ガールズ&パンツァー〜大洗女子学園のデストロイヤー〜 作:ReA-che 名義
江田島から地元の枝野へ戻った直緒は、宮城分所へ通いながら戦車道を続け
訓練のある休日や試合などの何も無い日は普通の小学生らしく地元の枝野小学校へ通う日々を送っていた
この地元へ帰ってきて翌年の彼女が小学4年の1月1日から小学6年の11月9日までの日記があり、当時文学の道にハマり石川啄木に傾倒する文学少女であった直緒の多少稚拙さが残ると言えど
小学生とは思えない早熟過ぎる感性が垣間見える
今回はその日記に付随して書かれた直緒の自作の詩なども交えて彼女の人間性や人生観を見ていこうと思う
直緒が小学4年であった200X年の東北は前年秋の米が大豊作だった為に翌年、つまりこの年の米価が40%以上も下落する豊作貧乏に見舞われ
一方で農業生産に必要な化学肥料は生産制限や価格協定など独占資本の人為的操作によって一向に下がらなかったから農村地帯の困窮はとどまる事を知らなかった
それは仙台平野のハズレにあった角田近辺も例外では無く杉野家の母 すみえが家に遊びに来た小作人や農家の子供たちへ食べるものや洋服、果てに学校に支払う金を持たせてやったりした
その点で言えば杉野家は近所からは別格と見られるくらいには裕福であったと言えるだろう、直緒の大らかな性格は天性の他にこうして恵まれた家庭環境も影響している所が多いと思われるが
それだけに人に好かれ、この当時の直緒は友達が多かったとされている
紹介するのは日記の一部といえ、全体を通してみれば20人以上の友人の名前が確認出来る
直緒はそれらの友人達と時に真剣に向き合いながら接し、彼ら彼女らとの交友の中から多くのものを得ていく
残された日記の書き始めから3日目、つまり小学4年の暮である1月3日に直緒の友情論とも言うべきものが現れている
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──Chilo
"友の喜びには
──げに然るあり。
我々は喜びは共にせずとも悲しみだけでも共にするようになりたきものなり。
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この日記を書いた翌年、つまり小学5年の暮に当たる3月8日及び翌9日の日記には彼女がその考えに基づいた行動をしたことが見て取れる
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友人、星の兄貴が死んだそうだ。
愕然としてしまった。
かねて悪いときいていたが。
才子多病とか、天はこの詩人を天国に奪った。
詩才を天に表せし報いか、天はこの詩人に対してあまり寿命を与えなかった。
もっと活躍させてもよかったろうに。
三月九日 水曜 晴後曇
星卓夫氏の葬儀ある由を聞き、家中より反対されたが振り切って行った。
上田のところに寄ったが兎角の言を吐いてまとまらず、侮蔑と物足りなさを後にひとりで行く。
ようやくにして星の家にたどりつけば、葬儀は既に墓地でおこなわれつつあると。
小学校の近くの墓地に行って参列す。
学校の学年主任や先輩三、四人いた。
間もなく参列者は帰り、私も焼香して帰らんとすると星に会う。
そこで極力明日よりの登校を勧告した。
ここで星に自作の句を読んで聞かされた。
【
郷倉の 菊花の終わりや 秋の暮】
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共にスクール同期で切磋琢磨した同枝野小の小島光はこの二人の関係を良く知る人物でもあり、小島によれば亡くなった星卓夫の妹
だからその仲の良い友達の兄ということもあったが、それ以上に詩人としての星卓夫の死を悼み
かつ落胆の友を少しでも元気づけようとの思いやりから直緒は葬儀に参列した
しかし何故杉野家でそれについて反対されたのか、その理由は定かではないが【悲しみだけでも共にするようになりたき】と願う直緒の前にはどんな反対も無駄なことであった
なお、星正美も詩人としてかなりの俳句を作っているが
その後日本帝國学園へ進学し、体当たり隊として出撃し若くしてその生涯に幕を下ろしている
直緒の友達思いは翌3月10日の日記の記述にもそれが見られる
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起きて見てびっくりした。
三月も中旬になろうとしているのにこの大雪だ。
登校するには早く家を出掛けねばと思い、急いで用意する。
水分をたっぷり含んだ春の雪の重みに堪えかねた唐竹が
途中難渋しながら行くと佐々に追いつく。
彼女は歩いていたが、自分は自転車を押して一緒に行った。
学校に着いたら早や八時二十分になっていた。
普通なら完全に遅刻なのだが、何と幸運な事に朝一番に全校集会があり、校長の話が長引いた事で始業が伸びていた。
こんなことを思うのもおかしいが、友達を置いて自転車で先に来るに忍びなかったという心を神が多としたのか、まだ話の最中だったのである。
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学校まで数kmの道すがら、遅刻を覚悟であえて自転車に乗らず友達と歩いて登校した
こういった直緒の優しさが多くの友をして彼女を離させなかった理由の一つでもあろう、ちなみにこの日は三学期最後のテスト週間でありクラスのトップを争う直緒に遅刻は痛いはずだった
直緒はテストを終えた後に日記の中で自己採点をしているが
【社会・歴史九割八部、算数同、国語九割九分】を始め【お手のものの理科】に関しては【少しうぬぼれて十割】と書き残している
友への思いやりは同時に家族への思いやりでもあり
兄の巌に対して切なるものがあったようで、この年の9月9日の記述にそれが見られる
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隣組の大石の兄 哲男君が死んだそうだ。
