Day+11。マリーナ・グランデの朝は、昨日までの雨が嘘のように晴れ上がっていた。
海面が朝日を照り返すものだから、港の建物まで白く霞んで見える。桟橋の板にはまだ水が残っていて、そこにも同じ空が映っていた。
午前八時。HQの掲示板の前には、もう人が集まっている。完走したチームも、途中で降りたチームも、区別なく同じ場所に立っている。私はフィンさんの隣で、生きた心地もなくその時を待っていた。
「まだ出ないのかしら」
カリーナさんが足元の板を爪先で叩いている。
「機体検査と集計が終わってからよ。抗議の受付時刻はもう過ぎましたから、あとは判を押していただくだけ」
マヌエラさんが帳面を開いたまま答えた。
「……ひっくり返ったりは、しませんよね」
「しないわ。マヌエラが昨夜のうちに全部突き合わせてるもの」
答えたのはカリーナさんだった。エンツォさんが桟橋の向こうへ目をやる。
「ベアトリーチェはどうした」
「事務局の窓口です。控えは向こうで先にいただけますから」
整備班の皆さんは少し後ろで固まったままで、誰も余計な口をきかない。手の中にも、懐にも、今日は開くものが何も無い。
(もう何も書き足せない。……それが、こんなに落ち着かないなんて)
やがてHQの扉が開いて、職員が一人出てきた。手にした紙を掲示板へ留め、その上に赤い判を押す。
押し合いになった前列から、声が上がる。喜ぶ声と、それより短い息の音が混ざった。エンツォさんが人の間を抜けて上から下まで確かめ、こちらへ戻ってくる。顔にはいつもどおり何も出ていない。
「公式結果だ」
「……どうでした」
自分でも情けなくなるくらい、細い声しか出なかった。
「クラス2、優勝。二位との差は二十ポイント。総合三位だな」
「……勝った、んですね」
「ああ」
二位との差は、昨日聞いたのと同じ数字だった。ただ、暫定の二文字が消えている。
人垣を回り込んで、ベアトリーチェさんが書類の束を抱えて戻ってきた。
「頂いてまいりました。クラス2、一位。総合三位です」
マヌエラさんが帳面と控えを並べ、指で二度なぞった。
「二十ポイント。間違いありません」
「やったな、お前たち!」
エンツォさんが大きな声で讃え、二人の肩をバンバンたたく。
それが合図になったみたいに、あちこちで同じ音が続く。昨日まで張り続けていたものが、順番にほどけていく音だった。誰の吐息なのかも、もう分からない。
フィンさんとカリーナさんはハグして讃えあっていた。そして振り返り私を抱きしめる。
「アリス。勝ったぞ、おい! お前のナビのおかげだ」
余りのはしゃぎっぷりにカリーナさんが額を押さえ、ピエトロさんはその場にしゃがみ込んでしまう。ジョバンニさんがニコラさんの肩を何度も叩き、フランチェスカさんは両手で口元を覆ったまま動かない。私はその真ん中で立ち尽くしていた。
「よく戻ってきたわ、二人とも」
「はい……はい」
カリーナさんの腕が伸びてきて、私の肩を抱き寄せる。作業着から油の匂いがした。
(一位。……その二文字が、まだ私のものだと思えないわ)
エンツォさんが私の肩を叩いて、もう一度人の間へ入っていく。私もその背中について前へ出た。
人はまだ引かない。順位を指で追いながら話し込む声が、すぐ耳のそばで交わされている。
「二十だぞ。二十ポイントで入れ替わったのか」
「最終ステージだけ見てみろ。二十五番が六千四百四十一だ。次が六千八百三十だぞ」
「そんなに離してるのか。あの雨でか?」
エンツォさんが掲示板の、最終ステージの欄を指した。
「上位はみんな外洋へ回っている。入り江の雲底が四百まで下がってたからな。安全に飛ぶならそれが正しい」
「うちは、入り江を通りました」
