ねぇダフネ、君が死んで始まる物語   作:羽毛まみれ

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ボガード回


アズカバンの囚人②

 

 ハリーは宴会のときからこちら、リーマス・ルーピンをジッ…と観察していた。彼は三年目にしてやっと来てくれたと言っていい初めての〝アタリ〟のDADA教授である。

 

 草臥れたローブに、年季の入った不幸がついにその人間の一部として肌に染み込んでしまったような疲弊し尽くした顔をしているけれど、ハリーは列車での出来事で既に彼のことが好きになっていた。

 

 碌に喋ったこともないのだが、大袈裟でもなく命を救われたという事実は会話以上に劇的で、彼は出会って間もないリーマスを早速慕い始めている。しかし、そのヒーローの様子が何やら目に見えておかしいのだ。新学期初めの宴会で、噂の転入生が強烈にドラマチックな登場を果たしたときから。

 

 初めはDADAの教授である彼さえも、あの不可思議な転入生のゾッとする魔性に魅入られてしまったのかと気を揉んでいた。それほどまでにリーマスの様子には鬼気迫るものがあったのだ。紹介を受けたのち、人の良さそうな顔で校長の話を聞いていた穏やかな様子から一転、彼女が登場するやいなや挙動も疎かになり、病的なほど必死の形相をして白目の部分が瞼の縁からせり出るほど熱烈な視線を転入生へジッ…と向けていた。大の大人の男の必死にはどこかうら寒くなるものがある。

 ダンブルドアと寄り添った花姿で、どこも見ていない脱力した眦をして生徒席を平坦に眺めていた、決して振り返らない高慢な背中を…黒い悪夢に取り憑かれたような顔をして呆然と見上げていたリーマスは、多分そのとき息も止まっていたのだろう。

 

 糖蜜パイを取り落として、銀の皿をガシャン! と姦しく揺らしたのをハリーは見てしまった。

 あのつれない柳腰と薄い背中が動くたび、死にかけの蛾が弱弱しく電柱に体当たりするみたくフラフラと視線が吸い寄せられてゆくのを、ハリーは見てしまった。

 薄く開いた唇から虚脱の細い溜息をダラリと零し、白痴の顔であの転入生に釘付けになっていたのを、ハリーは見てしまった。

 しかし、心を失ったようにどこか幼くなったその顔つきに、次第、クッと力が戻り、我に返ったがゆえに現実の手酷い辛苦の味までも思い出してしまい、再びの魂の崩壊の予感を前に、どうにか踏ん張って持ち堪えているような大人の必死の顔を、ハリーは見てしまった。

 成人男性の当然のメッキとして張り付けられている分厚い理性の端っこが剥がれ落ち、迷子の子どもが人混みの隙間からチラと覗いた母の背中に縋りつくように揺らめいた、瞬間的な瞳の無垢を、ハリーは見てしまった。

 そして、彼女のあまりにも硬質な薄情が、その一切を跳ね除けてリーマスには一瞥もくれてやることなく、触れがたい高級で非情なヒール音を高く響かせながら過ぎ去ってゆく、そんな美しい背中を…腰を落ち着かせた先のスリザリン席でよりにもよってマルフォイに声を掛けられ応じていたのを…あの青い血の小悪党を戯れに指先で擽って、甘やかな態度でお菓子の生地のように捏ねてやりながら、丁寧に誑かして/揶揄っているのを……。

 

 ハリーはリーマスの哀愁と切実が煮崩れてぐずぐずに水っぽくなった惨めなほど真剣な瞳につられ、一部始終をまったく真面目腐って息を詰め、見つめてしまっていたのだ!……

 

 もしかしたらあの転入生はとんでもなく恐ろしい魔性なのかもしれない。血を腐らせるブラックな色気で肉も骨も蕩して周りの人間を手懐けているのだ。

 

 あのマルフォイも見る間に骨抜きとされたようだった。きっと近い未来、血も肉も抜け落ちて文字通りの形無しとなるのだろう。自分を見失うには打ってつけの悪魔のような女に見えた。

 故にハリー少年、親愛なるダンブルドアの血縁であろうが、あまり彼女のことを好ましくは思えていないのだ。だって、彼女はリーマスを袖にしたくせに、あろうことかマルフォイを生ぬるい慈悲で包んでやっていたから。

 

 ひたむきに背を追ってくるリーマスの眼差しにきっと気づいていたくせに。きっと気づいていたくせに!

 

 ついぞその背中は頑なで、宴会のさなか、ひと匙ほどの情すら向けられることはなく。受け取るはずの人間がスルリと逃げたが故に、リーマスの熱心が空しく行き場をなくしたのを、ハリー少年はしっかり目撃してしまっていたのであった。……

 

 しかし、ハリーの第一印象で衝動的に沸騰した転入生への苦手意識は、良くも悪くも宴会からむこう、更新されることはなかった。というのも、学年も違えば寮も違うために、真っ白でフワフワの天使みたいなあの悪魔と邂逅する機会にそもそも恵まれなかったのだ。

 

 

◾️

 

 

「……──だからルーピン。貴様が一日でもそれを欠かしてしまえば、我輩の尽力はその時点で無に帰してしまうのだ。それと、くれぐれも砂糖なぞを入れてくれるなと言っている」

