ガールズ&パンツァー〜大洗女子学園のデストロイヤー〜   作:ReA-che 名義

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全員の記念撮影が終わった所から、直緒を含めたまだ幼い70期士官候補生達のそれぞれの生活がスタートする
この後各分隊の伍長(1号生徒)に引き渡され、先輩の彼女達の引率のもと校内を見て回り時刻を見計らって風呂場に連れて行かれる

建物自体は古くとも中は近代風に改装が施されているため明るい風呂場を期待した70期生達を待ち受けていたのは石畳で作られた日中でも暗い風呂場であった
ここで「全身を良く洗って入れ」とか「手拭いを浴槽につけるな」という入浴時の注意を教えられ「娑婆の垢を落としてこい」と見送られた
皆が皆生まれたままの姿で風呂に入る、文字通りの裸の付き合いが70期生の中で始まった瞬間でもあった



第二夜 江田島70期の苦難

 

ゆっくりと湯を楽しむ間もなく外へ出た4号生徒たちを出迎えたのは対番の3号生徒達が準備した各自の着替えである

飾り気のないスクール指定の衣服に始まり、ここでの制服代わりのPJ等その全てに3号生徒達によって名前が記入されていた

 

あれやこれや伍長の1号生徒達の指導のもと、身につけた事のないPJに悪戦苦闘しながらやっとピカピカの江田島スクールの生徒が完成するのだ

 

その後昼食を挟んで大講堂へ入り、前から分隊順に並んで待機する

この入門式は新入生だけで他生徒の参列はなく、有志の保護者は2階からの参観が可能となっていた

 

13時(ヒトサン)15分(ヒトゴー)、江田島戦車スクールのスクール長が正面壇上の机の前に立ち入門式が始まり

それが終わった後も22時00分(フタフタマルマル)頃まで様々な行事が続くこととなるが、中でも4号達の肝を震え上がらせたのが18時(ヒトハチ)30分(サンマル)より約30分に渡って行われた1号生徒主導による出身校姓名申告であった

 

ここで江田島戦車スクールの○号生徒と呼ばれる物について触れるが、これは所謂学年のようなもので入ってすぐは4号生徒からスタート

半年ごとに3号生徒、2号生徒と上がっていき最後が1号生徒といった具合だった

厳密には半年で進級なので学年とは言えないかも知れないが、この4つの学年はそれぞれ【鬼の1号、むっつり2号、おふくろ3号、ガキ4号】と呼ばれていた

全ての学年の上に立つ1号生徒は一番偉く理不尽が言える鬼、その下の2号は大体をこなせるようになって少し偉ぶりたい欲が出てきた頃合いのむっつり

さらにその下の3号は多少の事が出来るようになり、一番下の4号の身の回りを世話してやるまさに母親

そして最後の4号はまだ右も左もわからず娑婆っ気の抜けていないガキという意味でつけられたあだ名のようなものである

70期が入門した当初は1号(67期生)が248名、2号(68期生)301名、3号(69期生)が353名と新たに加わった4号(70期生)460名(病気等で進級できなかった69期が6名70期に加わった)で合計1362名

36個の分隊にわかれ、各分隊は各学年の生徒が均等に振り分けられた編成となっており

この分隊が士官候補生達の宿舎生活の基本単位で自習室や寝室、食卓を共にし

1号生徒の指導の元に生徒の自治により互いに切磋琢磨する場であった

 

出身校姓名申告とはいうなれば1号からの最初のしごきであり入門日のメインイベントでもある

自習室には下級生──つまり4号から前、その後ろに3号、2号、1号と後方から監視されるように並ぶ

18時(ヒトハチ)25分(フタゴー)、後方から「4号、前に出ろ」と大きな声が聞こえたことで4号生徒達は上級生の方へ向かって横一列に並び出身校姓名申告をすることとなる

 

【言ってしまえばただの自己紹介ではあるのだが、ごく普通の声で申告すると途端に1号生徒達の態度は豹変し

至るところから「聞こえん」「やり直せ」と罵声が飛ぶ

2回目は大分声を大きくしたが駄目、3度目は精一杯の大声を張り上げるが未だ駄目

こうなると長ったらしい学校名が恨めしくなる

4度目でやっと合格したが、大体みな平均で3〜4回程やり直ししてようやく突破が出来る】

 

──70期4分隊武田光子の証言

 

全国から集まった4号達はついついイントネーションや発言にお国訛りが交じるがそうなると1号生徒達から揚げ足を取られ標準語でのやり直しを命ぜられる、その為北国や九州方面のような日本列島から見て端と端から来たような子たちは相当に苦しめられたようで

上記の証言をしている武田の所属した4分隊には直緒と同郷の宮城から来ている岩崎(いわさき)芳美(よしみ)という子がいたのだが、4分隊で特に標的にされたのがこの岩崎である

 

彼女の出身校姓名申告は「大崎市立古川小学校出身、岩崎芳美」となるのだが、どうしても「大崎(おおさき)市立(すりつ)古川(ふるかわ)小学校(しょうがっこう)出身(しゅっすん)岩崎(いんわさき)芳美(よすみ)」と聞こえる

そのため「わからん」「日本語で話せ」と何度もやり直しをくらい

やり直す事に焦って益々お国訛りが出てくる、この岩崎は6〜7回ほどやり直してようやく合格となったが

これは直緒も例外では無く、自身の角田訛りに苦戦を強いられる事となった

直緒のいた2部14分隊の4号生は12人、その中で一番目をつけられたのは70期生の中では【タミちゃん】の愛称で親しまれていた大和(やまと) 国民(くにたみ)という中々に珍しい名前を持つ生徒であったが

直緒はその2番目で何度もやり直しをくらった

 

角田市立(かくだしりつ)枝野小学校(えだのしょーがっこう)出身(しゅっすん)ッ!杉野(すぐの)直緒(なお)ッ!!」

 

「何?す()のなお?そんな奴は4号生の中にはいないぞッ!誰だ貴様、もう一度やり直せッ!!」

 

顔を真っ赤にしながら言い直すもす()のはすぐには直らない、勿論上級生のいたずら心もあったのだろうが…

兎にも角にもやっとの思いで4号の申告が終わると3号、2号の順に姓名申告が行われたが

流石に慣れているだけあって堂々としており4号達は驚きの目を見張るのみだった

 

【それも束の間夜風が吹けば 姓名申告すご面揃い

腰の震えを何としよう お国訛りが恨めしい】

 

かつての兵学校の設備を再利用した江田島戦車スクールは多くの戦車スクールが陸軍式にて所作を教える中、唯一海軍式で教わるわけだが

その実情は兵学校時代に作られた【兵学校三勇士】の歌詞通りであった

 

最後に1号生徒の姓名申告があったが、1号は分隊内で担当する係名を加えて申告する為

4号は1号の顔と名前と係名まで覚えなければならず、『柔道係』や『剣道係』なら名称も短く何となくわかるものの

中には『被服月渡品係』だの『酒保養浩館倶楽部係』など何が何だかわからないようなものまであったが、翌日から早速覚えたかテストされるとあって4号は覚えるのに必死であり

少しでも間違えようものなら1号の怒号が飛び、威嚇するように床を踏み鳴らされるのだからたまったものではなかった

 

新4号達の恐怖体験も済み、その後細かな施設の説明行事等を終えて午後九時から就寝起床動作の練習が初日の締めくくりに行われた

就寝動作は就寝用意の号令と共に衣服を脱いで四角くキチンとたたみ、衣服箱の上に整頓して置き寝衣に着替えて毛布を広げて敷く

起床動作はその逆で起床ラッパと共に跳ね起きて寝衣から衣服に着替えて寝衣と毛布を畳んで飛び出す

 

「早寝早起き、早飯、早風呂、早支度」何でも早さを求められた士官候補生は就寝動作が1分30秒、起床動作は2分30秒が目標とされ

この練習はその後毎夜3回ずつ行われた

 

