ねぇダフネ、君が死んで始まる物語   作:羽毛まみれ

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アズカバンの囚人①

 

 

 組み分けの儀が終わった学期初めの挨拶の最後、ダンブルドアは「皆にいい報告がある」と両手を広げ、付け加えた。新任教師の紹介が終わって尚シリウス・ブラックのアズカバン脱走や、それによるディメンターのホグワーツ警備のために、顔の皮膚を岩肌のようにつまらなく強張らせ、飲み下せない不安をツラにぶら下げていた生徒たちは一様、その言葉にフ…と睡蓮の如く顔を浮上させる。皆が続きの言葉を大人しく待って、行儀のよい沈黙を預けていた。

 

 この偉大な魔法使いはホグワーツと言う混沌とした大箱における指揮者のような役割を担っている。譜面のない即興音楽より不安定な思春期の子どもの精神を、指先や言葉で調律し、いとも容易くまとめ上げるのだ。ダンブルドアはその様子に瞳を細め、大広間をゆっくりと…満足そうに見渡した。それはさる政治家のように一見すると高慢で支配的にも受け取られかねない仕草であるはずなのに、彼のもつ人懐こい親しみ深さと人望のおかげでそのような負の演出効果は根こそぎ取っ払われる。

 生徒たちの頭を優しく撫でるような声音と微笑みには、自分たちの祖父母にだらしなく甘やかされているときみたくトロトロとした無条件の安堵があった。心臓が真っ赤にふやけるほどの安心を、生徒たちはこの善良な学校長に感じているのだ。

 

「──五年生にひとり、転入生を迎え入れることとなった。皆に素晴らしい仲間が加わるのう……」

 

 ……世界中から集まる敬愛と忠誠で軍でも国でも花束でも作れるだろう老人は、実に楽しげな声でいたずらっぽくそう言った。その言葉は、スタッカートやフォルテッシモの合図となる。

 途端、大箱に詰められていた一塊の沈黙は解体され、小規模のざわめきが重なって大輪の波紋となる。瞬間的に隣り合う友人たちのどちらかへと頬を寄せ、新鮮な驚きを皆が共有しはじめた。

 

「おったまげ! 転入生だってよ、しかも五年、ってことは十五歳! 今までソイツは何してたってんだ」

「ロン! きっと何か事情があるのよ、……ほら、今まで病気をしていて自宅学習だったとか」

「前の学校を退校処分になったとか?」

「もうっ、あなたねぇ……」

「でも、僕も聞いたことないよ、五年生でわざわざホグワーツに転入だなんて」

 

 それは花が擦れ合うように可愛らしくも、年若さ故に不躾で遠慮のない憶説たちであった。大広間全体に顔のないコソコソ話が降り積もってゆく。件の転入生らしき人間の姿をここに来るまで誰も見かけていないということも、集団の無責任でその場限りの憶測に拍車を掛けさせていた。

 こうなってしまえば子どもの無邪気さは子ども故に増幅し、手に負えなくなる。もしもやむを得ない理由で遅刻をしているならば、出てきにくいことこの上ないだろう。そうでなくとも子どもとは退屈を持て余す生き物だ。全寮制と言う規律が骨組みの世界であるならば尚のこと。マクゴナガルはいい加減、この娯楽に飢えた活きのいい少年少女たちを整頓せねばと思い口を開き掛けた。

 

 しかし、老魔女の唇よりも一拍早く、大広間の分厚く巨大な扉が、ソッと開いたのだ。

 

「──……」

 

 観音開きの両扉が、それこそ神様の掌のように均等に隙間を開く。生徒たちはハッとしてそちらを見た。無数の視線の圧力と好奇心が、ただ一点に集中する。

 

「…………」

 

 途端、大広間は裏返ったように静かになった。生徒も、教員も、吐息すら忍ばせ、ただ黙した。美しい異邦人の、硬質な足音だけが響いていた。

 

 彼/彼女を一目見た瞬間、氷のように冷たい女の掌でソッと背中を撫でられたような正体不明の怖気が走った。きっと、大広間にいる全員がそうであったことだろう。女の見てくれをしたその佳人は、あからさまに異質であった。

