B&T~記憶喪失の転生者、伝説級の暗殺術で異世界ディストピアをぶっ壊す~ 作:五島七夫
とある少年の生涯
とある時代、とある場所に一人の少年がいた。彼にはいくつかの非凡な才能があったものの、生まれはいたって平凡であった。
交友関係においても、少なくとも学生の内は人並みであった。思春期において特別な友人関係を結べた訳でもないが、同時に誰かから後ろ指を刺されるようなことも無かった。もちろん子供特有の残虐さの的になることが無かったとは言えないが、それを体験しない者の方が稀であるレベルの巻き込まれ方である。そう言った意味でも、少年は特別に幸運であったと言えないまでも、同時に不幸な存在ではなかった。
そういった意味において、少年は恵まれていたと言っていいだろう。特別に幸福だったとは言い難いとは言えども、不幸などと言っては贅沢が過ぎる程度ではあったからだ。しかし、主観的にはそのようには認識していなかった。確かに他者と比べて自身がまだ恵まれた存在であることは自覚こそしていたものの、少年はそれでも自らの生を幸福なものとはどうしても考えられなかったからである。
自身が他者と比較した場合においてそう不幸でないと判定されるのは、そうなるように努力と苦心をし続けていたからだ。常識というコントロール不可能な前提には従い、世間体や社会通念とかいうものに則って勉学を行い、他人に馬鹿にされない程度に良い成績を修め、コミュニティから外されないようにおべっかを並べて、付き合いたくもない我儘な他人に振り回される――確かに時に楽しい時や嬉しい時がなかったとも言えなくもないが、所謂いっぱしとして生きるために腐心を続ける努力量を考えれば、その幸福量は総じてマイナスになる。これを贅沢ととらえる人もいるかもしれないが、少なくとも少年は自身が幸福とは思えなかった。
もちろん、こんなことを考えたのは彼が初めてではなかっただろう。彼だけが苦しみの原罪を背負っているわけでもあるまいし、そのことを彼自身も認識していた。しかし同時に、特別に不幸でないという点から言っても、少年はある意味では自らに失望していた。もし生来の何某かが原因で不幸であったのならば、それはそれで世を恨む権利がある。特別に不幸でないということは、世を恨むという権利を剥奪されているような無力感を味わうことになったのだから。
とくに少年が心を痛めたのは他者の存在だった。そもそも、不幸には概ね他者が介在する。もちろん、孤独であればこそ満たされないものもあるだろうし、そもそも関係性以外に発生する自然災害や病理などの困難だってある。だが、一人で生きていくことに関しては痛みや苦しみが隣り合わせにあるだけであるだけ、快か不快かだけが存在するだけである。
それに対し、他者というものは自分に対して様々なものを突きつけてくる。単純にこちらに対する欲求――何かをして欲しいだとかいう厄介ごとを持ち込んでくることもあれば、心をキチンと読まなければ不機嫌を返されたりする。そうでなくとも、他者とはそこに存在するだけで自分との差異をまざまざと突きつけてくる。自分よりも賢い者、身体的に優れる者、徳の優れる者、美しい者など――そんなものは長所の一側面にしかすぎないし、「人それぞれ」で済む問題と分かっていても、自身より優れている者を見てそのすべてを単純に受け入れられるほど、少年の器は大きくなかった。
結局、多様性を認めようなどという動きは、優れた者に対するルサンチマンに過ぎない。最上でない者が自らを慰めるために独自性という名の冠を被り、最上でなくても良いのだと自らの慰めるための方便だ。ローザを見ろ、差別なき世界を目指した彼女は、結局は劣等感にまみれた存在であり、アンドロイドたちを従えるようになってその残虐さを剥き出しにしていったじゃないか。人の本性とは、つまりはアレなのだ。