入門教育にはこの他色々なものがあるのだが特に他スクールと異なる点は要所要所で行われた号音聴取である、これは起床ラッパに始まり巡検ラッパで終わる江田島戦車スクールでの日々の生活やその進行に欠かせないもので違いや区別がついて尚且つ意味を覚えなければ話しにならない

そのため少しでも覚えやすいようにラッパの調子に似た言葉を当てはめたものを教わる

 

例として食事ラッパは【学食のおかずは、鰯に大根、たまにはまぜ飯ライスカレー、これじゃたまらん酒保へ行け】である

瀬戸内海に面した江田島は安く大量に取れしかも栄養が豊富な鰯が良く出され、生や焼いたものの他

時に煮物、時に団子と多種多様に姿を変えて振る舞われた

その為江田島戦車スクールの士官候補生たちは骨の髄までしゃぶり尽くさんばかりの鰯を揶揄して【粉骨砕身】と呼んだ

 

食事ラッパと共に忘れられないのが就寝の合図である巡検ラッパでこれは【寝ろう、寝ろう、皆揃って静かに寝んねしな、寝ろう、寝ろう、寝ろう】のリズムである

 

この哀愁を帯びた静かな音色をベッドの上で聞いた新入りの4号達は1日が終わってようやく自分という一個人に戻ることが出来るというほっとした気持ちと故郷を思い出して涙を流すようなこともあったという

 

 

 


 

 

 

 

慌ただしい入門初日を終え、誰もが大変なところへ来てしまったなと言う後悔に似た気持ちを抱えながら翌日からの約2週間は入門教育が行われた

まぁ所謂オリエンテーションであるのだが、普通の小学生から軍隊もかくやあらむと言わんばかりの生活への転換をスムーズに行う為の準備教育であり

精神及び肉体両面の適応がはかられたのだが、そもそも70期はそれまでの4月からという通例を破って寒い12月入門となった最初の期だった為

特に肉体面での適応が出来ず大変な思いを味わう事となる

 

この2週間に及ぶ入門教育は訓育、軍事学、砲術、運用術、信号術を始め、剣道・柔道・衛生等の科目があり

訓育は4号全員一緒、その他は偶数部奇数部に分かれて行われ

 

江田島戦車スクールの校舎は戦時中、海軍兵学校の校舎として使われていた事もあり

トレーニングや細かい所作が陸軍式で行われる従来の戦車スクールとは異なり前述の通り海軍式で行われていた

授業は通常教科と戦車について学ぶ傍ら、普通の学校で言う体育の時間はもっぱら体力作りや武術に勤しむこととなる

 

『左ッ左ッ左、右ッ 左ッ左ッ左、右ッ』

 

全体との息を合わせる為の行進に始まり

 

「青コーナー、4号杉野ッ

赤コーナー、3号三島ッ」

 

「「はいッ」」

 

「両者見合ってッ!!」

 

全身を隈なく鍛え上げるために筋トレや器械体操、カッター漕ぎに相撲、剣道柔術と幅広く

しかも最後の3つに関しては勝ち抜きであり負ければ勝つまでローテーションしなければならない

 

「おるぁあああッ」

 

「うぉおおおおッ」

 

これに関して言えば70期の中で一番背の低かった直緒ではあったが純粋な試合に関しては強かった、元々地元にいた頃から暴れない日が無かったので飲み込みも早く

例に上げれば最初の相撲の試合などは年上が相手でも勝利を収めた

…のだが

 

「杉野ッ戻れッ!」

 

「はッ!?勝ったのに!!?」

 

勝ったはずの直緒が呼び止められ土俵内に取り残される、江田島戦車スクールでは基本的に武道をやる際は負け残りと言って負けたものは勝つまで土俵から降りることは許されないためどうやら判定負けと言った具合になるのだが

当然納得がいかないと言いたげな直緒に審判役の1号生徒はさも当然のように言った

 

「技を使って勝とうと言う考えが気に入らん、これは娑婆の相撲とは違う

押して押して押しまくれッ」

 

「…」

 

審判の言葉に思わず直緒はぽかんと口を開けてフリーズ、というのも圧倒的なまでの体格不利があることから直緒は技を駆使して試合を制すしかないのである

しかし江田島戦車スクールで相撲での勝利は純粋な押し出し以外は許されないのだと宣うのが泣く子も黙る鬼の1号生徒であった為に押し黙るしかなく

 

「杉野はそのまま

次、3号横山ッ」

 

「──やってやろうじゃねぇかよ

チクショオオオオッ!!

 

やけくそ気味に叫んで次の相手に飛びかかった直緒のセリフに彼女の本心が詰まっていた、当然純粋な押しのみの相撲でハンデを背負った直緒が勝てる筈も無く辛酸を舐めさせられる事となるが

この辺りは審判の審判個人の裁量が多分に含まれており彼女が2号生であった翌年には技ありでの勝負も可能となり水を得た魚のように勝ち星を上げていくこととなる

 

【──杉野直緒、若き戦車隊のエースコマンダー

彼女こそが最強の撃破王だと読んだり聞いたりして久しいけれど、私に言わせてもらえばそのイメージはピンとこない

 

彼女と一緒だったのはだいたい一年くらい、杉野ちゃんの14分隊と私の26分隊は寝室も自習室も隣同士でもう一つの2分隊と共に2部として授業を一緒に受けた

席順は身長順だったから当時120㎝くらいしか無かった彼女とその当時140㎝あるかないかくらいの私は席が近かった

色白で細身、いささか茶目っ気のある娘という印象をもっている

 

我々元士官候補生にとって4号時代というのは無我夢中の時代だった、これは私だけでなく一緒だった4号連中は皆同じだったように思う

この時代に特別に目立って「あいつは特にえらい奴だったなぁ」と思う者はいない、杉野ちゃんについても同様でまさか撃破王になるなんて夢にも思わなかった

 

あの当時席を隣り合っていた娘が一人大阪にいるけど、その娘も「鉄棒の逆上がりにさえ苦労していた杉野が撃破王とはなぁ」と感慨深く話していたのを覚えている】

 

 

──4号時代に直緒と同じ2部にいた真嶋(まじま)真白(ましろ)の思い出であるが、武田光はこの時のことをこう振り返っている

 

 

【私は4号の時は隣の4部の4分隊で、寝室も自習室も一つ置いた隣だった

合同での訓練は2部と一緒になることがあったので顔は知っていたが、それほど親しくなるところまでは行かず

3号生徒になって同じ5部、2号生徒、1号生徒の時は隣の部とその後は比較的近い位置にいたのでかなり親しくなった

 

江田島戦車スクールは一つの型にはまった教育をするところだから非情に個性が強くてそれからはみ出す人、あるいはすごく柔道や剣道が強いとか暴れまわるとかいった人を除くと均一な全体のなかに埋もれてあまり個性が表面にでない

 

1号生徒の時はかなり彼女の個性がよく出ていたように思うが、戦車乗りとして活躍していた後年のあのがむしゃらな杉野ちゃんとはかなりかけ離れていた

学部を修了し、部下を持つようになってから個性が出てくる例も少なくないが杉野ちゃんなんかはその典型ではないだろうか───

 

器械体操が抜群にうまく、相撲も強かった

彼女の印象を一言で表すなら女版の牛若丸

やさ()で小柄だったし、それでいてすばしっこく(いくさ)に強かったから】

 

少々茶目っ気があったと語るところは真嶋も武田も共通していたが「逆上がりにさえ苦労していた」のと「器械体操」が抜群にうまかったという点は大きく食い違っている

 

【4号の時は個性は殆ど出ない、それが出るとすれば1号になってからだがそれでも生徒の範囲内では知れている

だから学部を修了してから目ぼしい活躍ぶりを聞くと「へぇ、あの娘がねぇ~…」ということになる

杉野もその一人だろう】

 

