B&T~記憶喪失の転生者、伝説級の暗殺術で異世界ディストピアをぶっ壊す~ 作:五島七夫
クラウはエルも見舞いに来ると言っていたが、現在午後二時、一向に彼女は現れない。体調はだいぶ良くなり、少し体も動かしたいのが正直なところだ。何より、なんの娯楽もない部屋の中で、一人でゴロゴロしていても退屈だ。
もちろん、体調を考えれば、ゆっくりしていろという話なのかもしれないが、案外頑丈らしいこの体を、そこまで甘やかす必要も無いと思う。しかし、エルが来るかもしれないことを考えると、部屋を留守にしたら行き違いになる可能性があり、動くに動けない。
こういう時、恐らく前世では、携帯電話で連絡を入れていたのだろう。不幸な行き違いを無くすことが出来るのだから、文明の利器様様と言ったところか。とはいえ、アレのせいで常に何かに拘束されているような気分にもなるような気もするので、一長一短か。
ともかく、宿の中を移動する分には問題ないだろう。先ほど昼食を摂りに一階の食堂に行ったが、コーヒーの一つでも部屋に持ち帰ってのんびりするか。ギルドのバーンズに声をかけ、借りられるなら何か本でも借りるのもよいかもしれない。部屋に鍵を掛け、一階に移動することにする。
宿の二階は吹き抜けのような形になっており、ホールを通して一階の様子が見える。階段は入口よりやや右手、食堂カウンターの左手にある。そこから下っていくと、都合掲示板の方が見えるのだが――その前には見慣れた黒髪があった。せっかくなので気配をなるべく消して、彼女に近づき――。
「……よっ」
「きゃっ……!?」
背後から声を掛けると、エルは可愛い声を上げながら体を跳ねさせ、急旋回してこちらに向き直った。左手が短剣に掛かっているのが目に入るが、流石は一流の剣士と褒めるべきなのか、物騒な奴だなと突っ込むべきなのか少々悩んでしまう。
「……あ、アナタねぇ、気配もなく背後に回るの止めてくれない?」
「階段降りてくるとき、視界には入ってたはずだぞ……なんか掲示板に面白いもんでもあったのか? ここでずっとうろうろしてたみたいだが」
「別に……暇つぶしに見てただけよ」
そういう彼女は、すっとぼけたような調子で視線を逸らした。まぁ、なんとなくだが、彼女が掲示板の前にいた理由は分かっている。
エル、本名はエリザベート・フォン・ハインライン、この世界で目が覚めた時に、俺を救ってくれた女剣士。彼女と出会っていなければ、今頃あの海岸で干からびていたか、魔族か魔獣にでも襲われて土に還っていた可能性もある。
彼女の旅の目標は、養父を殺した相手への復讐――その切り札である、腰に携えている宝剣ヘカトグラムを個人的な理由で持ち出しているため、誰とも手を組まずにここまで生きてきた猛者でもある。
復讐に関してはとやかく言うべきでもないし、ひとまずソフィアに手綱を握られ、協力をこぎつけている形になっている。しかし、エルはなんやかんやでお人よしだ。同時に、あまり自分から他人に声を掛けるタイプでもない。
だから、ギルドの入口で悩んでいたのだろう。俺を見舞いに来てくれたが、どう声をかけたものかと、掲示板の前でうろうろしていたに違いない。
「……なによ、ニヤニヤして」
「おぉ、悪い悪い……そうだ、俺、暇なんだ。良かったら、散歩にでも付き合ってくれないか?」
「はぁ? なんで私が……」
「受ける気もない依頼を眺めて暇つぶしするくらいなら、多少有意義かと思うんだがな」
「ぐっ……でも、ソフィアやクラウが来たりしないかしら?」
「あの二人なら、昨日と今朝、それぞれ見舞いに来てくれた」
「そう……それなら、私は必要なかったかしらね」
恐らくは私と話してても楽しくないでしょうから、とか思っているのだろう。こちらとしてはエルと話していて退屈もしないし、心配してきてくれたのならむしろありがたい限りなのだが。
「まぁ、そう言わずに……街でも案内してくれよ。俺、全然レヴァルの街を周れてないからさ。観光とかしてみたいんだ」
「ソフィアとかクラウと一緒のほうが楽しんじゃないの?」
「あの二人とも楽しいと思うがな、まぁなんだ、エルは落ち着くから」
「……訳が分からないわ」
横髪を抑えて、エルは視線を逸らしてしまう。悪い気はしてなさそうだし、後は無理やり押せばなんとかなるだろう。