アナタが居てくれてよかったとか、アナタが好きだとか、そんなおべっかを聞かされたことだってある。ただそれは、それを言う者の周囲において、少年という存在が幾分かマシであるというだけ。もしその場にいるのが自分より優れたものが居たとすれば、その者は今よりも大きな満足を得るに違いない。
たとえば、組織においてある仕事を任されたとする。その業務において自身が現状の組織内で最も優れた能力を持っており、一定の成果を上げて評価されたとしても、組織外には自分よりも優れた能力を持った者が居り、その者が合流するとなれば、自分という存在はお払い箱になる。
要するに、誰かの隣にいるのは自分である必然性など全くない訳だ。自分という存在は同じくらいの能力を持つ者がいれば簡単に代替される程度の存在であり、自分以上の存在が出現すれば必ず不要になる。自分は永久に誰かの最高になることなどできない。絶対に超えることのできない壁がある――それが少年にとっては確かな絶望だった。
確かに少年には一部において優れた才覚があった。とくにハッキングの腕に関しては右に出る者がなく、そう言った意味では突き詰めた才能が一つは存在したのであり、そこにおいては誰よりも求められるという可能性は秘めていた。だが同時に――海と月の塔でアラン・スミスに指摘されたことが少年にとっては非情にクリティカルであったのだ。
少年は実際に、旧世界において当時の世界最高の権力者にその能力を認められた。しかし同時に、少年は自身の人間性の低俗さを見透かされて、失望されることを恐れた。人というのは総合で決まる。たった一つの突き抜けた才覚があってすら、他の要素が未熟であるのならば、人は簡単に他人から失望されうる。とくにデイビット・クラークが求めたのは、揺るぐことない自己をもつ強い意志であり、ちょっとした風にすらに自己を簡単に揺るがしうる弱き葦など、必ず彼を失望させてしまうだろうと少年は考えていた。
こんなことを言い始めたら、他者から求められる人間というのは、全ての能力において最高に優れていなければならないことになる。そんな人間など存在しえないことは、少年は十二分に承知していた。そもそも、人の能力というのは相対的な面も持ちうる――性格がその最たる例かもしれない。物静かな人間が好まれるケースもあれば、雄弁なものが好まれるケースもある。相対的な要素を持ちうる人間が全てにおいて最高ということはあり得ないのであるし、それを鑑みれば別段すべてが優れている必要がある訳ではないというのが道理だろう。
反対に、仮にすべての要素が抜群に優れていることが求められなかったとしても、それは弱さの肯定にはならない。もちろん弱さも相対的なものであり、ちょっとした欠点は親しみやすさに繋がるとか、可愛らしさにつながるとか、場合によってはプラスにも働きうるのだが――それでも少年は次のように考えていた。常に世間を冷笑的に見ている自分の性根の低俗さは、絶対に人から愛されるものでないと。魂のレベルで優れた徳を持っていない自分は、いつか必ず他者に失望される。それがどうしても恐ろしく耐えがたいものであり、それ故に少年は誰かと深い関係になることを避けていた。深い関係性にさえならなければ、失望されて見放されてしまった時の心理的なダメージを最小限に抑えることができるためだ。
さんざん御託をならえべた上で――時には責任の所在を他者に押し付けてしまったが――言えることは、要するに少年は他者から失望されることを何よりも恐れていた。隣にいるのがアナタでなければ良かったのにと言われるのが何よりも恐ろしく、それ故に周囲の人間のご機嫌を伺い、可能な限りの善意を振りまいた裏で疲弊を繰り返す。だが、それだけ他者に奉公したとしても、自分という人間は何者かに代替されうる。その理不尽さ、不条理さ、筆舌し難い無力感に、少年は常に腐心と苦心を繰り返し続けた。
もちろん、このような悩みも彼特有のものとも言えないだろう。クラークのような超人を除けば、心に占める割合が変わるだけで、彼の悩みは万人が持っている悩みとも言える。ただ、少年がそこに対して過剰に敏感であったというだけに過ぎない。だが同時に、これは人という種が何万年かけても克服しえなかった不幸の源泉とも言えるのではないか。
