B&T~記憶喪失の転生者、伝説級の暗殺術で異世界ディストピアをぶっ壊す~ 作:五島七夫
砂浜を歩きながら少し状況を整理してみる。
まず、自分の記憶のこと。やはり何も思い出せない。悲しいかな、記憶喪失なことだけは確かだった。
次に、先ほどの女神とやらは本物か。夢でなかったのか? 夢だとするには、妙に生々しく覚えているし、ひとまず現実であったこととする。
最後に、現状ではこれが一番重要になるのだが――ここはどこかという問題だ。記憶にないだけで、ここが実は自分が本来いた世界のどこか、という可能性は捨てきれないだろう、海があり、夕日があり、東側にはうっそうと茂る森があり――構成物は、前世のものと変わらない。
女神の言っていた通りなのか、1Gというか、体を動かしていて違和感もない。おそらく、自分は酸素も吸って吐いている。これだけであれば、異世界に転生したというよりは、まだ記憶喪失でどこかの浜辺に打ち付けられた、というほうが幾分か説得力はありそうだった。
ただ、一点、前世と致命的に違う点を発見した。それは、東側に一つ、そしてほぼ自分の真上に一つ、計二つの月が存在することだった。この世界的に月というのが正解なのかは分からないが、少なくとも衛星が二つある世界に来た、これは間違いなさそうだ。
「……特に何が進展したわけでもないな」
一瞬足を止め、自分の髪をくしゃくしゃにかく。どうやら異世界というのが間違いなさそうというだけで、私は誰、ここはどこという現状は何も打破されていない。
「普通、もう少し人気があるところとかに復活させるだろうがよ……」
そう、恐らく三十分ほど歩いたが――体内時計なので実際はもっと短いかもだが――行けども行けども水平線と森が見えるだけで、景色が変わる気配がない。人の気配など微塵にも感じない。それどころか、生の気配を感じられない。
もちろん、海岸に打ち付けられる波の下に、貝など生物だったものの跡は見て取れる。ただ、生きている生物が全然見られない。鳥や魚なども見かけていない。ここが異世界で魔王とやらがいるのであるならば、モンスターというか、怪物に襲われていないだけ幸福なのかもしれないが。
いつの間にか、両腕が自分の体を抱いて少し縮こまっていることに気づいた。もうすぐ日が暮れるのだから、気温が落ちてきている。自分は割と厚手の服を着ているのだが、それにしても寒い。森の木々はうっすらと雪化粧をしていることを見ると、季節は冬なのか、それとも寒い地域なのか。見たところ木々は針葉樹のようだが、前世と生態系が完全に一致しているとも限らないので、寒冷な土地と断言はできない。
しかし、このままだと夜になったら凍死してしまいそうだ。どうする、火でも起こして明日の朝になるのを待つべきか? 幸い、枯れ木はそこかしこで集められるだろう。しかし、自分で火を起こせるものだろうか。打ち石ではもちろん出来る気はしないし、細い棒をくるくる回して火を起こす道具ってあったっけ、しかし実際にやったこともないので、アレでも火を起こせる気はしない。ライターでもあれば一発だが――文明の利器を持たずに放り投げられた自分は、原始人と大差のない存在だった。
自分のふがいなさに一抹の悲しみを覚え、大きくため息を吐いた直後、あたりの静寂が一層増したせいか、横の茂みの奥からガサガサと、枝がこすれあうようなわずかな音を拾うことができた。おそらく、風というわけでもあるまい。何がしかの生物が、森の中にいるのだろう。
どうしたものか、見に行くべきか? 仮に茂みに居るのが人間だとすれば、女神曰く言語機能はしっかりしてくれているとのことなので、こちらの意思を伝達することは可能だろう。しかし、まずこんな辺境に人がいる可能性は低いし、仮にいたとしてもそれは夜盗か何かの類で、話は聞いてもらえないかもしれない。
もっと言えば、人間以外の生物の可能性のほうがよほど高い。それが化け物だったら、せっかく蘇った――死んだ記憶もないのだが――命が無意味に終わることになるだろう。
