B&T~記憶喪失の転生者、伝説級の暗殺術で異世界ディストピアをぶっ壊す~ 作:五島七夫
ローザ・オールディスは自らの管理する月を無限に食らい続け、有機物と無機物との化合物が――もはや無機物の質量の方が大きいはずだが、その外観にはどこか有機物の内臓らしいグロテスクさがある――更なる獲物を求めて巨大でかつ無数の食指を伸ばし続けていた。
それに対し、銀髪の少女は怯むこともなく――その攻撃を避けるわけでもなく、ただ黄金色の光を纏った剣を最低限動かし、彼女すら取り込もうとする触手を弾き返している。
「私は、誰もが戦う理由を持っているって思ってました。正義の反対は悪ではなく、別の正義であって……相容れないことがあったとしても、どちらも間違えているわけではなくって、だからこそ戦わざるを得ないんだと思ってたんです。
ですが、あの人は違います。ただ己のために全てを食らい、自分のために仕えていた人すら呑み込んで、今もなおその邪悪なエゴを増大させている……己の欲にだけ囚われて全てを踏みにじる存在を、私は許すことができません」
その怒りはどこか静謐で厳かだった。口調は落ち着いており、声量も最低限で、ただ淡々と自らの感情を吐露する彼女は、いつもの溌剌《はつらつ》とした様子とは正反対だ。
ただ、なんとなくではあるが、彼女自身も己の感情に困惑しているのではないかと思う。常より怒りという感情から遠くにいるせいで、自身のうちから湧き出る感情を上手く処理できず、それを理性の力で無理やり押さえつけようとしているのであり――それ故に彼女の怒りはどこか静かな様子に感じられる、そんな風に思う。
しかし、彼女の内であがっている炎は本物だ。腹の底が煮えくり返りそうになるのを理性で抑えようとはしているものの、その感情は彼女の瞳に現れている。自分は彼女のあんな目を見たことは無い。冷たく凍りつくような殺気の裏に、灼熱の激情の秘めている――その引き金となったのが、人々に散々辛酸を舐めさせてきた天使長の死というのはなんとも皮肉なように感じられるが、逆に身内を護るという獣ですら持っている情すら失った月の女神に対し、彼女は明確な怒りを覚えたということに違いない。
少女の怒れる様子に対し、何故だか逆に自分は不思議な程に冷静になっていた。それこそ、ルーナこそ夢野七瀬を殺害した首謀者にして実行犯であり、最も自分が怒りを向けていた仇の一柱であるはず。それが、つい先日までは自分の中にあった燃えるような怒りがそっくり銀髪の少女に移ってしまったのかと錯覚するほど、自分の思考はクリアになっており――そしてその思考の中でもっとも最初に出てきた言葉が「勿体ない」であった。
「……落ち着け、セブンス」
「いいえ、T3さんのお願いでも……」
「落ち着けと言っている」
静かに、だが彼女に届くように意志を込めて声を掛ける。それが功を奏したのか、こちらの様子にセブンスはやっと冷たい表情を崩し、いつもの様子を多少取り戻して目を見開いた。
「お前の言う通り、人の争いというのは、単純にどちらが悪と断言できるほど単純なものではない。実際に、私が復讐を誓った七柱たちも……実際にエゴにまみれ、他者を利用した連中でこそあるが……奴らも間違いなく、この世界に苦悩する人間だった。
だが、確かに奴は……奴だけは違う。成程、元々はローザ・オールディスという人間も苦悩する一本の葦だったのかもしれない。しかし奴こそは、周囲から養分を吸い上げ、ただひたすらに欲望のために自己を肥大化させ、本来備わっていた人間性すら喪失させた、本物の化け物だ」
そこで一度言葉を切り――切らざるを得なかったという方が正しく、今立っている場所も触手に呑まれ始め、一同で一旦増大する塊から距離を取る――そして振り返り、なお伸びてくる一本の触手に対して出力のあげた光の矢を放って後、改めて塊を見つめなおす。
「だからこそだ、セブンス。奴に対して怒りをぶつけるべきではない。怒りというのは、強い感情だ。どうすることもできない現実に対して答えを見つけることもできずに、自分を慰めることも出来ない葛藤が生み出す、強い力なんだ……その感情を、あんな悪食にくれてやるなどと、勿体ないというものだ」
それが自分が勿体ないと思った要因だ。怒りという感情が崇高なものだと言いたいわけでもないし、その感情が引き出す暴力性を正当化したいわけでもない。だが、本来怒りという感情は、人と人との間にこそ発生する物だ。もしかすれば、両者の間にはヒエラルキーの差があって、片方の怒りなどもう片方の側からしてみたら取るに足らない、ということもあるかもしれないが――だからこそ、怒りというのは相手への恨みや世の理不尽だとか自分の至らなさとか、そういった不足に対する行き場のない感情の慰めるために存在する、非情に人間的な感情ということが出来ると思う。
それに対し、ローザ・オールディスはもう人ですらない。つまり、怒りという感情を介在させるほど上等な存在ではない。そんな相手に誰よりも優しいナナセの怒りなど奴にくれてやることもないし、またこんな下らない相手のために誰よりも高潔なナナセが手を汚す理由もないのだ。