「よし、決まりだ。世話になってるから、なんならお茶でもおごるよ。さ、行こうぜ」
そう言いながらギルドの扉を開けると、「ちょっと、待ちなさいよ」と言いながらエルは着いて来てくれる。自然と大通りを大聖堂側に進んでいるうちに、エルが横に並ぶ。
「はぁ……それで、どこに行きたいの?」
「それすら分からんからなぁ……エル、お気に入りの場所とかあるか?」
「……別に、そんなものは無いわ」
そう言いながらも、彼女は大聖堂の更に奥、城塞の中に佇む小高い丘の方を見ている。多分、あそこがお気に入りのスポットなのだろう。
「んじゃ、見晴らしのいいところにでも行こうぜ」
こちらが敢えて小高い丘を指さすと、エルは小さく笑った。
「ふぅ……何とやらは高いところが好きっていうものね」
「とか言って、実はエルも好きなんじゃないか?」
「そ、そんなことは無いわ……案内するの、止めるわよ?」
「うひぃ、ごめんなさい、口を慎みます」
「よろしい。それじゃあ、行きましょうか」
ちょっと押してからさっと引くと、良い感じの距離感になる。気難しそうに見えて、案外ちょろいかもしれない。
「……アナタ、失礼なこと考えてない?」
「いやいや全然もうまったく、これっぽっちも?」
「本当かしら……」
ぶつぶつ言いながらも着いて来てくれるので、やっぱりなんやかんやちょろいに違いない。
しばらく進むと大聖堂を超え、自分にとって未開の場所を進むことになる。以前この辺りに来た時は朝だったので店も閉まっていたが、今は午後の丁度良い時間、店も点々とだが開いている。しかし、活気は正門近くのほうがやはりあるか。
恐らく、こちらは冒険者向けの場所ではなく、レヴァルの住民が集まる場所なのだろう。普段着で軽装の人たちが多く、また店も食品店や洋服店など、小さい個人商店と言った趣の店舗が多い。それでも人の行き来がやや少ないのは、やはり戦時中であり、売れる物も買えるお金も少ないからと予想される。
「……レヴァルの街は、元々あの丘を起点に発展した街なの。最初はあそこの周りに城塞を築き、外敵の侵入を防いでいたのね。段々と城塞を広げていき、今では大聖堂のある広場が中心地になっているけれど……まずは、西側にある港と丘を繋げるように城塞を拡大していったのよ」
時々、レヴァルの街の歴史や、風土の解説がエルから入る。そういえば、出会った時も色々教えてもらった。今にして思えば、彼女が元々貴族というのも納得する。恐らく、平民であればここまで教養も無いし、うまく説明もできないだろう。
「詳しいんだな」
「そうでもないと思うけれど……それこそ、ソフィアの方が色々知っていると思うわよ」
「確かにあの子も詳しそうだが……学院じゃ魔術をメインで勉強するだろうから、地理や歴史となると、また違うんじゃないか?」
「そうね、そうかも……まぁ、歴史は結構好きだったわ。女だてらにって自分でいう事でもないかもしれないけれど、戦記とか、古の英雄の物語とか……」
エルの表情が柔らかい。恐らくだが、きっと敬愛していた養父の影響なのではないか――剣聖テオドール・フォン・ハインライン、辺境伯の娘ともなれば、自然と歴史や戦記などを父から教えられる機会もあったのではないかと思う。
丘のふもとまで来ると、少し入り組んだ道を行くことになる。左右を石造りの壁に挟まれた路地はまさしくファンタジーといった趣で、テンションも少し上がってしまう。
石段を上がり続けてしばらく進むと、拓けた道になり、崖際に店舗が並ぶような場所に出る。ちょうど、前世でいうところの高名な神社仏閣への参詣道の雰囲気に近い。きっと、戦時中でなければ、土産屋が開いており、観光客などで賑わっていたのだろう、しかし今は人もまばらである。逆に、この景色を独り占め――は言いすぎか、エルもいるのだ――できるので、それはそれで良い。
まだ坂の途中でも、眼下にはレヴァルの街が広がっており、すでにかなり見晴らしは良い。大聖堂を起点とする、四方のメインストリート沿いは区画がある程度整理されているが、少し内に入れば雑多に住居が並んでいる。ただ、その整理されていない街並みが、また人々が生き、継ぎ足していったものという証拠のように思われ――人々の生活の結晶のように感ぜられ、何故だか胸を締め付けらるような気持ちになる。
(こんな時……こんな景色を見た時、俺はどうしていたんだろう?)