「そういうことだ。回れば距離が伸びて、時間も伸びる」
太い指が、その欄の下のほうへ移る。
「昨日の朝まで首位だったシルバー・ライニングが七千二百六十二。ガネットと八百二十一違う。七百九十三あった差は、そこで丸ごと消えた」
私は指で行をなぞった。七千二百六十二。六千四百四十一。二つの数の間に、昨日の雨が入っている。
(……上位で入り江へ入ったのは、私たちだけ……)
◇◇◇◇◇
午前十時。桟橋沿いの広場に表彰台が設けられ、大会旗が海風に揺れている。
観客席だけでは足りず、通路にまで人が立っていた。台の背は桟橋へ抜けていて、そこにクラス2の上位三機が並んで係留されていた。ガネットは、その真ん中だ。
「見なさいよ、あの二機。ゆうべ塗り直したわね」
カリーナさんが小声で言った。私は自分の機体を見た。
「うちは?」
「洗ったわ。それで充分よ」
両隣の二機は塗りたてで、朝の光をつるりと弾いていた。ガネットの尾翼には、修繕の跡がそのまま残っている。
(……それでも、あなたが一番よ。何と言われても、そうなんだから)
司会がマイクを握ると、広場が静かになった。
「クラス2、第三位。シルバー・ライニング、チーム・クラウドナイン」
拍手の中を、青い機体のクルーが台へ上がっていく。先頭のひとりが顔を上げたまま手を振っていた。
「クラス2、第二位。ローン・ウルフ」
呼ばれた二人は二位の台の上で一度だけこちらを見て、それから前へ向き直る。
「続きまして、クラス2、第一位。悪天候の最終ステージを制し、八位から逆転。総合順位も三位に入りました。チーム・ガネット!」
歓声と拍手が一斉に上がる。
フィンさんが歩き出し、私もそのあとに続いた。人の壁の間に細い通路ができていて、両側から手が伸びてくる。誰の手なのかも分からないまま、私はその間を抜けた。
台は三段だった。中央の一番高いところへフィンさんと上がる。
広場が、ひとつづきに見えた。
大会会長のバルタザール・ヴァン・デ・グラフが、表彰台の前へ歩み出てこられた。深い青の正装に白い髭。両手には大きな杯。その台座に、IGPCの紋章が刻まれていた。
「チーム・ガネット」
低い声が、会場によく通った。
「この十年、クラス2でプライベーターが頂点に立ったことはない。おめでとう。よくぞ飛んでくれた」
「ありがとうございます」
フィンさんが両手を差し出す。会長が杯をそこへ載せると、受け取った拍子に片側が下がった。
「うわ、重いなこれ。おいアリス、持て」
「は、はい」
言われるまま持ち手へ手を添える。冷たい金属越しに、フィンさんの手の熱が伝わってきた。
「せーので上げるぞ」
「はい」
二人で持ち上げると、杯がまぶしく光って、観客席からもう一度大きな歓声が上がった。台の下でロバートさんが片膝をついて、こちらへレンズを向けている。私は笑った。
閃光が焚かれる。
私は隣のフィンさんを見上げた。歓声はまだ鳴っているのに、耳のそばだけが急に遠くなった。
(……ああ。そうだわ)
(私、フィンさんが好きなんだ)
声も、拍手も、旗の音も、しばらく戻ってこなかった。
やがてフィンさんが杯を下ろした。
台の下から、記者と放送陣が一斉に近づいてくる。先頭にいたのは実況のバーナビー・ワッツさんで、蝶ネクタイを直しながらマイクを伸ばしてきた。
「フィン! まずは優勝の感想を!」
「運がよかった」
フィンさんの
「またそれですか! 八位から一位ですよ! 最終ステージ区間一位ですよ! 運だけで飛べるなら私だって明日から飛びますよ! では改めまして、勝因は!」
「そこまで喋られると、答えることが無いんだが」
「ありますとも! さあどうぞ!」
