B&T~記憶喪失の転生者、伝説級の暗殺術で異世界ディストピアをぶっ壊す~ 作:五島七夫
ティアに連れられて通された部屋は、二つのベッドが並んでいる部屋だった。ティアに施されるままに自分は壁際の椅子に腰かけると、ティアとアガタはベッドの上に腰かける――恐らく、ここは二人が利用している部屋で、座ったのが各々の寝床ということなのだろう。
「……それじゃあ、クラウを起こそうか」
ティアはベッドに腰かけて目を閉じた。
「起こして大丈夫なのか?」
「あぁ、百聞は一見に如かず……少しなら大丈夫だろうからね」
ティアは言葉を切って、片目だけ開けて対面に座るアガタの方をちらりと見る。
「……何かあったら、アガタ、頼むよ」
「えぇ、お任せを……」
「それじゃあ……クラウ、起きて……」
真紅の瞳が瞼で覆われ、ティアが一呼吸する――すると彼女の頭ががくんと落ち、一瞬身体から力が抜けたようだった。いつもなら、もっと流れるように人格を入れ替えていたように思う――そうなると、やはりクラウに何か重大な事が起こったのは間違いなさそうだ。
少しして緑髪の少女の瞼がゆっくりと開かれ――そこには見慣れた青い瞳がある。しかし、その瞳は不安そうに揺れ、どこか焦点が合わない調子で周囲を見回し、そして自分の姿を捉えた後に、どことなく恐怖の色を帯びた。
「……アランくん」
「クラウ……その、大丈夫か?」
大丈夫でないことは分かり切っているのだが、他に良い言葉も思い浮かばず、つい安直な言葉を口にしてしまう。いつものクラウなら「もっと良い言い回しは無いんですか?」なんて皮肉を言ってくるような気がするが――クラウはしばらくこちらを見て、次第に瞳に涙をにじませ始めてしまった。
「ご、ごめんな……さ……ふぇぇん……!」
謝罪を言葉にすると、クラウは目元に手を当てて大声を上げながら泣き始めてしまった。
「お、おい……アレだろ、この前のことを気にしてるんだろう? 俺はまったく気にしてないから、そんなに泣かないでくれよ……」
クラウに近づいて宥めようとすると、彼女はびくっとして縮こまり、余計に大きな声で泣き出してしまった。
しかし、彼女の泣き方はまるで幼子のそれだ。感情をコントロールできず、ストレスに対してただ叫びを上げながら泣くことしかできない――そんな小さな子供の泣き方にそっくりだった。
自分がどうしようか困っていると、背後でアガタが立ち上がり、ゆっくりとクラウの横に座った。そして、彼女を安心させるためだろう、優しい微笑みを浮かべながらクラウの頭を撫で始めた。
「よしよし……大丈夫ですよクラウ。アランさんの顔が怖いのはいつものことじゃないですか」
「おい」
アガタとしても場を和ませるジョークのつもりだったのかもしれないが、思わず反射で低い声が出てしまった。その声が怖かったのか、クラウがまた怯え始めてしまい、アガタには「アランさん、少し黙っていてください」と言われてしまう始末だった。
ともかく、しばらくの間はアガタがクラウを宥め――体格的には色々な意味でクラウの方が大きいので、なんだかアンバランスであり、どこか珍妙な光景になってはいるが――しばらくするとクラウの声はすすり泣くようなものへと落ち着き始めた。
「ふぅ……とまぁ、見ての通りですわ。クラウは先日のショックのせいで心を閉ざしてしまったというか……幼児退行を起こしてしまったようなのです」
なんとなく察しはついていたことだが、改めて事実を口にされると自分としてもショックを受ける。一瞬、幼児退行なんて記憶喪失よりも珍しいんじゃないかなどと呑気なことを――身近に自分を含めて二つのケースがあるから記憶喪失など割と普通なことではないかなど――考えてしまうが、今はくだらないことを思考している場合でもないだろう。
しかし、どうやって接したものか。ソフィアやナナコも幼さは残ると言えども、分別はしっかりしているし、ソフィアなど大人顔負けの思考力がある。対して、今のクラウは本当に幼児と言った調子で、ここまで幼い子供の、しかも泣く子のあやし方など自分には分からない。
ともかく出来る限り優しい調子で、一旦彼女を落ち着かせてあげるべきだろう。自分はアガタとクラウの座るベッドに近づき、膝をついてクラウと目線を合わせ、なるべく笑顔に努めて話しかけることにする。
「クラウ、俺に謝ることなんてないぞ。クラウは何も悪いことはしてないんだからな」
「ふぇ……ほんと?」