「……ばれない様に見てみて、変な生き物だったらこっそりずらかるか」
リスクのほうがよほど高いのだが、現状打破のためには仕方がない。新しい風が必要だ。我が身一つなのだからもう少し慎重になるべきかもしれないが、逆に我が身一つなのだから冒険したっていい。
物音のした方へ、なるべく物音を立てないようにコッソリと近づいていく。すでに森の外も暗くなり始めていたのだから、木々に日は遮られて、森の中はなお一層暗い。葉の隙間、真上から覗くもう一つの月だけが唯一の光源だ。幸い、前世は夜目は効くほうだったのか、月明かりがあれば周囲は見える。しかし、足元まではしっかり見えない――音に敏感な奴でもいるかもしれない、慎重に近づかねば。
近づくと同時に、森の中から相手の気配を手繰る――小さな風の音、木々の揺れる音、それをかき分けて感じる気配――恐らく、比較的近くに三体ほど、あともう数体、気配を感じる。
ふと、奥で影が踊った。すぐに木の幹に体を隠し、顔だけ少し出し、何者がいるのか見てみる。背の丈は自分よりはかなり大きい、二メートル弱はあるであろうか、それがここから目視できる範囲で、予想していた通りに三体ほど、二足歩行の生き物が少し拓けた場所にいるのが確認できた。この世界の人間は背が異様に高いのか――というよりは、人外と言ったほうが差しさわりのないフォルムだろう。少し目を凝らしてみると、うち一体の横顔が、月光を受けて浮き彫りになった。
毛で覆われた尖がった耳に突き出た口、端的に言えばオオカミのような顔。よくあるファンタジーにこの状況を照らし合わせれば、オオカミの人型と言えばコボルトだろうが、それよりは禍々しく見える。その証拠に、彼らは二足で歩行して長い手足を持っており、簡易な布で体を多い、また簡単な武器を腰に携えてはいるが、その四肢の発達していること、鋭い爪、それらを見れば、武器など飾りで、その肉体だけで人間など簡単に殺せてしまうことは容易に想像できた。
(……コボルトというより、ワーウルフか)
冷静に分析しているつもりではいるが、実際は状況に混乱しており、頭は回っていない。イヌ科なのだから、どうせ耳も良いのだろうが、まだバレていないのは幸いだ――とはいえ、何かあればすぐに自分の緊張が爆発し、呼吸が乱れ、気配を悟られてしまうのは容易に想像できる。そうなれば、ひとたまりもないだろう。
もちろん、コボルトならどうにかなるとかいう話ではないのだが、転生最初に出くわすモンスターとしては、いかんせんレベルが高すぎる気がする。普通はゴブリンとかスライムとか、もうちょっとお馴染みなやつが出てくるのがお約束というやつではないか。もしくは、最初っから強敵でも、チート能力などでなぎ倒せるとか。
ともかく悲しいかな、どれだけ考えても現状が良くなるわけでもない。なんとか、奴らにはこれ以上は近づかないようにして、離れたところでまた足音を立てずに逃げおおせるしかない。
(……しかし、奴ら何をしているんだ? 何かを探しているようだが……)
ワーウルフたちは当たりを見まわし、耳をすませているように見えた。しかし、あれだけイヌ科が周囲を警戒している中、よくここまで近くに寄れてしまったものなのだが――。
ふと、耳をつんざくような咆哮が森を震わせた。犬の遠吠えを少し低くしたような声、腹に響く音、背を預けている木が震えるほどの振動。音と同時に、三体の獣人達の毛も逆立ち、臨戦態勢に入っている。
遠吠えはどちらから聞こえたか、まさか別の個体が、俺を見つけ仲間に知らせたのか――しかし視認できる獣人達は、自分が隠れている方とは逆方向を見つめているようだった。
その先から、徐々にまた影が迫ってくる。その影は獣人たちと比べると遥かに小さい。成人男性に近いか、それよりやや低いか――どうやら、アレは人間だ。アレを獣人たちは探していたのだろう。
「……待てを聞けるのね、犬畜生」
まだ遥か影がやっと見える距離なのだが、その声は風に乗って確かにこちらまで響いてきた。よく見れば、その影は背後から更に二体、どうやら近くにいるのと同種の魔物が追いかけてきているようだった。