「……ああ、もちろん、わかってるさ。思に着るよセブルス」

「ならばそれなりの態度を示してみせろ。貴様、先ほどから上の空ではないか。よもや我輩の忠告など聞くまでもないということですかな?」

「…………」

「……、……ルーピン?」

「…………あの転入生」

 

 何やら先ほどから落ち着きなく指先同士を絡ませ、足先で小刻みに床を鳴らしていたリーマスが、突然電気を落とされたみたくピタ、と動きを止めた。正体のわからぬ沈黙が続く。

 そして漸く、切ない声で低く呟く。空気の肌触りが変わった。このときスネイプは、職員室から退出しそびれたことを悟った。

 

「──、…………」

「五年生からの転入だからさ、他の生徒に追い付けるようにそれなりの特別課題を、私たちから与えられる運びとなっているのは君も知っての通りだろう」

 

 話の先行きが突如方向を変えて怪しくなった。スネイプは、突然会話の舵取りを奪われてわかりやすく不機嫌になる。

 

「……知ってるも何も、我輩は寮監で魔法薬学の教授でもある。当然、ダンブルドア直々のご下命は共有されているに決まっておろう」

「それじゃ、転入生と何か話してないの? 仰る通り、君は彼女が所属するスリザリンの寮監なんだから、私なんかよりずっと接点は多いはずだ」

「……生憎、我輩からわざわざ声を掛けるほどの用事がないのでね。特別課題も、ふくろう便で事足りる」

「ああ、そういやセブルス、君は学生時代、【あの先輩】のこと、苦手だったもんね」

「…………何の話かね」

 

 スネイプは本当に嫌そうに右下に顎ごと目線を逸らし、顔を如何にも神経質気に歪めた。それは、何も図星を突かれたと思ったからではない。単純に、目の前のこの男と学生時代の話をしたくないだけだ。

 

 それはスネイプの積年の恨みに抵触する行為だからだ。今もなお肌を錆びさせて止まない不幸で、彼の尽きぬ悪意の源泉であった。

 幼年時代から続くはずであった一本道の幸福を、無残にも踏み躙った大悪党のひとりとして、飽きることなくリーマスにも同じ僧悪を募らせていた。

 良くも悪くもとことんまで、学生時代の思い出に素直な男なのだ。そのためにスネイプは、今日も明日も大人の陰湿さで子どもの怨念を燻らせている。

 

「わかっているくせに。君だって一目で衝撃を受けたはずだ! 彼女が、あの先輩と瓜二つ……いや、それどころじゃない。二十年前の記憶からそのまま飛び出してきたような姿かたちをしているって……、……」

「……何が言いたいのか、サッパリですな」

 

 スネイプは地獄の底の岩肌で黒い風が反響したような恐ろしい声で唸った。言外にリーマスを激しく批判して口を塞ごうとしている声色であった。

 しかし、リーマスはもはやスネイプの方を向いていない。どこも見ていないような目をして、自分の空想、あるいは遠き昔日の夢に心を今しも吸い取られているみたく、熱に浮かされた口調で捲し立てる。

 

「わかるだろう? だから、あの人が、僕らの先輩が……帰って来たんじゃないかって」

「……ハッ、馬鹿馬鹿しいッ! 何を言い出すかと思えば。死人が甦ったどでも? どんな魔法を使ったとて、そんな奇跡を起こすのは不可能だ! そんなものがあればッ、」

「けれどあの人の魔法は特別だった!」

 

 脳みそに昇った血が一瞬で蒸発したように強烈な衝動を感じて、スネイプは突き飛ばすみたくに語気強く怒鳴っていた。余裕のない嘲りも口端から飛んだが、それ以外のほとんどが発作的な怒りにも似た激情だ。

 

 死んだ人間が生き返る。そんなことは不可能だなんて、嫌というほど知っているのだから。叶わないからこそ夢なのだ!

 

 しかしリーマスも、端的な言葉を突き刺して制すように早く言葉を投げつけた。鋭い語勢だ。このふたりの会話は、議論と言うよりはもはや口論であった。

 

「古代魔術の使い手なんてあの人以外にいなかった。使えないものを完全に理解などできない! 君も、私も……。でも、この世界には既知の理屈で説明できないことがたくさんある! リリーの最期だって、」

「その名をロに出すな!」

 

 今度こそ本物の激情で、純粋な苛烈の赤で、燃え上がる怒りであった。スネイプは椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がって全身で吠えるみたく怒鳴り上げた。

 

 血走った眼からは発作的な怒りによって急に理性が蒸発しており、ほとんど羅刹・獣の形相を呈していた。

 頭に上った燃える血は、怒りの燃料として一瞬で消費され、脳みそが真っ白に乾いてしまったような気の遠くなる感覚がする。

 叫び終わった途端にクラリと眩暈がして、白んで灰を散らす怒りよりも余程、目の前の男に対する根深い憎悪の方が鮮明となった。

 

 スネイプは、肩で息をしながら青白く血の気も燃え尽き癇癪に歪んだ顔でリーマスを睨みつければ、彼は呆気にとられたような…まるでスネイプの地雷の場所を只今知ったばかりみたく無垢な驚きを晒して、スネイプを見つめていた。

