Day+9の朝は、驚くほど風がなかった。
マリーナ・グランデの桟橋に繋がれたガネットは、まだパルクフェルメの封印が解かれるのを待っていた。
解除と同時に、整備班が機体の点検に入る。
「エンジンは左右とも異常なし。いつでもいけるわ」
私は翼の下に立って、昨夜のうちに描き直したルナの図面を広げていた。二つの小島と、その間の狭い水路。そこを抜けた先の入り江の奥へ続くゲート。フィンさんと決めた進入の脇に、風が北へ振れたときの入り方も並べて描いてある。
前か来たフィンさんが図面を受け取った。
「ここ、北へ振れたらどうなる?」
「小島へ寄せる前に修正します。次の進入がきつくなります」
「戻しの角度は?」
「上から南端の張り出しを見て出します」
フィンさんは図面をもう一度眺めてから、そのまま私へ返してきた。
「わかった、OKだ」
「はい」
(昨夜、私が一人で詰めた分もOKが出た……残り、四本。まだ終わりたくない。けどもうミスはしない)
「行くぞ」
「はい!」
フィンさんが操縦席へ上がり、私も後席へ乗り込んだ。
◇◇◇◇◇
SS15、ルナ。
待機列が進んで順番が来る。水面を離れて高度を取り、全速でスタートゲートを切った。ルナは、この大会で初めて飛ぶコースだけれども、ゲート1の白い岩も、ゲート2の赤い標識も、昨夜の図面のとおりに現れてくれた。
「次、ゲート3です。二つの小島の間。目印は左の小島、南端の白い岩」
「見えた」
「距離八百。今の方位を維持してください」
左の小島が近づいてくる。ところが図面で見た輪郭よりも、南端の岩が海面へずいぶん長く張り出している。基準にする先端がずれれば、戻しの角度もずれる。私は張り出しの先端と水路の入口を素早く見比べて、角度を出した。
「四百。右、四度」
「四度だな」
フィンさんが機首を動かす。四度だけ戻したガネットは、張り出しの先を越えたところで水路の延長線に乗った。そこから先は真っ直ぐだった。振り直しは一度もない。開けた視界の先に、入り江の奥が見えた。
(抜けた……! 通ったわ!)
「ゲート3、通過」
「次は?」
「正面です。入り江の最奥、黒い崖の手前」
機体はそのまま最終ゲートへ伸びていく。ゴールを抜けると、無線が通過時刻を二度告げた。私は息を継ぐ間も惜しんでフライトブックに書き留める。
「SS15完了。区間はクラス2のトップよ」
カリーナさんの声だった。私は一瞬、聞き違えたのかと思った。
(トップ……? クラス2で、私たちが一番だなんて!)
「現時点で九位よ。トップとの差も詰まってる、上出来だわ」
「了解」
フィンさんの声はいつもと変わらない。それから少しだけ間を置いて、こう言った。
「いいタイミングだったぞ」
(区間トップより、そっちの方が嬉しい……)
「はい」
返せたのは、それだけだった。
◇◇◇◇◇
SS16、カーラ。
TC20を抜けて、カーラのスタート水域へ向かう。カーラはこれで三度目なので、島の輪郭も、入り江の深さも、どちら側から見れば目印が岩陰に消えてしまうかも、頭に入っている。
順番が来て、ガネットは再び空へ戻った。スタートゲートを切る。
「ゲート1、左前方。赤い崖の切れ目です。距離一千二百。通過後、右へ二十度」
「わかった」
返事を聞くよりも早く、フィンさんの右手が操縦桿へわずかに力を加えているのが見えた。目印と距離と、次の旋回方向。この三つを一組にして出すと、フィンさんの操縦はその先までつながっていく。私のコールを待ってから動いているのではなく、声が来る事を前提にして、機体がもう次の姿勢へ入り始めている。長い説明はもう要らない。
(同じ判断を、二人で分けている)
そう思っているうちに、最後の直線へ入っていた。
「SS16完了。区間二位」
カリーナさんの声が弾んでいる。
「八位に上がったわ。首位との差も随分縮まったわ、入賞の目もあるわよ」
八位! Day+4で二桁に落ちてから、ずっと届かなかった位置だ。それでもまだ遠い。フィンさんは順位を聞いただけで、すでにTC21へ機首を向けていた。私はフライトブックを閉じる。
(……でも残り、二本で終わってしまう)
(順位が上がってるのに……どうして減る方ばかり考えてしまうの……)
◇◇◇◇◇
サービス。マリーナ・グランデ。
TC21を抜けてマリーナ・グランデへ戻り、ガネットが桟橋へ着くと、整備班が左右へ分かれた。誰もが無駄口を叩かず、それでいて驚くほど手が早い。
私が後席から降りると、マヌエラさんが水筒を差し出してくれた。
「飲んで。次もあるわよ」
「はい」
蓋を回して、半分ほど一息に飲んだ。
マヌエラさんが結果表を広げた。
「クラス2で現在八位、首位差七百七十三よ。二本で三百四十四縮めたわ」
「上は?」
フィンさんが聞いた。
「首位がローン・ウルフからシルバー・ライニングに替わったけど、上の三つは今日も落ちていません。SS17で取れるだけ取っておきたいところね」
桟橋の奥から声がした。
「フィン!」
マリエッティさんが歩いてくる。革のジャケットを肩に掛け、サングラスを頭の上へ押し上げていた。
「うちの連中が騒いでたわよ。区間トップですって?」
「まだ八位だ」
「順位の話じゃないわよ」
マリエッティさんは、フィンさんから私へ視線を移した。
「あなた、いい顔になったわね」
「そう、でしょうか……」
「そうね、前は全部を間違えないように読んでいたでしょう。今は、飛ばすために読んでる。違う?」
「……いえ」
答えながら、私は思わずフィンさんの方を見てしまった。
(……どうして今、フィンさんを見たの?)