──こちらは4号時代に直緒と同じ分隊だった森谷の証言だが、その森谷は「杉野は体操は上手だったけど相撲はあまり強くなかった」と話している点が興味深い

恐らくは小柄だった直緒が自分よりも遥かに大きい相手をひっくり返す様が武田の印象に残っており「強かった」と言わしめたと考えられる

 

この二週間の間は日ごとによりやる武術は入れ替わるのだがそれ以上は選択科目として自身の好みの武術を選んで習うこととなり直緒は剣道を選んでいる

恐らくは柔道や相撲のように接近したままいつまでもゴチャゴチャともみ合うのよりも見た目がスマートで格好の良い方を選んだものと思われる

 

江田島戦車スクールの武道は従来の危なくなれば場外に逃げて良いやり方と異なり一切引かずに前進また前進の先制攻撃が美徳とされており引き技は得点されないこともあり

単純な体格差で勝敗が分かれづらい剣道は直緒の性分に合っていた

少し話を飛ばし厳冬訓練の最終日に当たる翌年1月23日にはスクール内での個人戦が行われたが先に述べた通りいつまでも揉み合った勝負を好まない直緒は離れたところから肉薄して身体をぶつけるようにして踏み込んで一気に技を決めるという捨て身の抜き胴を得意としていた

 

この日の試合は勝ち抜き戦形式にて行われたが直緒はこの戦法でかなりの勝ち星を上げたようだ

 

【派手というか思い切りが良いというか、スカッとした決め技だった】

 

──4号時代直緒と同じ2部であった菱谷(ひしや)(きよ)はこう語る

相手が上段から面に打ち込んでくるか、あるいは打ち込もうとした瞬間に身を沈ませて相手の脇腹に竹刀を叩き込み胴を撫でるように返して相手を躱していく直緒の抜き胴は上手く決まれば実にカッコ良かったらしい

 

特に小柄で俊敏だった直緒はこの技が一番適していたらしく、その戦い方はこの後戦車乗りになってからも変わらず

戦闘訓練や試合の場にて多くの人間の肝を冷やさせたことも屡々

直緒はよく自身の車輌を相手車輌に格闘戦中にぶつけるように持っていくので「危なっかしすぎてこれではいくら命があっても足りない」と教官達は直緒との戦闘訓練を嫌がった

 

剣道同様のこの捨て身の攻撃方法は後に直緒が地元に戻って実戦部隊へ配属となり試合へ出てからも変わらなかった、いやむしろより勇猛さに磨きがかかっていったと言えよう

 

戦車を用いた陸上戦闘では屡々対向で撃ち合いながら接近することがある、しかし車内は特殊カーボンによるコーティングが施されていると言えど弾は防げても車輌に走る衝撃などは緩和されない

つまり基本的には体当たり上等な戦車を打撃武器と言わんばかりの接近戦を繰り広げるのは無事ではすまない可能性も考慮すればメリットよりもデメリットが目立つ

 

だからこそどれだけ接近戦に縺れても衝突の恐怖でどちらかが先に引くこととなりそこが勝負の分かれ目となるのだが、彼女は絶対に自分から引くことはなかったし操縦手にも引かせなかった

 

剣道の肉薄攻撃をそのまま実戦したのが直緒の必殺技──【直前方砲下射撃攻撃法】であるが、江田島戦車スクールの同期で後に日帝学園にて偵察戦車隊に配属となった森田生徒は学部を修了後日帝学園中等部へ進むまでフィリピン選抜隊に抜擢されそこで同じく選抜選手として自身の部隊を引き連れて来ていた直緒と再開を果たしており

この時直緒から「砲弾の雨の中を肉薄していく中で相手チームの車長の表情までわかる」と聞かされたらしい

 

まさに剣道での直緒そのままな攻撃方ではあるが剣道の場合は衝突しても人間同士であるため転ぶ程度で済むが重い鉄の塊である戦車の場合無傷でいられたのならば奇跡

骨折程度でも運が良く、当たり所が悪ければ…という話しになってしまう

 

その際どいタイミングで回避する技量に加えて恐怖に打ち勝つ強靭な精神力が必要であるがどちらも兼ね備えていた直緒は天性の戦車乗りだったと言えよう

 

 

 


 

 

 

話を少し巻き戻し、ここに江田島戦車スクールの特徴と呼べるべきものをあげさせてもらう

一つは教員の話し方

 

江田島戦車スクールの教員は元卒業生を含め大元である日帝学園の卒業生が殆どで多くは教員達の在学中に二軍扱いだった元下士官生徒が殆どであった

 

そして軍隊の風習を色濃く残していた江田島戦車スクールではこの当時には下士官と言えば予科練出の者で上士官は士官候補生という具合だったが上士官は下士官よりも位が高い

その為いかにベテランであろうが下士官出の教員が上士官である士官候補生に命令をするわけにはいかないと奇妙な流れとなる

 

そこで下士官出の教員は士官候補生達に使う言葉遣いが「気をつけ」や「休め」等の号令を抜きにした物の場合は命令形ではなく終止形

例えば教員が引率などを行う際は「○○分隊は私について来い(・・)」ではなく「○○分隊は私について来る(・・)」となるわけである

 

この珍妙なやり取りがまだまだ子供な士官候補生にウケない筈がなく、生徒間、特に仲間内で何かを頼む際はこの教員の喋り方を真似するのが流行ったと言う

 

そして江田島戦車スクールにおいては教育の要として次のような和歌を良く読み聞かされた

 

【目に見せて 言うて聞かせて させてみせ

褒めてやらねば 誰もせぬぞよ】

 

この原則に従い、まずは教員模範ということで正しい動作やカタを教員自らがやって見せ

懇切丁寧に説明して一人一人にそれをやらせて見せ、色々注意して最後に「さすが生徒さんは呑み込みが早い」等と褒めそやして終わる

 

二つ目はカッター(短艇)橈漕訓練で兵学校の名残を色濃く残した江田島戦車スクールならではとも言え、同じく軍事学校の校舎を再利用した戦車スクールは他にも霞ヶ浦戦車スクールや横須賀戦車スクール、舞鶴戦車スクールに佐世保戦車スクール等々わりと全国を見てみればままあったのだがここまで徹底しているのは江田島戦車スクールくらいだった

 

江田島戦車スクールが保有していたカッターは12人乗りの物で9mカッターと呼ばれた物

各分隊にそれぞれ1隻が割り当てられ普段は海岸の吊り柱に吊るされている

訓練開始の際はカッターの揚げおろしから始まるがこのカッターは船体だけで1t、その他艤装品を含めれば1.7tの重量を誇る為生徒だけではおろすのだけで大変な作業であった

 

いざおろし終えて訓練を始めてみても思ったように進まない、カッターのオールは長さ4.3メートルで握り部の太いところは7.6㎝あり

更に握り部には鉛が4つ埋め込まれていた為、まだ幼い生徒達はこのオールを引くことは勿論上げることすら最初のうちは出来ないものが大多数をしめていた

 

オールを引く際は腕を伸ばして全体重を掛けて掛けてぶら下がるようにし、引き終わったら即座に出来る限り前へと押し出す

当然腕力でどうにかなるものではなく強い背筋力と握力も必要とされた

 

教員の号令により最初は左右で二人ずつ、やがて全員で漕ぐと変わっていくが中々オールは揃わない

5分も漕げば真冬であろうが額からは汗が滴り落ち漕ぎ手の椅子は固定のなされた固い木材により出来ているため2~3回目の訓練で早くも臀部の皮がめれてくる

この治療法は後に4号生達はおふくろの3号生に教わることとなるが、酒保からヨードチンキとセルロイドの下敷きを買ってきて休み時間の内に寝床へ戻って治療をする

二人一組となって仰向けで寝転び患部にヨードチンキを塗って下敷きで仰ぐ、こうすることでヨードチンキが早く蒸発して染みて痛みを感じる時間を短く出来るのである

 

