Day+10。朝六時。マリーナ・グランデのHQには、競技者と各チームの代表が詰めかけていた。雨はすでに降り始めていて、話し声の隙間という隙間を雨音が埋めている。私は膝の上でフライトブックを開いたまま、まだ一行も書き込めずにいた。
(数字が出たら、すぐにルートを決める。……そう言ったのは私だわ)
やがて気象予報士のノアが立ち上がった。抱えた気象図の筒を握ったまま、顔が硬い。
「最新情報です。六時から強雨域が入っています。SS18開始時刻の八時には、視界が大きく落ちる見込みです。雨域の通過は昼過ぎ。それまでは悪天候下でのフライトになります」
会場がざわめいた。テントを叩く音が、説明の途中から強くなっている。
ノアが気象図を指す。
「雲底は四百から六百フィート。外洋側では局地的に上がる可能性がありますが、入り江では地形に沿って下がります。予定どおり実施しますが、各クルーは退避経路と中止条件を必ず確認してください」
チーム・ノルディックのテーブルでは、監督がエリオへ何か話しかけている。当のエリオは口を挟まず、気象図だけを見ていた。カイザー・アドラーのヘルムートは腕を組んだまま天井を見上げている。雨脚を音で測っているような姿だった。
「こんな空で飛ばせる気か。中止にすべきだ」
どこかのプライベーターが声を上げる。
「飛ばなければ、昨日までの順位で終わるぞ」
別の声がすぐに返した。どちらの言い分にも理があって、それきり誰も続けられない。私にも、どちらが正しいのかは言えなかった。
エンツォさんが手元の結果表を折る。
「ガネットはクラス2、八位。首位まで十分以上あるから気にするな。自由に飛べ」
いつもの平坦な声だった。でも、その数字が何を意味するかは全員がわかっている。昨日までのように一本ずつ上位へ入れば届く、という差ではない。上位勢が雨で崩れて、そのうえでガネットが何ひとつ失わずに走り切って、ようやく並ぶかどうか。エンツォさんはその可能性を口にしなかった。
「どう飛んでもトップには届かんが、入賞はまだ目がある」
エンツォさんは結果表を机に置いた。
「だからといって、賭けだけで飛ぶな。戻ってこなければ順位も何もないぞ」
「ああ、もちろんだ」
フィンさんが短く頷く。
私はもう一度気象図を見上げた。雲底、風向、雨域の速さ。昨夜のうちに書き出しておいた確認項目が、今、一つずつ数字で埋まっていく。
(大丈夫。……ここからのルートなら先が見える)
◇◇◇◇◇
チームのテントには、SS18のコース図と海図、刷り上がったばかりの気象図が並べられていた。Luna Piena POWER STAGE。四百五十八海里。今大会で最も長いSSだ。Day+9のSS15と同じ海域を使うが、範囲はさらに広い。小島と入り江を抜けたあと、北東の外洋まで張り出し、再び島影の内側へ戻ってくる。
アリスが透明紙を地図へ重ねた。鉛筆の線が、雨の朝の海の上に一本のルートとして浮かび上がる。
「北東の外洋区間では、風が島にぶつからないので雲底が上がる可能性があります。ここまで出られれば、視界は一度回復します」
指先が滑り、次の区間で止まる。
「問題は、その前の入り江です。高度を取ると雲に入ります。五百フィート以下で、海面と右側の尾根を見ながら抜けます」
「雲から逃げるなら?」
フィンが聞いた。
「入り江へ入る前なら南です。入ったあとは、この岬を越えるまで引き返せません。雲底が三百フィートを切った場合と、赤い浮標が見えない場合は、ここで中止します」
アリスは岬の手前に印をつけ、もう一つ、外洋区間にも印を置く。
「外洋で雲が割れなければ、高度を下げましょう。速度は落ちますが仕方ありません」
(……行ける場所より、やめる場所を先に置いてきたか)
フィンは口には出さず、線を最初から最後まで目でたどった。行けるかどうかだけを書いた線ではない。どこでやめるか、やめたあとどちらへ逃げるかまで、先に決めてある。ほんの数日前まで、この娘は間違えないことに必死だった。いま机の上にあるのは、飛ばすためのルートだ。
カリーナが机の向こうから、機体側の条件を答える。
「左右のエンジン、油圧、操舵系統、全部正常。低空を長く飛ぶなら、海水の巻き上げと鳥だけは気をつけて」
「ああ、了解だ」
フィンはそれきり黙った。アリスの説明はもう終わっている。それでもすぐには返事をしなかった。エンツォも、カリーナも、急かさない。
やがて地図から顔を上げる。
「よし、行くぞ」
それからアリスを見た。