何故だか、唐突にそんな疑問が思い浮かんだ。カメラで景観を撮っていたりしただろうか? それとは、また別のことをしていたような気がする。何か、自然とやっていたことが、記憶が無いせいで抜け落ちているような、そんな感覚――。
「……アラン? 大丈夫?」
坂の上から掛けられた声に現実に戻される。エルの方を見ると、心配そうにこちらを見つめてくれている。
「……あぁ、大丈夫だ。ケガの後遺症で、ちょっと体力が落ちてるのかもな」
「そういう感じじゃなかったけれど……まぁ、アナタがそういうなら、そういう事にしておきましょうか。さぁ、もう少しで頂上よ」
振り向いて坂を登り始めるエルの歩調は少しゆっくりだ。その歩みに追いついて、肩を並べて少し歩くと、見上げた先にはまっさらな青い空が一面に広がった。
視線を下に戻すと、丘の上は転落防止のためか、簡易な柵で囲われている台地が目に入る。右手には海と港が見え、中央にはもう少し高くなっている場所があり、そこにはここを拠点として立てた人類が最初に建てた遺跡――神殿なのか、それとも防衛拠点だったことから詰所のような場所なのか――が、おそらく数千年の雨風に晒された結果として、朽ちてその基幹がのみが残っているのが見えた。
遺跡の下には簡易な売店のようなものがあり、そこで飲み物を調達し、崖付近の展望台まで移動する。日も少し傾いてきており、恐らく時刻も四時前といったところ。恐らく、一時間半は歩いてきたことになる。
「ほい、どうぞ」
「えぇ、ありがとう」
先にベンチに座っていたエルに暖かいコーヒーを手渡して、こちらもその横に座る。眼下には、坂の途中でも見た景観が、より高い位置から――今度は、城壁の奥、地平線まで見渡せる高さになっている。
「……大昔の人は、ここから魔族の侵攻を監視してたんでしょうね」
吹き付ける風が冷たいせいか、エルは使い捨てのコップをカイロ代わりにするかのように両手で挟んで呟いた。
「この絶景を見て、色気のない発言だなぁ」
「色気が無くて悪かったわね……綺麗、素敵、とか言ってほしいの?」
「いや、エルらしくて良かった」
歴史が好きだからこそ、大昔の人に自分を重ね合わせてこの景色を見たのだろう。眼下に広がる街並みは三千年前と違っても、城壁の奥に見える景色は、きっと昔も今も変わらない――そう思ってこの景色を見るのも、また趣があって良い気がする。
「……ねぇ、アラン。アナタ、記憶を取り戻したくはないの?」
ふと、横から呟くように、小さく疑問があがってきた。言われてみれば、自分の前世がどうであったかは気にはしているのに、記憶に対する執着はあまりない自分に気づく。ただまぁ、気にはしているというのなら、取り戻したいのと同義か。
「あ、えーと……取り戻したいが?」
「……あんまり、その気じゃなさそうね」
景色から目を離して横を向くと、いつの間にかベンチの上で体育座りをしているエルと視線が合った。どことなく彼女が虚ろ気なのは、おそらく外の空気に触れているから――深い意味もないのだろう、ただ何となく知りたい、そんな顔をしている。
さて、実際には、レムに聞けば凡そのことは分かるはずなのだ。アイツが答える気になれば、の話ではあるが。逆に、この世界に自分の痕跡はないはず。そうなれば、記憶を求めて彷徨ったところで多分無駄。探し物は目の前にあるのに、その箱の鍵をお預けにされているだけ――だから、慌てることもない、ただ女神の気まぐれを待つしかないのだ。
しかし、それは彼女からしたら異質に映るかもしれない。己が何者か分からないことを、もし俺以外の誰かが慌てもせずに受け入れていたとしたら、それはおかしいと思うだろうし。