 そして、何だかばつが悪そうに、目線を躓かせながらもフイ、とスネイプから逸らし、何とか宥めようとムニムニと唇をまごつかせ始める。

 

 スネイプはそれを見て…怒らせたのはお前だろう、と本当に癪に障り、リーマスをとことんまで追い詰め甚振りながら嘲ってやりたいというふうな抗いがたい悪意の衝動を覚えたのであった。

 結局のところは、この如何にも人畜無害そうな男の本性も、悪気のなさを装っているだけの矮小な日和見主義者なのだから、自分にはその化けの皮を剥ぐ権利があるのだというふうに…掌中の正義を確信して、自分の悪意を正当化しながら。

 

 ……言うまでもなくスネイプのそれは私情に過ぎず、彼の目から見たリーマスの肖像は、分厚い怨念によって悪しように歪まされており、実際の本人からは程遠い。

 リーマスの方はと言えば、ついウッカリ白熱した議論の先で冷静から足を踏み外し、それだけでなく気性難の同僚の見えている地雷を弾みで踏んづけてしまったことを一瞬で悟り、純粋に焦っていた。

 

 彼には曲がりなりにも恩を借りている上に恨みは買っている。しかしこうなってしまえば何を言っても火に油。例え気の利いた言葉があったとして、それさえもリーマスの口から出てしまえば燃料に変わってしまうだろう。

 

 迂闊だった。自論に熱を上げ、我を忘れてしまったのはリーマスも同じだ。しかし彼はスネイプよりも余程社会性があるため、一足先に客観性を取り戻し、どうにか火消しできないかと大慌てで思考を巡らせる。そしてスネイプもまた、随分と善人の振る舞いが板についたこの詐欺師に、何を言ってやろうか、どんな詰りが一番苦しめるには効果的か…具体的な用意もないのに、悪意ばかりが先走って口端を意地悪気に歪めたまま口を開こうとしていた。

 

「……──失礼いたします」

 

 そのとき、剥き出しの悪意と怒気と焦燥が蔓延した男ふたりの職員室に、艶気を孕んだ凛々しい声がひとひら差し込んだ。

 

 だから彼ら、強力な電流をいきなり流されたみたくバチっと動きを止め……ハッとしてまったく無防備な驚愕をツラに引っ提げたまま、反射で声のした扉の方へと素早く顔を向けた。

 

 気配がなかった。言葉を掛けられ漸く気づいた。そうでなければ一教員として、訪問者相手に取り繕う素振りくらいはしていたとも。

 

 スネイプは、こんなときにいったい誰だ! ともはや自分以外のすべてに腹立だしく思い、スリザリン以外の生徒であれば嫌味に減点でも言いつけてやろうといきり立つ。

 この男は基本的に根性が曲がっているため、どんなときにもTPOに沿った謗り・中傷・皮肉が捻出される仕組みとなっている。悲しいかな、口撃以外の誤魔化しでなあなあに丸く収めようという発想がないのだ。特に、他寮の生徒相手にはその傾向が顕著であった。

 故に、完全な見切り発車で振り向きざまに嫌味ったらしく言葉を投げつける。

 

「入室するときはノックのひとつで、も……、……」

 

 しかし、天を衝くほど理不尽な八つ当たりは、口から飛び出したはいいものの急減速し、見る見るうちに萎んでしまった。

 

 それと言うのも、扉から身体を覗かせ、興奮した犬に水をぶっかけるみたくふたりに声を掛けた空気の読めぬ闖入者の姿を、正確にみとめてしまったから。

 

「こんにちは」

 

 扉の枠に肘を引っかけ凭れ掛かり、実に愉快そうで場違いに調子はずれのニコニコ笑いをはっつけて大人げない中年男ふたりを見比べながら、彼女はご機嫌にそう言った。

 

「ノックは致しました。……でも、聞こえていらっしゃらなかったらしくて」

 

 そうしてわざとらしく扉の内側を手の甲でコンコン、と軽く打ち付け、ふたりを見つめたままニコッ! と可愛らしく小首を傾げる。

 その白々しく柔和で底なしの微笑みを真正面から見てしまい、スネイプは装填していた予備の嫌味を喉にウッと詰まらせて咄嗟にしかめっ面を素早く逸らした。

 それは苦手な教師とウッカリ目が合ったときのような、何だか妙に子どもじみたわかりやすく失礼な仕草であった。

 

 しかし彼女は他人の注目や媚態がどうでもよいのと同じように、他者が醸し出す如何にも決まりが悪そうな不完全燃焼の空気に対しても当たり前のように配慮することはなく、カツンと甲高いヒール音を鳴らしながら、臆せず近づいてくる。

 

 内心で狼狽えているのは大の大人の男ふたりの方である。何故なら、彼らの目に入ったのは内蔵が行き場を無くしたように細っこい体に白く丸い乳房がついており、それが麻の白シャツに詰まって胸元を膨らませている彼女の──柳腰がしなやかで、曲線だけで構成された滑らかな女体は何ともセクシィで見覚えのある花姿であったもので。

 口論に水差す予期せぬ闖入者とは、それはまさしく渦中の人物。議論の槍玉にあがり、舌戦と不機嫌の原因となった件の転入生であったから。

 