「アリス、指示を頼むぞ」
「はい。最後まで読みます」
返ってきた声に迷いはなかった。信じているから無条件に任せたのではない。計算と判断を一つずつ確かめたうえで、この二人でなら通せると決めただけだ。その違いは、今日のアリスにはもう伝わっているらしかった。
◇◇◇◇◇
午前八時五分。SS18、Luna Piena。スタートゲートを通過する。
雨が風防を叩き、前方の小島が灰色の幕の向こうに滲んでいる。他機の姿は見えない。どのチームがどの高度を選んだのかもわからない。見えるのは暗い海面と、私が示す次の目印だけだった。
「高度五百フィート。方位〇七五。右の島影を維持してください」
「了解」
ガネットが機首を下げる。雲の底はすぐ上にある。雨の幕の下に、鈍く光る海面が続いていた。
最初のゲートを通過する。
「次、右。入り江の奥。距離四十。目印は赤い浮標」
「見えない」
「あと十五。右の尾根を基準に、そのままです」
赤い点が雨の向こうに現れる。
「浮標、確認。進入線、そのまま」
「見えた」
フィンさんの操縦に無駄はない。私のコールに合わせて機体が動き、返答と操縦の間が少しずつ短くなっていく。ゲートを二つ越えた頃には、「了解」という声さえ減っていた。高度。方位。尾根。海面。退避方向。必要な情報だけを出せば、フィンさんがそれをそのまま機体の軌道へ変えていく。
(……ひとつの動きになっている)
「入り江、最深部。雲底四百。高度三百五十まで下げます」
フィンさんが機体を下げる。海面が近づき、雨脚が強まって、右側の尾根が一度消えた。胸の奥が縮む。
「尾根、二時。距離八。左へ三度。出口は正面です」
機体がわずかに左へ動く。尾根の切れ目から、外洋の白い空が覗いた。
「出口、確認。外洋へ出ます」
入り江を抜ける。だけど、予測していた地点まで来ても雲はまだ低い。私は気象図の線と、風防越しに見える雲の流れを重ねた。
「方位を五度、北へ。雲の薄い方へ寄せます」
フィンさんは迷わず機首を振った。
数分後、頭上が明るくなる。灰色の雲に裂け目ができ、弱い陽射しが海面へ落ちた。視界が一気に広がる。読みどおりだった。
「進路そのままで行けます」
返事はない。それでもガネットは一度も軌道を乱さず、私が引いた線の上を進んでいく。
(私の声を、この人が使っている)
だから次の言葉も迷わずに出せた。外洋区間を抜け、再び島影へ入る。雨がまた強くなった。
「次の岬まで高度四百。越えたら三百五十。雲底が下がれば南へ抜けます」
「ああ」
最後の入り江へ入る。海面と尾根の間に、ガネット一機分の道が続いているように見えた。その道を、自分の声が先へ伸ばしていく。
(この人と、まだ飛びたい)
突然の思いつきではなかった。ずっと形になりかけていたものが、雨の中でようやく言葉になっただけだ。次のレースだけではない。その先も、この後席で道を読みたい。フィンさんが飛ばすガネットで、同じ景色を見ていたい。
(……今は、それを言うときじゃないわ)
最後のゲートが雨の中に現れる。
「ゴール、正面。距離二百」
「行く」
フィンさんがスロットルを押した。ガネットは雨の幕を切り裂き、フィニッシュゲートを通過した。
◇◇◇◇◇
フロートが水面を切り、ガネットが速度を落とす。
「ガネット、TC24通過。SS18完走」
無線にHQの声が入り、フィンさんが短く応答して機体を桟橋へ寄せた。エンジンが止まる。コクピットに残ったのは、風防を打つ雨の音だけだった。
私はフライトブックを閉じた。立とうとして、足に力が入らない。タラップへ出たところで、体が止まる。
先に降りていたフィンさんが腕を伸ばして、私の肘を掴んだ。
「大丈夫か」
「はい。少し、力が抜けただけです」
桟橋へ足をつけると、その手はすぐに離れた。カリーナさんも、ピエトロさんも、ジョバンニさんも、ニコラさんも、フランチェスカさんも、雨に濡れたまま立っている。
ベアトリーチェさんが時計を見た。
「タイムはまだ出ません。全機が戻るまで待ちましょう」
フィンさんが頷く。
私はガネットを振り返った。エンジンの熱に雨が触れて、白い湯気が細く上がっている。
フィンさんがその隣で、機体を見たまま低い声を出した。
「一人じゃ、あのルートは通せなかった」
「私も、一人では読めませんでした」
「ああ、よくやった……」
そう言って、頭をなでられた。勝負を決めた飛行が二人の仕事だったのだと、その手から伝わってくる。胸の奥に、雨とは違う熱が残った。
