Day+8
テントは畳まれ、桟橋の脇に積まれていた。三日前にここへ戻ってきたときは、この先どうなるのかもわからなかった。
アリスがガネットに近づくと、フランチェスカが左のエンジンを回していた。音が上がり、下がり、また上がる。カリーナがその音を聞きながら、燃料計を覗き込むピエトロに何か言った。
「もういいわ。落として」
プロペラが止まった。カリーナが振り返る。
「昨日三本飛んで、これ。何の問題もないわ」
エンツォが桟橋の先から歩いてきた。
「最後の長距離だな」
「ああ」
アリスは後席へ上がる前に、前席へ乗り込むフィンを見た。その前日には、片側エンジンで機体を持ち帰っている。動きは普段と変わらない。けれど、操縦席へ手をかける一瞬だけ、肩を回していた。
(……無理してるんじゃないかしら)
以前なら、まず計器とフライトブックを見ていた。今日は、フィンの手の動きが先に目へ入った。
それがなぜなのか考えかけて、アリスは後席に乗り込んだ。千五百海里。Day+5に渡った海を、今度は逆方向へたどる。
(大丈夫。今日は震えていない)
それだけ確かめて、ブックを膝の上に固定した。
◇◇◇◇◇
離水。
フロートが水を切り、ガネットが朝の海から浮き上がった。北大陸の海岸線が後ろへ下がり、朝霧の中へ溶けていった。
左右のエンジンは揃って回っていた。Day+6のSS11で片側だけになったときの、左へ引かれる感触はなかった。
「針路、二一〇度。最初のCPまで予定一時間十二分です」
「了解」
アリスは海図を開いた。出発直後は沿岸の無線局を使える。そこから外れれば推測航法、終盤は島影を拾う地文航法になる。Day+5にも同じ手順を踏んだ。あのときは、計算を崩さないことだけで頭がいっぱいだった。
しばらく飛んだところで、フィンが声をかけた。
「次のCPまで」
「あと十四分です。左前方。沿岸から二十海里の標識ブイ」
「その先の風は」
アリスは気象票を確かめ、現在の対地速度からずれを出した。
「南東から八ノット。予定航路より西へ流されています。CP通過後、針路を二〇七度へ修正してください」
「二〇七度だな」
「はい」
「その針路で行く。あとは任せる」
「……了解です」
フィンはそれ以上、何も求めなかった。数字を確かめ直させることも、根拠を問うこともなかった。
(……昨日の今日で、いいのかしら)
十四分後、海面に白い標識ブイが見えた。
「CP、左前方。確認しました」
ガネットはブイの上を通過した。
「ガネット、CP通過。指定時間内」
HQの声が入った。
アリスは通過時刻を書き込み、次の区間の欄へ鉛筆を移した。指先は冷たくなかった。
◇◇◇◇◇
中盤。
陸地は見えなくなっていた。上が空、下が海。その境目が水平線で真っ直ぐに切られている。
「沿岸局、受信できません。ここから推測航法に切り替えます」
「了解」
アリスは計算を続けた。対気速度、風向、風速、燃料消費。一定時間ごとに位置を出し、予定航路からのずれを修正していった。
計算には余裕があった。その余裕へ、昨日のSS12が入り込んできた。
アリスは昨夜描き直した図を取り出した。灯台。岩場。ゲート2。そこから左へ曲がった線。実際に見つけたゲート3。
ゲート2は通過している。だが、抜けた位置を実際より南だと思い込んでいた。なぜ北へずれたのか。
旗が見えないまま、灯台と岩場を結んで通過位置を出した。図面の上では、線はきれいに交わっていた。
(あ……あのとき、二つは重なっていた)
アリスは鉛筆を止めた。
昨日の朝、岩場は灯台の手前に突き出ていた。機上から見れば、二つはほとんど同じ方向に並んでいた。方向の近い目印を結んでも、線は浅くしか交わらない。
気象票の余白へ、二つの並びを描いた。浅い角度で交わった線は、南北へ長く伸びた。その幅の中で、自分は南寄りを選んでいた。
「……わかりました」
声が漏れた。
「何がだ」
フィンが聞いた。
「昨日のずれです。灯台と岩場が、機上からはほとんど同じ方向に並んで見えていました。あの角度で結んでも、位置は南北に決まりません。それなのに、決まったものとして扱っていました」
フィンは少し黙った。
「計算そのものより、その後だな」