毎日2時間、あるいは3時間の橈漕訓練はキツいものであった、最初の内は中々呼吸が合わずにオールを握って突き出した拳が前の人の背にぶち当たること屡々あり、そうすると傷口から吹き出した血で自分だけではなく他の人の背中まで真っ赤に染めることとなった

オールが揃うようになると分隊全員の気持ちもピッタリと合うようになるが元来カッター漕ぎというのは一人でも揃わなければ船は上手く進まないし交代で艇長となり全体を見ていると水掻きの泡の大きさで誰が力を抜いているかはすぐにわかった

 

この厳冬期と被った入門教育により直緒達70期生の4号達は大変な目に合うこととなったが、その尤も足るものがこの橈漕訓練である

元来戦車スクールの訓練は合理的に出来ており江田島以外でも直緒達士官候補生のような一部の上級生徒に向けた集中的な訓練コースもあるにはあったが江田島の物を含めて本来は日の暖かい4月に入門し

相撲などの全身を使うトレーニングにて特に足腰を鍛え、夏には水泳で全身を解すと同時に肺を強化

秋には駆け足の弥山登山で更に足腰を鍛えた後に尤も過酷である厳冬訓練に入る

 

ところが世界リーグ発足の為に少しでも多く、少しでも早く強い戦車乗りを育てることを要請され12月入門に繰り上げられてしまった士官候補70期達はいきなり江田島戦車スクールにおける最後の仕上げのところにぶつかってしまった

当然12月入門など江田島戦車スクールとしても初の試みであったが入ったばかりの4号に対して手加減をするという配慮は一切無く、上級生達と全く同じペースにて訓練を課したのである

 

その前に入門していた69期も勿論辛く苦しい思いをしたがそれでも4月に入門していることもあり合理的な訓練を積み重ねて着実に段階を踏んでいったのだ

しかし70期生達にはそれが無く単純な訓練面においても天と地ほどの差があり、その上4号には隊務と称した雑用がそれこそ山のようにあり悪条件に悪条件が重なった結果凍傷になったり身体を壊したりする者が続出

 

そうして厳冬期訓練開始から僅かに1週間、遂に恐れていたことが現実となってしまったのである

 

江田島のあった広島県内出身である11分隊の佐原と言う生徒が訓練中に突如酷い腹痛を訴え、近くの病院へと救急搬送されたが手遅れにより亡くなった

死因は十二指腸穿孔による腹膜炎であり、恐らくは環境の急激な変化や責任

気疲れなどによる過度なストレスが原因と考えられた

 

4号生徒達がもっとも身体を壊した原因となったのは風邪をおしての橈漕訓練であり、軽い内に休むことが出来れば大事にはならないのだが「風邪くらいで休むものがあるか!」と無理を重ねて重傷となり肺炎等に悪化してしまうケースが多々あった

 

入学時には460名いた70期の士官候補生達が卒業時には様々な要因で434名にその数を減らしたのは大部分が12月入門による無茶が祟った病気やその悪化等によるもので、入門テストでは1位2位で通過した生徒が途中挫折し退校していった理由でもある

 

実際に死人が出てしまったことに流石に不味いと感じてか次の厳冬期に入門となる72期からは4号だけ別に厳冬期の訓練をやるように改められ、70期生達が結局一番の貧乏クジを引くはめとなった

 

そうして体調を崩したのは直緒も例外ではなく、この4号時の厳冬訓練の暮れ頃に風邪を引いて数日医務室で寝泊まりする事となるのだが

この時後に日帝学園における最後の戦車隊にて重戦車隊の配属となる通称【ドン亀(重戦車)乗り】の武藤敏子とベッドが隣になった

 

【我々江田島戦車スクール士官候補70期は「桜花(さくらばな)咲く緑の春に」入門、瀬戸内海の風光美わしき恵まれた環境の中での勉学スタートという長年繰り返されて来たスケジュールが破られた最初の生徒でした

 

本来合格発表の翌年春に入門の筈が、その前年の11月中旬に急遽江田島集合となり寒風徐々につのる12月1日の入門となった

 

入門後まもなく67期、68期、69期の先輩達は冬季休暇に入りにこにこ顔でそれぞれの故郷へ帰ったが

我々は帰省の夢も叶わず、冬季休暇の間中入門教育に明け暮れた新入りの70期生は翌年の正月の終わりと共に厳冬訓練に入りました

 

約2句にわたる訓練の終わり頃、風邪を拗らせた私は訓練終了と共に医務室で数日休む事を命ぜられ

ガックリして独り物想いに耽っていたとき、1日遅れでなんかニコニコとしてやたら爽やかな感じの患者が隣のベッドにやって来ました

 

見ればお互いに4号、すなわち入門したばかりの生徒であることは一目瞭然で

 

「俺、14分隊の杉野」

「私、9分隊の武藤」

 

…と挨拶も束の間、あとは風邪もどこへやらペチャクチャと喋りまくりました

日数にしたら僅かに2~3日程度の交友で、その後居住も勉学も遂に卒業まですれ違いの二人でしたが

お互いに忘却し得ざる友となり在校中も折に触れて交友関係が続きました】

 

その時の思い出を武藤は懐かしむようにしてからこう語たり「今当時の厳冬訓練で何を思い出すかと聞かれれば、睡眠と空腹と凍傷の三つを挙げるだろう」と続けた

一応士官候補生達は1日きっかり8時間の睡眠時間が設けられて極めて健康的な日々ではあったものの、朝早くより始まる猛訓練により午後の教室での学習の時間などは酷い眠気に苛まれた

特に自習の時間などは各分隊に割り当てられた自習室にて正面の教卓がある前から順に4号、3号、2号、1号の順で自習をすることになるため前の下級生は自然と上級生に常に監視されている形となってはいたものの

寝てはいけないと思えば思うほど目蓋が重くなるのもまた人の性であり案の定自然に目蓋が閉じてしまう

 

無論極力は耐えよう耐えようと睡魔と格闘するため背筋はピンと伸びたままではあるが、後ろから様子を伺う上級生にしてみれば居眠りをしているかどうかはすぐにわかる

とはいえ躾にやかましくなにかと理由をつけては修正と言う名の鉄拳を飛ばされる戦車スクールでの生活ではあるが、居眠りに関しては自分達も同様だったからか寛大なところがあり【鬼】と呼ばれた1号生徒もあまり文句を言わなかった

…まぁあまり目に余るようであれば「おい、杉野」と名指しで注意を受けるはめになるのだが

 

空腹に関しては凍傷と共に4号生徒達を常に悩ませた存在だった

彼女たちが江田島戦車スクールに所属していた当時朝のメニューと言えば食パン1斤とその脇に盛られたテーブルスプーン1杯分の白砂糖、そして味噌汁

パンは千切って砂糖をつけて食べるのだが幼いとはいえ朝の猛訓練を終えた育ち盛りの彼女たちにとってパン1斤など全く腹の足しにならず5分としない内に食べ終えてしまう

 

焼きがまの都合から4つの山に焼き上がったパンの塊が一山ごとに切って振る舞われるのだが中央の二つに比べて両端の部位は皮の部分が多く多少腹持ちが効くため

その見た目から装甲(アーマー)の愛称で喜ばれ、当時を振り返った70期生達は皆一様に「自分の朝食にアーマーが当たるとその日一日楽しい気分でいられた」と語っている

 

そして4号と言うよりかは江田島戦車スクールの士官候補生達と切っても切れない縁である凍傷は特に不慣れな70期の4号達に猛威を振るい

70期4号生徒全数のおよそ7割が凍傷、内3割が重傷という悲惨な状況であった

 