かねがね身体の弱かった彼が、家庭の事情故に完全として都会の地に身を投じたのであった。
而うして遂にこうした結果になったのだ。
兄と仲の良かったあの人が、秋漸く来らんとするとき卒然として逝ったのである。
兄にこの不幸を知らすべきか否かは知らない。
俺はよくあの人の家庭も知っているし、人となりもよく知っている。
秋の空は滋い。
而うしてもう一つ星が増えたようだ。
十八歳で去った人の魂。あまりにも清く、脆い命だった。
あゝ死。人間よ、急がねばならぬ。
おゝそこに死の黒点がさまようではないか。
自分は遂に決心した。大石哲男君の死を兄に報せようと。
彼の人の家では最も頼りにしていた人が家を出て二年を数えた秋、ぽっくりみまかった悲しみを、兄に慰めさせてやりたい。
兄はどれほど驚くだろう。
私には人間の持つものの中で一番心に切なるものは悲しみであると思われる。
のがれようとすればする程強くまとい、まぬがれようとせずばどこからもやって来る
人間性とは悲しみを解する心である。
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この時既に直緒は小学6年の二学期で、すぐ後に中学受験と剣部隊への配属が待っていた
兄 巌は既に高校生でその兄の親友だった大石哲男は巌の2個上ではあったものの小さい頃からの馴染みであり、家庭の事情から高校進学を諦めてさして頑健ではない身体を押して上京し
都内に就職したものの、無理がたたって不帰の客となってしまった
その死を悼む気持ちとそれを知った時の兄の悲しみを思いやる気持ちとの狭間にあって直緒の気持ちは揺れた、そして最終的には兄をして大石家の人々を慰めさせようと決意するまでの心の動きが克明に綴られている
【人間性とは悲しみを解する心である】と書いた直緒の解釈はきっと、直緒自身の持つ人間愛に基づくものだったと言えよう
人が概ね自我が芽生え始める少女期、大切なものは家族よりむしろ友達である時期があるという
直緒も例に漏れず、日記の中には随所に交友に関する記述が見られた
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朝早くきゃんきゃんと騒ぐ犬ころの声に誘われて夢より出づ。
今朝は学校に行って友達と会いたいと思われて仕方がない。
去年くらい親友というものを持った年はないのだから。
以上、朝認む。
(十一時四十分頃離任式終了)
学校に行ってみると卒業生その他が多数来ていた。
離任式後、加藤と職員室の廊下にて会った時「杉野、すまなかったナァ」と言われたが何の事かわからない。
もしかするとあれのことかも知れないが・・・。
玉澤が文庫に呼ばれて大西先生を題して校内誌に載せるのを頼まれたそうだ。
それを持って星と一緒に帰り、上田の家に向かう途中南部に会う。
上田の家に行ったがなんだか不機嫌な様で面白くなかった。
間もなく上田の家を辞して近所のバスの待合室に向かう。
そこで約四十分許り遊んで腹がすいたので、ほど近い立ち食いの「運チャン」に行ってうどん一杯食って星より150円借用仕った。
その後星は「桜会」で忙しいとて早く帰り、私は玉澤の帰るまで残っている。
十四時十三分、玉澤出発。
再び上田の家に行く。
彼女は熱心にも鈴木進子という仙台の病院に入院中の戦車道選手へ慰問をかねたファンレターを書いている最中だった。
上田のところを十六時ちょっと前辞して帰家する。
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書かれた日付から小学5年暮の年明けのものであるこれを読むと、冬休みに入って一週間程度しか経っていないのにいかに杉野が友達恋しさを募らせていたかが見て取れる
「去年くらい親友というものを持った年はない」と杉野は書いているが、小学高学年のこの頃と言えば異性への関心よりも同性との交友に強く惹かれる時期でもある
直緒はいくつかの交友グループを持っていたようだが、文中にある玉澤という少女は文学仲間として直緒の文学志向にもっとも強く影響を与えた人物でもある
その玉澤と同じく文学仲間の星を入れた3人で上田というもう一人の友人宅へ向かったがあまり歓迎はされなかったようだ
しかし上田の家を出てから場所を変えつつ時間を潰し、星と玉澤が帰ってからもう一度上田の家へ戻っている
面白くなかったと言いながら他の二人は帰ってしまったのに直緒一人のみまた戻って夕方の4時ちょっと過ぎまでいたというのがらしいと言えばらしいかも知れない
この日は1月1日で年頭の事でもあり、先程の記述も含めて実に8ページも使って日記帳に所感がしたためられている
その後半は彼女の進路に関するものだが、何故か肝心な部分と思われる1枚
つまり裏表合わせて2ページ分が雑に破り取られている
そしてその次のページに破いたページの内容を伺わせるこんな記述がある
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死は失意より憤怒の時に可能かもしれないと考えられる
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同日の記述はこのあと【長寿せるもの幸福なりや?】という命題に及んでいるが、長生きしたいという生き物として当然の願望への疑問と同時に幸福そのものの存否にも触れている
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何となればこのような事を書いている内に、私の胸の中には永久なる幸福などは絶対に無いという確信めいた反抗心が占領しているのを自覚せずにはいられなかったものだから。
この世に、この人間と名のつくものに幸福などという甘ったるい言葉があってたまるものか。
人間は醜い闘争の動物だ、偽善の生き物だ。
その証拠に私の周囲を見るが良い、人を蹴落として、得意然として甘美を享受している輩の多いことよ!!