しかし、走っている影は狼に追い付かれない。相手は獣、普通の人間とは比にならない速度で走っているはずだし、事実そのように見える。しかし、影の速度はそれとほぼ同等か、それ以上。狼の先導者は徐々にこちらに近づいてきて――三体の獣人の待つ拓けた場所に、その影の主が現れた。女性だった。
髪は黒に近いが、月の光を少し照り返す赤茶色で、まっすぐに長く、後ろで結わえており、腰ほどまで伸びている。そして、黒い外套を羽織り、胸にはブレストプレートというようないで立ち――つまり、女剣士というようないで立ちで、凛とした目が印象的だった。そして、その予測に違わぬ証拠として、左の腰に長剣を一本と短剣を二本帯刀している。
彼女の足が止まると、怪物達の足も止まった。取り囲むように五体、獣人達が殺気を放っている。しかし、彼女の方も臆することなく、捕食者達を見つめ返している。
待てを聞けると言った時には、彼女こそがこの獣人たちの主の可能性も考えたが、どうやらその正反対だ。むしろ彼女よりも巨大な魔物に対して、皮肉として待てと言っていたのだろう。
それならば、きっと彼女は強い。どんな作戦かは知らないが、五体を相手にして問題ないと判断して、奴らをここに招き入れたのだろうから。それにもし、彼女の実力が足らないとして、自分にワーウルフ達をどうこうできる実力はない――ここは、見守ることしかできない。
彼女の左手が装飾のある短剣に伸びる。
「……死の女神、無敵の女王、汝に仇なす者たちを、其の軛(くびき)に繋ぎ止めん……」
彼女が詠唱を始めると、短剣に埋め込まれている宝石が、淡く光り始める。風が薙ぎ、周囲の木々を震わせている――すさまじい気迫に、自分も、獣人たちも吞まれているようだった。
だが、気が付けば、自分の体は勝手に動いていた。奥歯を噛みしめ――自分の衝動に体の速度が追いついていないが、今はともかく早く――木から離れ、近場にあった石を拾い上げる。自分の立てた物音に獣人たちも反応したようで、一斉に狼の瞳がこちらに向いた。
そんなことはどうでもいい、自分は動いた、その意味を果たすだけ。ほとんど無意識で投げた石、その軌道の先には、茂みから飛び出そうとした伏兵の目があった。
無視することもできたが、体が動いてしまったのだから仕方ない。いくらあの剣士が強そうだからと言って、奇襲が防げたのかも分からないから――化け物の叫び声と同時に、赤黒い血が、片目を失った獣人の側にある木の幹に飛び散った。
「人間!? ちっ……!!」
女剣士は舌打ちをすると、すぐに右手を動かし、長剣を引き抜いた。自分が動いたせいで、この場を支配していた緊張が一気に爆発し、彼女の背後にいた二体の獣人が、弾ける様に飛び出していた。
狼の爪牙が女の背中に迫る――しかし、それらが獲物をとらえることは無かった。一体がその手を振り下げるよりも先に、女の長剣がその腕を切断してた。その動きは、もう一体の牙を避ける動きになっており、返す刃で獲物を逃した化け物の喉元を長剣でさし穿っていた。
「惚けない!」
女のこちらに向けて発した言葉が意味することは、十分理解できていた。とはいえ、こっちも寝起きというかなんというか、ともかく自分がどれだけ動けるかもよくわかっていないのだが――なんとか逃げようとするものの、無駄だった、すでに眼前には、三体の獣人が迫ってきている。
「ふっ……!?」
目の前の一体目による爪によるヤバげな一撃は寸でのところで避けられたものの、その先までは反応できなかった。迫ってきていた二体目の蹴りが腹に埋まり、そのまま自分の体が背後にふっとぶ。そのまま、後ろにあった木の幹に体は打ち付けられた。
痛みは無いが、息はできない――目の前がチカチカし、視界が安定しない。おそらく時間にしては一瞬、しかしいつの間にか目線が地面に向かっていたことに気づき、何とか顔を上げると、再び一体のワーウルフが、咆哮とともに目の前に迫ってきていた。
