碧海のサルティーナ   作:あんさん

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第33話 逆転

 Day+10。朝六時。マリーナ・グランデのHQには、競技者と各チームの代表が詰めかけていた。雨はすでに降り始めていて、話し声の隙間という隙間を雨音が埋めている。私は膝の上でフライトブックを開いたまま、まだ一行も書き込めずにいた。

 

(数字が出たら、すぐにルートを決める。……そう言ったのは私だわ)

 

 やがて気象予報士のノアが立ち上がった。抱えた気象図の筒を握ったまま、顔が硬い。

 

「最新情報です。六時から強雨域が入っています。SS18開始時刻の八時には、視界が大きく落ちる見込みです。雨域の通過は昼過ぎ。それまでは悪天候下でのフライトになります」

 

 会場がざわめいた。テントを叩く音が、説明の途中から強くなっている。

 ノアが気象図を指す。

 

「雲底は四百から六百フィート。外洋側では局地的に上がる可能性がありますが、入り江では地形に沿って下がります。予定どおり実施しますが、各クルーは退避経路と中止条件を必ず確認してください」

 

 チーム・ノルディックのテーブルでは、監督がエリオへ何か話しかけている。当のエリオは口を挟まず、気象図だけを見ていた。カイザー・アドラーのヘルムートは腕を組んだまま天井を見上げている。雨脚を音で測っているような姿だった。

 

「こんな空で飛ばせる気か。中止にすべきだ」

 

 どこかのプライベーターが声を上げる。

 

「飛ばなければ、昨日までの順位で終わるぞ」

 

 別の声がすぐに返した。どちらの言い分にも理があって、それきり誰も続けられない。私にも、どちらが正しいのかは言えなかった。

 エンツォさんが手元の結果表を折る。

 

「ガネットはクラス2、八位。首位まで十分以上あるから気にするな。自由に飛べ」

 

 いつもの平坦な声だった。でも、その数字が何を意味するかは全員がわかっている。昨日までのように一本ずつ上位へ入れば届く、という差ではない。上位勢が雨で崩れて、そのうえでガネットが何ひとつ失わずに走り切って、ようやく並ぶかどうか。エンツォさんはその可能性を口にしなかった。

 

「どう飛んでもトップには届かんが、入賞はまだ目がある」

 

 エンツォさんは結果表を机に置いた。

 

「だからといって、賭けだけで飛ぶな。戻ってこなければ順位も何もないぞ」

 

「ああ、もちろんだ」

 

 フィンさんが短く頷く。

 私はもう一度気象図を見上げた。雲底、風向、雨域の速さ。昨夜のうちに書き出しておいた確認項目が、今、一つずつ数字で埋まっていく。

 

(大丈夫。……ここからのルートなら先が見える)

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 チームのテントには、SS18のコース図と海図、刷り上がったばかりの気象図が並べられていた。Luna Piena POWER STAGE。四百五十八海里。今大会で最も長いSSだ。Day+9のSS15と同じ海域を使うが、範囲はさらに広い。小島と入り江を抜けたあと、北東の外洋まで張り出し、再び島影の内側へ戻ってくる。

 アリスが透明紙を地図へ重ねた。鉛筆の線が、雨の朝の海の上に一本のルートとして浮かび上がる。

 

「北東の外洋区間では、風が島にぶつからないので雲底が上がる可能性があります。ここまで出られれば、視界は一度回復します」

 

 指先が滑り、次の区間で止まる。

 

「問題は、その前の入り江です。高度を取ると雲に入ります。五百フィート以下で、海面と右側の尾根を見ながら抜けます」

 

「雲から逃げるなら?」

 

 フィンが聞いた。

 

「入り江へ入る前なら南です。入ったあとは、この岬を越えるまで引き返せません。雲底が三百フィートを切った場合と、赤い浮標が見えない場合は、ここで中止します」

 

 アリスは岬の手前に印をつけ、もう一つ、外洋区間にも印を置く。

 

「外洋で雲が割れなければ、高度を下げましょう。速度は落ちますが仕方ありません」

 

(……行ける場所より、やめる場所を先に置いてきたか)

 

 フィンは口には出さず、線を最初から最後まで目でたどった。行けるかどうかだけを書いた線ではない。どこでやめるか、やめたあとどちらへ逃げるかまで、先に決めてある。ほんの数日前まで、この娘は間違えないことに必死だった。いま机の上にあるのは、飛ばすためのルートだ。

 カリーナが机の向こうから、機体側の条件を答える。

 

「左右のエンジン、油圧、操舵系統、全部正常。低空を長く飛ぶなら、海水の巻き上げと鳥だけは気をつけて」

 

「ああ、了解だ」

 

 フィンはそれきり黙った。アリスの説明はもう終わっている。それでもすぐには返事をしなかった。エンツォも、カリーナも、急かさない。

 やがて地図から顔を上げる。

 

「よし、行くぞ」

 

 それからアリスを見た。

 

「アリス、指示を頼むぞ」

 

「はい。最後まで読みます」

 