驕れる者長しからず。
彼等といえども常住不断で何故いられようぞ。
その証拠は歴史に聴け。
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人間は醜い闘争の動物であり、偽善の生物であるからそんな人間に幸福などという甘ったるい言葉があってたまるか
この直緒の憤りは一体何に対して発されたものであるのだろうか
当時の東北の農村地帯を取り巻く状況を思えば安定した生活の出来た杉野家は周辺の家に比べれば格段に裕福であり
むしろどちらかと言えば金持ちに部類されるものと考えるのが一般的であろう
であれば月並みの考えからしてみれば彼女は恵まれた、所謂「幸福」な環境にあったと言える
その直緒自身が幸福を否定しているのは自身の身の不幸よりも世の不条理に対する彼女なりの正義感からであり、同時に物事の本質に立ち帰って考えようとする哲学的思索の芽生えだと読み解くことが出来る
この日記の書かれた前年は豊作貧乏の年で農民の窮状は見るに忍びないものであった、その為この農民たちの惨状を他所に巨利を貪る巨大資本とその資本家と結託したと見られた政治に対する不信でもあった
のちに戦車スクールの同期に語ったように、彼女は日帝学園やその傘下のスクールにて導入された「体当たり隊」のような戦法は好まず
あくまで真っ向から粘り強く戦うことを望んだ、事実直緒は戦車に乗り始めてから一貫してそのように戦ったし
「長寿が果たして幸せなのか?」という命題の帰結は、それから僅かに数年後
自らの手によって出すこととなる
さて、少女期のある一時期
人への関心が異性より同性の友人に対して強くなるというのは前述の通りであるが、直緒の場合もこの頃の記述がそれをより強く伺わせる
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朝八時半過ぎ目を覚ます。
雲が縦横にかかった空模様だが、何といっても新年らしい気分が溢れて居ります・・・。
前夜、色々思索したことで疲れはしたが
それでも餅つきの手伝いをし、餅を八つも食べたものだから
またまた腹の具合が悪くなってしまった。
深刻な精神的苦悩も旺盛な食欲を減退させるには至らなかったらしい。
親友の一人 玉澤と、もう一人の友 上田の家で落ち合う約束で昼過ぎに上田の家に寄ったが
玉澤は来ていたものの上田は郵便を出しに行って不在であった。
それならば私も丹野への手紙を出しに行こうと向かう途中、帰って来る上田と出会った。
そこでこれから出す丹野への手紙を上田に見せた。
何故かと言えば、彼女は丹野と最も仲の良きフレンドだもの。
しかし、彼女は面倒臭いのか途中までしか見ないようだった
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当時はまだ子ども達の最良のコミニケーションの一つが手紙であった、田舎だから交通も不便であるし
電話等よっぽどの事が無い限り子供たちは持っていなかったのだ
上田と最も親しかった丹野に一体何を書いたのかは不明ではあるし、上田がそれを真面目に読もうとしなかったのは何故かも不明だが
彼女達の友情が変な方向のものでなく互いの文学的啓蒙や思考の深さを競い合う中で固い絆で結ばれていたこともまた確かだろう日記の後述は遅い昼食を上田の家の近くの立ち食い店「運チャン」でそばのご馳走になったあと、3人は直緒の言い出した【徳川時代に生まれれば良かった】と言う命題で議論を交わす
以外にも当時の直緒は江戸時代の服装、言葉遣い、町並み等の文化を好んでおり
それについて熱心に語ったのだが「そんな事は絶対にあり得ないことだから考えるだけ損なのさ」と玉澤に言われた為【何となく淋しさを感じた】と書いている
また上田も玉澤の意見に同調した為に直緒は孤独を味わう事となるが、文学ではリードする立場にあった二人よりも直緒の方が遥かにロマンチストではあったようだ
このあと直緒は玉澤と【死んだらどうなるか】についてを議論している
この問題についての直緒・玉澤の一問一答は日記にも詳細に書かれており、問答はまず直緒から始まる
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「何いってるんだい、人に魂などという物質があるもんか」
「否、俺にはあると思えて仕方ないがね」
「それでは、その理由を聞こう」
「その前に俺の方から聞くことがある、世界の物質は永久不滅だよね、そうだろう?
思索することなき人間が存在すると思うのかい──君という人は
してみれば魂は人間の要素だろう、無論身体のない人間はあり得ないが
要素と名付けられるものである限り、それは有象無象を問わず物質という感じがするがどうだろう
いや、それよりもある抽象的な物と言うべきだね」
「そうあまり得意になるなよ、おい」
「死んだら身体は窒素化合物その他になるが、魂はどうなるのだろうなあ」
「──そう口説かれると、何だか魂というものがあるような気がするよ」
「だから、その魂が肉体が亡くなった後にはどうなるんだろうな」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
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直緒は人間は死んでも魂は残るという主張、玉澤は魂も無くなるという主張で結局玉澤は直緒の意見に屈する結果となっている
この問答で直緒の疑問が解けた訳では無いが、この分野では先輩にあたる玉澤を言い負かした事で満足した様子が伺える
1月2日の日記はこの問答も含めて5ページにわたり書き記されているが、最後の一問一答は【三日朝、日当たりの良い我が家の縁側にて記す】とあり
どうしても書き残しておきたい気分であったようだ
それにしても内容にまだ稚拙な所があるとは言えど、僅か11歳の少女が魂の存在について語るとは知的に恐ろしく早熟であったと言わざるを得ない
小学5年の暮にあたるこの年は直緒にとって人生の大きな転機と呼ぶべき年でもあった、それは今後自分はどの道に進むべきかという人生の選択を迫られた年であったからだ
年明け早々の1日、2日を友達と過ごした直緒は3日は日がな家にいて朝昼晩の3回に渡ってそれぞれ思ったことを書き留めている
少し面白いのは日記の欄外に1日と2日は【不快】と書いているが、3日は【
特にこの日は気分が良かったのだろうということが見て取れる
まずは3日の日の朝の記述から見ていく
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まだまだ眠いのに加え、昨日の餅つきの結果節々がめりめりする。
しかし間もなく
昨夜のカレーライスの残部を含めて満腹す。
満足した腹を運んでここ、すなわち縁側の東端に来たわけだ。
新春とはいえまだまだ冬だ。
しかし今日は太陽が一杯の光を紫外線とともに自分に送ってくれている。
頭上の屋根には雀が三羽四羽囀っている。
雀はいつ見ても好きな鳥だ。
そうして、何となくこの鳥は自分に
この間なんかも、俺の部屋に五羽ばかりの雀が入って遊んでいたんだもの。