言語、宗教、科学と革命を起こしてきた人類は、確かに原初と比較して比べ物にならないほど進歩してきた。旧世界においては、人は古代の小さな群れであった時と比較して、飢えや病で死んでしまう確率はかなり下がった。武器も発達し、簡単に人を殺めてしまうことができるようになったとしても、その他の技術のおかげで世界的な死亡率は下がっていたのも確かだ。しかしそれでもなお、他者を介在させる不幸というものを、人は終ぞ克服することはできなかった。
そんな世の在り方に絶望した時――それはモノリスの真理に触れる前のことであったが――少年は洋の東西を問わずに思想を漁ることもあった。片や世の無常観を説き、片や論理的に真理へと近づこうという差異はあれど、最後に哲学者が語るのは社会の在り方であるとか、人としての幸福についてであった。
そして不思議なことに、それらの思想の多くは、世の在り方を否定的に論じている時は理路整然としていて雄弁であるのに対し、いざ幸福ついて語る時には結局は生まれ持った道徳だとか人の善性であるとか、抽象的な概念に帰結する。それは結局、不幸とは人の本質であり論理的に語り得るのに対し、幸せなどというものは存在しないという裏返しのようでもあった。
そんな彼だが、何も幼少の時から世界に対して絶望していた訳ではない。幼いころは漠然と、少年はこの世の不幸を振り払う正義の味方になることを夢見ていた。おとぎ話に語られる様な、この世の悪徳を振り払う勇者。少年は無邪気に、悪を倒せば自分も人も皆が幸せになると思っていた。
だが同時に、こういった物語が少年の情操に対してマイナスの影響を与えた部分も間違いなくある。彼は正義に憧れるが故に、自分の中に潜む弱さや不完全さというものを認められなくなっていた。言ってみれば、創作の中の理想的な人物と自身の精神性との乖離において、更に自身に対する失望を深めていった部分があるのだ。
もちろん、少年も人生において様々な経験を通じることで、どうやら人という存在は常に善では居られないということは――それは他者であれ自分の中に潜む悪徳であれ――理解をしていった。それ故に別に他者に正義を押し付けることもしなかったし、他者に何かを過度に期待することも無かった。
しかし、幼い頃に培った情動というものは、その後の道を規定してしまう側面がある。少年は本来物語の中にしか存在しないような高潔な人物をその人生の規範としてしまったため、人としての最高位は弱きを助け強きを挫く者であると思い込んでしまった。我が身の不幸も厭わずに戦う者こそ素晴らしい人であるということが、彼の魂の底に強く刻まれてしまったのだ。
だから、少年は自分という本性を認識するにつれ、自分という存在が許せなくなっていった。同時に、完璧でない自分を他者の目に晒し、失望されることが恐ろしかった――これがある少年の斜に構えた人格が形成されてしまったことの経緯である。
とはいえ、これだけならさしたる問題は無かった。自分にも他人にも期待を持てないのであれば、ただひっそりと生きていけば良い。それは幸福ではないとしても、少なくとも不幸を最小限に抑えることができる。そして、どうしてもそれすらも耐えられないのなら、死んでしまえば全てが片がつくと少年は思っていた。
それに合わせ、少年には三つの重大な転機があった。ひとつはこの世界の構造を知ってしまったこと、もう一つは現実には存在しないと思っていた本物の正義の味方を見つけてしまったこと、そして最後は晴子との子供が世界に生まれてこれなかったことである。