フィンさんは結果表から顔を上げた。
「今さらだな」
(前から決まっていた、みたいな言い方……!)
「あと二本ね。しっかり追いなさいよ」
マリエッティさんはそう言い残して、自分の区画へ戻っていった。
入れ替わるように、区画の入口で足を止めた男の人がいた。仕立ての良い上着に、革の書類鞄。油と工具の並ぶ桟橋では、その姿はどうしようもなく浮いている。マヌエラさんが用件を聞きに出て、すぐにフィンさんを呼んだ。
フィンさんは結果表を持ったまま、入口まで出ていく。
「チーム・ガネットのフィンさんですね。ノルト・ヴィントのケラーと申します」
「用件は?」
「今夜、三十分でけっこうです。お時間をいただけませんか」
ケラーさんはそれだけ言って、名刺を差し出した。フィンさんは名刺を一度だけ見て、上着の内側へしまった。
「ビバークでいいか?」
「伺います」
ノルト・ヴィント。HQの掲示で、クラス1の上の方にいつも並んでいる名前だった。確か、四番手のはずだ。
ケラーさんが去ると、桟橋には再び工具の音だけが戻ってきた。私は水筒を持ったまま、その場に立ち尽くしていた。
カリーナさんがカウルの下から顔を出す。
「点検終わり。どこも問題ないわ」
フィンさんが結果表を折って、ポケットへ入れた。
「行くぞ」
「……はい」
◇◇◇◇◇
SS17、セラ。
サービスを出たガネットは、セラのスタート水域で待機列についた。順番が来て離水し、高度を取り、ダイブから水平へ移る。私の読み上げに合わせて、スタートゲートを全速で切った。
セラも順回りと逆回りで二度通っている。地形は覚えていた。
最初の目印は灯台だ。白い塔が、午後の陽射しの中にくっきりと立っている。ただし昨日フィンさんが言っていたとおり、手前の岩場が塔の足元に重なりかけて見えた。
(……重なる前に)
私は灯台と、右手の岬とを続けて見た。二つの方位がまだ大きく開いているうちに結んでしまえば、位置ははっきり出る。昨夜ノートに書いた一行が、そのまま手の順序になっていた。
「ゲート1、灯台の右。岬との交わりで位置を取りました。岩場の手前です」
「了解」
「距離七百。このまま入れます」
旗が灯台の右手から現れて、そのまま後ろへ流れていった。灯台の高さも、影の伸び方も、今日は位置を決める材料にはしなかった。決める前に、角度の開いた方を選ぶ。
(それだけの事が、あの日はできなかった)
残りのゲートでも、フィンさんは私の出した進入角へ機体を正確に置いていく。手前で角度が決まっているから、旋回で作り直す必要がない。そのままゴールを通過した。呼吸を整える間もなく、無線が入る。
「SS17完了。区間二位」
カリーナさんの声には喜びがあった。けれどそのあとに、ほんのわずかな間ができた。
「順位は変わらず八位よ。首位とは少し開いたわ」
私は数字を聞き返しそうになった。区間二位を取ったのに、差はト広がっている。首位の機体も、それだけ速かったという事だ。
「……広がったんですね」
「ああ」
フィンさんの返事は短い。私はフライトブックに目を落とした。SS15で一位、SS16とSS17で二位。出せるタイムは出したはずなのに、順位は八位のまま動かない。
「もっと縮められたかもしれません」
「どこで?」
問い返されて、言葉が止まった。ゲートの見落としはない。進入も外していない。フィンさんの操縦にも、大きなロスはなかった。
(それでも足りないなら、どこを削れば……)
「……ごめんなさい、やはりわかりません」
「ああ、だが取れるタイムは取ったから間違っちゃいない。欲を出せば足をすくわれるぞ」
「……はい」
風防の向こう、空の北東側に、朝にはなかった薄い雲が広がり始めていた。
◇◇◇◇◇
ビバーク。マリーナ・グランデ。
TC22を抜けてマリーナ・グランデへ戻り、ガネットを桟橋へ固定する。整備班が外から一通り確かめたあと、機体は再びパルクフェルメの封印を受けた。今日は異常が一つもなかった。
夜。テントの机には、SS18のコース図と気象図が並べられていた。
「ノアの夕方の予報だ」
エンツォさんが気象図を指で叩く。
「夜半から北東の風が強まる。朝には雨域が諸島へ入って、雲底も下がるそうだ」
