気が付いたら幼稚園らしいけどここ暗くないか???   作:ぱんのみみ。

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 前回のあらすじ
 
 古い病院内の探索をしつつ、裏口から出る方法を探る。辿り着いた先には、臨時の医者がいた。キーカード入手のため、手術の手伝いをすることとなる。



77 Treatment 

 

「――手術を成功させるには、縫合機を再プログラムする必要がある」

 

 

 臨時のドクターは、パソコンっぽい機械の前で話し始めた。

 縫合機、と聞きなれない言葉を繰り返す私に、彼は手で部屋の中央にある手術台を指し示す。

 

「手順通りに混ぜ合わせてジバニウム溶液をつくるんだ。それをジバニウム体に注入する」

 

 ジバニウム体……私はその手術台の上で目をつぶっているブロブの子を見つめた。

 ナブナリーナと容姿は似ていないが……。溶液を注入することで姿が変化するのだろうか?

 

「以前ナブナリーナの手術の最終段階を行ったとき、彼女はすでに現在の姿だったのですが……」

 

 医者は首を傾げた。

 

「それは今からする手術と何か関係があるのか?」

「……いえ……。すみません、余計な話でした」

 

 素人が変に口を出すものでもないだろう。医者はたいして気にした様子でもなく説明を再開する。

 

「再プログラムに必要なのは、動きのパターンだけだ。お前は、床のパネルでそれを再現してくれ」

 

 すぐそばの床には4×4の白いボタンが設置されていた。壁のモニターには、同様の並びで白い丸が表示されている。

 

「そこの画面に出る矢印の通りに、床のボタンを踏むだけだ。……分かったか?時間切れになる前にやり終えてくれよ」

 

 画面の白かった丸が、いくつか赤くなっている。そして画面下部には左方向を示した矢印。

 

 なるほど。赤く色のついたボタンを、矢印の方向順に踏んで行けということだろう。

 ―――そうこうしている間に、時間制限表示らしきバーの表示がジリジリと短くなっていることに気が付く。私は慌ててボタンを踏み始めた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 しばらく画面の表示通りに、床のボタンをひたすらに踏む。

 

 制限時間内に押すために、ボタンを走り抜けたりジャンプしたりする作業が何度か続く。

 

 

 

 ルール自体は難しくない―――が、しかし。

 

 

 

 何度となくよろけた私は、ひと区切りがついたと思しきタイミングで挙手をし、主張を試みた。

 

「すみ、すみません……!きゅうけい、しても、いいですか!」

 

「――なんだ、あと少しだというのに」

 

 拒否や制止はされなかったので、限界を感じていた私はすぐさま足を投げ出して力を抜いた。

 

 普通に走ったり跳んだりの動作であるはずなのに、結構しんどい!

 ふいにあちこち微妙な痛みが走るので神経を使う。

 ちょっとはマシにならないかと、脱いだ上着を足にぐるぐる巻きつけて固定できないか試してみる……が。

 ―――うーん微妙!でもないよりは良いか!

 

「……どこか悪いのか?」

「ああいえ、ここに来る前あちこちぶつかりながら落っこちたようで、本調子でなく……。とはいえ少しすれば動きますのでご安心を……、……?」

 

 顔に落ちた影に、視線を上げる。

 

「……ドクター?……あの……??」

 

 いつの間にこちらへ近づいてきていた相手を、私は見上げた。

 

 

「……、……」

 

 

 臨時ドクターの黒い瞳が、私をじっと見下ろしている。

 

 

 

 しばしの沈黙ののち、彼の腕は、ぱっと動いた。

 

 

 

 

 

 

 

 数分後。

 

 手やら足やらを包帯っぽい布でぐるぐる巻きにテーピングされた私は、再びボタンの前に立っていた。

 

「―――ええと。ありがとうございます、ドクター。自分で先程やったより、だいぶ動きやすくなりました」

「応急のサポートだから根本治療にはならない」

 

 それでも体感は全然違うから、ありがたいものだ。

 

「残りあと一回だ。集中してやれるな?」

「はい、おかげさまで。ベストを尽くします」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 クリアを示す軽快な音が鳴る。

 

 ボタンを押すことによる縫合機の再プログラムは、無事成功したようだ。

 

 

「やったぞ!」

 

 臨時ドクターの弾んだ声が聞こえ、私も息を吐く。

 

「初デートはもう目の前だ……!俺のジバニウムケーキは最高だ、彼女もきっと気に入るぞ」

 

 彼の中ではもうデートプランが立っているようだ。お相手に手作りケーキを振る舞うのか。結構家庭的なタイプ?