早く春が来ればよいなあ。
あの穏やかな春。
春は好きだが然し、晩春より初春の方がよい。
温い日光を浴びるとお湯にでも入ったような気がする。
白魔の暴れる極冬より太陽の慈光の笑う陽春の方が幾らよいかしれない。
そう考えると新暦にももう少し我らの季節感に適するように改正せねばなるまい。
何故ってこんな寒い──今日はあたたかきこと春の如きだが
──時、新春だなんて人を莫迦にしていること甚しい。
三日朝九時記す。
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文中に直緒は雀が好きと書いており、その雀が彼女の部屋に入って来て遊んでいたというのだから驚きだ
本来警戒心旺盛な雀が何の恐れも抱かない程に直緒に慣れていたのは、よほど直緒の身辺に穏やかな雰囲気が漂っていたからだろう
一度戦車に乗り込めば辺りを萎縮させるほどの強い殺気を放つ戦車道における杉野直緒との余りにも大きな落差に戸惑いすら覚えるほどである
とは言え、士官候補生としての2年間を終え
更に地元に戻ってきてからも訓練や試合の度に仙台支部のスクールへ通っていた直緒であったものの
まだこの時点では本格的に戦車乗りになろうとは思っておらず
新しく出来た夢である文学の道を志していたのでは無いかと読み取れる記述が1月3日の昼と夜に書かれていた
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其の他、俗より抜んでいるものは皆そうである。
だからといって私は決して夢天才なりとはいわない、詩人などとも衒わない。
只、孤人であるというのみである。
只一人、孤独の世界に入り、寂滅の湯に浸り、無明の光をおがめばそれでよいとする。
幼い私は孤独というものを極端に排した。
孤独にでもなりそうならば
そうした少し前と今とを比較したならば天外の奇異を感ぜずにはいられない。
蓋しこれは自分の一生を支配することになるであろう
(午後一時誌す)
近頃私は啄木の略歴を見ることが好きになった。
彼啄木は最初より唯物論者で一貫した。
しかしその中に含まれる思想は、大体次のような経路を辿っているようである。
即ち、二十歳頃までは熱烈極端主義で──否やいや、誤ったら大変だから充分研究して他日必ずこれを草しよう。
そうして堂々とまではゆかなくとも、力一杯論筆を揮うて見よう日の来るのを期待して止まぬ。
(夜誌す)
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この辺りの記述では石川啄木に対する心酔ぶりやそれらを通して高めた文学に対する傾倒が強く見られるが、それは直緒が交流していた文学仲間の影響も多分に含まれている
その仲間は彼女の日記によると玉澤をはじめ、上田・南部・星・丹野・千葉という少女たちで
上田の家が彼女達のたまり場になっていたらしく、そこで文学や人生についての議論を交わしていたらしい
小学生の為学校公認では無いものの、いわば文学サークルを形成していたわけであるが
直緒は自身の日記の中で【フレンド】という言葉を使っていた事を見るに彼女らの間には異性との恋愛感情に似たものが流れていたのでは無いかと推測できる
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ここ四日 君と会はざり さびしさに
忘名草も萎えにけり
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上記の短歌は1月3日以前に直緒の日記帳に書かれたものであるが、この【君】が果たして異性の恋人か何かであるのかはこの時の直緒自身の性格等を考えれば怪しいところである
続く1月4日の記述はそれまでの友人達へ向けられた物とは少しテイストの異なるものであり、日常や友情論、人生観では無く直緒本人の感性が前面に押し出ているというところは注目しておきたい
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──外は寒い。
寒さの為に空は凍ったようだ。
それで一つの大きな鏡のような気がする。
玲瓏たる、坦懐たる空の心を感じながら湯を浴びている。
年をとった松の梢にかかっている三ヶ月はさもうらめしそうだ。
何か地上に大事件でもあって落ちてくるような不安定なかかり方をしている。
湯を上がろうとした…私の瞳を左上から右下に切り下げたものがある。
金星の流星だ。
タタッターと一丈ばかり下界に向かって突進した。
気持ちがすうっとした。
すると亦なんだか悲しいような気持ちが心を占領したらしい。
悲しさに身が小さくなったようだ。
あゝその後天空には何もない。
頭を廻らせれば東の方に星は仲良く
人生はこれ欄干たる星辰の明滅の間
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特に注目したいのは最後の人生はこれ欄干たる星辰の明滅の間*1と言う一文
要するに流星を見たことで覚えたどこか物悲しい気持ちを書き綴っているのだが、どこか大人び過ぎたその感性には改めて舌を巻かされる
この後1月9日(日曜)にも友達のことが色々と書かれており、またしても一枚破られて2ページ分飛んでいる
おそらくは書いた後に読み返して見てその記述に自己嫌悪に陥った結果と思われるが、翌1月10日の最後の1ページにはそれらの妄念を振り払うかのように石川啄木と自分について書いている
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啄木の歌乃至は詩を、私は去年の四月頃読んだって何もわからなかった。
もっともそれは難しい場合だが。
しかしこの頃はその修辞的方面はともかく、精神が分かってきた。
この現在のような自分のわかったようなわからないような鬱憤たっぷりな感情で、彼は夢中で泣きながら帰ったことであろう
いずれにしても啄木に対する愛着は偶像的ではなく自己の物という感じが深くなった。
(夜八時識す)
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啄木と自分を重ね合わせ、同一としようとする程深くのめり込んでいた彼女の思いは一体いつ頃から生まれたものなのか
当時の直緒の様子を知る玉澤は後年のインタビューにてこのことに触れて次のように語っている
啄木の歌集とか詩集とか或いは啄木論とかをどの程度目を通していたかということはわかりません
啄木というのは一般的な受け取り方としては、中野重治氏の『浪漫的な感傷詩人』という事だと思いますが
あの子の啄木に対する傾倒ぶりから見ると、それに彼女の書いた物から見るとそういう段階ではなくて
もっと深く啄木を捉えていたような感じがします】
詩人としての直緒は日記の中で多くの作品を作り上げているが啄木に関してはこの前年、つまり小学5年の9月14日に書かれた短歌の中には啄木に向けて書かれたものである事が読み取れるものが存在する