 リーマスは彼女の姿を一目見た瞬間に、ドッと急激な冷や汗をかいて忙しなく指先同士を擦り合わせ始めた。彼女に今日の授業の手伝いを、課題として依頼したことをやっと思い出したのだ。そして、授業の開始時刻がいつの間にやら過ぎてしまっていたことも。……

 

 リーマスは、誤魔化す/一抜けするためにパチン! とひとつ掌を打って「ああっ、すまない! 気づいたらもうこんな時間だったね。いやぁスネイプ教授との議論に白熱してしまって……、すぐに三年生を連れてくるから、君はここで待っていておくれ」と張り切って少し上擦った駆け足の声で言いたいことだけ言うと、ローブを羽織り、鞄を引っ掴んで足早に職員室を出て行った。

 

 スネイプはそんなリーマスの背中を見て、如何にも騒々しいものを倦厭する整頓された大人を装った険のあるツラで、何とも嫌そうにして切るように視線を、身体ごと逸らす。

 

「──先生」

 

 しかし、振り向いた先・落とした視線の軌道上、いつの間にやら転入生が回り込んでおり、迂闊にもバチッ! と満開の紫薔薇の瞳と目が合ってしまう。瞬間、スネイプは誤魔化しようもなくギクリと挙動を停止させ、そんな自分の不手際に一拍遅れで気づいた途端、グシャ、と顔を思い切り歪めた。……そこまでが、この男の失態である。明確にケチがつき始めたのはきっとここからだ。

 

「……何かね」

 

 奥歯を噛み締めたまま、唇の先から捻りだすようにして低く唸った。この生徒とふたりきりになるのは、本当に嫌だった。不発弾を抜身のまま手渡された気分だ。

 スネイプはある意味わかりやすい人間である。他者に対して基本的には好きか嫌いかの二択しかなく、通常、大部分を占めるはずの可もなく不可もなくに対しては【どうでもよい上薄らと嫌い】と言うシンプルで身も蓋もないラベルを貼り付け、そのように粗雑な対応であしらう。

 しかし、転入生に対する切れ味の悪いこの態度は、嫌いというよりも圧倒的に苦手意識が強い人間に対する振る舞いそのもので、何だか少し珍しいものがあった。

 

「いえ、初めて目が合ったなと思いまして」

 

 神秘的で毒性の高い美少女は、柔和なニコニコ笑いを顔全体に広げて如何にも嬉しそうに言った。美しい女の白い仮面を被っているみたく温度のない完璧な微笑みであった。

 

 スネイプは「お前が合わせてきたんだろうが」と悪態を吐きたかったし、腹の中では際限なく毒づいていた。しかし実際のところは不信に硬くなった唇が微細に震えるばかりで、目の前の自寮の生徒を睨みつけることに気力を尽くしている。

 

 それは極度の緊張による動揺のための症状であった。スネイプの黒い荒野みたいな心裡に凶悪な暴風が根を下ろした何よりの証左だ。

 喉元をぶん殴られたみたく気道が狭まって嫌味の頭尻が痞えている一方で、心臓からは気持ち悪い汗がダラダラと噴き出すばかりであった。

 

 人間の骨組みの部分に怯懦と嫌悪、何より畏怖を植え付けられたがために、当時の感覚に引きずられ、三十を過ぎた今でも心の底から強気には出れない……そう言った生々しい脊髄反射の部分が透けて見える態度をしている。

 

 頭蓋骨がそっくり錆びた金属に挿げ変わったみたく、ガンガンと容赦のない頭痛までしてきた。リーマスにはああ言ったが、スネイプにもこの転入生を前にしたら鮮明に思い出してしまう人間がいる。

 

 悪夢の続きが今更足を伸ばしてきたように瓜二つなのだから、それも致し方なかった。安っぽい嫌厭とは違う。苦手と断じてしまえば記憶の中のあの忍び笑いが精神に障ってくる気がする。もっと別の…自分を侵す未知に対する防衛反応に基づいた拒絶反射に近い。

 記憶の反芻だけでいつでも新鮮に背筋の凍る思いができる。それはほとんどアレルギー反応のようなものであった。

 

 曖味になったいくつかの昔日の中でなお、摂理としての忘却すらも透過して亡霊染みた存在感は色濃く、いつでもこちらを見つめている不気味な女であった。

 暗闇の辻に立つ、黒い一本の街灯のような女であった。

 細い煙のように気配もなく、いつの間にやら間合いを侵している女であった。

 非現実的なまでに瑕疵のないかんばせは、人の不安を煽れば煽るほどに美しく輝くような女であった。

 他者の心臓を掌握するためだけに生まれてきたような女であった。

 アレは、青春の憂鬱に散る、黒い滲みのような女であったのだ!