世界の構造を知ってしまった点について、少年は二課のメンバーに対しては「コングロマリットが仕組んでいる情報統制に抗ってやるという正義感」と語ったが、それは真実であったとともに、少年の動機の一部であったに過ぎなかった。少年がDAPAのデータベースにアクセスした本当の動機は、単純な好奇心だった。より正確に言えば、運命を感じ取ったとも言える。このまま死ねば不幸が終わるというのが本当であるのか、彼は直感的に違和感を持っていた部分があった。だからといってその答えをDAPAに求めたのは、本当にただの偶然に過ぎなかったのだが――しかしその偶然がモノリスがもたらした世界の真理へと少年を誘い、彼は無限に巡る生と、不幸の輪廻を創り出している超次元の存在に対して強い絶望と怒りを覚えた。
そしてそれ故に、彼は戦いに身を投じた。世界の趨勢を決めうる二つの巨大組織を手玉に取り、人の不幸の源泉たる高次元存在を必ず屠ってみせると。そこで目下最大の課題であるデイビット・クラークを倒すのに利用した原初の虎との出会いこそが、彼をより深い絶望へと誘った。
少年が虎に目をつけたのは、単純にクラークを倒しうる可能性を感じたからに過ぎない。むしろ、政府お抱えの暗殺者など、機械のような人間か、はたまた相当な乱暴者であると想像していたのだ。しかし、それはなんたる皮肉であったことか――虎の活躍を追っていると、彼こそがいつかの日に憧れた正義の体現者であったのだ。現実に存在しえないと割り切ることで少年は自らの心を慰めていたのに、どんな困難の中でも誰かのために走り続ける男が実在したことに対し、少年は心が千切れる様な想いをすることになる。
本物の英傑が世界に存在してしまっていたという事実は、結局は己が未熟故に自分は理想に辿り着けなかっただけであり――というより、やはり正義の味方にも才能が必要なのだとという真理を突きつけてきた。もちろん原初の虎の持つ技は彼の研鑽によって得たものであるが、彼の善性はむしろ生まれ持ってのものであり、少年には最初からなかったものだった。
理想人物が実在してしまった以上、自分がただの凡夫であったと思い知らされた。その魂の本質からしてその背には永久に追いつくことが出来ないのだと思い知らされる――だから、少年は己の理想を殺し、自分が消え去る道を選んだ。選んだはずだった。
それでも、少年はまだ心のどこかに希望を捨てきれなかった。取り返しのつかない過ちを犯しているのにも関わらず、まだどこかに不幸を埋め合わせるだけの幸せがあるのではないかという期待を捨てきれなかったのだ。それでさんざん悩んだ挙句、晴子を迎えに――兄を殺してどの面を下げてといわれてはその通りだが、兄本人の頼みでもあったから――行った。
ただしそれは、当初の計画と並行した上でのことである。晴子は確かに今まで出会った他の者たちと違う印象を受けたし、淡い期待こそあったのだが、所詮は他人だ。自分に幸せを与えてくれるとは限らないし――何より、仮に今生が幸せであったとしても、次の輪廻で幸せとも限らない。そうなれば、やはり計画通りにことを運ぶ方が、大局的に見た場合に保険になると言えたし、恐らく大本の計画通りになるだろうと少年は踏んでいた。
子供が欲しいと晴子に言われた時も、少年は反対したい気持ちでいっぱいだった。それでも、他者からの失望に耐えられない彼は、晴子の願いを無下にすることができず――子供などいらないと言えば彼女から失望を受けるだけでなく、男として見捨てられる可能性すらある――受け入れざるを得なかった。
同時に、自身の子供を設けるということは、まさしく少年にとっては最後の賭けでもあった。それは概ね絶望側に傾くだろうとは予想していた。自身の遺伝子情報を持つ者に不幸を味合わせることに他ならないという不憫さ、自らの子供から失望されてしまうかもしれないという恐れ、そういったネガティブ要因の方が先行したのは勿論だが――子供を設けることで何かが変わるのではないかという淡い期待があったことは否定できない。
もしかすると、それは人としての本能であったのかもしれない。生あるものは子孫を設けるためにこの世に生まれ、自分の遺伝子を次の世代へと繋ぐ。そういった本能が自分の心に働きかけており、半分は使命感のような面持ちで、自らの子供の来訪を期待していたのかもしれない。