凍傷を患った際に一番やってはいけないことは患部を水に濡らしてしまう事だが、海軍兵学校の校舎を再利用し伝統やら風習やらを継承した江田島戦車スクールの士官候補生達は水に関わる作業を多くさせられた

平時の掃除やら洗濯やらの水仕事は勿論、特にカッター漕ぎは真水よりもっと酷い海水に長時間触れることとなるが一々それを拭いている暇もなく

ちゃんと処理を済まさないまま寒風に晒されることでたちまち凍傷にかかるのである

 

凍傷の治療にもっとも効果がある治療法は水仕事の一切をやめて患部を寒さに晒さない事ではあるのだが、患部以外はなんでもないので訓練を休むわけにも行かず

重傷者以外は患部へリバノール軟膏を塗るかリバノール液を浸したガーゼを貼り、その上から包帯をグルグル巻きにする簡単な処置であったものの連日医務室前には長蛇の列が出来て授業開始に間に合わなくなるほどの盛況ぶりを見せた

 

 

【リバノール軟膏をつけ、包帯をグルグル巻きにして膨れ上がった両手をやっとの思いで小手の中に入れたは良いけど

そこの上を竹刀でぶっ叩かれるからたちまち傷口が裂けて中で血だらけになった】

 

こう証言するのは直緒と同じ14分隊の菱谷で証言は直緒と一緒に医務室での休息で交友を交わした武藤へと続く

 

【雪が降っても訓練に休みはなかった、カッターの上に降り積もった雪を払って練習をしたけど

制服代わりのPJのセパレートズボンの下では皮がむけてお尻が猿のように赤くなり、指は凍傷で爛れた

そんな悪コンディションにもめげずに頑張った当時が懐かしい】

 

こう証言する武藤の指には今も当時出来たケロイド状の凍傷の傷跡が残っている

 

【今でも両手の指に残る沢山の傷跡や、左手に比べて右手の甲が腫れ上がっているのは当時の名残】

 

今や元江田島士官候補70期会の会誌を書く立場となった武田は古傷を眺めて懐かしむようにこう語った

 

武藤と直緒はその後、前述の通り同じ分隊になったことも一緒に訓練を受けたことも無かったが

たまに廊下ですれ違うと「オイ、羊羮でも食いにいかんか?」と直緒が誘ってその後の授業をすっぽかして校外の喫茶店で一息つくというイタズラ娘同士のような付き合いだったという

 

 


 

 

 

 

時を少し遡り厳冬期訓練に入る直前、つまり1号~3号までの生徒が冬季休暇で故郷へ帰る少し前に直緒達4号生にとって忘れることの出来ない後に【パンティー事件】と呼ばれるある出来事が起こった

 

70期の入校教育が終わり、新入りの4号以外が冬季休暇に入る12月26日まで1週間を切った12月20辺りから江田島戦車スクール内ではなんとなくソワソワとした空気が流れはじめていた

 

既に4号の無休は確定していた為、直緒を含めた4号の70期達からすれば恨めしい季節ではあるが、それでも目の上のたんこぶである1号をはじめとした上級生達の姿が校内から消える解放感を思うと4号達もまんざらでは無かったのだが

 

そんな年の瀬のある日のこと午後20時の中休みに入ろうとした際に突如として週番の上級生から指令が飛んだ

 

「4号総員集合!」

 

何事かと不安に駆られながら4号達が各分隊ごとに人の顔も定かではない暗い広間に集められるとその周りを厳しい顔をした1号達が取り囲み、辺りに張り詰めたような異様な雰囲気が漂った

 

何名かの1号がそれぞれ個性的な名口調のお達し(説教)をし、4号との列間のその他の1号が恐ろしい顔つきで「掌をしっかり伸ばせッ」だの「姿勢が悪いッ」等と言って気合いを入れて回る

 

そしてこのお達しの真打ちが後述する【生徒館の赤鬼】と恐れられた谷中1号生徒であった、この谷中生徒は3分隊の1号生徒で67期であるが66期から下ってきた年期の入った生徒であり4号の心胆を震え上がらせるに充分な迫力があり

 

4号達の目の前にズイと出てきたその手にはなにやら妙な布切れを持っていて、やたらドスの効いた低音が魅力の谷中節でお達しが始まる

 

「──昨日、4号の風呂の後を点検したところ脱衣所に薄汚いクマのパンティーが3枚放置してあった

こんなことは江田島士官候補生の恥だ、我々1号はこんなだらしない4号を残して休暇で帰るに忍びない

心当たりのあるものは潔く前に出ろ」

 

生徒館随一の熱血で知られる谷中生徒のある時は激しくある時は静かな名調子は聴く者の心に激しく訴えかけるものがあり、突然のことにビックリした4号の中からは誰も前に出るものがいなかった

…と、言うよりも自分がやった事と気付いたものがいたとしてとても名乗り出られる雰囲気では無かったと言うのが正しい

 

「──それでも貴様らこれから戦車に乗ろうという江田島士官候補生か!?淑女たる大和撫子か!!?

恥を知れッ今からでも遅くないから前に出ろッ!!」

 

谷中生徒は声を荒げて足で床をダーンッと踏み鳴らし、2回目のお達しをしたがまたしても前に出るものはいなかった

そこで3回目のお達しとなった

 

「それでも貴様らは戦車乙女かッ3枚のパンティーがある以上、置き忘れた女が3人いる筈だッ!

これだけ言われても出られないという卑怯者がいるなら貴様ら70期全員の連帯責任だ、我と思わん者は前に出ろッ!!」

 

その声に気圧されたように一人、二人と前に出たが残り一人が中々出てこなかった為に「同級生がやったことを知らないで済ませるのか」と周りを囲んだ1号から怒号が飛び

鉄拳制裁へと移りかねない緊迫した空気が漂ったその時

弾かれたように二人が同時に前に出た

唖然とする4号達の傍ら、喜んだのは谷中生徒だった

 

「世にも奇妙なことがあるものだ、パンティーが3枚に女が4人出てきた

こりゃいったいどう言うことだ」

 

そうして谷中生徒はわざとらしい大仰な身振りでこう続けた

 

「私は最後に出てきた一人の気持ちを思うと涙が出る

その気持ちに免じて──貴様らを叩き直してやる

 

こうして分かるような分からないようなことを言って谷中生徒を筆頭に一頻り4号へと鉄拳を振るった1号は満足した後に解散の号令をかけ

今度は分隊別に分かれてそれぞれの分隊の1号生徒からお達しを受けることになる、要約すれば「自分さえ良ければ他は知らないでは済まされない、むしろ同期の失敗や心得違いに対して自分から積極的にその責を負って出るのが同期としての真の姿であり連帯責任と言うものだ、これからは自分だけはと言う娑婆っ気を捨てて同分隊の4号そして全体の連帯責任を養うように努力せよ」ということらしいが

それでもただの小学生から江田島士官候補生へなったばかりの4号達にとっては自分はミスも悪いこともしていないのに70期の460人の中で誰か一人でも失敗したらその責任で他の者も殴られるというのは納得しがたかった

 

【余談にはなるけど、上級生になって分隊対抗の団体競技等を通じて少しずつこの連帯責任というものが分かるようになるが

本当にそれを理解したのは日帝学園の中等部へ進学し、分隊長として日夜編隊の索敵を務めたとき

試合が長引き疲労が重なると夜間は耐えられない程眠くなるが、一人でも見落としが発生すればその方角から迫り来る敵の切り込み隊や砲撃が迫り来て一瞬の判断の遅れで部隊が壊滅してしまうような危ない目にも何度か遭遇した

これこそがまさに連帯責任、編隊を組んでいる以上全員が運命共同体の世界であることを身をもって体験した】

 