 

 スネイプは当時から【あの女】を慕っていたグリフィンドールの奴らの気が知れないと常々思っていた。

 確かにあれは非の打ち所がないほど優秀で、夜闇にジンワリ仄光る氷の彫刻のようにゾッとするほど美しく磨かれていた。

 

 しかし、【あの女】はただそこにいるだけで、本人にその気はなくとも周囲の人間が何を持ちえないのかを自動的に浮き彫りにして辱める、そんな魔性だ。完璧で残酷で冷淡な女。あれほど不気味な人間もあるまい。血液が氷水でできた化け物だ。人間染みたところが極端に少なかった。だからあれほど完璧であったのだろう。

 

 スネイプは自身の常識に瓶詰された理屈を上回る圧倒的な理不尽の味を知っている。それが罷り通る世界の、過酷な不条理の質感も。

 

 打ち勝ちたいとすら思えない。

 膝を折ってやり、そのプライドが崩壊する音を聞きたいとも。

 悪辣を以て化け物の舞台から人間の土俵に引き摺り下ろしてやりたいとも。

 屈辱の矢じりであの生白く光る肌を破ってみせ、醜悪に歪んだ表情を拝みたいとも。

 もはやそんな恐ろしいこと、指の先ほども考えられなかった。ただもう二度と、関わり合いになりたくなかった。

 それは正しく青春時代のトラウマで、決して色褪せぬ絶対的・不変的教育…恐怖の賜物であった。

 

 【あの女】は厄災が人の姿を取ったもの。ならばひたすら、自分の関係のない場所で猛り狂ったあと、知らないうちに勝手に死んでほしいと願っていたのだ!

 

「……──スネイプ先生」

 

 カツン、と骨を弾くような甲高いヒール音がこれ見よがしに聞こえた。

 

 服の中に氷をいきなり突っ込まれたみたく底冷えして有無を言わせぬ声であった。半ば現実逃避の回想から、呼びかけひとつで力づくに引き上げられた心地となって、スネイプは顔色悪く息を詰める。もう二度と目の前の彼女から目は逸らせなかった。

 

「私、嬉しいんです。寮生だと言うのに、先生と話す機会をなかなか得られなかったから。今日やっとお会いすることができた…………偶然ね、本当に」

 

 そう言って転入生は喉だけで引っ掻くようにわざとらしく笑った。

 ペタリ、と死人みたく冷たい掌がおもむろにスネイプの腕へ触れる。媚びているふうではなかった。少し馴れ馴れしくて甘ったれた…それだけの単純接触だ。

 

 しかしこの男に対しては、【それだけ】が凄まじい効果を発揮するのだ。スネイプはこの間、奇妙なほどおとなしくポツネンとした顔で突っ立っていた。

 他人の手など払いのけるばかりが人生だった男だ。それが、首輪をつけられ鞭を打たれたみたく、明日も希望もたった今奪われた奴隷の面持ちで皮膚を強張らせている。

 高貴な紫の瞳がさも親し気に細まって自分を捉えるのを、ほとんど恐慌に縊られる心地で為す術なく眺めていた。

 絶望の先にある投げやり染みた虚脱状態で、二十年ぶりにトラウマに追い付かれたことを知った。

 学習性無気力感のような…抗うことの無意味さを脊椎のひとつひとつに叩き込まれ、絶望に慣れてしまった白痴の表情をしていた。

 厄災が……、【あの女】が同じ姿/名前で地獄の底から戻ってきたのだと……そのように病質染みたリーマスの与太話を、この男は必死になって否定していた。それは何も理性の潔癖とプライドのためではなく単純に、スネイプ自身がどうしても信じたくなかったからだ。

 

 常識に瓶詰めされた理屈の儚さを、スネイプは二十年前、本能的な恐怖とともに嫌というほど揉みこまれていたのに。

 

「先生?」

 

 スネイプの腕に掌を置いたまま。甘ったるく黒い声で囁きながら、また一歩、羅刹女が近づく。

 影のように、黒い煙のように、体温を感じさせない柔らかな身体がスルリと…こんなに近くにいると言うのに、どこまでも希薄な気配をして。

 

 スネイプはもう、取り繕う術もなく、ビク! と身体を不自由に強張らせ、為されるがまま棒きれみたくそこにある。

 電流を継続的に流された囚人みたく、もはや逃げるとか躱すとかそのようなことは考えられなくなっていた。思考力/判断力から煮崩れて摩耗してゆき、繋がれた家畜のように諦観に目を伏せる。脳天が引き攣れたようにジンと熱い。

 これは濃厚な神経麻痺の毒である。脳みその中身を阿片に詰め替えられたとてこうはなるまい。

 

 今や転入生はピタリ…とスネイプの真正面へ一本の百合の花みたく寄り添って・取り憑いて立っていた。柳腰をクイと反らせて上体を精一杯持ち上げた白百合は、大人の男の真っ白な顔を至近距離でウットリ愉快そうに見上げ「何か言ってくださらないの?」と追い打ちをかけた。

 無言を味わうように、ゆっくりじっとり小首を傾げながら。

 

 それは、如何にも上品で、善良そうな仕草である。所作も相まって、彼女は清潔な白に光るみたく美しい。しかしスネイプは清らかな乙女を前にして、厄災が通り過ぎることだけを祈るような農奴の面持ちで、ただジッ…と力いっぱい目を伏せたまま、何もかもに気づかないふりをしてこの瞬間を耐え忍んでいた。

 

 すぐそこの曲がり角の辻に立つ、あと少し、ほんの少しでも屈まれたら顔を覗き込まれて目が合ってしまう! という鮮明な恐怖にジワジワ首を絞められながら。

 死神の鎌が首に掛けられた無力な人間の顔をして、ほとんど絶望的な気持ちでその香しい猫撫で声を聞いていた。……

 