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三度書いては悲しみにけり
『吸』という字を書きければ啄木の
『啄』と言う字に似てしまうかも
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この頃の直緒の中に占める啄木の存在の大きさが伺える。
そして啄木に傾倒しただけあって直緒の文才は並々ならぬものがあり5年生の暮にあたる2月3日の日記には【作文を渡された、甲と甲上】と書かれている
詩と並行して短歌も作っていた直緒は地方新聞の歌壇にもせっせと投稿し、たまに入賞した事もあったという
先程の【『吸』という字を…】と読んだ9月14日は50首の短歌と2篇の詩を書き綴っているが
この日の一番最後の短歌である
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やはらかに軒の間をむらさきの
朝餉かしげる煙出づるも
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のところに【新報の短歌の選に入る】と脚注がされており、更にその以前の1月10日の日記には欄外に【新報選外佳作入選】と書かれている
これらの短歌は友人たちと見せ合って批評を交わしていたらしく、9月14日の日記にある数多い短歌の間に【附言】としてその時の状況が書かれており
【三十四の上句、三十六の下の句良しと星に批評され
三十七の頭の句は漠然として駄目と上田に批評せらる。
私もそう思う。】
と書いている、こうして批評し合って推敲したものの中から選んで応募したのだろう。
短歌だけでなく日記の中にいくつか出てくる詩についても応募していたらしく、同じく9月14日に作った「姫押」と第された詩は後に大洗戦車道チームの隊長車
あんこうチームで装填手を務めることとなる秋山が見て引き込まれたと言わしめた作品であり
【地方新報『秋草を想う』により女郎花をうたいしものなり】とある
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姫押
秋の河原に只独り
楚々たる身をば表わせり
あまりの愴みになよしおる
髪の乱れし姿なり
口に悲しく
声は漏れて秋月の
照り映れる流水に
伝わる如く消えにけり
身をば躍らせ青淵に
夢もくだけし水咆
あわれ美しきあの心も
楽しさ天にさすらうらん
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実際に投稿された姫押の詩にはその後4行の続きが書き足され、【淡くかすかに姫押 芽を出せりと云はれけり】と締めくくられているが日記に書かれている原文はここで止まっている
直緒はこの後『秋雨をうたう』2篇、『リヒテンスタインの古城』『ジョン・ペティの戦勝を祈る騎士を見て』等の詩作もあって1日中短歌や詩を日記に向かって書いていたようだ
そして気づいた頃には既に日は沈み夕暮れが訪れていた、詩作中の情熱が覚めない直緒はその情景を描写することでこの日の活動のピリオドを打った
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西の山に日は暮れた。
山をとり囲んでいた黒ずんだ青い雲の端が、黄金色の、橙色に縁どられた。
どっしりと次郎太郎山の山は背を向けて坐っている。
そして段々と濃く黒くうずめられていく。
稲田を吹く秋風は寒いのに、次郎太郎の山は黙然として暮れて行くのだ。
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小学4年〜6年の終わりに掛けて、直緒が文学の道に憧れを抱いていたことは以上を持って確かと言えるが
経済的な理由によりそれは難しい事であった
後に始まる中学受験では私立組と市立組に分かれる事となるが、直緒は後者である
しかし公立とは言えど
受験の一年前、つまり小学5年に進級してすぐの4月14日の日記にはこれから進学するための勉強準備に入る喜びや決意が書かれている
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昨日今日と私の本格的な活動は展開されて行く。
昨日は英訳を一夜で五十頁も読んだし──勿論十一時まで起きて頑張ったんだが──今日は力を算数・数学にも及ぼさんが為に仕方なしに英語は相関語句の百八十頁で留めて置く。
私は勉強できる身は幸福だと思う。
髀肉の嘆切なる疾病其他の境遇の人とは比べ物にならないんだもの───。
吾等の人生の航路はすでに港を出た。
前途に水平線に隠れて見えない目的地がひかえている事を忘れてはならない。
又、心の羅針盤に頼らなければ、この吾等の目的は得られないんだと知れ。
然らばその羅針盤とは何ぞや。
受験校と我等の進路と受験の方針は一直線になくてはならない。
これが一直線に無い時は後なる悔の足が見える。
参考書の日に日に一枚一枚とマスターされていく愉快さ、それは即ち登山における雄峯の征服のそれに似ている。
幾何も代数も英語も国漢も皆征服して、華々しく受験戦線に乗り出そう。
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快調な出だしを切った直緒の受験準備であるものの、実際に日記中に書いている【受験校と我等の進路と受験の方針とは一直線になくてはならない】という理想は実現が難しいという現実が待っていた
というのもこの年度から兄の巌が高校2年に進級し、その後の進路に対しての受験対策も並行して始まった
そしてこの年、直緒の下にも二人目の妹が出来た事もあり
いかに教育熱心な杉野家と言えど大学までを考えると兄の巌までが精々で、次女の直緒まで大学を見越して進学するというのは重い負担であった
そんなある日のこと、その事で家族会議を行ったところ直緒はあっさりと了承したという
その時の事を振り返り、当事者の一人である巌はこう語る
【優しい子だった、同じ立場だったら素直に受け入れられるか俺でもわからないのに
「兄さんは大学に進んだほうが良い、俺は戦車乗りになるから」ってらいつもみたいに笑いながら何とでもないように言う直緒の顔は今でも忘れられない】
つまりこの頃になって、初めて直緒の将来に戦車道が入り込んできた瞬間でもあった
2年間の士官候補生として先んじたものがあった為、江田島の上である日帝学園で戦車道をするのならば推薦が貰えるし
卒業後も自衛隊で三等陸尉からスタートと破格の待遇であったから
当日の日記は別のことが書かれているものの、その翌日に一人決意を固めた直緒は日記の中でこう書いている
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私も一つ、戦車乗りにならんと志を固くした
──────────
小学時代の直緒は仲の良い友やその兄貴分達との別れの多い時期であった、ここにとあるエピソードを紹介しておくが
彼女が小学生5年の頃の夏休み中にあたる8月31日、直緒を含めた子ども達の格好の遊び場であった阿武隈川が台風シーズンの到来により氾濫した