いずれにしても、彼の期待は裏切られることとなった。結局、シンイチは生まれてくることが出来なかったのだから。もちろん、全ての倫理観を無視すれば、自分達の子供に息を授けることは不可能ではなかった――息子のDNAは残していたし、第六世代型アンドロイドを作れるほどの技術力があるのだから、人一人を培養することな訳ないことであったのだから。
しかし、それでは晴子が納得もしなかっただろうし、少年自身も納得できなかったように思う。もちろん、息子のクローンを作れば幾許か気を紛らわせることは出来たかもしれないし、そもそも旧世界において禁忌とされる領域に足を踏み入れて人のクローンを作っておいて今更ではあるが――結局人というのは愛の営みとして生まれてくるべきものであり、水槽の中で培養された存在を我が子と認めることが憚られたせいだろう。
同時に、少年は今更になってこう考える。何かを世界に遺すということこそが、やはり幸せにつながる道ではなかったのかと。彼の一万年の同胞たちの最後を見ていると、そう思わざるを得ない。
ファラ・アシモフは第六世代型アンドロイドたちを護り、その生を終えた。フレデリック・キーツは息子のシモンに宇宙の夢を託して散った。リーゼロッテ・ハインラインは遠い後胤に技を残して自ら幕を引いた。そして自分と同じく超越者を恨んでいたダニエル・ゴードンですら、ソフィア・オーウェルが紡ぎ出した可能性を見て、氷の花束に眠った。
彼らも自分と同じような罪人であったはずなのに、自分と同じように何かに絶望し、恨み、世を儚んでいたはずなのに、その最後が安らかであったことを思えば――結局人というものは、魂の幸福というものは、続く者に何かを遺していくことでしか得ることができないのではないかと、彼らを見ていると思わざるを得ない。
しかし、世界は自分にそのチャンスをくれなかったではないか。もちろん、七柱の創造神と呼ばれた者たちの中において、自分が最も罪深い存在であり、それ故にそういった因果が巡って来て、子を成すということを摂理が許さなかっただけかもしれない。
いや、今になれば分かる。今や少年は自身の配下にあるウイルスによって高次元存在を自らの手中に収めはじめ――莫大な領域に対してまだほんの数厘にも満たないほどではあるが――その支配域は凄まじい勢いで拡大していっている。それ故、今や何もかもが分かり始めている。自分が子を為せなかったことは単純に宇宙生活において胎児の成長と出産に無理があっただけであり、我が子を抱けなかったことは自分に対する罰などではなく、高次元存在が何か働きかけてきたわけではないのだと。要するに、避けようのなかった悲劇であったと同時に、結局は妻に宇宙で出産せざるを得なくなった原因を招いた自分自身が招いた因果ともいえる。
それと同時に分かったこととして、自分自身にも高次元存在の加護があった。より正確に言えば、全てのものたちに加護はあるし、だからといってそれ故に高次元存在が特定の個体に対して何か定めを課すわけでもない。それも当然だ、超越者たちは三次元の存在が生み出すカオスを観測するために知的生命体を生み出したのだから。上位者の側で個体に使命を課してしまえば、それは上位者の意識を間接的に体現しているだけに過ぎなくなってしまう。
しかしその中でも、宇宙の存在意義を見出すのにある種決定的な意思を持ちうる者に対し、上位存在は特殊な因果を与える。その因果の元にある者は、自分の目的を達するために多少の因果が味方をしてくれるようになる――自分が原初の虎を二度退けたのは、まさしくこの因果のおかげでもあった訳だ。
その事実も少年の神経を逆なでした。自分が選び取ったと思っていた選択は、確かに自分自身で選び取ったものであったが、ある程度は実現できるようにお膳立てが整っていた訳だ。それに、自らを葬り去ろうとしている敵対者に対して餞別を与えていたという上位者の余裕も気に食わない――もちろん、それは自分だけに対してでなく、やはり原初の虎にも与えられていたのであり、そういった意味では公平であったとも言えるのかもしれないが。