「……なるようにしかならないからな」
色々考えた結果、出た答えがこれだった。ひとまず、自分が転生者というアイデンティティだけは確立されている今、取り急ぎ自分が何者かを知る意味もあまりない。かといって、一応自分が何者か、そのうち知れるなら知りたい、これくらいの調子なのだから。
「何、それ……アナタ、やっぱり変な奴ね」
「凡庸と言われるよりはマシかな?」
「はぁ……訳分からない」
改めて彼女のほうを見ると、体育座りのまま、膝に顔を埋める姿勢に変わっている。
「……私も、自分が何者か分からなくなったら、もう少しマシになるのかしらね」
唐突な発言に、彼女の真意を掴めず、こちらとしても押し黙ることしかできない。二の句を待っていると、エルは少しだけ首を動かし左目だけでこちらをチラ、と伺ってくる。
「ごめん、ちょっと、他人事だと思って、あまり真剣にならずに聞いてほしいのだけれど……」
こちらが頷くと、エルは再び地平線にその視線を向ける。
「……正直、本当に正直に言えば、四年前の時と今では、気持ちの大きさが違うの……あの時は、復讐してやるって、本気で思った。だから、宝剣を持ち去ることに疑問もなかったし、絶対に、アイツを殺してやるって……それは、今も変わらないのだけれど……」
そこで、エルは再び顔を膝にうずめてしまった。風が強い――その音に書き消えてしまいそうな言葉を聞き逃さないよう、耳をすませる。
「日に日に、憎しみの気持ちが薄れていくのを感じる。それ自体、私にとっては自分を許し難いことで……私の気持ちはそんなものだったのかって、その弱さが嫌になる。そしてそれに反比例して、私は、自分のしでかしたことの罪の大きさに、頭を抱えている……。
宝剣を持ち去るというのは、世界の危機を無視したのと同義。お義父様がこれを知ったら、何と言うか……うぅん、私は、自分がしでかしたことを周りにバレないように、ずっと逃げていたんだわ。なんだか、子供よね……自分ばっかり可愛くて、自分が、嫌になる」
そこまで言い切って、彼女は強く、その両腕で膝を抱え込んでいるように見えた。しかし、なんとなくだが分かった。同じ気持ちをずっと持ち続けることは難しい。そしてその気持ちの変化を、彼女はずっと自分の胸にだけ閉まっていたのだ。誰にも話すことが出来なかったから――悩みを抱えたまま、それを発散することもできず、ずっと孤独にいたのだろう。
そうなれば、どう反応するのが正解か。きっと、彼女は正解を求めているわけじゃない。少し話して、自分の気持ちと向き合いたいだけ。それならば、こちらとしては、下手に意見を言わない方が良い。ただ、自分が向き合えるように、適度な距離を保ってあげればいい。
「なるほど……それで記憶の一つでも無くせば、悩まずに済む、とかそんな感じか?」
「ふぅ……端的に言えば、そんな感じかも。ただ、実際に言語化されると、余計に自分の浅はかさが嫌になるわ……」
「いいんじゃないか? 俺の能天気さがうらやましかったんだろ」
こちらの言葉に、彼女は膝から顔を離して、はっとした表情でこちらを見た。何か飲み込めた訳でもないのだろうが、何かがすっきりもしたのだろう。
「ま、まぁ、そうかも……?」
「ただまぁ、記憶ってやつは、勝手に失ったりは出来ないからな」
「アナタがそれ言うの……いえ、まぁ、好きで失った訳じゃないでしょうし、こんなこというのも失礼かもだけれど……」
「気にしないさ、能天気だからな。ただ、一個だけ言っていいか?」