この頃角田と阿武隈川を挟んで向かい側の枝野・藤尾・小斉へ向かう橋が木製の古いものであり
時折倒壊して渡れなくなる事があった
この8月31日の直緒の日記には
──────────
下級生の自転車運搬に骨を折る。
角田橋上より飛び込み断行。
減水の模様無し
──────────
と書かれている
増水に怯えて橋を渡るのを躊躇う自転車通学の下級生達の渡橋を手伝ってから直緒本人は何故か橋の上から濁流に飛び込んで泳いで渡ったようだ
更に翌日は阿武隈川の氾濫はより一層酷くなり、付近に住む生徒達は朝に橋の所まで来たはいいものの
皆堤防に立ちすくんで荒れ狂う濁流を見守るばかりだった
停電により電話も使えず学校との連絡は取りようが無かったが、川が氾濫することは分かっていたから学校も自然休校になるのは予想が出来るのだがここで大人しくしていられないのが直緒であった
──────────
──阿武隈川大いに氾濫す。
泳いで学校に行く。
帰りは南部末乃ちゃんと決死的渡泳断行、コースを変じて辛くも帰る
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この9月1日の日記中に決死的と書かれているのは決して比喩ではなく、翌日に川の氾濫の視察に来た角田警察署の署長と巡査の2名が流されて溺死しており
前日にあたるこの日は氾濫により橋が流される濁流の中、直緒は意気揚々と服を脱ぎ半分裸のような姿で二人の友人 末乃と優香と共に泳いで阿武隈川を横断
その足で一帯の小・中学校へ近辺の生徒たちは川の氾濫により登校が出来ない事を伝えて回った
この時下着姿で川を渡った直緒は泥水塗れだったと言われており、川の氾濫がどれほどのものだったかと言えば後に地元の友人の中で最も心を許していた相手でもあった玉澤幸がこう語っている
【私が対岸の高いところから見た限りでは大変な氾濫で、壊れた家の屋根とか柱とか
あるいは色んな材木とか、それらがどんどん流れてくるような状態でした。
そんな中を泳いだということは驚異的な事で、泳ぎに対する自信と苦難に挑戦してそれを克服していくという闘魂というか負けじ魂というか、そういうものがこの行為に表れているような気がします】
ちなみに帰りはもっと氾濫していた為ついてきた友人の一人、優香の方が怖くなってしまい船を出してもらって直緒と末乃は再び泳いで帰った
実際のところはわざわざ学校まで行く必要も無かったのと「こんな時に泳いで来るような無茶をするなと」叱られて帰ったとされている
そして台風のシーズンは毎年訪れるためその翌年、つまり直緒の小学6年の頃はどうか言えばこの年の日記に台風の記載はない
いや厳密には該当する日時と思われる日記のページは破り捨てられているのだ
その日直緒はいつものように友達と3人で氾濫した阿武隈川へ飛び込んだがついてきた二人の友人、末乃と優香が流され
それを助けるべく引き換えした直緒もまた流されている
幸運な事に直緒は近くの川辺に打ち上げられて助かったが他の二人は数km下流で遺体として見つかっている
誰が強制したわけでもなくついてきた二人ではあったが自身が関係して友人2名が亡くなった事に対して責任を感じていたのだろう
それで誰かに批難される事が無かったのが直緒にとってはまた辛く、おそらく日記にも何か書いていたことは間違いないのだが後々自己嫌悪に陥って破り取った物だと見られる
話を戻してこの先の人生を戦車道に捧げる決意をしたのも束の間の小学6年の頭から日記は飛び飛びになっている
直緒は戦車道における自身の事は日記帳とはまた別のノートに書き記しているのだが、実はこの時期に度重なる無茶が祟って戦車スクールをクビになっていた
直緒単独で打ち立てた撃破数はこの時すでに所属していたスクール最多となっていた為、スクール側も苦肉の策ではあったものの
出撃すれば必ずどこかを壊し、砲弾が切れたら戦車で体当たり等を平気で行っていた直緒の戦法をトータルで考えたらまだクビにしたほうが被害額が少ないと判断された為だった
戦車スクールをクビになってからも直緒はその輝かしい戦績から地元の有志団体にその腕を見込まれ所謂個人チーム(ストリートとも言われる)に数ヶ月所属することとなるが、当時の戦車スクール在籍中に部下であった菅田翔希(のちタンカスロンの試合中の事故により死亡)達との交流は続いており
実際には割とすぐにスクールへ呼び戻されているというのが実際のところだったようだ
学業の面に置いても直緒はこの頃に問題を起こしている、というのも第一志望であった学校への推薦受験枠が教員側の判断により不当に却下されていたからである
常に学年で1位2位を争っていた直緒の学力からすれば推薦の願書が出せれば合格率はかなり高いと考えられるが「君なら他があるから別の子たちを優先して推薦することにした」というのが受理されなかった理由であった
勿論それで納得できるわけもなく直緒は担任の先生へ推薦拒否の撤回を迫る
「学校側は生徒の希望があれば一応の推薦状を書くのが当たり前じゃないのか、それで応募したあと向こうの(推薦先の学校)の方で不合格と決めたのなら仕方ないが
そのチャンスも与えないとは何事かッ」
というのが直緒の主張であった、学校側としても推薦枠やその他諸々の事情があった事は間違いないとは思うが
それでも直緒を納得させられる説明がなされなかったらしく、激昂した直緒と先生方の間でどのようなやり取りがあったのか定かではないものの、その後しばらく直緒は学校へ出てこなくなった
彼女の家にお見舞いに行き、お父さんがいきさつを話してくれた
お父さんによれば杉野の休校は懲罰では無く
───後のインタビューにて同校出身で同スクールに所属していた経緯を持つ小島光はこう語っている
先生との間に何かあった事は確かでそれが公にされず謹慎程度で済んだのは杉野の動機が純粋で同情すべき点があり、決して下心を含んだもので無かった事から学校側が情状酌量の余地があると判断したからだろう
どちらにしても納得できなければ如何なる権威に対しても屈しないという直緒の信念はその後も変わることが無く、ある時は自身の尊敬していた先生が別の先生に陰口を言われていることを知りそのまま飛びかかって袋叩きにしたこともあったという
平成二桁も頭であったこの頃はまだ昭和の感性が色濃く残る時代であり、今でこそ校内暴力で生徒が教師を殴るというのも珍しい物では無いが当時は学校側に権威があり先生様々、先生様の時代である
そのため勿論本来なら大問題となるのだが理由が理由な為数日の自宅謹慎で済んだという
一応問題は起こしているのだからと父が呼ばれて学校から注意を受けたのだが直緒は頑なに「俺は悪くねぇ」と主張し部屋に籠城して抵抗した
しかしそれは言い換えてみれば純粋な彼女が自身の信念や正義感に基づきとった行動が幼いゆえに直球であり大人たちの常識的な倫理観からは少々外れたものであったと言う話である
その最も端的な例が彼女が行くはずだった日帝学園がこの年の10月から提携先であった江田島戦車スクールやその他の戦車スクールを巻き込んで取り入れた『体当たり隊』に対する彼女の姿勢であり