とにもかくにも、結局少年には自分の意志を継ぐ者など現れなかった。自分のような破滅的な思想に染まった者が何を継ぐというのかという疑問はあるし、仮に何か継承したい想いがあったとして、それを誰かに継いだとしてもだ――その一時だけは満足するかもしれないが、結局それを過ぎればいつも通りの苦悩にまみれた生に戻る。
そう思えば、結局他の七柱たちが満足のままに逝ったのは、最大限に幸福であったと言っていいだろう。要するに――乱暴な言い方をすればだが――彼らは人生の絶頂で事切れて、あたかも何かを成したような気になれただけなのだから。もし彼らの生がもう少し引き延ばされていたとするのならば、結局は不満足に立ち返ったに違いない。そして次の生を受けた時には、最終的には生の苦しみに苛まれ、結局はナンセンスに帰結するわけだ。
だから、全てを終わらせる。それが、人間に課された不幸という名の原罪を振り払う唯一の方法なのだから。全てが終わってしまえば、もはや幸福は生まれようもないが、同時に不幸も生まれない。莫大な不幸を消し去る対価として、ありうるかもしれない僅かな幸福を払う。それにより、不幸の連鎖を断ち切ることができる。それが少年の独りよがりであったとしても、高次元存在の課したくだらない因果を断ち切ること自体は、幸福量の面から見れば確かな合理性を持ち合わせるはずだと、少年は自分に言い聞かせて――そして周囲を見回した。
超次元の狭間において感覚的な情報などはもはやほとんど無意味なのだが、まだ人であった時の名残から周囲を観察すると、その情景は次のようになる。無数の光が点在している星空のような空間。上も横も下もあり、同時に軸をずらせば他の可能性の元に進んでいた宇宙にすら行くことが出来る。はたまた、また別の軸をずらせば過去へ行くこともできるが、どうやら未来へと行くことはできないようだった。
そして少年を取り巻いている光のような存在こそ、人々に宿る魂、高次元存在がもたらす意識の断片である。それを少年の見知った表現に置き換えれば、そこには無数のモニターが存在している、というのが分かりやすいだろうか――まだ現世に幾分か残っている者たち、それも全ての時空間、全ての過去、かつあらゆる可能性の彼方にすら存在しる意志ある者たちが見ていること、感じていること、思考していること――つまり生物の意識が見せる断続的なイメージが、様々な形のモニターに映し出されているのだ。
ただいま少年はこの光たちを自らのウイルスでコントロールし、高次元存在の領域を犯していっている訳である。砂嵐が映されているモニターは少年がコントロールできている領域であり、この全てが砂嵐になれば世界に冬の沈黙が訪れるという算段だ。
未来の光景が無いのは、少年が自らの悲願を達成するが故に存在しえないのか、はたまたまだ幾分か人間的な感覚の元を持っている彼の感覚では捕らえられないのか――光がもたらす景色は常に過去のものであり、未来から光が届くことなど決して存在しえないからかもしれない。超次元であれば時間軸すら超えられるはずだが、まだ高次元存在を完全にものにしていない少年には、未だ未来の可能性という物を捉えきれていないだけの可能性もある。
(……いいや、最初からこの先など無かったんだ。何故なら、この宇宙はここで終わる定めだったんだから)
それ故に、未来を見ることはできない。それ故に、未来に行くこともできない――全てはこの僅か先で途絶えるのだから。周囲で一生懸命に何某かを映し出しているモニターはどんどんと砂嵐を映す様になっていく。それはまさしく、開闢《かいびゃく》から紡がれてきたすべてがその役割を終え、未来など存在しえないことを証明していることを象徴しているようだった。