「あぁ、ホントだ。だから、俺は怒ってないし……」
「それじゃあ……アランくんがとっておいたお菓子、こっそり食べちゃったのもおこってないです?」
「……あ?」
いつの間にか消えていたお菓子、ちょろまかしたのはコイツだったのか。てっきり、甘い物好きの我らが准将殿の仕業かと思っていたのだが――ソフィアに対してきつく言うのも何だし忘れていたことにしていたのに、なんだか楽しみを奪われた悲しみと憤りが戻ってきて、思わず低い声を出してしまった。
「……ふぇぇん! アガタさん、アランくんがこわいです!」
やはり低い声に反応したのか、クラウは再び泣き出してアガタの胸に飛び込んでまた泣き出してしまった。
「あぁ、よしよし……こら、アランさん。クラウが怯えてるじゃないですか」
「……かたいです」
「お……?」
飛び込んだ先に弾力、もとい包容力が無かったせいか、そして幼児退行ゆえの素直さが出ているせいか、クラウは恐ろしい事実を口にしてしまった。事実は時に誰かの胸を抉る鋭い凶器になりうる――そして世の中には、ストレスに対して悲しむ者と憤る者の二種類の人間がいる。アガタ・ペトラルカは後者に属する人間であるのは疑うまでもない。
アガタから出た低い声にクラウは反応し、アガタの胸元から逃げてベッドの端で大声で泣き始めてしまった。
「ふぇぇん! アガタさんもこわいです! ティア、ティアぁ!!」
クラウが魂の同居人の名を呼ぶと、再び彼女の体が大きく脱力する――そしてすぐに緑髪の少女の呼吸は落ち着き、再び顔を上げた時には真紅の瞳に戻っていた。
「ふぅ……二人とも、クラウを虐めないでくれよ?」
「すまん……」
「申し訳ございません……」
「ま、二人が本気で怒ってるわけじゃないのは、ボクからクラウに言っておくよ……ともかく、こんな調子でさ。解脱症に罹らなかっただけマシなんだろうけど」
ティアの言葉に対し、アガタは瞼を下げながら小さく首を横に振る。
「とはいえ、あまり良い兆候ではありませんわね。解脱症に罹りかける前兆として、幼児退行するケースもあるようなのです。退行も一種の人格崩壊……それに、解脱症はある種、高次元存在に魂が引かれている状態とも考えられているのです」
「……どういうことだ?」
「あくまでもレムの考察ですが、解脱症とは人から何かをなそうという意志が無くなる状態……つまり、人が生を受けて世に対して抗い、何かを成そうという魂の消失を意味するという考察ですね。肉の器から魂が抜け出る状態……そのため、解脱症と名づけられたのです」
「なるほど、その抜け出た魂は高次元存在の元に還る……だから、高次元存在に魂を引かれているってわけだな?」
「えぇ。人が生まれた瞬間と、老いて死ぬ瞬間は似ていると言いますが……要するに、魂が高次元存在に近い位置にある時、人は世界を認識する力を失い……何も知らない赤子も痴ほうに罹る老人も、共に世界に対する分別が無い状態です。
それ故、クラウの年齢で起こす幼児退行は、自己の喪失……つまり、解脱症に近い状態にあると推察されるのです」
実際、過去に解脱症に罹る前の兆候として幼児退行を起こす者が居た、という風にアガタの説明が続く。ひとしきり説明が終わって後、アガタは表情を暗くさせ、低い声で話を続ける。
「そして……悪いのはそれだけではありません。ルーナはクラウを操りやすくするために、記憶からティアの存在を抹消してしまったのです」
「え、でも今、ティアの名前を呼んでただろう?」
自分の質問に対し、ティアが「それは」と口を開く。
「この数日で既にボクがクラウのあやし方をマスターしたから、かな……昔に比べたら今のクラウは、感情をストレートに出してくれるから、まだボク的にはありがたいけどね。ボクと言う人格が出来た時のクラウは、もっと大人しかったというか……本当に心が死にかけていたからさ。
と、少し脱線したね……あの夜の直後は、クラウがボクのことを忘れていたのは間違いないよ」
ティアと言う人格が形成された時には、クラウは――正確には、クラウディアと言う少女は――極限のストレス下に居たのだから、ティア的にはまだマシということなのかもしれない。
とはいえ、今だって退行してしまうほどにクラウは精神に異常をきたしているのであるし、マシと言うだけで良い状況でないのは確かだ――そう思っていると、ティアは困ったように眉をひそめながら笑った。