 波の如く押し寄せる無数の注目と不躾な視線を、シャワーでも浴びているように無関心気な横顔をして気を配る素振りもなく、たった今入室した何某は、大広間の中央を堂々縦断する。その歩行は淀みなく、見上げてくる誰とも目は合わない。無視をしているのではないはずだ。多分、他人の注目が本当にどうでもいいのだろう。そう思わせるほどにその人は自然体であった。だから、生徒たちは皆、彼/彼女の肌に吸い付く水滴の一粒にでもなったような気分となる。人が勝手にそう思い込んでしまうほど、その転入生は絶望的に美しかった。

 

 ──絶世独立の気高い蛾眉が、大広間の中央を興味なさげに冷徹な横顔で闊歩するサマは、モネの池でも掻き分け水の中を悠々と泳ぐが如くであった。

 口さがない想像を働かせていた少年少女たちは一様に押し黙った。スキャンダルとは無縁の・清潔で気高い白百合のように厳格な美人が登場したからだ。そこに背筋を伸ばして立っているのを見るだけで、勝手に負い目や恥ずかしさを他人に一方的に抱かせてしまうほどの、手垢のない神聖で厳格な麗人であった。

 

 彼/彼女がリフェクトリーテーブルの合間を一直線に通り過ぎるその瞬間、生徒たち群衆の視線はその背中に吸い付き、首を伸ばして顔の向きごと連れてゆかれてしまう。そのサマはすれ違う空気の轍に波が立って睡蓮の頭が揺らめくようである。硬質でつれない背中が、両手をポケットに突っ込んだままローブを翻しながら決して振り向かず進んでゆくから、つい視線だけで熱く縋りついて心の栓を抜かれてしまうのだ。

 

「女子、だよな……」

 

 ロンが口を締まりなく開いて釘付けになったまま、腑抜けた声で呟いた。その薄い肩、しなやかに伸びる脚、華奢で細い顎は言うまでもなく女性特有のものだ。しかし彼/彼女は規定の女子制服を着ていなかった。それどころか、ホグワーツの制服ですらないようだ。いくつかのボタンを無造作に開けた麻の白シャツが、ハイウェストの黒いテーパードパンツに薄い腹の上でキュッと絞られ、足元はこれまた艶やかな黒色をした高いピンヒールのショートブーツだ。

 これによってただでさえ短い/細い胴を更に短く/細く、長い/しなやかな脚を更に長く/しなやかで人間の内臓の設計を無視したみたいな細造りに見せている。胃や小腸の部分まで足のようでさえあった。

 上背とて実際は平均よりも少し高い程度なのだが、その気後れなく伸びた背筋と高い腰の位置も相まって、印象としては見上げるほどに凛々しい白雪の騎士だ。上下無地のモノクロ無彩色にローブを羽織っただけの簡素な姿であるくせに、四色に同じ型取りで整頓された一団の中では、シンプルさは却って目立つ見栄えとなった。むしろその飾り気のない無愛想は嫌味なく着こなされた途端、強靭な引力となるのだ。素材の良さを存分に引き立たせ、飾り立てる必要もないほど洗練された風流人と見える効果を持たせた。肩の力が抜けた感じがどうにも酒脱に思える。

 

 光が泳ぐ白金の滑らかな髪はハンサムに短く襟足まで刈り上げられており、清らかに生白いほっそりとしたうなじを無防備に晒していた。一方で長い前髪は細面の横へ無造作に掻き上げられている。しかし、歩行に合わせて崩れてしまった一房が、目尻の前に垂れて揺らめいたのを群衆がみとめたとき、彼/彼女はグッと官能的になった。男装の麗人みたく痺れるほどにハンサムな白百合が初めて見せた完璧の綻びであるからして。

 隙とは色気で、すなわち人間らしさだ。大抵のホモサピエンスは如何に美しいと言え、美術品に恋はしない。愛は抱いても性衝動など以ての外だ。つまりは氷の彫刻とでも思われ鑑賞されていた彼/彼女はこの僅かな隙で見物人と同じ人間の土俵に上がったのだ。氷水が血液となった。

 この瞬間、今までの不躾が嘘のように衝動的にサッと目を逸らす少年少女たちがチラホラ現れた。しかしまたすぐ上目がちに目線をオドオド彼/彼女へと戻す。同じ人間だと気づいたから、途端素面に戻って恥ずかしくなったのだろう。でも勿体ないからコッソリ見つめていたい…そんな精神麻痺から解放された先の精神異常が症状として現れたのだ。

 しかし、その一切を眼中に入れず、冷淡に顎をツンと上げ、民衆にニコリと微笑みかけるどころか一瞥も寄越さず、ヒールを打つ音だけを残して大股に素通りしてゆく。その気高き姿は女王の凱旋みたく…孤独を誰よりも着こなしているようであった。