この選択が最良だったとは思わない。宇宙に何某かの意味があったという方が良かったのは十二分に理解している。結局のところ、本当なら自分のことなど歯牙にもかけていないはずの他者に対して必要以上に怯え、最高でない自分に対して自己嫌悪に苛まれ続けただけであり、言ってみれば世界に対する認知を歪めて肥大化する自己をコントロールすることが出来なかっただけ。それは少年自身も理解している。
しかし、自分はこの傾向が他者と比較してより顕著であっただけだ。もし自分がこの場に立たなければ、遥かの未来に自分と同じように結論を出した者が、同じように行動していたとも限らない。仮に自分以外に現れなかったとしても――世界に意味が与えられるとも限らないではないか。
遥かの昔に少年らの世界にモノリスを授けた古い種族ですら――実はその存在こそ惑星レムから外宇宙へと旅だった者たちである――自分たちなど比較にならないほどの技術力と知識を蓄積させているにも関わらず、この宇宙に未だに意味を見いだせていないのだ。彼らは既に半ば肉体と生殖を捨てており、自己修復と拡張を繰り返す反有機的な宇宙船と融合し、半ば意志のみになり、彼らなりに宇宙の意味を探しながら宇宙を何億年も彷徨っている。
先行する種族にすら見いだせなかったものを、今更自分達が見つけられるとも思えない。もちろん、先行する種はあまりに高度に発展してしまったが故に、思考が硬直している可能性もある。そこで――たとえばダニエル・ゴードンがそうしたように――敢えて後発を育てることで新たな気付きがあるという考え方も出来るかもしれない。それこそある意味では、高次元存在が三次元の存在を作り出したように。
少なくとも、旧人類はそれを成すことが出来なかった。そして、自分達が管理していたこの箱庭でもそれは為されなかったし、過去に存在したありとあらゆる有機生命体を全て束ね合わせたとしても、結局宇宙の意味が見つかることも無かった。個人がそれらしい結論を出したとしても、それは結局は普遍性を得ず、それ故に思想が統合されることも無かった――結果として、魂は肉の器の内で永遠の孤独に苛まれ続けるだけだった。
宇宙が生まれてから数多の魂が巡っていったが、結果は変わらなかった。それは、もしかすると最初から決まっていたことなのかもしれない。何故ならば、そもそも魂を生み出した上位存在そのものが、世界に対して意味を見いだせなかったのだから、そこから生まれた子供たちも同じ場所に帰結するのは何もおかしなことでないからだ。
ナンセンスから生まれた者は、結局ナンセンスに還るだけ――次元的に微分をしてみても、肉の器に封ずるという化学変化を起こしてみても、思考する自己が高次元存在という無意味から生まれたのなら、無意味に永劫回帰するのは自然の摂理であったのかもしれない。だから、少年が持った諦観は、知的生命体が生まれた当初から定められていたとも言える。
そうなれば、今の自分は全ての魂の代弁者である。かつて星右京と呼ばれた自らの人格が陥った負のスパイラルは、多かれ少なかれ全ての知的生命体に宿る魂の本質であるというのなら――いつかの時代、いつかの場所で生まれたとある少年が背負った業は、主たる高次元存在の過ちを清算する事に繋がっていたのだ。この宇宙に無意味を返し、永久の沈黙を下ろす。それが全ての魂に安らぎを与える唯一の方法である。
そして、もうじき全てが終わる。先ほどは数厘に過ぎなかった少年の支配領域は、すでに半分程度に拡大している。その支配域が爆発的に増加したのは、レムが予想した通りにウイルスが指数関数的に増えるからであるのだが――ふと、少年は何者かがこの空間へ侵入してくる気配を感じた。全ての時空間に通じるこの領域においては、ある意味では全ての意志が存在しているとも言えるのだが、それでも強烈な違和感を覚えたのは、本来なら超次元の園においては存在しえない質量を感じ取ったからだろう。
それは、世界に無意味を返すことを吉としない魂。どんな絶望の中でも立ち上がり、どれ程の過酷の元にいても走り続ける男の意志。その強力な意志は次元の闇を引き裂きながらこちらへ向けて近づいてきているのだ。