「はい。合わないと気づいた時点で、確認を入れるべきでした。失った時間を取り戻そうとして、そのまま旋回を指示しました」
「確認を飛ばした」
「はい」
「なら、そこまで覚えとけ。次に同じ景色が出たら、チャンスだ。一気に飛ばすぞ」
声はもう、明日を向いていた。
(……どうして。怒られると思っていたのに)
そう思ってから、気づいた。原因がわかったことより、そんなふうに言ってもらえたことを喜んでいた。
アリスは図へ目を落とした。
「書いておきます」
ノートに記した。
『目印の交わる角度が浅いときは位置を確定しない。位置が合わないときは速度より再確認を優先する』
「セラの最初の目印は灯台だ。手前の岩と重なって見える」
フィンが前を向いたまま言った。
「……はい。今度は、重なる前に位置を出します」
鉛筆を持つ指へ力が入った。
◇◇◇◇◇
午後。
フィンが操縦を続け、アリスが位置と燃料を管理した。交わす言葉は必要なものだけだった。それでも、行きのリエゾンより静けさが重くなかった。
右の上空を、一機が追い越していった。単発。クラス1だった。あっという間に小さくなり、水平線の手前で消えた。
しばらくして、受信機の中で音が鳴った。言葉ではない。一定の間隔で切れて、また鳴る。アリスは目盛りを読み、フライトブックに挟んだ周波数の一覧と見比べた。
(……救難信号)
「フィンさん、ビーコンです。競技番号、十五番」
「さっき抜いていったやつか」
「カテゴリBを開けます」
緊急時だけ送信が許される帯だった。HQへ二度、十五番へ二度。どちらからも応答はない。
「遠すぎるな」
「はい。……向こうも、同じだと思います」
報告が途絶えれば、HQは最終確認位置から捜索を始める。だが位置が古ければ、範囲は広すぎた。誰かが今の位置を持ち帰らなければ、絞れない。
アリスはループを回した。音が最も弱くなる角度で止め、機首方位と照らしてビーコンの方位を出した。
一本。線が引けただけだった。
(——昨日と、同じだわ)
二本目も、浅くしか交わらなければ同じことになる。
「フィンさん。このまま二十分、針路を変えないでください。観測点を離さないと、角度が開きません」
「二十分だな」
「はい」
フィンは時計に目をやり、それきり何も言わなかった。
音は鳴り続けていた。アリスは飛んだ距離を出し、最初の方位線を、そのぶんだけ前へ移した。
「——取ります」
二本目の方位は、最初の線と大きく開いた角度で交わった。
交点にしるしを入れ、時刻と方位と位置をフライトブックへ書いた。もう一度計算し直した。数字は変わらなかった。
「出ました。ここから南東へ、十二海里です」
フィンが海図へ目を落とした。
「回れるか」
「TCまで四十分の余裕があります。回っても、指定時間内に入ります」
「行く」
機首が振れた。
十分ほど飛んだところで、海面に細い橙色が立った。煙幕だった。風に倒れながら、まだ続いている。その下に、横倒しの胴体と救命ボートが見えた。
「サハラ・ゲイルです。ボートに、一人」
「手を振ってるな」
ガネットは高度を下げ、ボートの上を通った。フィンが操縦桿を左右へ倒す。翼が振れた。一度、二度。ボートの上の人影が、大きく手を振った。
降りることはできなかった。うねりは高く、フロートを下ろせば、助けを待つ人間が増えるだけだった。
アリスは救命ボートの真上を通った時刻を書いた。方位から出した位置とのずれは、一海里もなかった。
(……朝まで、持ちこたえて)
もう一度、翼が振れた。ガネットは高度を戻し、針路へ戻った。
アリスは、煙幕が見えなくなるまで振り返っていた。
終盤、水平線の向こうに薄い影が浮かんだ。
「セッテ岬、正面。距離、およそ四十海里」
「見えた」
フィンが機首をわずかに右へ振った。諸島の東側を回り込み、マリーナ・グランデへ向かった。
白い崖が見え、その奥に緑の山肌と小さな島々が連なった。海の色が、深い青から明るい緑へ変わっていった。風防の隙間から入る空気が、湿り気を帯びて暖かくなっていた。
(……帰ってきたんだわ)
自然に、そう思った。三日前に北へ渡ったときと同じ島影が、行きとは違って見えた。