「中止は?」
カリーナさんが聞いた。
「今のところ予定どおりだな。だが視界次第でブルテンが出る。開始時刻の判断は明朝だ」
私は気象図と海図を見比べた。SS18は今日飛んだルナの周辺を大きく使う。外洋へ張り出す区間と、入り江へ深く入る区間の両方があるコースだ。
「雲底が下がれば、高度を取った機体は地形を見失います。ただ、海面付近まで塞がってしまうとは限りません」
「読めるか?」
フィンさんが聞いた。
「明朝の雲底と雨量が出ないと、どこまで下りられるかは決められません。数字が出たら、すぐに引きます」
フィンさんは地図を見たまま頷いて、それきり何も言わなかった。
テントの外で、足音が止まる。ベアトリーチェさんが布を持ち上げた。
「フィンさん、お客様です」
仕立ての良い上着を着た男の人が、ランタンの明かりの中へ入ってきた。フィンさんが立ち上がる。ベアトリーチェさんが書類の束を抱えて後に続いた。
「アリス、気象図を頼む」
「……はい」
布が下りて、私だけが机に残された。
鉛筆を持ち、明朝に確かめるべき項目を余白へ書き出していく。雲底、雨量、風向。三つ書いたところで、手が止まってしまった。
クラス1の四番手が、わざわざ夜に時間を取りに来る。理由なんて一つしかない。そしてその席に、私は呼ばれなかった。
(……当たり前だわ)
素人のコ・パイを一緒に引き取ってくれるチームなんて、どこにもない。フィンさんが受けると言うのなら、それで決まりだ。理屈はすぐに出てくるのに、鉛筆の先は同じところで止まったままだった。気がつくと私は、風向、ともう一度書いていた。さっき書いた行のすぐ下に。
◇◇◇◇◇
桟橋の端。
「アリス」
カリーナさんだった。後ろにマヌエラさんとベアトリーチェさんがいる。ベアトリーチェさんの手には、もう書類はなかった。
「テントで固まってたわよ。ほら、座りなさい」
言われるまま板の上へ腰を下ろすと、私は少し迷ってから口を開いた。
「あの人は、フィンさんを……」
「誘いに来られました」
ベアトリーチェさんがあっさりと言った。
「クラス1の四番手です。次の大会からの契約で、条件も悪くありませんでした」
私は膝の上で指を組んだ。
「フィンさんは、なんて」
「お断りになりました」
私は思わず顔を上げた。ベアトリーチェさんは表情を変えずに続ける。
「拠点が北大陸ですから。島の仕事がありますし、両方やれば移動ばかりになる。そう言って、それきりです。三十分もかかりませんでした」
ふっと息が抜けた。
(……よかった。え、私、そんなに)
カリーナさんが横目でこちらを見ている。
「ずいぶん力が入ってたわね」
「……いえ」
「いえ、じゃないでしょう。何が怖かったの?」
答えられなかった。マヌエラさんが淡々と言う。
「フィンさんが移籍すれば、チーム・ガネットの体制は変わります。心配して当然です」
(違う。……そこに乗れば楽になるって、分かってるけど)
「……違います」
声が出た。
「体制の話では、ありません。……レースが終わっても、あの席にいたいんです。フィンさんが飛ぶ隣で、私が読みたい。それが無くなると思ったら、手が止まってしまって」
三人とも、すぐには何も言わなかった。ベアトリーチェさんが小さく息を吐き、カリーナさんが笑いをこらえるように口元を押さえた。マヌエラさんだけが、表情を変えずに頷いている。
「そう」
カリーナさんが言ったのは、それだけだった。
「明日、飛べるわね?」
「はい」
「なら、それでいいわ。もう休みなさい」
三人が戻っていった。
◇◇◇◇◇
テントへ戻って、私は気象図を引き寄せた。
止まっていた鉛筆が動き出す。雲底、雨量、風向、それに退避へ使える方位。明朝に確かめるものを順に並べながら、私はさっき自分の口から出た言葉を思い返していた。
(大会が終わるのが嫌なんだと、昨日までは思ってた。……違う。飛びたいのは明日だけじゃない。その先も、ずっとなんだわ)
フィンさんが断った理由の中に、私は入っていなかった。島の仕事と、移動の負担。それだけだった。
(安心したはずなのに……これは、何なのかしら)
その気持ちに名前は出てこなかった。私は鉛筆を持ち直して、余白の続きを埋め始めた。