 

 転入生が自分の傍を運良く通り過ぎるとき、きっと皆、少しだけ身を引いて、けれども羞恥と緊張に打ち勝ったものだけがドキドキしながらチラと見上げるのだ。彼/彼女は瞳が特に印象的で吸い寄せられる。

 一雫の滑らかな玉と言うよりは、大胆なブリリアントカットのために棘のある煌めきが窮屈に押し込まれているふた揃いの高貴な紫だ。触ればたちまち怪我をしそうな出立ちである。だから皆が無遠慮を慌てて引っ込め始めた。怪我はしたくない。ただ鑑賞はしたい。そして、できることなら跪いて掌に口付け、アナタの孤独の片棒をどうか自分にも担がせてほしいと発作的に訴えたくなる魔力がある。傅いて、彼/彼女の孤独の一部になってみたい。共犯は、手っ取り早い特別だから。

 

 例外中の例外として、学期初めの宴会を中断させる形で本来ならば全校生徒に品定めされるアウェイの舞台にひとり乗り込んだ異邦人の、一見無愛想で自己主義的な支配者仕草はしかし、反感を買うどころか…注目に物怖じしない背筋の伸びたその佇まいに皆、熱っぽくだらしない顔つきとなり、ボウと見とれている。

 注目を無関心気に袖にする転入生の周囲には何だかしっとりとした雨が纏わりついて見えるようでもある。……つまりはそれほど悲し気で、腹を重くする黒い色気があったのだ。

 

「──よく、来てくれた」

 

 少年少女の心に花嵐を巻き起こしながらも、ピンヒールの冷淡な音とともに颯爽と過ぎ去っていった髪も肌も真っ白な転入生は、ダンブルドアの目の前でザッ、と軍人みたいに力強く立ち止まる。

 そしてポケットに手を突っ込んだまま、一転アイリッシュダンスの身軽なステップでも踏むようにひらりと真正面へ振り向いた。カッ! と軽やかにヒールが石畳を打ち鳴らす音が、生徒たちのおぼこな心も弾く。彼/彼女のその身のこなしに合わせて薄いローブがラッパスイセンの如くトロリと一瞬花開き、また一拍後に沈黙した。落ちていた前髪もフワリと持ち上がったから、ツルリと滑らかな額が全開になったのも束の間、またすぐにひとひら白金の髪は流れ、細面の左半分に薄い影を差し込む。

 

 無礼で奔放な態度に文句どころか熱でふやけた溜息しか出ないのは、きっと転入生の仕草──特に末端の細部が、神経質なまでに整頓されて優雅に見えるからだろう。

 髪の一房、ローブの裾まで彼/彼女の意志が行き渡り、軍隊の如く統一されているようであった。それは一見すると癇癪的で乱暴な落書きが、実はある規則性の元に描かれた幾何学模様であると判明したような清潔さを感じるのだ。

 だから見物人たちはこの横暴染みた自由人の振る舞いを、熱っぽく見つめることで済し崩し的に許してしまっていた。指導して正すまでもない調律と計算に基づいた妙な心地よさを、いつの間にか抱いてしまっていたから。

 

「紹介しようかの」

 

 ダンブルドアが緩慢に両手を広げる。彼/彼女は無言で鋭角な顎を不遜にツン、と持ち上げた。喉元から鎖骨にかけての、鮮やかに白く生々しい曲線を描いた渡りが大胆に晒される。

 スラリとした細身の体は骨っぽく痩せているが、それが骨格の天性の美しさをより強調している。白い乳房のふくよかな輪郭が開放的な襟元からわずかに覗いている。服の下のなだらかな裸体に特徴的なゴールドのチェーンネックレスのようなものが巻き付いているのが、彼/彼女の華者の演出に一役買っていた。

 本当に、遠目で見れば何としてでもお近づきになりたいし、近くであればその凄まじい存在感に尻込みして逃げ出したくなる。そんなド迫力の美人であった。

 

「彼女はローレル・ダンブルドア。聞いての通りわしの身内じゃ。この度スリザリンに転入となった。皆の新しい学友と言うわけじゃな……仲良くしておくれ」

 

 ダンブルドアが懐から取り出した杖を軽く一振りした。すると、模様が肩から裾へと滑り落ちるように、彼…彼女の無地のローブがスリザリン生のものへと様変わりする。彼女はサッと左足を一歩下げると向かって右手、スリザリンの生徒席へ顎を僅かに引いて目礼した。