元々直緒がクビになった戦車スクールにまた呼び戻されたのも彼女が一番槍となって出撃するためでもあった
しかし実際には悪天候により足止めをされスクールの基地に戻れなかった直緒本人が出撃することは無く、代わりに同スクールの同期で友人でもあった関行江が選ばれ
関を隊長に5輌の戦車が出撃し他4人の車長が重傷
隊長の関は意識不明の重体であったものの辛うじて一命を取り留めていたが40時間後に搬送先の病院で亡くなっている
当初の予定よりだいぶ遅れ、直緒がスクールの基地に戻ったのが関の出撃の翌日であり
当初は「間に合っていたのなら俺が関のところを取ってやったんだがなぁ」と言っていた一方で後に剣部隊で司令を務める源田からのスカウトやスクール・日帝学園上層部に対する不信感から体当たり隊と言う攻撃に疑問を持つようになると一転して否定派となった
「関は猛々しくも体当たりをかけて散っていった、しかし俺は体当たり隊へは行かない
生き延びて何度も出撃し攻撃をかける、俺には敵を撃滅する自信がある」
後にスクール同期で後に日帝学園の戦車道チームで重戦車隊に所属した武藤敏子は直緒が体当たり隊に対する不信感を募らせてこう語っていたという
そして彼女が剣部隊所属までに書いていた戦車道での活動を綴った別冊のノートにはこの頃の記述だと思われる同年10月末にこう書かれている
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戦争でもない今時分、死人が出ては戦車道は終わりだ。
我々戦車乗りとはどこまでも戦い抜き、生きて1輌でも多く敵を撃破するのが使命ではないのか。
それをたった一度きりの攻撃で命をかけさせられてたまるものか。
──俺は否だッ
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また同校同スクールに所属していた小島はこう語っている
だから体当たり隊に疑問を抱いた彼女が、もし体当たり隊の隊長になれと言われたのなら
おそらくは物凄く反発しただろう】
しかし実際には出撃の度に杉野の上げる莫大な戦果から彼女自身が体当たり隊に呼ばれる事は無かったものの、この頃の直緒は体当たり隊が無事に敵の戦車へ突撃出来るのかと監視を兼ねた護衛に回されていた
とは言え直緒の部下まではその限りでは無く、ある日上層部より部下から体当たり隊として出撃する搭乗員を差し出せと命令され「部下を出すぐらいなら自分が行く」と猛烈に反発したが
戦果を挙げれる搭乗員が少なくなった日帝学園もスクール側も目を剥くような戦果を挙げて帰ってくるような直緒を惜しみなあなあのまま話は平行線となった
そして剣部隊への移籍が決まった後、直緒自身に体当たり隊の一員として出撃するよう命令が下る
明らかにタイミングを計った嫌がらせであったが「移動も決まったのだし、言うことを聞く必要もない」と無視を決め込んで部下を引き連れて帰ったと言う
直緒が1度目に見たパイロットの夢は自身の身体的な障害から叶うことは無く、2度目に見た詩人の夢も家庭の経済的な理由から断念せざるを得なかった
そのため戦車道は彼女にしてみればこの時点で唯一可能な3つ目の夢であったと言えるがスクールをクビになった事で日帝学園への推薦は無くなり早くも暗雲立ち込める事態となっていた
そのため彼女はこの段階では私立の中学に通いながら戦車道を続けていく事を選んでおり、この年の6月11日の日記には受験に関する記述が見られている
と言っても内容は初めて出す願書の様式に悪戦苦闘し、勘違いのまま書いたことに気づいて一緒に受験をする級友の元へ聞きに行こうと家を訪れたが空振りに終わり
角田まで行こうと覚悟して角田橋を渡ったところで合流出来て確認が取れ安心できたと言う他愛もない日常が綴られており
そのあと1時間ほど阿武隈川でその友人と共に船を漕いで遊んだと呑気なことを書いている
少し飛んで7月2日には「明治維新の志士を想う」という所感を3ページほど書いているがその中には【現今、人物なきを疑うものあり…断頭台の鮮血を以て濁れる世相を清めたる志士の心根こそ現在最も必要とすべきである】として吉田松陰・頼三樹三郎・梅田雲濱の3人の名を挙げて【死を辺野にいたし、屍を馬革を以てつつまんとし、鋒鎬の間を往来しても毫も怯まなる所なかった彼等こそ、自分の最も信尊する所である】と書いている
自己の身を滅ぼして国事に奔走した維新の志士達を讃えるところを見るに、文学に深くのめり込んで友への思いを独白したりと言った所謂軟派ぶりとはかけ離れた直緒自身の硬派な一面が垣間見える
純粋であった直緒は人物の好き嫌いが実にはっきりとしていて、人の本質を鋭くつく事に長けていた
同年9月13日の日記には徳富蘇峯の『西郷隆盛と富士山』を呼んだ感想が書かれており、文中には大隈重信や伊藤博文らが
その翌14日には再び人物論としてフランスの英雄、ナポレオンを取り上げ
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──ナポレオンが私の興味を沸き立たせない理由は、彼は物のあわれを知らない唯物論者であるからだ
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と書いており、最終学年と言えどまだ小学生であった直緒は同年代の子供たちと比べればやはり早熟な感性を持っていたことが伺える
普通の子供がナポレオンの伝記を読んで、その波乱に満ちた生涯に胸を躍らせこそすれど「物のあわれを知らない」という点に一体どれだけの人数が気づけるのだろうか
さて、
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春は一年中で一番楽しい時であると思い
夏は一番愉快な時であると考え
秋は一番思惟によい時とし
冬は一番内省するに適した時である等と、春夏秋冬いずれも皆第一位を持って数えるのは人間が生を愉しむからである。
たとえどれ程悲しみに悩んでも苦しみに喘いでいても、所詮は生をよろこばないでは居れない。
悲しい死があるのを誰よりもとくと知っていても、やっぱり生をよろこぶのである。
生をたのしむ対象物は自然である。
人生の哲学を究めようと思索する秋も、紅葉し落葉し時雨降り月明り清なる自然あってこそである。
飛びまわる鳥も自然に帰らねばならない。
人間の帰るところは自然の外にはない。
いかに文明が高度化されようとも、又いやに世の中が都市化されようとも、自然のない所には人間の存在は認められないであろう。
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この一文は直緒の尊敬した詩人の一人である吉田絃二郎の『我が詩、我が旅』に感化されて書いたものらしく
冒頭には【神よ、人間は苦し。されど神よ、人間はよろこびを持っている。生くるすべを知っている】という絃二郎の言葉が書き写されている
これらを見るにやはり彼女の本質は戦車道に対して熱烈な志望があったかと聞かれれば疑問を抱かずにはいられない
この前年である彼女が5年生の9月10日の日記、その欄外には実に8首に及ぶ短歌が書かれており