だが、狼の牙も爪も、自分の体を抉ることはなかった。それよりも先に、獣人の首が宙を舞っていた。そして、地面に残った獣人の体は氷が割れるような鈍い音を立てたと思うと、衣服や武器を残して結晶化し、すぐに崩れ去った。
「アナタ、なんのために飛び出てきたのよ!?」
獣人が崩れた先で、月の光を反射する白刃が煌めき、もう一体の獣人の首を黒衣の剣士が切断していた。面目ないとか体が勝手に動いていたとかいろいろ言い訳したい気持ちもあるが、それも後にすべきだろう。まだ二体のワーウルフが残っている。そもそも、蹴り飛ばされた衝撃と痛みが今になって来て、せき込んでしまい、しばらく話せそうにない。吐血していないので、内臓にダメージはなさそうだ、頑丈に転生させてくれた女神には、少しばかり感謝しなければならない。
さて、女の方は減らず口を叩いたのも束の間、すぐに残りのモンスターに向かっていく。漆黒の風のように詰め寄り、そのまま危なげなく二体を剣の錆とし、残骸が灰として夜の木々に巻かれた。女は剣を一払い、息を整えているところまで視認し――俺は目の前に落ちている化け物の遺留品を拾い上げて振り返る。
「はぁ……お陰で、余計な手間を……後ろ!」
女の声を背に、針葉樹を震わせながら近づいてくる最後の一体に向かう。振り上げた自分の左手から短剣が飛び、それは相手の額に刺さった。だが、おそらく浅い、ワーウルフは少しよろけたがすぐに持ち直してこちらに向かってくる。
次いで、右手を振り下ろすと、刺さった短剣を押し込むように、もう一本の剣が最初の一本の柄に当たった。そして、自分の前に居た最後の一体も結晶化し、白い灰になって崩れ去った。
なんだか体がいろいろと体が勝手に動いていたが、もしかすると簡単な戦闘スキルは女神がくれていたのか――などと思っていた矢先、緊張が一気に戻ってきた。辺りは静かで、すでに敵の気配は無いが、自分が死闘を行っていたという事実に、今更ながらに眩暈がする心地になっていた。
ともかく、これで落ち着いたのだろう。息を整え、後ろを振り向こうと思った矢先に、首に冷たいものが押し当てられていた。
「……アナタ、何者?」
「それは俺が聞きたいなぁ……げふっ」
先ほどのダメージのせいでせき込んでしまった。とはいえ、これはそう切れ味が鋭いものでないのだろう、女の手に構えられた装飾のない簡易な短剣に少し当たったが、特別に首から血が出ることもなかった。
「ちょ、ちょっと。大丈夫?」
「心配するくらいならさ、その物騒なものをしまってくれないかな?」
「それは無理。身の安全が確保できてからね」
「もう安全だろう?」
「私からしたら、アナタの方が魔族より得体が知れなくて危険よ。もう一度聞くわ、アナタは何者?」
「だから、俺が聞きたいって……記憶喪失なんだ」
「……はぁ?」
素っ頓狂な返しが聞こえる。ただ悲しいかな事実だし、女神に転生させられたとか、わかる範囲のことを伝えても余計に怪しまれる可能性がある。幸い、身にまとっているものは現地風のものだし、そこまで怪しまれはしないだろう。
「アナタの言うことを、とりあえず額面通りに受け取るなら」
「うん」
「記憶喪失で、自分が誰かもわからず、ここがどこかも分からず、こんな辺境に迷い込んで、耳と鼻の良いワーウルフの群れにその気配を気づかれずに森を歩き、一見襲われているであろう様に見えた私を助けるために敵の気を引いて、無様に吹っ飛ばされて、その上でワーウルフの目と、脳髄を、正確無比に投擲で射ちぬいたってこと?」
前言撤回、怪しさマックスだった。
「まぁ、そういうことになるかな……?」
投擲は多分まぐれだ、とかいう前に、女のナイフを持つ手に力が入る。
「……信じられないわ」
「いや、そりゃそうかもしれないけど!? というか、あの隠れた狼野郎の奇襲を防いだのは確かなんだ、少しは感謝の気持ちってものをだな……」
「いいえ、アナタが居たおかげで余計な手間をとったの。数体隠れていることぐらい織り込み済みよ」
「さ、さいでっか……ごほっ」
「意味不明の言い訳の次は泣き脅し?」
「本当に苦しいんだって……ごほっ」
「はぁ……」
