朝の空は、昨夜の雲がどこへ消えたのかと思うほど晴れていた。Day+7。北大陸、ポルト・ヴァルナ。SS12はエスティアの逆回り、SS13はノルテの逆回り、サービスを挟んでSS14はコスタの逆回り。三本のSSを飛ぶ一日だった。ガネットはスタート水域の待機列で、順番を待っていた。
「皆さん、凄いですね。あっという間に直していただけました」
「ああ、感謝しないとな」
アリスは後席でフライトブックを開いた。昨夜の控えから書き写した数字が、そのまま残っていた。
「皆さんの頑張りに報いるには、少しでも挽回しないと」
「前を追って、完走するだけだ。順位は後からついて来る。欲をかくなよ」
正しい言葉だった。だが、アリスの脳裏には、油まみれの手でシリンダーヘッドを戻していたピエトロの姿が残っていた。尾翼を叩いていたジョバンニ。配線を確認していたニコラ。混合気を詰めていたフランチェスカ。二時間の枠に収めて、ガネットを空へ戻してくれた。
(無駄にしたくない……)
◇◇◇◇◇
SS12、エスティア逆回り。順番が来て、ガネットは離水した。高度を取り、ダイブで速度を乗せて水平へ移った。進入コースのランドマークを読み上げる声は、いつもどおりに出た。スタートゲートを通過した。
「ゲート1、右前方。丘の風車です。手前の尾根を目印に」
「見えた」
フィンが機首を振った。昨日、体を座席へ押しつけた横滑りは、もうなかった。ゲート1を抜けた。湖と湿原が続き、行きに右手へ見えた岸が、今日は左から流れてきた。夜のうちに逆からなぞり直した目印が、ひとつずつその通りに現れた。次は湖の北岸、白い建物のゲート2だった。順回りでは湖を背にして見えた旗が、逆回りでは建物と重なった。朝日はまだ低く、建物の影が長く湖面へ伸びていた。
「ゲート2、白い建物の右手——」
旗が見えなかった。逆光だった。壁が影になって、建物のどこが岸と接しているのかまで潰れていた。
「旗は?」
「見えません。影の先を足元と見て、張り出しと結びます。ゲートはその線の上です」
(進入線、予定どおり)
「建物の右、張り出しの先をかすめます」
「わかった」
フィンが指示どおりに入った。建物の影を抜ける直前、旗が一瞬だけ見えた。ガネットはゲートを通過した。時計の表示が、アリスの目に入った。ゲート2への進入で、数秒を失っていた。
(……取り戻さないと)
次の岸線が見えた。頭の中のコース図と重ねた。完全には合っていなかった。それでも、待てなかった。
「フィンさん、左へ。ゲート3へ直線で入れます」
「左だな」
「はい」
フィンがバンクを入れた。岸線が傾いた。白い建物が後ろへ流れた。旋回を終え、機首が湖の奥へ向いた。
正面にあるはずのゲート3が、なかった。見えている岸の形も違った。
「——待ってください。ゲート3が見えません」
自分の声が遠く聞こえた。
フィンはすぐに機体を水平へ戻した。速度を落とし、右へ機首を振った。丘、湖、岸線。地形を一つずつ拾って現在位置を取り直していた。
「右、二時。川の合流点だ」
アリスも見つけた。右手の遠くに、ゲート3の旗が小さく見えた。直線では入れない位置だった。
(……早すぎた)
「……確認しました」
「行く」
フィンが機首を向けた。湖面を低く回り込み、川筋が近づいてきた。遠回りになった。時計の数字が進んでいった。取り戻そうとして、さらに失った。ゲート3を通過した。
「……次、正面。湿原の、水路の分岐です」
「了解」
残る区間を拾っていった。アリスはコールを続けたが、喉が硬く、目印の名前が一拍遅れて口から出た。ゴールゲートを抜けた。無線がゴール通過時刻を二度告げた。アリスは、その数字をすぐには書き留められなかった。
「ガネット、SS12完了」
カリーナの声が無線に入った。
「ゲート3への進入を外しただけだ。機体は問題ない」
フィンはそれだけ報告した。誰の指示だったかは言わなかった。アリスはフライトブックを開いたまま、次のページへ手を動かせなかった。しばらくして、カリーナから暫定結果が入った。
「SS12は十四位。累積は十三位のまま、落ちてはいないわ。首位差、千五百七十二」
(差が広がった……百二十は、最初から背負うと決めていた分。残りは——私が失った分)
◇◇◇◇◇
機体はそのままノルテのスタート水域へ向かい、着水して待機列についた。
SS13、ノルテ逆回り。列が進むあいだも、エンジンは回したままだった。アリスは次のページを開いた。指先が震え、紙の端が小さく鳴った。前の機体が一機ずつ離水しては、水面が静かになっていった。順番が来て、ガネットは空へ戻った。スタートゲートが近づいた。最初の目印は見えていた。次のゲートもわかっていた。それでも、声を出そうとすると、さっきの湖の岸が頭の中に重なった。
「アリス」
フィンに呼ばれた。
「はい」
「次を読め。まだ終わってない」
アリスはフライトブックの上で、指を握り直した。
「……ゲート1、左前方。岬の陰。旗は抜けるまで見えません。防波堤の切れ目から入ります」
「わかった」
ガネットが動いた。ゲート1を抜けた。
(……時計は、見ない)
目印をひとつ確かめては、見えたものだけを口に出した。序盤、コールは一拍ずつ遅れた。それでも、フィンは先に機体を振らなかった。アリスの声が出るまで、ラインは変わらなかった。
(……待って、くれてる)
「次、右前方。白い倉庫の手前。ゲートの奥に灯台が見えます」
「見えた」