「な、何よ」
あまり行儀が良くないのも承知だが、右手の人差し指を訝し気な表情をしているエルに向ける。
「君が記憶を失ったら、こんなに能天気じゃいらんないさ。何せ、君は俺と違って能天気じゃないからな」
自分で言っておいてなんだが、自分でも訳が分からなかった。とはいえ、人差し指に面食らっていたエルは、こちらの阿保さ加減がおかしくなってきたのか、小さく笑い始めてくれる。
「ふ、ふふ……確かに。危なかったわ、アナタと同列の所まで落ちようとするなんて、私も気持ちが弱っていたのね……」
「うん、それこそ失礼だと自覚してほしいけどな? まぁともかく、そこはソフィアが上手くまとめてくれただろう。世界の危機に宝剣は間に合うわけだし、大貴族を殺したエルフが許されるわけでもないんだ、きちんと制裁は加えないといけない。
君が龍を倒すときに覚悟を決めたから、君にとって良いように風向きが変わってる。そう思えばいいんじゃないかな」
「えぇ、そうね……」
そこでやっと、彼女は体育座りを解いて脚を伸ばした。腕も上げて伸びて、風を一身に集めているようだった。
「なんだか、悪かったわね。こっちが見舞いをするつもりで、気を使わせてしまって」
「なんだ、やっぱり見舞いに来てくれてたんだな」
「なっ……ち、ちが……わなくはないけれど……」
さすがに自分で言ってしまった以上、引っ込めることが出来なくなってしまったのか、エルは顔を赤くしてうろたえている。
「あはは、君のその表情を見れたのが、最高の見舞いだな」
「……ふん、調子に乗って。こんなやつに話さなければ良かった」
そう言いながら、エルは横髪を抑えながら顔を隠してしまう。とはいえ、声色は暗いものではなかったので、話して少しすっきりできたようではあった。
「あーそう言えばなんだが、ソフィアにこれから皆で泊る宿を決めておいてくれって言われててな? エル、良い場所あるかな」
「えぇ……別に、各々宿を取ればいいんじゃないの?」
「そこはクラウが、楽しそうだからって」
「はぁ……あの子らしいわね」
そう言いながらも、彼女としても同意できるところはあったのだろう、とくに否定はせず、少し考えこんでいるようだった。
「うーん、私もレヴァルの宿事情に詳しい訳ではないから。一応、男が雑魚寝しているようなところは遠慮したいわね」
「まぁ、それならまた全員集まってから考えればいいか。一応、クラウがジャンヌさんに聞いてくれるって話だし、そのへん含めてみんなで考えればいいだろ」
「えぇ、そうね……みんなで、ね」
呟く彼女は、どことなく嬉しそうだった。思えば、エルが一番孤独だったのだろう。クラウには自分の内とはいえティアが居たし、ソフィアには周りに大人が居た。また、クラウとソフィアは自分にやましいところがあったわけではない。ただ彼女だけが――――エリザベート・フォン・ハインラインに戻ることもできず、ただのエルとして、一人でいる他に無かったのだ。
気が付けば、遠景の色彩が、徐々に緑から赤色に近づいてきている。背後の日が落ち始めているのだろう、コーヒーもすっかり飲み切り、徐々に気温も下がってきているようだった。
「さて、そろそろ戻るか」
「えぇ、そうしましょうか」
先にエルが立ち上がり、西日に向かって歩き出した。
「……ねぇ、アラン」
「うん?」
「ありがとう、ね」
そう言って振り返った彼女の頬が赤かったのは、日のせいなのか、はたまた慣れないことを言ったせいなのか――どちらか分からないまま、彼女の背を追うべく、こちらも立ち上がることにした。