そう述懐する武田はスクールから日帝学園中等部へ進学し、日帝学園戦車道チームの末期に主力戦車隊の護衛戦車隊として戦った経歴を持つ

そして武田は護衛戦車隊時代に日帝学園の最終兵器と呼ばれていたオイ車【150t 級車輌(イ号)】【120t 級車輌(ロ号)】【100t 級車輌(ハ号)】の最期の全てに立ち会うという稀有な体験をしている

 

さて話はパンティー事件へ戻るが、これについては同期生の間では3枚ではなく5枚、6枚という説もあり

またこれは休暇前に4号へ少々気合いを入れてやろうと1号生徒の有志が仕込んだ芝居だという説もありどこか釈然としないところがある

しかしこれについては───

 

 

【──あれから何十年と時が経ち、今にして思えばまこと滑稽で稚気愛すべき一場の茶番劇とも思われるような出来事も

当時は1号も4号もそれぞれの立場で全く真剣に受け止めた、それだけどちらも純粋無垢であったということであろう】

 

【──時が経てば真相は闇の中であり、むしろ過去の懐かしい思い出としてそっとしておきたい

歳月はまさに恩讐を彼方に追いやってしまう

今となっては叱った人、殴った人の方がかえって懐かしく思い出される

谷中生徒の「3枚のパンティーがある以上3人の女がいる筈だ」という名文句は今でも元70期生達の強い絆の源となっている】

 

そう語る元70期4号の小平と武田両名の解釈が、生き残った他の元70期生達の平均的解釈ではないだろうか

そしてこの事件の主役となった谷中生徒こと谷中栄子選手は、学部修了後に日帝学園へ進学

パンティー事件から約4年後に体当たり隊として出撃し若くしてこの世を去っている

 

 

 

 


 

 

 

さて当時江田島士官候補生達が故郷から離れ生活していた江田島戦車スクールは士官候補生達が寝泊まりする生徒館と呼ばれる建物があり

その生徒館には【赤鬼】と【青鬼】と呼ばれた猛者が潜んでいた

 

赤鬼は皆3分隊の谷中生徒だと口を揃えるが青鬼には著説あり、21分隊の大槻生徒か斎藤生徒だと呼ばれていた

どちらにせよ奇数分隊であり、奇数分隊は生徒館の西側に部屋があった事から【鬼】は生徒館の西に棲んでいた

 

【私は偶数分隊で東側に部屋があったから鬼の被害は比較的少なかった方だけど、隣の16分隊の横山生徒と28分隊の従二生徒には目の敵にされていた

些細なことで注意を受け、時には何で叱られたのかさっぱりわからないようなこともあった

 

とにかく1号生徒の中では沢山修正を受けたのがこの二人で従二生徒は自習止めになると常に生徒館東側の階段に陣取り二段飛びで駆け上がってくる4号に片っ端から「待て、やり直せ」と来た

 

私も従二生徒とは相性が悪く、階段で必ず捕まった

蛇に睨まれた蛙のように従二生徒が立っているだけで足がすくんでしまうから不思議で、なるべく顔を見ないようにしても駄目

 

最後の方は従二生徒がいるとわかると迂回して別の階段から昇ったりもしたが、ある日二度やり直しを食らって三度目も懸命に上がったが「なんだ貴様、元気がない」と言うやいきなり階段上から突き飛ばされた

 

江田島で二年近く揉まれた従二生徒は相撲特級、剣道も三段の教員相手に五分へ持っていく猛者に突き飛ばされたのだからたまらない

 

途中の踊り場まですっ飛んでこれまでかと思ったところを丁度下から上がってきた4分隊1号の朝比奈生徒がガッチリと私を抱き止めてくれたので事なきを得た

 

それ以降は従二生徒もいくらか手加減してくれるようにはなったが、この時のことは鮮明に覚えている】

 

と元70期4分隊の武田は語るが、4号として江田島戦車スクールに入ったのが最年少であるのならば6歳

最上級の1号生徒にさえ小学生以上の歳のものはおらず、癇癪を起こせば言葉よりも先に手が出てしまうのも仕方がないと言えば仕方ないのかもしれない

 

一応は武田の証言する通りこれにも個人差があったり相性があって、目をつけられた特定の1号によくやられると言うのが多々あった

 

【ずいぶん無茶な理屈をつけて殴られたけど、私は殴られても叱られてもサラッとしていて、後には残らなかった

イジメという陰湿な感じはなかったし、殴る方に私心や私怨といったものがなかったからだと思う】

 

【──そうは言うけどやはり残るものもある、68期のK生徒なんかには階段のところでよくやられたけど

何で殴られたのか理由がよくわからない

まるで獲物に食らいつくシェパードのような目で睨まれたかと思うと急にポカッと来た

決して今でも恨んでいるというわけではないが、そういうのはいまだに覚えている】

 

4号の時に直緒と同じく14分隊だった森谷と大和(国民)の証言だが、イジメっ子とイジメられっ子があるように相性があって特定の人間に関心が集中するのは避けられなかったようだ

 

特に肉体的なコンプレックスの裏返しか、背の小さいものが大きいものをよく殴っていたらしい

 

【67期は申し合わせもあってあまり殴るようなことはなかったけど、その分次の68期が稼いでくれた

67期の1号がいるときはおとなしくしていたが、1号が実戦の見学なんかで数日席を外すようなことがあると2号の68期が猛威を振るった

 

ところがその68期の中にも赤淵(桜)さんのように全く手を上げない人もいた、私が4号の14分隊だったとき赤淵さんは確か4分隊か16分隊で二つ隣の自習室にいた

スラッとしていておとなしく、朗らかな雰囲気のある淑女だったことを覚えている】

 

と直緒と同じく14分隊だった大和はそう語るが、26分隊だった菱谷もまた次のように証言している

 

【殴られるというのは今考えてみると決して悪いことではない、ホント、顔が腫れ上がるくらい殴られるが

 

しかし赤淵さんは殴らずに身をもって範をたれた、我々の仲間の武田なんかもその方だったけど、戦車乙女たるもの淑女であれというよき伝統を受け継いでいたように思う】

 

そして元70期達の会誌を書いている元4分隊4号の武田も赤淵のことは印象に残っているようで

 

【私は杉野ちゃんとは部は違うが、すぐ近くにいたのは4号と1号の時で

赤淵さんとは4号の時同じ4部で私が4分隊で赤淵さんは隣の16分隊だったからよく知っているが、本当によく下級生を指導していた

 

少しも威張ること無く、ほとんど殴らなかったのでは…少なくとも私は見たことがない】

 

勿論個人の性格によるところも多々あるのだろうが、当時を振り返った武田がその後に入ってきた下級生達をあまり殴らなかったのは赤淵に影響されたところが多いという

約300人いた68期の中でも特に目立ったりせず、殴ったこともなく

同部同分隊でもなかった4号の大和や菱谷達すら覚えているというのはおそらく赤淵に生まれながらのリーダーたるべき器量が備わっていたからだと言っても良いのではないだろうか

 

赤淵についての思い出を持つ大和と同分隊だった直緒が人格識見優れた赤淵に対してどのような印象を持っていたか、またどれくらいの接触があったか今となっては不明であるが

この後に343戦車隊で赤淵先任隊長の元で最後任の戦301の隊長として名を馳せた直緒が彼女にとっての戦車道のルーツといえる江田島士官候補生の学部時代に互いに近いところにいたと言うのは興味深い話である

 

しかし部も分隊も違った事から「杉野と赤淵さんはこの頃はほとんど接点が無かったのではないか」と同分隊の森谷と大和は推察する

 

ちなみに1号になってからの直緒は枷が無くなり元の自由奔放さが全面に押し出され、実戦部隊に配属となってから部下の面倒を根気よく見て怒ったり手を上げたりというのを一切しなかったと言うのが嘘のようにしょっちゅう下級生を殴っていたらしい

 