ならばこそ、アレを滅するのは他の者であるべきだ。ただ冷徹に、ただ作業のように、ただ屠殺するかの如く、あの肉の塊を葬る――三百年もの間、自分の根底で燃え続けた復讐の炎はすっかりと消え去り、ただ自分でも驚くほど明瞭になった視界の奥に屠るべき獲物の中心をとらえて、再び弓を構えて矢を番える。
「覚悟するがいい、ローザ・オールディス……いいや、堕ちた女神ルーナよ。貴様は私のターゲットだ」
言い終わるのと同時に、最大出力の波動弓を放つ。もっとも、それがアレにとって致命傷になるということは――自分の冷徹な殺意を乗せたところでそれが威力に乗る訳でないことは自明なため――分かり切っており、実際こちらの攻撃は幾分か肉の表面を焼くだけで終わってしまう。
だが、分かったこともある。今の一撃は、一応は結界によってその威力を減衰させられはした。しかし、七星結界が張られていれば、その防御力はエルブンボウの一撃を完全に防ぐことが出来るはず。それでも幾分か表面を焼くことに成功したのは、ルーナはその身体を肥大化しすぎて、結界を上手く一点に集中させることが出来なくなっているのだ。
完全に無効化されることと、幾分かダメージが通るのとでは、そこに大きな違いは出てくるはず。それを無限の再生能力で補われていると言われればそれまでだが――実際にそのように思ったのだろう、チェンが迫りくる触手に向けて護符を向けて結界を張りながら、シニカルな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「随分と格好つけているようですが、アレを止める算段があるということですか?」
「それは……今から考える」
「はは、成程、成程……それは流石に悠長と言わざるを得ませんね」
「そういう貴様には、何か策はないのか?」
こちらの質問に対し、チェン・ジュンダーは小さく首を振った。しかし、その表情にはどこか余裕が感じられる。これは全くの直感だが、奴もまた少女の怒りを見て本来の冷静さを取り戻し、その聡明な頭脳でもって打開策を――それが確実に有効とは言えないのだろうが、それなりに蓋然性《がいぜんせい》のある策を――思いついているに違いない。
「残念ながら、策という策はありませんね。アレは肥大化する単純な質量であって、急所を晒しているとかいう弱点がある訳でもありません。それに、すでに気が狂ってしまった彼女に対して、精神的な動揺を誘うこともできません。単純に巨大なものを破壊するに、策も何もありませんよ」
「だが、希望はあるのだろう?」
「希望といっていいかはわかりませんが……巨大な物を破壊するには、それだけ強力なエネルギーが必要になるというだけです。ただ、不幸中の幸いとして二点。
一つは、先ほどアナタが見せてくれたように、ルーナは結界を上手く張ることが出来なくなっているということ。そしてもう一点に関しては、私はまだあの剣の天井を知らない……もしかすれば、アレを倒し切るだけの火力を出すことも可能なのかもしれません」
そう言いながらチェンが視線をやったのは、今も伸びる触手を断つのに使われている機械仕掛けの剣だった。先ほどセブンスが放った一撃は自分たちの中で最大の威力であったはずだが、確かにその限界までエネルギーを貯めたという訳ではないのかもしれない。ラグナロクはレヴァンテインのように事前に集めていたエネルギーを放出する形ではなく、剣の機構を解放してからエネルギーを集める方式であり――敵からの攻撃が激しい戦闘の最中において、天井までそのエネルギーを集めることなどは出来ないのだ。
もちろん、限界まで貯めずとも十二分すぎるほどの威力を有しているから、今までそれを使うことは無かった。もしもそのエネルギーを限界まで貯めることが出来たら、確かに肥大化する塊を葬ることも出来るほどの一撃を放てるかもしれない。しかし――。
「貴方の気持ちは分かりますよ、T3。あれだけ格好つけた手前、セブンスに頼るというのが情けないと思っているのでしょう。とはいえ、結局我々は持てる全力でアレに対抗するしかありません。貴方の言うように、感情を向けてやるのは勿体ないというのは同意ですがね。
生物がその身を巨大にすれば、自らを維持するためのエネルギーが多くなるのは永久不変の真理。そうなれば、巨大化したアレは先ほどよりも全体を復旧させるのにはより強大なエネルギーを必要とするでしょうし、その身全体を護るほどの結界を張ることもできはしないでしょう。
それに、あの有機物と無機物の化合物を完全に消滅させる必要もありません。ただ、指令を下している本体さえ倒しきることが出来れば良いのですから」
チェンはそこで言葉を切り、移動をしながら触手を迎撃しているセブンスとブラッドベリの方を見た。
