1、左前方。岬の陰。旗は抜けるまで見えません。防波堤の切れ目から入ります」

 

「わかった」

 

 ガネットが動いた。ゲート1を抜けた。

 

(……時計は、見ない)

 

 目印をひとつ確かめては、見えたものだけを口に出した。序盤、コールは一拍ずつ遅れた。それでも、フィンは先に機体を振らなかった。アリスの声が出るまで、ラインは変わらなかった。

 

(……待って、くれてる)

 

「次、右前方。白い倉庫の手前。ゲートの奥に灯台が見えます」

 

「見えた」

 

 返事と同時に機体が傾いた。順回りで飛んだ海岸線を、逆向きにたどった。ひとつ通過するたび、震えが小さくなった。中盤には次の目印が先に目へ入るようになり、機体の動きも朝と同じ速さへ戻っていった。最終ゲートを抜けた。

 

「SS13完了。今のは速いわ」

 

 カリーナの声が、少しだけ明るかった。アリスは返事をしようとしたが、喉が詰まった。

 

「了解」

 

 代わりにフィンが答えた。機体はヴァルナへ向かった。着水し、桟橋が近づいてくるあいだ、アリスは膝の上のフライトブックを見ていた。SS12のページには、まだ戻れなかった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 ポルト・ヴァルナのサービス桟橋へ着くと、カリーナと整備班がガネットを囲んだ。ピエトロが左エンジンのカウルを開け、ジョバンニが尾翼へ回った。

 

「油漏れなし。ガスケットも保ってる。機体は問題ないわ」

 

 カリーナはそう告げると、アリスへ水筒を押しつけた。

 

「飲んで」

 

 アリスは両手で受け取った。まだ少し震えていた。マヌエラが順位表を片手にやってきた。

 

「SS13は四位。累積は十二位。首位差は千二百六十二まで戻したわ。オールド・グローリーが止まったから、これで四チーム目ね」

 

(……千二百六十二)

 

 だが、アリスの中には結果より先に言わなければならないことがあった。フィンは機体の脇で水を飲んでいた。

 

「フィンさん」

 

 フィンが水筒から口を離した。

 

「SS12は、私が判断を急ぎました。ゲート2を抜けたあと、位置を確かめ直さずに旋回を指示しました」

 

「ああ」

 

「私が——」

 

「コールを採用したのは俺だ。機長の判断だ」

 

 フィンは淡々と言った。

 

「でも、指示したのは私です」

 

「情報を出すのがお前の仕事で、採るかどうかを決めるのが俺の仕事だ。どっちか一人の失敗にしても、次には使えない」

 

 アリスは言葉を失った。

 

「原因は後で詰める。今はSS14を読め」

 

 それだけ言って、フィンは空になった水筒を置いた。

 

(……かばわれた、わけじゃない)

 

 失敗は失敗のまま、そこにあった。それでもフィンは、次のSSも二人で飛ぶことを当然の前提にして話していた。

 

(……どうして、これだけで、息ができるの)

 

「……はい。読みます」

 

 カリーナがガネットのカウルを閉じた。

 

「機体は動く。頭も動くなら、次へ行けるわ」

 

 フィンが操縦席へ上がった。アリスも後席へ乗り込んだ。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 SS14、コスタ逆回り。スタート水域で待つうちに、順番が近づいてきた。

 

「行くぞ」

 

「はい」

 

 アリスはフライトブックを膝の上に固定した。離水し高度を上げる。アリスのカウントダウンでダイブから水平へ移って、スタートゲートを全速で切った。今度は、目の前の進入線だけで決めなかった。次のゲート、その奥の海岸線、さらに次の目印——三つが揃ってから、声を出した。

 

「ゲート1、正面。通過後、右へ二十度。次の目印は白い断崖です」

 

「了解」

 

 フィンが迷いなく機体を振った。ひとつ抜けるたび、次の声が前より早く出るようになった。朝のように失った秒を追うことは、もうしなかった。確認して、伝えて、フィンが飛ぶ——その繰り返しだけを守った。

 ガネットは速かった。エンジンは左右で揃い、尾翼は操舵に正確に応えた。整備班が取り戻した機体を、今度は二人が無駄なく前へ進めていた。

 最終区間。海面の照り返しの中に、ゴールゲートが見えた。

 

「ゴール、正面。距離四百」

 

「行く」

 

 スロットルが開いた。ガネットがゲートを抜けた。無線がゴール通過時刻を二度告げ、アリスはひと息で書き留めた。

 

「SS14完了。暫定二位よ」

 

 カリーナの声が弾んだ。アリスは一度、目を閉じた。今度は、手が震えていなかった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 ビバーク。ポルト・ヴァルナ。機体を桟橋に固定し、整備班が外からひと通り確かめたあと、ガネットはパルクフェルメの封印を受けた。異常はなかった。夕方、ベアトリーチェがHQからリザルトの控えを持ち帰ってきた。

 

「SS14、二位です。累積は十位まで上がって、首位差は千百十七ポイントよ」

 

 エンツォが控えを受け取った。

 

「デザート・ローズもSS14で止まったそうだ。これで五チーム目。首位はローン・ウルフに替わった」

 

(……SS12の後からだいぶ取り戻した……)

 

「まだ遠いな」

 

 エンツォは控えを畳んだ。

 

「今日の分は、それで十分さ」

 

 昨夜のような金属音は、今夜は聞こえなかった。ビバークには他チームの話し声と、波が桟橋へ当たる音だけが聞こえていた。

 アリスはテントの前に座り、ノートへSS12の経路を書き直していた。ゲート1。丘の風車。白い建物。岸の張り出し。ゲート2。そこから左へ旋回した軌跡。実際に見つけたゲート3の位置。何度描いても、ゲート2を抜けたあとの現在位置が合わなかった。

 

「ここからずれてる」

 

 声がして、フィンが隣に座った。アリスが描いた図の、建物の横を指で示していた。

 

「ゲート2は通過しています。でも、抜けた位置が、思っていたより北で……なぜずれたのかが、まだ」

 

 フィンはしばらく図を見た。答えを言うことはなかった。

 

「なら、明日も考えろ」

 

「はい」

 

「間違えた場所がわかれば、次は使える」

 

 アリスは頷いた。フィンが隣で同じ図を見ていた。肩が触れそうな距離にいても、気詰まりではなかった。

 

(……信頼している、から?)

 

 アリスはフィンの横顔を見た。目が合いそうになって、慌ててノートへ視線を戻した。

 

「もう一度、最初から書きます」

 

「ああ」

 

 ノートの新しいページを開いた。明日はリエゾンLeg3。

 

(……置いていかない)

 

 鉛筆を持つ指は、もう震えていなかった。

 

 

 

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