 

 しかし、生徒たちの方はと言えば歓迎の拍手をするどころではない。ダンブルドアの言葉を皮切りにブワリ、と分厚いどよめきが膨らんで波の如く大広間中を伝播した。

 誰しもが目を剥いて「ありえない!」と囁き合っている。それは、スリザリンの生徒も同じであった。「ダンブルドアの身内が? なぜ! グリフィンドールの間違いじゃないのか」と。

 しかし生徒たちの声が重なりあって一塊の群れを成した喧騒は、掌をパン! とひとつ打った音に蹴散らされた。ダンブルドアが指揮棒を振るう代わりに柏手を強く打ったのだ。

 生徒たちはハッとして目を上に下にと彷徨わせ、口を噤んでゆく。転入生は相も変わらず冷徹な能面で、他人事を見る瞳をどこでもない場所にボンヤリと向けて黙すばかりである。どよめきが吹き飛ばされた直後の沈黙は、どこか気まずく痛かった。

 

「オホン……転入生も無事新学期に間に合ったことじゃしな……お待ちかねの宴会を始めるとするかのう」

 

 ダンブルドアは転入生の肩を抱くようにトン、と掌を置き、スリザリンの生徒の方を柔らかく示した。言葉はなかったが、何だかそれが凄く気安い感じがした。双方の重心が微妙に傾いており、ソッと寄り添い合っているように見える。

 許容の範疇を測り合う時代はとっくに過ぎた、互いの深堀も一通り終わっている人間たちが見せるような生ぬるさのある独特の距離感だ。年の離れた身内というよりも、吐く息の温かさすらも知り尽くしている古い友のようであった。気心知れた仲…とでも言うのだろうか。あえてのその沈黙は深読みさせるには十分の厚さがあった。

 転入生は委細承知というふうに、前を向いたまま小さく頷くだけをしてダンブルドアの傍らから静かに身を離す。そしてニコリともせず容易く前方から視線を外し、ポケットに手を突っ込んだまま、お前たちの疑間に答える義理はないというふうな素っ気ない態度で少年少女の前をカツカツと素通りする。もの言いたげな生徒たちの沈黙を、そのピンヒールで踏みつけにするように。

 しかし、彼女の一見すると反感を買って学園共通の敵になりそうな冷ややかさには何だか妙な説得力があった。既に生徒たちは圧倒されて、気持ちの上では押し負けており、ジロジロと品定めができるほど強気にはなれなかったのだ。確かに転入生は無愛想でおざなりだが、それと同じくらい臆していない。

 堂々と踵を鳴らし、ダンブルドア以外の教員も生徒と等しく眼中に入れてない。その平等な冷徹さと一本筋の通った高慢さが、ただ無礼な印象よりも近づきにくい高級さを優先させた。

 それに、ダンブルドアへの言葉少なに手ぬるい態度が、仮面の下の体温を言外に示唆しているから。具体的な例外を見せつけられたがために、彼女に許された数少ない人間がキンと冷え込んだ美貌に加え、人肌の温度と甘やかさにきっとありつけるのだろうと強く思わせた。その冷徹さは用心深い貞淑へと変換され、その関門を潜り抜けた人間にのみ、親しみ深い眼差しがわかりやすい優越感もおまけとして与えられる。そんな想像を思春期の少年少女たちは必然的に働かせてしまったのだ。

 彼女の特別に誘惑されたから、彼女の非情を許容した。皆に優しければ意味がない。このお目通しでたった今築かれた彼女の付加価値が損なわれてしまうから。

 転入生の美しさもその裏付けのひとつとなっていた。気位の高い白猫が、自分だけにその毛並みを触れさせるのは自慢になるだろう。故に彼女の横暴に嫌悪を示す人間はどの寮にもほとんどいなかった。彼女が座ったスリザリン席の周りには妙な空間が空いているが、それは皆が一様に出方を伺っている証拠だ。ファーストペンギンたる勇者としてお近づきになりたい一方で、いち早く袖にされることを恐れている。人間関係は最初が肝心で、失敗を仕切りなおすには強引でも軌道修正を掛けられるほどの運と強烈な魅力を必要とするから。往々にして凡人に再チャレンジの資格はない。だからこそ彼女の許容を探り得る実験体たる生贄が欲しいのだけれど、同じくらい抜け駆けされることを恐れていた。