その中の一つには
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泣け泣けと、思う心を秋雨の
胸に伝いて慰めにけり
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と言う短歌が見られる
これは周囲の流れに飲み込まれ激動に移り変わる様々な状況下で自身にはどうしょうもない無力さ等を吐露したものでは無いかと思われる反面、この短歌を境にまるで憑かれたように短歌や詩を日記に書き綴っている
直緒の実家がある枝野や角田地方は典型的な農村地帯であった事もあり自然に恵まれた場所である
南に阿武隈山脈、西には蔵王連峯、そして近くを流れる阿武隈川と四季折々の風物や季節が自然を愛する直緒の心を捉えて癒した
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彼方より 蔵王の峯にかかる雲
秋風吹きて我が身に近し
とし負いし 老船頭をば助けつつ
船を漕しけり秋の夕暮れ
平和なる 陽の日かがやく
魚もとめて
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わずか数日のうちに書かれた夥しい短歌の中の3つではあるが、最後の句は朝日を浴びながら魚取りに興じる子供達の情景をうたった平和なものである
しかしそれも又束の間、残念ながら14日のこの句を最後に日記はこの年いっぱいのブランクとなっている
5年生の冬休み期間中であった翌年元旦から記述が再開され【ほんのりとしたあたりに春雨は無言で降りそそいでいる】と書いた3月22日をもって再び中断
【生命には普遍性がある、美しい小さい花の生命も之を有する】と言う書き出しの5月7日にまた書き始めている
そしてまた再び中断する7月25日までの間はかなり飛び飛びになって書かれていた
この少し前の6月11日は前述の通り受験の願書について書かれているが【入試突破あるのみだ、目捷だ】と決意を固めた旨が記述されておりおそらくこの辺りから試験に向けてのラストスパートをかけた物だと考えられる
試験自体は済んだものの、色々な事が立て続けに起こったからか精神的にかなり消耗したらしい直緒の日記は8月25日から記述自体は再開しているものの
これは後々になってからまとめて書いたようで何日かは同じ字体の走り書きとなっている
この間に阿武隈川での出来事があって該当すると思われるページは破り取られ、9月9日からまた再開している
この頃の直緒は精神的にかなり不安定であったようでこの翌日の10日の日記には友人の太田より借りたオスカー・ワイルドの『獄中記』を読んだ感想が綴られており【まだ半分しか読まないが、ワイルドの人間的苦悩がありありと刻まれていて、興味というよりはむしろ切実性をもって我が胸に迫りくる】と書かれている
翌11日は休日を利用して仙台へ行き、書店にて『生ける屍』『侏儒の言葉』『別れも亦愉し』『千曲川のスケッチ』等計5冊の文芸書を購入しており
その理由は【我が心の文学的潤いの欠如に由る】としている
そして【ひたひたと押し寄せてくる秋の、深更の窓に一人で読書するならば、それは私の最も幸福な時である。他に自分の欲する幸福はあり得ない】と記述していた
ナポレオンについて語った14日の日には『こころ』と題した短い詩を直緒は日記帳に書き残している
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こころ
自分の心は多恨である
自分の心は悲を認む
自分の心は非を怒す
自分の心はもどり難い
自分の心は文を好む
自分の心は傲岸だ
自分の心は飾を要す
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この詩の一文に【自分の心は文を好む】とあるように、おそらくはコレが本来の彼女の望みであったのだろう
入試を終えた後に再開となった直緒の日記ではあるが、それはそのまま当時の彼女の揺れ動く気持ちを表しており
合格発表を残すのみとなってからも喜びの記述は全く見られない
代わりに【キリストを研究すればする程彼の偉大な精神言行を認めざるを得なくなる。…機会があればバイブルを呼んでみようと思う】や【文芸家は思想の行き詰まり程哀れなものはないと聞く。彼の才人芥川龍之介もそうらしい。故に彼等は常に研究して思想を豊富にしてそれを統一するよう努力する】等相変わらずの文学への執心ぶりが伺える
同月26日にはオスカー・ワイルドの『獄中記』に触れ【私が特に感動した句は「我に自由と花と書物と月があれば、我は幸福なり」である】と書いている
とは言え合否に関しては常に気にかけてはいたのか合格発表の約一週間前の日付にあたる10月25日の日記には欄外にこんな短歌が書かれている
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落ち着かぬ 心のままにひとり居て
なやみ聞く 秋雨の音
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本来はどちらかと言えばひょうきん者で明るくカラッとした性格の直緒がその不安な気持ちを短歌に託して吐露している
さらに【なんとなく頭が痛む】と書かれているのがなんとも痛ましい
この後10月30日の日記には短い詩を3ページと人生論らしき物を書き、翌31日は日付と【月曜日、晴】と記述したのみで空白のままとなっており11月8日まで書いていない
この間の11月3日に合否判定があったのだが直緒は直接現地には赴いておらず学校で勉強をしており、他の受験生と学校の先生が現地にて確認
事前に示し合わせた合格を意味する「チューガクゴウカク イインチョウ」の報せが直緒の元へ届いたのはその日の午後休憩に入ってからだった
直緒のそれまでの人生の中でも嬉しく晴れがましい出来事であったと思われるが、空白の日記はその事について何も語らず
最後の記述となった11月9日に【源田司令より合格祝いの腕時計贈らる】と書かれており僅かにそれらしい様子が伺えるのみとなった
受験を乗り越えた直緒を待っていたのはやはり慌ただしい日々であった
と言うの彼女の受けた中学は地元宮城の角田中学ではあったが、源田司令よりスカウトされた新しい戦車隊への移動があり
ここから彼女が戦車道を引退することになる3年の夏までどうしても替えの利かないテスト期間等以外は部隊の本拠地にて生活をすることとなっていたからである
その直緒のスカウトされた新設の戦車隊こそ日帝学園戦車道チームの派生ながら最後にして最強と呼ばれたタンカスロン専門チームであり
後に剣部隊の名称で広く知れ渡る事となる『第343戦車隊』なのであった
4話目、なる早で書きます…
あとこのお話に出てきた日記は現在、杉野の黒歴史となり実家にも置いておけない為に自室のクローゼットの奥にしまってあります
本編で日記を見て普段とのギャップに背後に宇宙を背負ったあんこうチームとか見たいので出そうかどうかは迷ってます