「ともかく、もうあまり話している時間もありません。作戦としては、次のようになります……セブンスは可能な限り剣にエネルギーを集め、私たち三人はその時間をただひたすらに稼ぐ。シンプル極まりない戦い方ですが、向こうもそれだけシンプルな存在なので、まぁ丁度いいと言ったところでしょう……行けますか、皆さん?」
チェンが張っていた結界がその効力を失うのに合わせて、ブラッドベリが巨大な腕を薙いで漆黒の衝撃波を放ち、結界の代わりに自分たちのいる場所を保護してくれている。
「異存はない……未来に託す一撃。その一撃を放つまでの時間、必ず我が繋げてみせよう」
ブラッドベリは一瞬だけ少女の方を見て頷き、そしてすぐにチェンの前へと出て襲い掛かる触手を阻むために両腕でより強大な衝撃波を連続で放ちだした。ブラッドベリが止めてくれている間、少し余裕のできたチェンが、袖の中へと腕を入れ、少女の方へと向き直る。
「私は貴女を復讐の道具として作りました……剣の勇者の持つ優秀な遺伝子に目をつけ、強くなるべくしてその肉体を作り出し、そして情緒を制御して、DAPAの幹部を殺すための剣として生成しました。
それエゴだとあざ笑ってくれても構いませんし、それこそ私に対して怒りをぶつけてもらっても構わない……ですがどうか、今は貴女のその力を、あの化け物を倒すのに使って欲しい……その力で、我らACOの、私の友の無念を晴らして欲しいのです」
そこまで言って、チェン・ジュンダーは自らが創り上げた少女に対して深々と頭を下げた。この男と長く行動を共にしてきて、どうしようもない皮肉屋だとは何度も思ったが、本当の意味で無礼と思ったことは一度もない。この男は長命種であるエルフですら霞むほどの時を生き、本来人が持つ限度を遥かに超えた知識を持っていても、安易に他者を見下すようなことは決してしなかったからだ。
だが、それと同時に、この男が頭を下げている姿も記憶にない。チェン・ジュンダーは作戦上の失敗を認めることはあっても、それは持てる手札の中で最善を尽くした結果であり、誰かに対して詫びる必要性もまた無かったのだから、頭を下げる必要もなかったということなのだろう。
そんな彼が真摯に頭を下げたというのは、少女を利用するために生み出したという事実を認めつつも、一つの人格として尊敬し、対等な立場として敵の打倒を依頼することになるからだ。そしてそれに対して支払えるものが誠意でしか無いとするのなら、頭を下げるしかなかったということなのだろう。
肝心の少女の方は、男の誠意に少し困惑しているようだった。それは普段では考えられない殊勝な態度を意外に思っているというよりも、本当に自分にそれを為せるのか――それを心配しているが故の困惑なのだろう。
「……難しいことは何も考えるな。ただ、お前はお前の望むようにやれば良い……もし何かあっても、私がフォローする。必ずだ……だから、私からも頼む、セブンス」
改めてセブンスという名で彼女を呼んだのは、それが自分と彼女にとって相応しいと思ったから。確かに彼女には夢野七瀬の魂が宿っている。だが、目の前の少女は、既に自分にとっては思い出の中の夢野七瀬以上の存在になっている――だから、きっとこの呼び方こそが相応しい。
気が付けば、自然と少女の肩に手を乗せていた。三百年前のあの日、自分は自身に誓った。この小さな肩に世界の命運を乗せている少女を必ず護り通して見せると。より邪悪な陰謀が渦巻いているなど露とも知らず――そして自分はその不甲斐なさを呪い、流れる血を怒りに変えた。
そしてまた別の日、あの埃の舞う小さな納戸でもう一度誓った。この先に待ち受ける困難に際し、この少女の手をこれ以上汚させまいと。結局彼女の力を借りなければならないことを不甲斐ないと思いつつも、共に手を汚すことならできる――誰かの命を奪うという罪を、決して彼女だけに負わせはしない。
肩を掴まれた少女は一瞬だけ唖然とした様子でこちらを見つめ、しかしすぐにその瞳にいつもの輝きを取り戻し、力強く頷いて見せた。
「はい! 皆さん、私、頑張ります! ですから、皆さんも私に力を貸してください!」
男三人で頷き返し――そして一同で大きく距離を取り、少女を取り囲むように肥大化する肉の塊に対峙する。すでにルーナの巨大さは彼女の領域を遥かに超え、管理区の森林までその勢力を伸ばしてきていた。周囲の木々やその森に生息する生物たちすら呑み込み、その様態は更にグロテスクなものへと変貌している。
だが、それと同じくらい奇怪なものが視界に入ってくる。太陽光を取り込むために設置されている天井のガラスの外で、何か異様な物が渦を巻いているのだ。
太陽の光を呑み込んでいる漆黒の渦と言えばブラックホールが思い浮かぶが、それは極大の質量を誇る宇宙の渦であり、近い距離にあれば人工の月など簡単に引き込まれ、呑み込まれてしまうはずだ。しかし、その黒い渦はただそこに存在しているだけであり、周囲の物質を無理やりに引き寄せることも無い。ただ、そこを通過しようとする光はそのまま黒い渦に吸い込まれ、そのまま永久に脱してくることは無いようだった。