何にせよ賛否両論あるとしても他スクールで行われた陰湿なイジメ紛いの制裁や尻を棍棒で叩くバッター等に比べれば鉄拳のみ許されていた江田島戦車スクールは幾分マシと言えた

 

というのも拳であれば殴られる方は勿論の事殴る方も結構痛いので痛みを共有するという側面もあった、人によっては美化され過ぎな意見も無くはないのだが

「クドクドと口うるさく説教されるよりかは一発ポカッと殴られてそれで終わりの方がスカッとして気分が良かった」と証言する声があるのもまた正解なのだろう

 

 

 

 

 


 

 

 

 

厳しい冬も過ぎ、3月に入る頃には春の訪れを感じさせる陽気になり

士官候補生達には武道週間や短艇週間、また学力試験のテスト週間等さまざまな試練が待ち受けていた

 

江田島の士官候補生はただ戦車道の事のみを考えればいいと言う訳ではなく、住み込みな分通常の授業についても疎かにしてはいけなかったが

訓練や隊務で疲れきったボーッとした頭に詰め込もうとしたって上手くやれるわけがなかった

 

【──今でもよく覚えているのは日曜の外出の時、たまたま先輩の人と一緒に出掛けて時間が大分遅くなり

夕方5時の帰校点検で整列していた時、私服のスカートの裾を両手で抑えた杉野が韋駄天の如く駆け込んできたことかな】

 

約一週間ある学力テスト、その前の準備期間は授業での居眠りが今更ながら悔やまれるほどにバタバタしており

成績を少しでも上げるためにガリ勉へ勤しむ者もいたが、不安を補うためには日曜の外出を我慢して勉強に精を出すしかない一方でそういうことには無頓着な生徒も少なからずいた

正確には彼女たちとて一通りの勉強をしないわけでは無いのだがついつい誘惑に負けて外出をしてしまうのである

上記証言は4号時代に直緒と同分隊だった大和の語るところであるが、そもそも体格が規定に合えばさっさと航空スクールへ移る予定だった直緒はこういった試験には無気力気味であった

学部終了後について念頭にすら入れてなかった直緒にとってはせっかく外に出られる日曜日に校内に残って試験勉強をするなど愚の骨頂だったのだろう

 

3月の2日には移動訓練と称して江田島のPJを着こんだ70期の士官候補生達は広島市内へ見学に出掛けた

自然に対して感受豊かな直緒は懐かしい故郷の春を思い出したかどうかはわからないが、丁度2年後…つまり彼女が学部を修了し、地元宮城へと戻り仙台支部へ配属された200X年

文学の世界へ徐々に傾倒し始めた直緒はこの頃書き始めた日記にこんなことを書いている

 

──春は今日より始まったような気がする。

近くの梅の木に鶯が来て啼いている。

空は晴れているが、うす衣のような雲が座っている。

佳人の思い悩めるに似たりというような有様だ。

実に春は……萌えよと若人に叫ぶ、否、ささやく春は来ている。

見なさい、蔵王の峯にも。

否、そんな遠くではなく己が立っている大地を御覧なさい。

そこにも春に目覚めた活動がなされつつあるのだ。

天地の生命が活動しつつあるのだ 】

 

──杉野直緒の日記 200X年3月2日の記述より抜粋

 

4月に入ると今度は短艇競技がスタート、この短艇競技には二種類あり1000m地点を往復する近距離競技と約10マイルを漕ぐ宮島遠漕があった

近距離は1分隊から1号2号を中心とした2つのグループを出して競うのだがこの年は2号に赤淵(桜)生徒がいた16分隊が優勝を飾り

翌日の宮島遠漕で一着になったのは例のパンティー事件の主役こと谷中生徒率いる3分隊だったが宮島にカッターを吊り上げる設備が無いため、必要ないと吊り上げ時に使う鎖を降ろして競技に参加したことが発覚し失格となった

 

普通の常識からすれば2位が繰り上げで優勝となる場面だが、分隊幹事が「そういう不正があったのは甚だ遺憾である」とやり直しを決定

それまで日曜外出も返上して猛烈な訓練に励んだ多くの生徒達は大きなショックを受け、めったなことでは弱音を吐かない1号生徒ですら「弱ったなぁ」と言ってうつむいてしまうほどだった

 

勿論練習からやり直しで一週間後の4月9日に行われた二度目の宮島遠漕では17分隊が優勝した

 

ちなみに剣道では良いとこを見せれた直緒は身体が小さく純粋なパワーに関しては特出するべき所もないため短艇競技では出る幕が無かったらしい

 

 

短艇競技も終わり、本格的な春が訪れると否が応でも生徒達を浮き足立たせた

翌月5月23日には夏服の試着があり軍服を思わせる真っ白なPJは新入りの4号達の心を踊らせた

 

一応既に寸法はとって出来上がったものを試着という流れになるのだが、万事スマートをモットーとする江田島戦車スクールは少しでも合わないところがあれば全て直してくれる

純白のPJに身を包めばまるで自分が別人のようにも思えてくるが何より嬉しかったのは夏服が着れるということは待望の夏休みが近いという事実だった

 

翌月6月には分隊対抗の相撲競技が行われたが、前述の通り江田島戦車スクールでは投げなどの技より押しや寄りなどとにかく前に前にと向かっていって勝つことが強調されたためには直緒のように身体の小さい者はそれだけで不利であったがさすがに入門から半年も経てばどこまでが大丈夫でどこからがダメなのかある程度掴んでいた

 

そして考え抜いた直緒が行き着いた戦法が、身体の大きな者に対しては真っ直ぐに懐へと飛び込んで相手の片足を取ってしまうというものだった

 

この戦い方はこの後の実戦訓練の際に特別講師の蝶野教官他本来であれば絶対に勝てないであろう教員達との模擬戦において自身の搭乗車輌をぶつけるように接近させ、相手が避けた隙をついて撃破し「勝った勝った!」とやったのと似たものがある

 

元来直緒はカッコいいことを好んだが負けん気の強さもまた彼女の身の上で、勝つためならなりふり構わないところもあったのだ

 

7月に入ると67期の1号生徒は一足先に学部を修了しそれぞれの地元へと帰っていく、その他在校生達の方で何か変わった事と言えば水泳の時間が組み込まれたくらいで

特に直緒の場合は地元の阿武隈川で泳ぎを磨いていた為に水を得た魚のようにイキイキとしていたと思われる

 

 

【入門当時金ヅチだった私は、水泳の訓練にバテていささか憔悴気味だった

それに引き換え彼女(杉野)は中々元気だった

元々色白なものだからよく焼けて、赤と黒と皮がむけたところとまだらな顔つきをしていたのを覚えている

 

泳ぎの上手なものにとっては午前が授業で午後は半分が水泳、残りは午睡か自由時間という江田島の生活は快適だったのだろう

 

東北訛りで元気に喋る彼女を羨ましく思った】

 

4号時直緒と同じ2部だった真嶋真白はこの頃の直緒についてこう語っていた

 

その後進級通達式があり直緒を含めた4号生徒の448名は無事3号へと進級、待望の4号が入門してきたのも束の間

ほとんど関わらないうちに夏季休暇へと入った

 

 

 


 

 

3号の頃の直緒と同じ分隊だった香取、岩井という二名の元江田島士官候補生70期はそれぞれ当時の直緒の印象についてこう証言している

 

【──物凄くはにかみ屋だった

顔はどちらかといえば中性的で、何でこんな子が撃破王かと思えるくらい

身体も小さく色白で華奢だったが、すごくすばしっこかった】

 

【──剣道が強く

私のように学部を修了時にやっとお情けで初段同格と判断されるような腕前では到底歯が立たず、何度も口惜しい思いをした】

 

二人の直緒へ対する印象もこれまで証言で出て来たものとさほど違いはないが、まだ個性がそれほど出ないとされている4号3号時代でも直緒の俊敏さは印象深かったようだ

 