◇◇◇◇◇
雨は次第に弱まっていった。他機が一機ずつ戻ってくる。着水したクルーの顔は、どれも固い。外洋で大きく迂回した機体。途中でコースを外し、ゲートを捨てた機体。機体の不調でリタイアしたという無線も入った。
チーム・ノルディックの機体が着水する。エリオは降りると、一度だけガネットを見た。そのまま何も言わず、自分のテントへ戻っていく。
午後二時。HQの掲示板へ、暫定結果が貼り出された。人だかりができる。エンツォさんが先に前へ出て、掲示を書き写してから、こちらへ戻ってきた。顔はいつもと変わらない。
「SS18、六千四百四十一ポイント。区間一位」
指先が震えた。区間一位。あの雨の中を、誰よりも速く抜けたということだ。
「クラス2、暫定首位。二位との差は二十ポイントだ」
「え? 今、一位って……?」
声が勝手に出ていた。エンツォさんは書き写した紙をこちらへ向けて、指で一番上の行をなぞる。
「間違いない。三度確かめた」
「まさか、本当にか?」
フィンさんが紙を覗き込んだ。私も横から追いかける。クラス2の先頭に、ガネットの競技番号が並んでいた。朝、エンツォさんが気にするなと言った差だ。届かないはずだった差が、消えている。八位から、一番上へ。
「……フィンさん、信じられません」
顔を上げると、目が合った。いつもの平坦な顔が、そこにはなかった。
「お前のナビゲートのおかげだ! 胸を張って良いぞ!」
両肩を掴まれて、大きく揺すられる。あのフィンさんが、こんな声を出すなんて。掲示板の前は自分の順位を探す人で埋まっていて、誰もこちらを見ていない。喉の奥が詰まって、返事の代わりに何度も頷いた。
「まだ
いつも冷静なエンツォさんが、声を張り上げていた。そのままフィンさんの肩を一度叩いて、続けて私の肩も同じように叩く。
フィンさんが我に返ったように手を離した。
「いや、待て。正式結果は明朝だ。機体検査と集計が終わるまでは……」
その先を、カリーナさんの声が遮った。
「二人とも、よくやったわ!!!」
整備班の誰かが笑った。それをきっかけに、押さえていた声が一斉に上がる。ピエトロさんがジョバンニさんの背中を叩き、ニコラさんとフランチェスカさんが手を合わせた。マヌエラさんはとっくに結果表を書き写していたけれど、口元だけは笑っている。
フィンさんはもう一度紙へ目を落として、競技番号のところを指で押さえた。何度見ても同じだと、確かめるみたいに。
◇◇◇◇◇
夕方。雨が上がり、完走機によるセレモニーフライトが行われた。ガネットはマリーナ・グランデの湾上へ上がる。雲の切れ間から夕陽が差して、水面が橙色に染まっていた。観客席からの歓声が、風防越しにまで届く。その中に「ガネット」という声が混じっていた。
私は後席から湾を見下ろした。勝ったかもしれないことよりも、最後までフィンさんと飛べたことのほうが胸に強く残っている。
(……だめ。まだ泣くところじゃないわ)
目の奥が熱くなる。今度は無理に抑えなかった。ただ、こぼれる前に一度だけ瞬きをした。
着水した頃には、広場で後夜祭が始まっていた。正式結果はまだ出ていない。それでも、長い大会を完走した人たちの顔からは、朝までの緊張が抜けている。広場の反対側にノルト・ヴィントの区画が見えた。昨夜の上着の人は、どこにもいない。
(……断ってくれて、よかった)
人混みの中から、エリオが歩いてきた。
「フィン」
「エリオ」
エリオはガネットを見て、それからフィンさんと私を見た。
「暫定を見たよ。おめでとう! 選ばなければ出ない運だったな」
「ああ、サンキュー」
フィンさんは否定しなかった。
エリオが小さく笑う。
「明日の結果を待つよ」
フィンさんの肩を軽く叩いて、人混みへ戻っていった。
◇◇◇◇◇
夜。後夜祭の明かりから離れて、私は港の桟橋に立っていた。雨雲は遠ざかり、ところどころに星が見えている。背後から足音が近づいた。振り向かなくても、誰かはわかる。
「……飛べましたね」
「ああ」
フィンさんが隣に並んで、二人で暗い海を見た。
しばらくして、フィンさんが言った。
「よく読んだ」
短い一言だった。表彰台も、順位表も、まだ何ひとつ確定していない。それでもその言葉は、私にとってどんな結果より重かった。
(……離れたくない)
フィンさんを意識していることを、自分にさえ誤魔化せなくなっていた。明日、結果が確定したら聞こう。レースが終わっても、この後席にいていいのか、と。
私は海を見たまま、小さく息を吸った。