 

 彼は、そのまま手術台の方へ移動した。

 

「あとは機械に任せておけばいい、偉大な成果を見届けよう」

 

 

 間もなく、動き出した注射針が、ブロブの子の体に刺さり、溶液が徐々に注入されていく……。

 

 

 息をとめて見守る先で、その子は……ゆっくりと、目を開いた。

 

 

「――やぁ、聞こえるかい、ナブナリーナ」

 

 

 臨時のドクターが声をかける。

 

 ……ブロブの子の姿は……そのままだ。変化はない。

 緑の体につぶらな黒い瞳のその子は、口を開いた。

 

 

「ぱぱ…?」

 

 

 医者の声色は、少し落ちた。

 

 

「……あまり、彼女に似てないな……」

 

 

 

「ぱぱ…」

 

 

 

「……もっと、ほかに、しゃべれないのか?」

 

 

 

「ぱぱ!」

 

 

 

「……、……」

 

 

 

 真横に居た私は、振り上げられる鋏を目で追っていた。

 

 あっ、と思う間もなく鋭利な鋏は振り下ろされようとする――。

 

 

 止めなくては、と。

 思って割り込んだ私の視界には、すでに鋭い金属が目一杯に迫っていた。

 

 

 

 ―――――いやちょ、思ったより勢い良!!!!

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 気が付いたとき、私は手術台の前に立っていた。

 ブロブの子を、臨時のドクターが見つめている……。

 

 

 

「あまり、彼女に似てないな……」

 

 

 巻き戻っている。

 

 ……さっきのは即死か!まぁ凶器の前に無防備に踊り出たらそらそうだな……!その細腕から1発で脳天をかち割る程度の力が出るのは驚く。そんな怖い威力を生まれたての子に???

 

 パニックになって余計なことを考えている間に、医者の手に握られた鋏が再び持ち上げられる。まずい。

 

 流石に2度目の私は、間に割り込まずに制止を試みた。ただし物凄く慌てて、下から彼の腕を弾き上げる形となる。

 

 

 上方向へ力が掛かって、その手からすっぽ抜けた鋏が宙を舞った。

 

 

 くるくると、銀色が回る。

 浮いた金属が最高到達点で、緩やかに動きを止める。

 

 

 その鋭い先端が、医者の頭上に吸い込まれるように、落下しようとするのが見え―――

 

 

 

 ―――飛び上がった私が鋏を横方向に引っ叩いたことにより、それは床にカラカラと音を立てて転がった。

 

 

 

 危なーーーー!!!!

 

 

 

 着地に失敗して床と仲良くなっていた私は、すばやく立ち上がった。奇しくも巻き戻しによって体調万全だから出来た芸当かもしれない。ついでに鋏を拾って懐の奥に仕舞いつつ、振り返る。

 

「……け、怪我はないですか」

「……」

「すみません、痛かったですよね。大丈夫ですか」

 

 臨時ドクターの腕をとって見る。擦る。咄嗟で力が入ってしまった、ごめん。

 

「あなたも平気?」

 

 ドクターの片腕を保持しつつ、台の上の子を見やる。……ぱぁ?とよくわかってなさそうな声をだした。大丈夫?平気そう?

 

 冷静を装いながらも数秒のうちに凄まじく心拍数が上がった私は、深呼吸をしつつ相手の両手をそっと握った。ぽかーん、としている臨時ドクターに対して私は汗がヤバイ。やっぱりこう、ちょっと、さっきのは医療行為を超えているような気がするな…。

 

「怪我がなくて良かったです。…あの…」

 

 彼ら的には、不始末とか失敗のときにドリルやら医療器具が飛んでくるのは日常茶飯事なんだろうけども。彼らにとってその行為は、今まで受けてきたもので、当たり前のことで、常識の範疇なのだろうかとも思うのだけれど。

 言葉を選んで絞り出す。

 

「……危ないんで……やめません……?」

「なぜ?……何が……?」

 

 おあわぁ……。感じたことを、考えと説明を……伝わらないかと、試みる。

 

「痛くて怖そうなんですけれど……痛かったり怖かったりしません……?」

「……」

 

 違う感じか?彼ら的には苦痛を伴うものじゃないのか?

 いつかの声がよみがえる。――『人間の感覚をこいつらに適用するな』

 ジバニウム生物の文化に、私は人間の感覚でもって余計な口出しをしているのだろうか??わからん……ので、聞こう。話そう。

 

「……貴方が痛かったり怖かったりするのなら……私は、貴方たちがそうしたりそうされたりして欲しく、ないなと思うんですけれど」

「…、…」

 

 しばらく無言だった彼は、やがて口を開いた。

 

「……しかしこうするしか……ないんだ……」

 

 ふらふらと、ホワイトボードの前に移動する。

 

「……なぶなりーな……何が足りないんだ……」

 

 

 だいじょばないやつだコレ。メンタルが心配になるな……。

 ふらふらした医者は、そのまま手術台の前に戻ってきた。黒い目が、ブロブを暗く見下ろすので―――ちょ、まてまてまて、まって?