実家でも、祖父の別荘でもない。マリーナ・グランデ。ジュリアのカフェ。ガネットの事務所。整備工房。そして、前席にいるフィン。
最後に浮かんだものに、自分で戸惑った。
「マリーナ・グランデ、正面。着水準備に入ります」
「了解」
フィンがスロットルを絞った。フロートが海面へ近づき、接水した。白い航跡が機体の後ろへ伸びた。
指定時間内。ペナルティはなかった。
フィンが無線を握った。
「洋上で救難信号を受信した。十五番、サハラ・ゲイル。位置を送る」
「本部へ回す。担当を向かわせる」
ガネットはゆっくりと桟橋へ向かった。
◇◇◇◇◇
ビバーク。マリーナ・グランデ。
夕方。西の空が赤く染まっていた。カリーナとピエトロが左右のエンジンを確認し、ジョバンニが尾翼へ回った。ニコラが電装系を見て、フランチェスカが混合気を確かめた。
「ガスケットは保ってる。ほかに異常はないわ」
カリーナがカウルを閉じた。
「明日も飛べるわ」
エンツォが順位表と地図を持ってきた。フィン、アリス、カリーナ、マヌエラがテントに集まった。
「本部から礼を言われたぞ。位置が出たから、捜索の範囲を絞れたそうだ」
アリスは小さく頭を下げた。
エンツォが表を机へ置いた。十位。首位差、千百十七ポイント。順位は昨日から動いていない。
「上の四つは今日まで一度も止まってない。明日、誰かが落ちるのを待つのは筋が悪いな」
アリスは数字を見た。
通常のタイム差だけで逆転できる幅ではない。上位が失速するか、故障するか、天候が崩れるか。何かが起きなければ届かない。だが、自分たちが速くなければ、何が起きても届かない。
「明日はSS15ルナ、SS16カーラ、サービスを挟んでSS17セラ。ルナは初見だ」
北東部の地図が広げられた。小島と入り江が密集している。
フィンが地図へ目を落としたまま言った。
「一本ずつ、取れるところを取りに行く。だが全部は無理だろう。機体と航法が噛み合う区間だけ詰めればいい」
カリーナが頷いた。
「それなら機体側は合わせるわ。無理をする場所は先に言ってね」
フィンはルナの地図を手に取り、アリスの前へ置いた。
「進入は今夜、二人で組むぞ」
「はい。図面と気象票を揃えておきます」
◇◇◇◇◇
夜。
テントの机に、ルナの図面が広がっていた。フィンが椅子を寄せ、アリスが気象票を脇に置いた。
二つの小島。その間の狭い水路。入り江の奥へ続くゲート。
「狭いのはここだな」
「はい。ゲート3です。水路へ真っ直ぐ入る必要があります」
アリスは左の小島の南端を指した。
「基準はここに取ります。南端を通ってから、機首を右へ戻して水路へ正対します」
「南端は上から見えるか」
「岩肌が白いので、水面との境は出ると思います」
「戻しが浅いと、左の岩肌だな」
「はい。深すぎると、今度は右の岩礁へ膨らみます」
フィンはしばらく図面を見て、頷いた。
「これでいく。振り幅は明日、実物を見て決める」
「北へ振れたときのは」
「これから置きます。朝、確認してください」
「ああ、朝見る。明日は三本だ。先に休むぞ」
フィンは立ち上がり、テントを出ていった。
入れ替わるように、テントの布が持ち上がった。
「まだ灯りが点いてると思ったら」
カリーナが顔を出し、その後ろにベアトリーチェが立っていた。
「本部に寄ってきました。サハラ・ゲイル、まだ収容できていません」
ベアトリーチェが明日の出走順の写しを机の端に置いた。
「でも、明日の朝いちばんにモローさんの飛行艇が出ます。捜索の範囲は、あなたが出した位置で取るそうです」
「……はい」
「あなたたちの位置で、捜索の範囲がかなり絞れたそうです」
カリーナがアリスの手元の図面を一瞥した。
「灯りは落として寝てね」
布が下りた。外の音が戻ってきた。波が桟橋を叩いている。ビバークの灯が、一つずつ落ちていった。
(もう、これ以上は間違えない)
アリスは鉛筆を持ち直した。北へ振れたときの入り方を、曖昧さが残らないように決めていった。
何度も引き直して、ようやく定まった。フィンと決めた進入の脇へ、それを並べた。
明日、フィンが飛ぶ線だった。
フィンと飛ぶ明日が、あと二回しかないことに気づいた。
降りたくない。終わるなんて、思いたくなかった。その気持ちに名前をつけることは、まだできなかった。