「──さあ、お入り」

 

 そのとき、職員室の扉がにわかに開き、三年生をぞろぞろ引き連れたリーマスが戻ってきた。スネイプは瞬間、不覚にも、助かった! と思って、窒息寸前の憂き目にあった実験動物みたくバッ、と面をそちらに向けると、やっとの思いで短い息を弾くように吐き出した。

 酸素が頭に回ってなかった。脳みその血管が急に膨らんだ気がして心臓が不自然にドキドキと鳴っている。

 

 リーマスはそんなスネイプとバチッ! と目が合って、次いで、ゆっくりゆっくり視線を下げ、スネイプにくっついてニコニコ笑う転入生を見つめ、たじろぐように無言で一歩右脚を引く。見てはいけないものを見てしまったときの人間がする見本のような動揺であった。

 

「……あー、お邪魔したか、な……、……」

 

 その如何にも気まずげに躓いた声で目線を死にかけの蠅のようにふらつかせながら、全く不要の気遣いを回され、スネイプは頭の血液がカッ! と燃え上がる感覚に呑み込まれる。脳天の、恐らく大事な太い血管が、ゴムが弾けるようにブチっと千切れる強烈な音が耳の中でしたのだ。

 

「ふざけるなよ、ルーピン。ドアを開けたままにしろ。我輩は戻らせてもらう」

 

 冬の柳のようにトロリと柔らかくしなだれかかっていた魔女が、その言葉にソッとスネイプの腕から手を外せば、それでやっと自分の身体の支配権が自分にあることを思い出したように、スネイプは転入生から勢いよく身体を離して距離を取った。

 しかし当の彼女は、その大袈裟に拒絶的で真四角な態度に気分を損ねるわけでもなく、手の節を唇に当て、カラカラと実に愉快そうにこの部屋でひとりだけ調子外れに笑い始める。スネイプはそれをまったく無視して屈辱で我を忘れ、怒りだか羞恥だかすら曖昧な激情に乗っ取られるまま、肩をいからせ怯える生徒の群れを身体で無理やり押し分けながら足取り荒く部屋を出て行った。

 去り際に、今日の魔法薬学の授業で減点をしたネビルとハーマイオニーへのい言いがかり染みた嫌味を吐き捨てて。……これは、誰が見てもわかる八つ当たりであった。

 

「ええと……その、ローレル……」

 

 リーマスは如何にも人の良さそうなその柔和顔に眉と目尻を弱弱しく下げ、困ったようにチラ…と転入生を見た。彼女は肩をこじんまりと竦めるとニコッ! とお手本みたく小首を傾げて口角をキュッと上げる。

 人に鑑賞されることに慣れた人間のする判子みたいにこなれた笑顔であった。

 

「待ちくたびれてしまうところでした、ルーピン先生。私も……あれも」

 

 そう言って彼女は、部屋の奥にある古い洋箪笥を大仰に掌で示した。

 この魔女と話をしていると、誰も彼もが何事かを煙に巻かれた不可解な心地になる。しかし、女の秘密と隠し事を追求するハウツーなぞ、如何にホグワーツ教授と言えど知る由もないので、リーマスは動揺の尾を引き摺りながらも小刻みに頷いて部屋の奥へと気まずげに歩み寄った。

 

「あー、と、うん、それじゃ……」

 

 入り口にゴチャッと塊になってつっかえながら、ふたりの様子をソワソワ見比べ、何事か葉擦れみたいにこそこそ話している生徒たちを呼び寄せてリーマスは今日の授業──まね妖怪ボガードについて説明し始める。

 

 出だしが出だし故にイマイチ集中しきれず、洋箪笥の隣に立つ転入生を「何でここにいるんだろう……」とチラチラ気にしていた生徒諸君も、次第にリーマスの話に引き込まれていったようであった。

 

 逸る期待に教室の空気が色がついたようにあからさまに明るくなり、浮足立っていた。

 〝マトモ〟で〝アタリ〟なDADA教授を待ち望んでいたのは、何もハリーに限った話ではなかったのだから。

 

 

◾️

 

 

「…………──── すべてうまくいけば、ボガート・スネイプ先生はてっぺんにハゲタカのついた帽子をかぶって、緑のドレスを着て、赤いハンドバッグを持った姿になってしまう」

 

 トップバッターに指名されたネビルに、リーマスがそう面白おかしく指示を出せば、教室中が無邪気に爆笑した。口が上手いのは優男の条件だ。当のネビルもいい具合に乗せられて、恐ろしいものと恐ろしいものが間抜けに結びつきその効力を失う素敵な様子を、ありありと想像して吹き出した。

 

 そうして一頻り笑った後で、渦中のスリザリン教授のお膝元にある生徒の存在を今更思い出したのであった。

 白い乳房を申し訳程度に包んだだけの、新学期の宴会のときと同じ、胸元を奔放に開けた麻の白シャツを軽やかに着こなした姿。その上に羽織ったスリザリンのローブを緩く肩から落として、襟下にネクタイを通したっきり結ぶことすらせず一本の紐としてダラリと胸に垂れさせている出で立ちは、一歩間違えたらダラしなく不潔に見えるだろうに、気だるげでセクシィなお姉さんというふうなイメージを先行させる。