 返ってきた声に迷いはなかった。信じているから無条件に任せたのではない。計算と判断を一つずつ確かめたうえで、この二人でなら通せると決めただけだ。その違いは、今日のアリスにはもう伝わっているらしかった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 午前八時五分。SS18、Luna Piena。スタートゲートを通過する。

 雨が風防を叩き、前方の小島が灰色の幕の向こうに滲んでいる。他機の姿は見えない。どのチームがどの高度を選んだのかもわからない。見えるのは暗い海面と、私が示す次の目印だけだった。

 

「高度五百フィート。方位〇七五。右の島影を維持してください」

 

「了解」

 

 ガネットが機首を下げる。雲の底はすぐ上にある。雨の幕の下に、鈍く光る海面が続いていた。

 最初のゲートを通過する。

 

「次、右。入り江の奥。距離四十。目印は赤い浮標」

 

「見えない」

 

「あと十五。右の尾根を基準に、そのままです」

 

 赤い点が雨の向こうに現れる。

 

「浮標、確認。進入線、そのまま」

 

「見えた」

 

 フィンさんの操縦に無駄はない。私のコールに合わせて機体が動き、返答と操縦の間が少しずつ短くなっていく。ゲートを二つ越えた頃には、「了解」という声さえ減っていた。高度。方位。尾根。海面。退避方向。必要な情報だけを出せば、フィンさんがそれをそのまま機体の軌道へ変えていく。

 

(……ひとつの動きになっている)

 

「入り江、最深部。雲底四百。高度三百五十まで下げます」

 

 フィンさんが機体を下げる。海面が近づき、雨脚が強まって、右側の尾根が一度消えた。胸の奥が縮む。怖くない(……)わけではなかった。それでも声は止まらない。

 

「尾根、二時。距離八。左へ三度。出口は正面です」

 

 機体がわずかに左へ動く。尾根の切れ目から、外洋の白い空が覗いた。

 

「出口、確認。外洋へ出ます」

 

 入り江を抜ける。だけど、予測していた地点まで来ても雲はまだ低い。私は気象図の線と、風防越しに見える雲の流れを重ねた。

 

「方位を五度、北へ。雲の薄い方へ寄せます」

 

 フィンさんは迷わず機首を振った。

 数分後、頭上が明るくなる。灰色の雲に裂け目ができ、弱い陽射しが海面へ落ちた。視界が一気に広がる。読みどおりだった。

 

「進路そのままで行けます」

 

 返事はない。それでもガネットは一度も軌道を乱さず、私が引いた線の上を進んでいく。

 

(私の声を、この人が使っている)

 

 だから次の言葉も迷わずに出せた。外洋区間を抜け、再び島影へ入る。雨がまた強くなった。

 

「次の岬まで高度四百。越えたら三百五十。雲底が下がれば南へ抜けます」

 

「ああ」

 

 最後の入り江へ入る。海面と尾根の間に、ガネット一機分の道が続いているように見えた。その道を、自分の声が先へ伸ばしていく。

 

(この人と、まだ飛びたい)

 

 突然の思いつきではなかった。ずっと形になりかけていたものが、雨の中でようやく言葉になっただけだ。次のレースだけではない。その先も、この後席で道を読みたい。フィンさんが飛ばすガネットで、同じ景色を見ていたい。

 

(……今は、それを言うときじゃないわ)

 

 最後のゲートが雨の中に現れる。

 

「ゴール、正面。距離二百」

 

「行く」

 

 フィンさんがスロットルを押した。ガネットは雨の幕を切り裂き、フィニッシュゲートを通過した。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 フロートが水面を切り、ガネットが速度を落とす。

 

「ガネット、TC24通過。SS18完走」

 

 無線にHQの声が入り、フィンさんが短く応答して機体を桟橋へ寄せた。エンジンが止まる。コクピットに残ったのは、風防を打つ雨の音だけだった。

 私はフライトブックを閉じた。立とうとして、足に力が入らない。タラップへ出たところで、体が止まる。

 先に降りていたフィンさんが腕を伸ばして、私の肘を掴んだ。

 

「大丈夫か」

 

「はい。少し、力が抜けただけです」

 

 桟橋へ足をつけると、その手はすぐに離れた。カリーナさんも、ピエトロさんも、ジョバンニさんも、ニコラさんも、フランチェスカさんも、雨に濡れたまま立っている。

 ベアトリーチェさんが時計を見た。

 

「タイムはまだ出ません。全機が戻るまで待ちましょう」

 

 フィンさんが頷く。

 私はガネットを振り返った。エンジンの熱に雨が触れて、白い湯気が細く上がっている。

 フィンさんがその隣で、機体を見たまま低い声を出した。

 

「一人じゃ、あのルートは通せなかった」

 

「私も、一人では読めませんでした」

 

「ああ、よくやった……」

 