 

「やぁ、歓迎しようじゃないかレディ。スリザリンへようこそ」

 

 故に、牽制が飛び交う社交の場では、自分に一番自信のある序列上位のオスから名乗りが上がると相場は決まっているのだ。

 

「──ルシウス・マルフォイの倅か」

 

 顎をクイと上げ、細面を僅かに逸らして傾けると、隣に座った男を流し目でみとめ、それだけを言った。その存外低く、ゆったりと落ち着いた声に、いち早く隣へと座った少年──ドラコ・マルフォイは鋭角に眉を眺ね上げさせ、顔の右半分をキッと顰めたまま「僕の父上を知っているのか?」と矢を素早く飛ばすように早口で口走った。

 声には隠し切れない険があった。この自尊心の高い少年は、不躾を見物する分には面白がれるが、いざ当事者として彼女の冷たい肌に触れれば、咎めずにはおれないタチであった。

 

 横顔ばかり向けられているのも癪に障る。彼がひとたび不機嫌な顔をすれば、神経質そうでヒステリックな印象が一気に前面に出る。しかし彼女はマルフォイの不機嫌も意に介さず、長い脚を緩く組んで足首を持て余すようにフラつかせている。まるで勝手に機嫌を損ねたのはお前だとでも言うように、彼の不機嫌を彼だけに押し付ける素っ気ない態度を見て、ドラコは何だか、自分ひとりが身勝手な不機嫌を抱えた悪者になったみたく不愉快な気分に陥った。

 

「おい、君、」

「……ああ、知っているとも」

 

 そこで初めて転入生は、ドラコの方へと顔を向けた。行儀悪く頬杖をついて姿勢をかがめ、上目で彼の顎を掬い上げるように。

 

「去年、アルバスが随分と世話になったみたいだからね」

 

 彼女は満を持してそれだけ言って、閉じたままの唇を横に薄く引き延ばすだけのニンマリとからかう強気の笑顔をつくって、視線だけでドラコを見上げた。

 

「、」

 

 ドラコはそれを聞いてギクリとした。アルバスと言えばひとりしかいないではないか。

 

 少年の父親は昨年秘密の部屋絡みの事件でダンブルドアを学園から一度追放している。しかしそのたくらみは結局のところ挫かれ、あの忌まわしき英雄殿に屋敷しもべ妖精と寮杯をかっさらわれたことを思い出したのだ。

 

 この美しい毒蛇はそれを知っているらしく、よりにもよって当てこするように衆目の面前でドラコの差し出した掌に噛みついたのであった。

 ドラコは彼女のその意図と、腹のうちの黒い毒に思い至った瞬間、カッ、と薄肌の下の血を沸かせた。名状しがたい憤りと屈辱が血管の中でブワリと膨らんで背筋を駆けあがったのだ。今しも破裂しそうな発作的な怒りである。ドラコの庭に等しいスリザリンの縄張りで、その王たる少年と父君を侮辱した。彼が折角示してやった心づけを袖にして。少年の瞋恚は真っ赤に燃え上がる熱情の色である。高貴な青い血も、目の前の美しい女へ抱いていたはずの素朴な好感が反転して、滾る怒りに染め上げられる。

 この礼儀知らずな獅子気取りの牙を抜いて、毒液の吐き出し方も忘れた従順な白蛇に躾なおしてくれてやろう、と。ほとんど衝動的な悪意が引き攣れとなって指先まで走り抜けた。

 

「っ、」

 

 しかし悲しいかな、この柔らかな白肌の香る艶女は、ドラコよりも二年ばかし長く生きている蛇なのだ。彼女は白蛇の尾…あるいは頭が捕食のために獲物を絞め殺すときにそうするよう、シュルリと素早くドラコと自分の指先同士を絡ませた。

 つい今しがた、未端まで浸透したドラコの憎悪を滑らかな細指が宥めるような甘やかさで、スルリとひと撫でしたのであった。

 

「な、にを、」

 

 燃え上がる皮膚にペタ、と冷ややかな肌が触れ、怒りが喉に詰まったみたく潰れた調子はずれの声が咄嗟に飛び出た。彼は貴い血の嫡男で、言うなれば四角四面の箱に詰められた坊ちゃんであった。政治家の腹より黒い意地悪な毒には耐性があるが、女の水っぽいルージュのレッドをした鳥肌が立つほどに甘やかな痺れには、指の先ほども経験がなかったのだ。