後ろで女が首を振っている気配を感じる。そしてナイフはそのまま、女の空いている方の指が、こちらの胸辺りを撫で始めた。
「え、何、突然エッチなことをするつもりか!?」
「ば、馬鹿なことを言わないで!? 何か隠し持ってないか確認しているだけよ」
「何にも持ってないって……多分」
実際、目が覚めてから細かく荷物など確認していない。もしかしたら、レムの奴が何かを持たせていたら、あらぬ誤解を招く恐れもある。
「……多分って何よ」
「いやぁ、男ってのはみんな、凶悪なのをぶら下げてるもんだからな」
「やっぱり、この場で首を落としてやろうかしら……はぁ……」
極大のため息の後もボディチェックは続き、なんとか怪しいものは出てこずに済んだようだった。懸念のある凶悪な箇所はタッチをスルーされたのは残念なような安心したような絶妙な気持ちになったが。
「はぁ……アナタの言うこと、半分信じてあげる」
やっと刃が収められ、改めて女のほうに向き直ると、戦っている時に感じていた凛々しさと刺々しさのある美人がそこにいた。その美人のジト、とした目が、まっすぐにこちらを射貫いている。
「そんなに警戒しなくてもいいんじゃないか?」
「あのね、アナタが怪しいことには変わりないのよ。ただ、真っ当な曲者なら、もう少しマシな嘘をつくと思っただけ」
真っ当な曲者とはまた矛盾している気もしたが、ひとまず少し警戒がとけたのは一歩前進だ。
「あ、でも半径二メートル以内に近づかないで頂戴」
そう言いながら、女は汚いものを見るかのような目つきで数歩後ずさった。
「いやいや、なんも持ってなかっただろう?」
「アナタ、自分のしたことを忘れたの……まぁいいわ」
何のことやら、そう思っていると女は、俺が倒した獣人がいた場所にかがみこんだ。
「……この距離でも、石でもあればアナタにとっては間合いなんだから」
「成程、そういうことか……当たったのはまぐれだって」
「まぐれが三回も続く? 相当運には自信があるのかしら」
「運がいいなら、記憶もなくなってないな」
「ふふ、確かにね……いえ、まだ記憶がないということを全面的に信じたわけではないけれど。で、アナタもボーっとしてないで」
女の手には、獣人達の核とでも言うべきなのか、白い結晶が乗っていた。これを集めてこい、ということなのだろう、こちらも振り返り、怪物が散った場所に結晶を拾いに行くことにした。
しかし、いつまでも脳内で女呼びするのもなんだな。
「君、名前は?」
「人の名前を聞くときはまず自分からって、親に習わなかったのかしら?」
「いちいち突っかかってくる奴だなぁ」
「アナタが怪しいうえに言動がイチイチ胡散臭いからこうなるだけよ……それとも、名前すら覚えていない?」
名前すら覚えていないのは真なのだが、そういえば先ほど女神より賜った名前があったのを思い出す。
「いや、名前だけは覚えている……俺はアラン・スミスだ」
名乗った瞬間、彼女の体がこわばる気配を感じた。もしかしたら、知り合いの名前とか、もしくはこの世界で特別な名前だったのか?
「へぇ……まぁ、もちろん実際にいるでしょうけれど。それにしても名無しの権兵衛さんね。記憶喪失のアナタにはぴったりかしら」
「……あ?」
「こういう記憶もないの? アナタの名乗った名前、身元不明の男性の遺体に便宜上つけられる名前よ」
あの女神、怪しさマックスの男に怪しさマックスの名前を送ってからに。次にあったらガツンと言ってやろう。しかし同時に、身元不明の遺体とは、自分にふさわしいような気もして、少し笑ってしまった。
「ともかく、こっちは名乗ったぞ」
「えぇ、そうね……アナタの名前は恐ろしく偽名のようだけど、アナタはそれが偽名かも分からない設定なんだものね?」
こいつ、涼しい顔して設定とか言い始めた。もしかしたら自分と同類の気があるかもしれない――こちらが勝手に親近感を覚えているのを他所に、長髪の剣士は少しだけ口元を緩ませた。
「私はエル。安心して、偽名ではないわ」
本名でもないけれどね、彼女の微笑む横顔が月に照らされていた。