フィンさんは一度だけ私を見てから、マイクへ顔を向けた。
「道を作ったのはアリスだ」
「おお、出ました! では道を作ったコ・パイに伺いましょう! 今のお気持ちは!」
マイクが、すぐにこちらへ向いた。嬉しい。誇らしい。信じてもらえた。どれを言えばいいのか分からないまま、私は口を開いた。
「……飛べました」
「飛べた! それが優勝者の言葉です!」
バーナビーさんが一瞬だけ目を丸くして、それから大きく笑った。会場から拍手が起きる。ロバートさんのカメラが、もう一度こちらを向いた。
◇◇◇◇◇
午後。表彰式が終わると、サービスエリアではすぐに撤収が始まった。
まず幕を外し、骨組みを抜いて、ペグを一本ずつ引き上げる。工具箱の中身が定位置へ戻され、蓋が閉まる音が続けざまに鳴った。燃料缶と予備部品は、桟橋を渡ってルナの貨物機へ運ばれていく。
カリーナさんが箱の山の前で指図していた。
「ジョバンニ、そっちは事務所行きよ。貨物機じゃないわ」
「わかってる」
二週間近くそこにあった区画が、端から順に元の空き地へ戻っていく。
私は最後まで残された作業台の端で、使い終えた資料を片づけていた。フライトブック。書き込みだらけの海図。風向きと偏流を計算したノート。SS18で使った透明紙には、雨の中を通った線と、退避地点の印がそのまま残っている。
「フライトブックはお返しするものですから、こちらへ。控えは取ってありますね?」
「はい。計算は全部、ノートの方に写してあります」
マヌエラさんが箱を二つ持ってきた。私は返す方の箱へフライトブックを載せて、手元に残った束を持ち上げる。
「これは、どうしましょう」
「捨てるな」
横を通りかかったフィンさんが、私の手元を覗き込んでくる。
「でも、レースは終わりました」
「終わったから残すんだよ。またこの海を飛ぶことがあるだろ? その時に一から引き直す馬鹿がどこにいる。お前が今日持ってるそれが、一番早い海図なんだぜ」
「……はい」
「事務所の棚に入れとけ。俺の古いのも一緒に置いてあるからな」
フィンさんはチーム側の箱を顎で示して、そのまま行ってしまった。
私は海図と、それから透明紙の束をチーム側の箱へ入れた。中にはガネットの整備記録も、マヌエラさんがまとめた結果表も収まっていて、
蓋を閉めようとしたところで、桟橋の方から高い声が飛んできた。
「フィン! 勝ち逃げする気じゃないでしょうね」
マリエッティさんだった。今日はサングラスを外して、髪を後ろで束ねている。
「逃げも隠れもしてないだろ。機体はまだそこに浮いてる」
「そういう意味じゃないわよ」
「マリエッティも悪くなかっただろ」
「クラス1で五位は嬉しいけど、総合はあなたたちの下よ。悔しくて昨日は寝られなかったわ」
「そりゃご愁傷様だな」
「言うじゃない。次は前を飛んでるから、よく見てらっしゃい」
マリエッティさんは笑って、それから私の方へ来た。
「アリス」
「はい」
「あと二本、しっかり追いなさいって言ったわよね」
「……言われました」
「追いついちゃったじゃないの」
私の肩に手が置かれる。その手に少しだけ力が入った。
「ちゃんと連れて帰ってきたのね、この人を」
「連れて帰ってもらったのは、私のほうです」
「二人ともそう言うのね。似た者同士だこと」
マリエッティさんはくすりと笑って、フィンさんの背中を軽く叩いてから自分の区画へ戻っていった。
もう一度蓋へ手をかけたところで、今度は低い声がした。
「フィン」
「エリオ」
エリオさんは競技服ではなく、白いシャツの袖を捲っていた。向こうのノルディックのテントも、半分ほど片づいている。
「また二年後だ」