 

 そんな魔性が何を考えてるんだかわからない微笑みを切らさず、洋箪笥の隣に立っているものだからネビルはサッと顔色を悪くした。

 一瞬で首から上の血液が蒸発したみたいであった。瞬きのついでにまったくの無防備のままフト視線を向けた拍子、その転入生の瞳にバチッ! と捕まってしまったのだ。

 

 釣り餌の効果でもあるのかという程キラキラとわざとらしいくらい美しく、逸らしがたい引力がある双子の紫惑星にまんまと引きずり込まれ、笑顔のまま固まってしまったのであった。

 

 そして、「あ」と思う。「大変だ」とも。

 その瞬間、後ろから迫ってきていた分厚い焦燥に追い付かれた。眩い彼女の引力に思考の何割かを引き摺られながら、血の気がサアッと逃げ出し燃料の足りなくなった滑りの悪い頭で必死に考える。どうしようと。あの陰険で人の粗を探す嗅覚に関しては犬をも超える性悪教授を笑いものにしたことが、もし本人の耳にでも入ってしまえば、きっと減点祭りだろう、と。

 他教科で稼いだ得点を根こそぎ魔法薬学に吸い取られる最悪の地産他消だ。誰も楽しく肥えることができない。むしろ痩せ細ってゆくばかりである。

 

 それにこの美しい先輩は、何やら先ほどスネイプ教授と親しげであった。距離が近かった。あの男が自寮の生徒を贔屓するのはこの学園の誰もが知るところであったからこそ、それ以外の特別はある意味わかりやすく目についた。

 ただならぬ雰囲気があって、人の秘密を覗き見てしまったような座りの悪さがあった。

 

 今日、自分たちが職員室に踏み入った瞬間に流動を止めて、バチッ! と固定・切り取られたあの瞬間の空気は曖味に誤魔化されて尚、未だ飲み下せない気まずさが尾を引いている。

 気になるけれど、大人がこぞってないものとして扱い始めたので、子どもたちは空気を読まざるをえなかったのだ。

 彼はまだ十三歳、特別の血に流れる情の種類を見分けられるほどの場数は踏めていない。少年は少年ゆえに経験値不足であった。

 

 そのために物理的な距離が近ければ、精神的な距離も比例するのだという単純明快で大穴のある方程式が、まだ彼の中では生きて幅を利かせているのだ。実際のところの転入生とスネイプは、お世辞にも仲が良いとは言えない関係であると言うのに。

 

 そんな勘違い故に、血管ごと波打っているみたく全身がドキドキと緊張して焦燥に乗っ取られ、ネビルは「どうしよう、どうしよう」とドツボに嵌り、転入生から目を逸らせなくなっていた。

 

 善良な少年の体内をいたずらに巡ってのたうち回るそんな動揺に、いち早く気づいたのはやはりこの場唯一の大人・教授のリーマスだ。

 この男は精神をひずませる恐怖と理不尽の質感をよく知悉しているマトモな大人でもあったがために、ネビルの混乱の原因もスグサマ当たりがついた。肩を小さく竦ませ、圧力にならない程度の軽い溜息をひとつ吐き出す。

 

 そして、思慮の深そうな目をスル…と転入生に向けた。

 転入生もリーマスを見つめた。ふたりは不思議に何も喋らなかった。ただ生ぬるくトロトロとした柔らかな視線が交差した。

 

 そして彼女はリーマスとまったく同じ仕草・温度で肩をキュッと竦め、目を伏せることで答える。

 これは「その程度のことにいちいち目くじらなんて立ててらんない」の仕草であった。ネビルの心配はごもっともたが杞憂となった。

 

 転入生はフッと吐息を吹きかけるみたいに優しく相好を崩し、ネビルへと向き直る。そうすることで完璧の硬さが取り払われ、優しくて柔らかなお姉さんといったふうな親しみ深い笑顔となった。

 

 ネビルは凝り固まった不安がズシッ…と身体を冷たくしている状態でその顔を拝んでしまったため、全身に巡るドキドキが瞬間、別の動力を持って真っ赤に拍動し始めた。

 

 厳しい祖母と長らくふたりきりで暮らしていた引っ込み思案な少年は、年上の美しい女の人に甘やかすような微笑みを向けられたことがなかったから。

 強力な向精神薬みたいな笑顔で、ネビルは心臓ごと急に浮き上がって魂が自分の掌から逃げてしまったような気分となった。仇敵スリザリンとは言え、いやむしろ、あの性悪ばかりのスリザリン生が……という先入観も多分に働き、笑顔ひとつにここまで強烈な効力を上乗せしたのだ。

 

 こうなってしまえば、少年は可愛らしくも扱いやすい間抜けな子ネズミとなる。

 転入生はコホン、と大仰な咳をひとつして、生徒人数分の注目を容易く束にすると自分へと引き寄せた。子獅子の群れを、今だけは子ネズミの巣とする所存なのだ。

 

 中にはネビル同様、今更転入生がスリザリン所属であったことを思い出した少年少女たちもいて、ボガード・スネイプによって齎された軽やかな爆笑はあっという間に錘をつけられ、注ぎ足された不安に素早く隅へと押しやられた。