「あはは、アラン君。そんなに怖い顔をしないでおくれよ。昨日も言ったけれど、幸い今のクラウもボクのこと自体は友好的に見てくれているようだからさ……また一からでも、関係性を構築していけば良い訳だし。
それにさっきだって、クラウが退行しても感情を出せたのは、なんやかんやでアラン君とアガタを信用しているから……二人には甘えられると思ってるから、大声で泣くことも出来たんじゃないかなと思うんだ」
ティアはこちらに気を使ってくれたのかもしれないが、一応クラウがこちらを信用してくれているのならありがたい――謝ってきたということは先日のことを覚えているか、少なくとも申し訳ないことをしたとは記憶しているだろうが、同時にこちらとの友好関係は改めて構築したいというクラウなりの心の表れでもあるはずだ。
しかし、アガタの件はどうだろうか。先ほどの様子を見るに、想像以上にクラウはアガタに懐いているようだった。事態は色々と複雑なので、今の幼い精神状態のクラウが、諸々の事情を把握しているとは思い難くもあるが。
そんなこちらの疑問を読み取ったのか、アガタはベッドで腕組みをしながらこちらを仰ぎ見て口を開いた。
「クラウは退行の影響か記憶が曖昧で、私が異端審問にかけたことなどは忘れているようなのです。それで、なんとか懐いてくれているようなのですが……」
言いながら、アガタは視線をティアに戻すが――アガタの目は、きっとティアの奥にいる幼い魂を見据えているに違いない。以前、アガタはクラウに許されるつもりは無いと言っていたから、懐かれているのが予想外と言うか、半ば申し訳なさもあるのかもしれない。
「クラウが元に戻っても、ボクからきちんと事情は伝えておくさ……クラウも頑固なところがあるから、すぐには元通りとはならないと思うけど、きっと分かってくれるよ」
「ありがとう、ティア……ですが、私はあの子に許されるつもりは……」
「口では色々言ってたけど、クラウはいつだって君のことを気にかけていたよ。それに、君がいなくっちゃあクラウが信じていた寄る辺も一つなくなってしまうからね。そう言う意味では、支えてくれる人が一人でも増えてくれたらありがたい」
「そう……ですわね。それなら、お言葉に甘えますわ、ティア。私も、出来ればクラウとはキチンと話をしたいですし……」
アガタは胸元に手を置き、柔らかな笑みを浮かべる――今まで見てきた彼女の表情の中でもそれは最も柔らかい物だったように思う。こんなことを思うのも失礼かもしれないが、思い返せばアガタはいつも難しい表情ばかりしていたので、なんだか年頃らしい表情にビックリしてしまったのも確かだ。
それはティアも同じだったのだろう。アガタの笑みを見て一瞬だけ驚いたような表情を浮かべ、次第に納得したように頷き、最終的にはシニカルな笑みを浮かべた。
「君からお礼を聞けるとはね。明日は槍でも降るかな?」
「……もう! 知りませんわ!!」
再び腕を組んでそっぽを向くアガタを見て、ティアは口元に手を当ててくつくつと笑った。ひとしきり笑って落ち着いて後、赤い瞳は自分の方へと向けられる。
「ともかく、クラウの調子はこんな感じさ。一応、小康状態と言ったところだけれど……あまり刺激すると危険かもしれないからね。なるべく眠っていてもらおうと思う」
「あぁ、それが良さそうだな。クラウと話せないのも残念だけど、落ち着いたらゆっくり話せばいいし」
「うん、そうだね……ただ、こうやって室内で落ち着いている時は、少しくらいは気晴らしに起きてもらうのも悪くないと思うんだ。その時は、アガタとアラン君がいると、クラウも喜ぶと思うからさ」
その後、少し三人で会話を続けて一段落したタイミングで、自分は退散することにした。まだまだ、他のメンバーから色々話を聞いた方が良いだろうという判断だが――扉の前に立った時、ティアから「少しだけ待ってくれ」と声を掛けられた。
なんだろうかと振り返ると、そこには想定していた赤い瞳でなく、また不安そうに揺れる青い瞳があった。
「……アランくん、また会いに来てくれますか?」
「……あぁ、もちろんだ」
自分が返事を返すと、不安げだった瞳は輝きを取り戻し――少女は満面の笑みで「えへへ、ぜったいですよ!」と繋げた。自分はそれに対し、「絶対だ」と返して廊下へ出た。
クラウは、きっと救える――眠りについてしまったが、エルだってきっと日常に戻れる。そうなれば、自分は負けるわけにはいかない。改めて決意を胸に、拳を握って歩き出した。