フィンさんはすぐに返事をせず、一度だけ私を見た。ほんの一瞬だった。
「ああ。また二年後だな」
「今度は追われる側だぞ。守るほうが、追うより厄介だからな」
「そりゃそうだろうな」
エリオさんが笑って、視線を私へ移す。
「コ・パイもな」
「……はい」
フィンさんは何も言わなかった。エリオさんは片手を上げて、自分のチームへ戻っていく。
(二年後……)
◇◇◇◇◇
夕方。撤収はほとんど終わっていた。
ルナの貨物機には機材が積み込まれ、あれだけ広かったサービスエリアには、畳まれたテントの跡と、ペグを抜いた穴だけが残っている。
「アリス、こっちは終わったわ」
カリーナさんが工具箱の蓋を閉めて立ち上がった。
「ガネットは、もう触らないんですか?」
「整備は終わってるわ。十日間よく働いたもの。あとは島まで飛んで帰るだけよ」
「エンツォさんたちは、もう発たれるんですか?」
「あっちは千五百海里よ。丸一日、海の上だわ。天気のいい日を選んで、何機かで編隊を組んで渡るの。無理に急ぐ距離じゃないわ」
「……じゃあ、まだしばらくは」
「そうね。明日の夜、マヌエラが倉庫を一晩借りたそうよ。残ってる連中で一度きり、派手にやるんですって」
「……はい」
「先に行ってるわね。あんまり遅くならないように」
カリーナさんの足音が遠ざかると、人の声はもう聞こえなくなって、波が桟橋へ当たる音のほうが大きくなった。
ガネットは、その桟橋に係留されている。
尾翼の修繕跡。左エンジンのカウルに残る油染み。雨に打たれた風防。フロートの側面には、外洋の潮が乾いた白い筋が残っている。
(……ずいぶん汚してしまったのね)
私は開いたハッチの前に立った。
中を覗くと、フィンさんの操縦席と、その左後ろに私の席がある。膝の前へ倒して使う小さな机。海図を留めるための金具。どこに何があるか、もう手が覚えてしまっていた。
初めてこの機体へ乗せてもらった日、そこはまだただの旅客席だった。レースのために計器と机が入って、私はそこでフライトブックを広げ、何度も声を出し、失敗もして、震えたこともあった。
(……ただの席じゃ、なくなってしまったわ)
座席の背へ手を置いたところで、背後に足音がした。フィンさんがガネットの横へ来て、係留索を確かめてから顔を上げる。
「どうした」
「……フィンさん」
「ん」
私は一度、息を吸った。昨夜、この桟橋で決めたことがある。
「ひとつ、お願いがあります」
「なんだ」
「これから先も、航法は私が引き受けます」
係留索の上で、フィンさんの手が止まった。
「……それで?」
「条件は、その席に私が乗ることです」
しばらく、波の音だけがしていた。やがてフィンさんが、喉の奥で短く笑った。
「あの夜と、同じ言い方をするんだな」
「……二度目です」
「一度目は金貨千二百枚だったぞ」
「今度は、私の腕でお支払いします」
「高い買い物だな」
「安くはいたしません」
フィンさんは係留索から手を離して、桟橋を歩き出した。
「帰るぞ」
「はい!」
私はハッチを閉め、駆けて、その隣に並んだ。
「明日の夜は打上げだ。明後日、天気を見て発つ」
「はい」
「エレミーナまで、ひとっ飛びだからな」
それだけの話だった。明日と、明後日と、その先の予定を並べただけの、事務連絡だった。
(……私がずっといる前提で明日の話をしてくれてる)
急に、歩くのが下手になった。腕の振り方が分からない。半歩ぶんだけ距離を取ろうとして、それが不自然だと気づいて、また戻す。
(さっきまで、あんなに落ち着いて交渉できていたのに)
フィンさんは前を向いたまま歩いている。こちらを見ない。見られていたら、たぶん耐えられなかった。
二人分の足音が、桟橋の板を鳴らしていた。