 そう言って、頭をなでられた。勝負を決めた飛行が二人の仕事だったのだと、その手から伝わってくる。胸の奥に、雨とは違う熱が残った。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 雨は次第に弱まっていった。他機が一機ずつ戻ってくる。着水したクルーの顔は、どれも固い。外洋で大きく迂回した機体。途中でコースを外し、ゲートを捨てた機体。機体の不調でリタイアしたという無線も入った。

 チーム・ノルディックの機体が着水する。エリオは降りると、一度だけガネットを見た。そのまま何も言わず、自分のテントへ戻っていく。

 午後二時。HQの掲示板へ、暫定結果が貼り出された。人だかりができる。エンツォさんが先に前へ出て、掲示を書き写してから、こちらへ戻ってきた。顔はいつもと変わらない。

 

「SS18、六千四百四十一ポイント。区間一位」

 

 指先が震えた。区間一位。あの雨の中を、誰よりも速く抜けたということだ。

 

「クラス2、暫定首位。二位との差は二十ポイントだ」

 

「え? 今、一位って……?」

 

 声が勝手に出ていた。エンツォさんは書き写した紙をこちらへ向けて、指で一番上の行をなぞる。

 

「間違いない。三度確かめた」

 

「まさか、本当にか?」

 

 フィンさんが紙を覗き込んだ。私も横から追いかける。クラス2の先頭に、ガネットの競技番号が並んでいた。朝、エンツォさんが気にするなと言った差だ。届かないはずだった差が、消えている。八位から、一番上へ。

 

「……フィンさん、信じられません」

 

 顔を上げると、目が合った。いつもの平坦な顔が、そこにはなかった。

 

「お前のナビゲートのおかげだ! 胸を張って良いぞ!」

 

 両肩を掴まれて、大きく揺すられる。あのフィンさんが、こんな声を出すなんて。掲示板の前は自分の順位を探す人で埋まっていて、誰もこちらを見ていない。喉の奥が詰まって、返事の代わりに何度も頷いた。

 

「まだ暫定(……)だが、やったな、お前ら!」

 

 いつも冷静なエンツォさんが、声を張り上げていた。そのままフィンさんの肩を一度叩いて、続けて私の肩も同じように叩く。

 フィンさんが我に返ったように手を離した。

 

「いや、待て。正式結果は明朝だ。機体検査と集計が終わるまでは……」

 

 その先を、カリーナさんの声が遮った。

 

「二人とも、よくやったわ!!!」

 

 整備班の誰かが笑った。それをきっかけに、押さえていた声が一斉に上がる。ピエトロさんがジョバンニさんの背中を叩き、ニコラさんとフランチェスカさんが手を合わせた。マヌエラさんはとっくに結果表を書き写していたけれど、口元だけは笑っている。

 フィンさんはもう一度紙へ目を落として、競技番号のところを指で押さえた。何度見ても同じだと、確かめるみたいに。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 夕方。雨が上がり、完走機によるセレモニーフライトが行われた。ガネットはマリーナ・グランデの湾上へ上がる。雲の切れ間から夕陽が差して、水面が橙色に染まっていた。観客席からの歓声が、風防越しにまで届く。その中に「ガネット」という声が混じっていた。

 私は後席から湾を見下ろした。勝ったかもしれないことよりも、最後までフィンさんと飛べたことのほうが胸に強く残っている。

 

(……だめ。まだ泣くところじゃないわ)

 

 目の奥が熱くなる。今度は無理に抑えなかった。ただ、こぼれる前に一度だけ瞬きをした。

 着水した頃には、広場で後夜祭が始まっていた。正式結果はまだ出ていない。それでも、長い大会を完走した人たちの顔からは、朝までの緊張が抜けている。広場の反対側にノルト・ヴィントの区画が見えた。昨夜の上着の人は、どこにもいない。

 

(……断ってくれて、よかった)

 

 人混みの中から、エリオが歩いてきた。

 

「フィン」

 

「エリオ」

 

 エリオはガネットを見て、それからフィンさんと私を見た。

 

「暫定を見たよ。おめでとう! 選ばなければ出ない運だったな」

 

「ああ、サンキュー」

 

 フィンさんは否定しなかった。

 エリオが小さく笑う。

 

「明日の結果を待つよ」

 

 フィンさんの肩を軽く叩いて、人混みへ戻っていった。

 

 

 ◇◇◇◇◇

 

 

 夜。後夜祭の明かりから離れて、私は港の桟橋に立っていた。雨雲は遠ざかり、ところどころに星が見えている。背後から足音が近づいた。振り向かなくても、誰かはわかる。

 

「……飛べましたね」

 

「ああ」

 

 フィンさんが隣に並んで、二人で暗い海を見た。

 しばらくして、フィンさんが言った。

 

「よく読んだ」

 

 短い一言だった。表彰台も、順位表も、まだ何ひとつ確定していない。それでもその言葉は、私にとってどんな結果より重かった。

 

(……離れたくない)

 

 フィンさんを意識していることを、自分にさえ誤魔化せなくなっていた。明日、結果が確定したら聞こう。レースが終わっても、この後席にいていいのか、と。

 私は海を見たまま、小さく息を吸った。

 

 

 

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