返事と同時に機体が傾いた。順回りで飛んだ海岸線を、逆向きにたどった。ひとつ通過するたび、震えが小さくなった。中盤には次の目印が先に目へ入るようになり、機体の動きも朝と同じ速さへ戻っていった。最終ゲートを抜けた。
「SS13完了。今のは速いわ」
カリーナの声が、少しだけ明るかった。アリスは返事をしようとしたが、喉が詰まった。
「了解」
代わりにフィンが答えた。機体はヴァルナへ向かった。着水し、桟橋が近づいてくるあいだ、アリスは膝の上のフライトブックを見ていた。SS12のページには、まだ戻れなかった。
◇◇◇◇◇
ポルト・ヴァルナのサービス桟橋へ着くと、カリーナと整備班がガネットを囲んだ。ピエトロが左エンジンのカウルを開け、ジョバンニが尾翼へ回った。
「油漏れなし。ガスケットも保ってる。機体は問題ないわ」
カリーナはそう告げると、アリスへ水筒を押しつけた。
「飲んで」
アリスは両手で受け取った。まだ少し震えていた。マヌエラが順位表を片手にやってきた。
「SS13は四位。累積は十二位。首位差は千二百六十二まで戻したわ。オールド・グローリーが止まったから、これで四チーム目ね」
(……千二百六十二)
だが、アリスの中には結果より先に言わなければならないことがあった。フィンは機体の脇で水を飲んでいた。
「フィンさん」
フィンが水筒から口を離した。
「SS12は、私が判断を急ぎました。ゲート2を抜けたあと、位置を確かめ直さずに旋回を指示しました」
「ああ」
「私が——」
「コールを採用したのは俺だ。機長の判断だ」
フィンは淡々と言った。
「でも、指示したのは私です」
「情報を出すのがお前の仕事で、採るかどうかを決めるのが俺の仕事だ。どっちか一人の失敗にしても、次には使えない」
アリスは言葉を失った。
「原因は後で詰める。今はSS14を読め」
それだけ言って、フィンは空になった水筒を置いた。
(……かばわれた、わけじゃない)
失敗は失敗のまま、そこにあった。それでもフィンは、次のSSも二人で飛ぶことを当然の前提にして話していた。
(……どうして、これだけで、息ができるの)
「……はい。読みます」
カリーナがガネットのカウルを閉じた。
「機体は動く。頭も動くなら、次へ行けるわ」
フィンが操縦席へ上がった。アリスも後席へ乗り込んだ。
◇◇◇◇◇
SS14、コスタ逆回り。スタート水域で待つうちに、順番が近づいてきた。
「行くぞ」
「はい」
アリスはフライトブックを膝の上に固定した。離水し高度を上げる。アリスのカウントダウンでダイブから水平へ移って、スタートゲートを全速で切った。今度は、目の前の進入線だけで決めなかった。次のゲート、その奥の海岸線、さらに次の目印——三つが揃ってから、声を出した。
「ゲート1、正面。通過後、右へ二十度。次の目印は白い断崖です」
「了解」
フィンが迷いなく機体を振った。ひとつ抜けるたび、次の声が前より早く出るようになった。朝のように失った秒を追うことは、もうしなかった。確認して、伝えて、フィンが飛ぶ——その繰り返しだけを守った。
ガネットは速かった。エンジンは左右で揃い、尾翼は操舵に正確に応えた。整備班が取り戻した機体を、今度は二人が無駄なく前へ進めていた。
最終区間。海面の照り返しの中に、ゴールゲートが見えた。
「ゴール、正面。距離四百」
「行く」
スロットルが開いた。ガネットがゲートを抜けた。無線がゴール通過時刻を二度告げ、アリスはひと息で書き留めた。
「SS14完了。暫定二位よ」
カリーナの声が弾んだ。アリスは一度、目を閉じた。今度は、手が震えていなかった。
◇◇◇◇◇
ビバーク。ポルト・ヴァルナ。機体を桟橋に固定し、整備班が外からひと通り確かめたあと、ガネットはパルクフェルメの封印を受けた。異常はなかった。夕方、ベアトリーチェがHQからリザルトの控えを持ち帰ってきた。
「SS14、二位です。累積は十位まで上がって、首位差は千百十七ポイントよ」
エンツォが控えを受け取った。
「デザート・ローズもSS14で止まったそうだ。これで五チーム目。首位はローン・ウルフに替わった」
(……SS12の後からだいぶ取り戻した……)
「まだ遠いな」
エンツォは控えを畳んだ。
「今日の分は、それで十分さ」
昨夜のような金属音は、今夜は聞こえなかった。ビバークには他チームの話し声と、波が桟橋へ当たる音だけが聞こえていた。
アリスはテントの前に座り、ノートへSS12の経路を書き直していた。ゲート1。丘の風車。白い建物。岸の張り出し。ゲート2。そこから左へ旋回した軌跡。実際に見つけたゲート3の位置。何度描いても、ゲート2を抜けたあとの現在位置が合わなかった。
「ここからずれてる」
声がして、フィンが隣に座った。アリスが描いた図の、建物の横を指で示していた。
「ゲート2は通過しています。でも、抜けた位置が、思っていたより北で……なぜずれたのかが、まだ」
フィンはしばらく図を見た。答えを言うことはなかった。
「なら、明日も考えろ」
「はい」
「間違えた場所がわかれば、次は使える」
アリスは頷いた。フィンが隣で同じ図を見ていた。肩が触れそうな距離にいても、気詰まりではなかった。
(……信頼している、から?)
アリスはフィンの横顔を見た。目が合いそうになって、慌ててノートへ視線を戻した。
「もう一度、最初から書きます」
「ああ」
ノートの新しいページを開いた。明日はリエゾンLeg3。
(……置いていかない)
鉛筆を持つ指は、もう震えていなかった。