 その顔には、真っ青な色がついたみたいに明快な不安が「どうしよう」とデカデカ乗かっている。

 転入生はそれを見て、肩をクイと上げて「嫌われてるのね」と苦笑した。仕草ひとつひとつにスタッカートがついたみたく芝居がかった振る舞いであった。

 

 スリザリン寮に対する嫌厭は根深い。人殺しの親に判子を押したような優生思想をそのまま植え付けられた子どもたちが幅を利かせている寮でもあるため、さもありなん。軋轢の根深さは積み上げてきた業に比例するのだ。

 ……気づいている。彼女の知っているホグワーツは、もうここにはなかった。

 

「彼も教員であるならば、どんな形であれ生徒の手助けとなるのは本望でしょう。お気になさらず」

 

 転入生は両掌を顔の横まで持ち上げるアメリカンな無問題のポーズをしてそう言った。

 そして「ね」と同意を求めるようにリーマスへパチン、と音が鳴りそうなほど鮮やかなウィンクを送る。

 長くてコシのある重たそうな金の睫毛が、フルリと撓った風圧で小さな光が飛び散った気がするほどサマになっていた。

 それを見て、生徒たちは驚きに不安を取り落とした顔をして目を丸くする。スリザリンの生徒に好意的に接してもらった試しがないからだ。

 

 老いも若きも男も女も隙あらば蛇の尾を鞭のように振るって僕らをぶってくる。けれどもこの白金と緑色の綺麗なお姉さんは、どうやら僕らの味方をしてくれるらしいよ、本当に? とでも言うふうに。

 

 リーマスは転入生のそんなご機嫌パフォーマンスを受けて「万が一耳に入れば、セブルスは十中八九不機嫌になるだろうな……」と思いつつ、曖昧に笑って頷いた。いい教師の条件とは、子どもたちの期待をできるだけ裏切らないことなのだ。

 

「……オホン、それじゃ、早速実践に移ろう! 今日は授業のお手伝いとして五年生の先輩も来てくれたから、もし失敗しても大丈夫だ。私が三つ数えたら、先輩……ローレルが洋箪笥の扉を開けるから、さっき教えた呪文を唱えてボガードをやっつけよう。ほら、ネビル以外は皆下がって……」

 

 転入生がその言葉にスッと笑顔を打ち消してソッと洋箪笥から距離を取りつつ杖を向ける。ネビルも慌てて自分の杖を構えた。

 

 何だか指先が冷たく悴んで感覚が鈍い。どう構えてもしっくりこない気がする。ドクドクと耳の中が大きく脈打っており、全身が巨大な一個の心臓になったみたいであった。

 

 さっきまであんなに楽しく笑っていたのに、やはり緊張している。僕はどうしたって劣等生だし、おまけにプレッシャーにも弱い。先生は信用できる人みたいだから、滅多なことにはならないだろうけれど、もし失敗して後に続く皆の空気が悪くなったらどうしよう。せめてトップバッターじゃなかったら。……

 

「──ネビル」

 

 名を呼ばれてハッとした。隙間風が囁いたように細い小声であったけれど、ネビルにだけは不思議にハッキリ聞こえた。耳元で柔らかく囁かれたようだった。サラサラと頭を撫でるみたいに子どもを味方する声であった。

 

 咄嗟だったから、稚さに引っ張られ無防備な瞳が縋るように声のした方を見つめ返してしまったことだろう。

 

 彼女は緩く微笑んで、小さな花でも眺めるような目つきでネビルを静かに見守っていた。真昼の無人教室の角、キラキラとした埃の粒子が舞っており、どこか懐かしい感じのする影のような出で立ちで。

 

 その姿を目にした途端、ネビルは何故だかグッと喉元にまでせり上がってくるほどの熱っぽく蕩ける安堵を覚えた。母親の手に背中をトン、と叩かれた拍子に心臓にこびりついていた不安がそっくり抜け落ちて身体が軽くなったような、離れがたい底なしの安心感だ。

 

 どうして僕をそんな目で見つめてくれるのかわからないけれど、その微笑みに寄りかかって、「もう大丈夫だ」と思いたくなる。手に触れてみたら握り返してもらえて、もしその体温を無償で分かち合えたなら、少年の後頭部をいつも見つめている漠然とした不安感も、きっと深く目を瞑ってくれることだろう。……

 

「──大丈夫だよ」

 

 空気を揺さぶるところのない透き通った声で転入生はたったそれだけを、ネビルの目をしかと見つめて確信的に告げた。唇のほとりに薄化粧の微笑みを堪え、角ばったところのない慈しむ眼差しをしていた。慈愛に泥んだ紫の目が、堪らなくまる。

 

 ネビルはひとつ頷き返すと、肩を微かに持ち上げ、震える唇を精一杯引き結ぶことで不器用に杖腕へ力を漲らせた。先端がピタ…と焦点を定める。リーマスが息を吸ったのが、少年のぼやけた視界の端っこで見えた。

 

 大丈夫という言葉が、心の裡にこんなにも自然に填まったのは初めてであった。

 

「──いち、に、さん、それっ!」

 

 リーマスが叫ぶ。洋箪笥が勢いよく開いた。

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