印象と言えば直緒は他の士官候補生に比べて視力も低かったが、演習の際は夜だろうが敵が遠く離れた場所にいようが誰よりも早く発見した

その際上級生に何かコツはあるのかと問われた直緒は「敵は目で見るんじゃありません、感じるもんです」と何やらニュータイプのような事を言い放ち頭を抱えさせたと言う

 

3号士官候補生としての行事は自身が4号時に教わった事をそのまま教えてやるだけでそれ以外は以前の繰り返しだが隊務と称した雑用は今後4号がやることとなるためスクールでの生活は劇的に楽になり平穏無事な半年となったようで

 

他の者達からも特にこれと言った話は聞かれなかった

 

 

 

 


 

 

 

話は飛んでこの年の12月、直緒を含めた70期3号生徒は無事に2号へと進級

月始めの1日に72期生625名が入門し、8月の夏季休暇前に学部を修了して江田島を去った68期のお陰で寂しくなった校内に以前のような活気が甦った

 

2号での直緒は分隊の編成変えにより最後尾の12部48分隊に配属されこれは1号へ進級しても変わらず

同分隊の2号は直緒の他に里、佐々木、渋谷、武居、津屋、中野、菱谷、村岡の8名で構成され

この時の事を菱谷は次のように語っている

 

【──総じて言えば48分隊の70期は珍しいくらいおとなしい人間が集まっていただけにチョク(杉野直緒)ツヤカン(津屋カンナ)シブカツ(渋谷勝美)の小柄な三人組の活発さが目立っていた

 

人懐っこい笑顔が特徴だった杉野は才気煥発な津屋と共に機敏で運動神経もよく、この二人はこの頃から戦車乗りの適正を備えていたように思う

 

津屋と渋谷は元々東京府中の出身で、言葉遣いから動作まで洗練されていて地方出身の我々を羨ましがらせた

 

この三人は特に仲が良く、よくからかい合ったりしていた

東北弁で杉野が悪口を言うと津屋や渋谷がやり返すが杉野の方が口が達者で二人束になっても敵わない

 

すると見ていておかしいくらい二人はムキになったが、この三人のおかげで我々の間には笑いが絶えなかった

1号になってから他分隊の3号を盛んに殴っていたのもこの三人だった】

 

特に直緒に絞った話として「杉野は同じ東北出身と言うこともあって私には親近感を抱いていたらしく一度もくってかかられたことは無かった、彼女の活躍はずいぶん後になって知ったが彼女ならさもありなんという気がした」と述べている

 

12月28日から10日間の冬季休暇が終われば70期生にとっては最後の年となるスクールでの生活が始まった、翌1月中の厳冬訓練や短艇競技、武道競技などは例年どおりであったが3学期になって違ったのは一週間の実戦見学が加わったこと

 

そしてこの年5月31日には例年より少し早く70期は1号へ進級、名実共に際上級生となったが肝心な4号となる73期は12月まで入ってこないので1号、2号、3号だけの変則的な状態が続いた

 

姓名申告をさせたい4号がいない1号は物足りないが、それでも自分達より上がいない70期の天下とあって直緒もようやく個性を発揮し始め

2号時と変わらず最後尾48分隊で弥山登山係を拝命、弥山は広島湾内、江田島の西側に位置し

海抜530m程の岩山だが江田島戦車スクールでは毎年秋になると山頂にあるお寺までかけ登る競技があった

 

ただでさえ歩いて登るのも大変だが、各分隊競争という事で駆け足で登るためその辛さは尋常ではなかった

ちなみに器械体操が得意で特級持ちの直緒が登山係なのは少し不思議に思うかもしれないが、体操係は同じく体操特級持ちのツヤカンに持っていかれてしまった

 

負けん気の強いふたりだからきっと係の争奪で一騒動あったと思われるが、シブカツと共に小柄三人組の活発さは伍長の佐々木、伍長補の中野を始め他6人が比較てかおとなしかった事もあって余計に目立った

 

48分隊の3号で72期の星野秋はこの三人についての印象をこう語る

 

【杉野さんは一見して目付きが悪く怖そうに見えるがプライベートとかは優しかった

しかし一度訓練となると自他共に厳しく、元気の良い方で怒ると本当に怖かった

…まぁ見た目に関してはガッチリとしていた津屋さんの方が怖かったけど

 

渋谷さんは見かけはおとなしく、他二人がすぐ手が出たのに対してじっくりという感じだった】

 

同じく72期の大村は直緒について「やや口を尖らせて喋る独特のお達し(お説教)をよく承った」と語っており

「普段は優しいくせに訓練となると相当しごいていただいた」というのが共通の印象のようだ

 

 

 


 

 

最後となった夏季休暇を挟んで9月の13日には第二次身体検査が行われたがこれは現状の体格等から一番見合った戦車の役職を大まかに絞り込むというもので

 

肺活量、脈拍、血圧、視力、聴力、立体視界等の他に機械を使った適性検査では台に乗ってくるくる回されたりして停止したあとどれくらいでちゃんと立てるか等も見られた

 

よろけたりひっくり返ったり見ている分には滑稽だがこれで希望の役職に『適正なし』と判断が下されたら大変だと生徒は真剣そのものでそれが余計におかしく見える理由でもあった

 

第二次身体検査が終われば学部の修了まで残りは2ヶ月、直緒達70期生たちは最後のスパートに入っていった

一週間の学年末試験が終わったあとは9月30日から終末教育、10月5日から11月1日まで実戦演習

 

そしてそれが終わればスクール生活の総仕上げ、宮島弥山登山競技の準備に入る

競技自体は11月5日だが本番に備えた有志訓練は2ヶ月前あたりから開始され48分隊の登山係だった直緒の指導には一段と拍車がかかった

 

毎度宮島は流石にいけないので練習は休日を利用した江田島内の古鷹山にて行う、ふつうなら弁当を持参したり等でピクニックのような緩やかな雰囲気になりそうだが弥山登山競技の練習となれば話は別

麓から頂上まで530mある山道を息つく暇なく駆け登らなくてはならないが分隊対抗を意識してか登山のペースは早い

 

しかし更にタイムを縮める為の練習ではストップウォッチを持った登山係の1号から猛烈なまでにしごかれる

本戦なら速い者が遅いものを引っ張ったりも出来るが訓練は一切の手助けなしで、バテて動けなくなるまで続く

 

直緒の低音だがよく通る叱声が山中に木霊して秋を彩る見事な紅葉も視界に納める暇さえない

「戦車に乗りたくて入ったはずなのに山登りで苦しめられるとは」と愚痴っても始まらず【あとあと弥山登山がそれほど苦もなくやれたのは杉野さんのおかげ】とは48分隊3号達の述懐である 

 

 


 

 

江田島戦車スクールの学部にて尤もキツい行事を終えたあとは卒業を翌日に控えた11月14日には江田島戦車スクール本校の校長からの修了生へむけた、訓示が始まる

 

「生死ヲ離ルルコトヲ終始工夫セヨ」に始まり「絶エズ自己ヲ反省セヨ」に至る11ヶ条を読み上げ翌日の学部修了へむけたものはその全てが終了となり一様にどこか浮き足だった雰囲気に包まれた

 

直緒達江田島士官候補生70期は68期、69期で早められた修了式より更に早く11月15日が修了式となった為

彼女達の待望である73期は一度も見ることなく修了となった

 

翌日15日、江田島戦車スクール内でロングサイン(蛍の光)のメロディーに包まれた70期士官候補生達は感傷も屡々にその後の自分達へ思いを馳せる

 

たかだか2年、されど2年の歳月は彼女達をただの子供から未来の戦車隊を率いるための将官の姿へと変えた

 

修了式終了後、70期全員は在校生や教官達による『帽振れ』に見送られて其々の地元へと帰っていった

 

 

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