 故に少年、憎悪をウッカリ取り落とし血の気も逃げ出した間抜けな青白い顔をし、身を硬くして無防備に年嵩女を見上げてしまった。

 

 目線の先の隣に座る彼女はいつの間にやら背筋を伸ばし、身体ごとこちらに向けてウットリするほど上品な白蛇の微笑みを堪え、ドラコを見つめている。子どもの幼い意地っ張りを余裕もって見守るような慈悲のある眼差しをしていた。居心地が悪くなるほど優し気で、寒気がするほど柔らかに。言葉が出ない。喧騒は遠く、様子を伺っていたやじ馬が唾を呑み込む音だけが、耳の中から聞こえるみたいに近かった。もしかしたら、自分が出した音であったのかもしれない。多分時間は止まっていた。細めた瞳には婀娜っぽい知性が光っていて、毒気を抜かれたのは彼の方であった。

 

「……仲良くしてくれるんだろう、ドラコ」

 

 中性的な話口調が古臭い男装の麗人の如く、妙にサマになっていた。古臭い、ということはすなわち、長く乙女の理想を務め、高い価値を持つものとして脈々と共有されてきた夢の肖像ということであった。彼女の華やかさは王道的・古典的なものなのだ。それが一切の照れもなくまかり通ったとき、凄まじい威力となる。捏ね繰り回され理屈をつけられた人それぞれ、と言う首輪にはめられた戦略的な魅力がすべてまとめて蹴散らされる引力を発揮する。

 

 低くまろやかな声はドラコの腹の中で反響して、薄く伸びた肉声の波紋が彼の血管に染み渡るようである。彼女の座高は低く、ドラコは今も見下ろしているはずなのに、凛と伸びた細身の体に乗っかった小さな細面には、縋りついてトロトロとした絹のような言葉を垂らされ、肯定されたくなる衝動を煽る力強さも兼ね備えている。

 目を潰すほどに鋭い光の輪が白金の頭と重なって、ギラギラと眩い後光が差している幻覚が見えるのだ。この思考力を鈍らせる洗脳染みた不気味な心地よさこそが、カリスマ性というものなのかしら。

 

「ッ」

 

 彼女がほんの少しだけ力を込めて、ドラコの強張った手の甲を緩く握った。それだけで、その極限的な強張りが素早く全身に伝播され、セクシーでハンサムな悪人に口説かれた生娘のように、少年は身を竦ませて小さくした。

 抵抗できないのは甘やかで薫り高く、得体の知れない恐慌に脳みそが蕩かされてしまったからだ。手を軽く握られただけで、ドラコは心臓すらも握りしめられたみたく全身を支配されてしまった。

 

 転入生は、年下の坊やの桃色に震える若い肌をじっくり追い詰め甚振って楽しんでいるみたく、ゆっくりゆっくり首を伸ばしてドラコの耳に唇を寄せる。反応を逐一鑑賞されているというのに、ドラコは上下関係を本能の部分に叩き込まれ、恐怖を揉みこまれた子どもの反射として両肩をギュッと寄せて首を精一杯縮めた。

 それは嗜虐心を煽る、丸裸にされた無垢な弱者の装いであった。しかし誰も、監督生ですら毒蛇女と今しも捕食されようとしている高貴な少年の間に入って止めようとはしていない。見ているくせに。いや見てしまっていたからこそ、魅入られてしまったのだ。狡猾な白蛇の、神経を麻痺させる毒に。

 

「──嬉しいよ」

 

 彼女は花を散らすまいと気を遣っているみたく優しい吐息だけの声でソッ…と囁いた。水っぽい桃色吐息が吹き込まれ、耳穴から脳みそまで官能的な痺れがすばしっこく這い上がった。高い鼻が耳筋に触れて、その微かな一点が煙草の火点を押し潰されたが如く、爛れるようにジクジクと熱い。角のないユニセックスな香水の匂いが仄かにした。ドラコの肩の移り香は少年の体温が急激に上がったせいで微かにその香りを変質させながら、きっと宴会が終わるまで彼の傍らに居座り続けるのだろう。

 

 白蛇は、ドラコの心の裡を這いずり回って粘着質な轍をデタラメに残しながらも、生かさず殺さずそっと彼から離れたのであった。差恥とそれ以外の感情で頭を上げられぬ震える子どもに、「よろしくね」と舌が腐るほど甘い囁きを残して。…

 

 

 

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