 

「どうどうどう」

 

 素早く再び医者の両手を握った私は、彼の気を落ち着かせるように緩く振って声をかけた。すごい、思わず口をついて出てしまったが、実際にこの言葉を言う瞬間が来るなんて思いもしなかった。

 暴れ馬の如くなだめられている臨時ドクターは、首を振った。

 

「……次は、次こそは、成功するはず……諦めないぞ、時間を置いてやってみよう……」

 

 そのガッツは尊敬するが、どう考えてもこのブロブの子がナブナリーナになる未来が見えない。

 色々と問題がある気がする、――とまで考えて私は首をひねった。何がどうなれば状況が改善に向かうだろうか、これ。ちょっと彼が目指す先を聞いてみよう。

 

「ドクター、ナブナリーナがとてもお好きなんですね」

「――好き!?好きなどという言葉ではとても言い表せない、彼女は俺の運命だ、女神だ、ああ、それでもまだ言い足りないとも、なぜって」

 

 テンションが急激に上がった臨時ドクターの様子をよくよく見つつ私は頷いた。

 

「なるほど。……彼女のどんなところが特に魅力的だと思いますか?」

 

 私の質問に、彼の目は輝いた。

 

 

 

 

 

「――それで、もちろん中身が素敵なのは語った通りだけれど、それを更に輝かせているのが彼女の容姿でな」

「はい」

「あの黒々と艶めくボディ!ギザギザでいっぱいの牙!俊敏でしかしいざとなったら力強いあのしなやかな手足!どこをとっても魅力的にすぎる、ああ……ステキだ……」

 

 私は、彼が語った点をメモしていた紙から顔を上げた。横の丸椅子に座っている臨時ドクターの言葉は止まりそうにない。

 『ナブナリーナの素敵なとこリスト』が早くも2枚目に突入しそうだ。すんごい好きなんだな……。私の膝の上に乗っかったブロブの子が「ぱぷわぁ」と眠そうに声を出す。

 

「先生が彼女を大変愛しているのが良く分かりました」

「そうか!わかってくれるか!」

「質問なのですけれど、今貴方がおっしゃったその魅力的な部分を全てもった別の存在が居た時、貴方はその存在を好きになりますか?」

 

 臨時のドクターは止まった。

 

「――ええと、つまり……黒々と艶めくボディでギザギザの歯で……」

「はい、品があってでも身体能力抜群で以下略の特徴を持った存在です」

「……、……。こ、好みではあると思うが、……しかしやっぱり俺はナブナリーナが……」

 

 うーん。

 私はリストを彼に渡した。

 

「わかりました、先生。恋のライバルと真っ向から勝負しましょう」

「なんて!?」

「貴方が好きなのは、ナブナリーナだからですよ。彼女を模した誰かではない」

「え!?いやそうだがだからナブナリーナを作ろうと」

「貴方が造ったナブナリーナはナブナリーナ本人ではないと思うんです。仮にどれほどナブナリーナと同じに造ることができたとしても、貴方は違いを見つけるのではないでしょうか」

「へッ!?」

「貴方は魅力的と思う要素全てを兼ね備えた存在があったとしても、ナブナリーナを選ぶんです。貴方にとって愛すべきナブナリーナは、ナブナリーナ性の要素の集合ではなくナブナリーナという全体像なんですよ」

「ちょっとまってナブナリーナがゲシュタルト崩壊しそうだ、よくわからなくなってきた。全体像のナブナリーナ…なぶなりーな…?ナブナリーナ性とはいったい…???」

「ナブナリーナなら、ちょっとくらい欠点があったって愛せるのでは?」

「は?彼女に欠点なんかないが?全部愛すべき魅力ある点だが?」

「そうですね。ナブナリーナであるというただ一点で、貴方はあらゆる要素を愛す理由になる」

 

 私は身を乗り出した。

 

「彼女がナブナブを愛していても、貴方は彼女を愛せますか?」

「おうわぁああ……!?」

 

 彼はのけぞって頭を抱えた。

 

「いやだぁーー!でも好きだァ!!」

 

 そうかぁ、好きなのかぁ。

 

「貴方の好きなナブナリーナを完全再現するとしたら、彼女はナブナブを好きであることも含めてナブナリーナではありませんか、先生」

「わぁーー!違うもん!ナブナブじゃなくて俺を好きになるようにするんだ!」

「それは貴方の愛した唯一無二のナブナリーナですか?その差異を創り出すために彼女の何の要素を削ればよくて、貴方はその存在をナブナリーナと認められるでしょうか」

 

 私は相手の瞳を見つめた。

 『俺は会いに行けないから』、『彼女を造る』と言った彼を見た。

 

「ドクター。ナブナリーナ本人に会いたいというのが、貴方の最初で本当の願いではありませんか」

 

 ぎゃあ、とも、ぐぎゅう、ともつかぬような、短い呻きが返事だった。

 うーん、そうかぁ……。

 

「でしたらナブナリーナに会いに行けるようにしてみませんか。……会うのが難しいとおっしゃいましたが、どんな点でしょう。地理的に?心理的に?」

「な、ななな何もかもだよ!」

 

 臨時の医者は泡を食ったように続けた。

 

「大体にして、ほ、本人に会いに行ったところで、俺じゃあきっと……会って何したらいいかわからないし……」

「ナブナブとは違う貴方の良い所を見せに行くのはどうでしょうか。あるいは、単純に彼女を喜ばせたり楽しませたりしに。たいへん建設的だと思います」

「すごい簡単に言う!俺にそんな度量があればここに籠ってない!!」

「でもお好きなんでしょう。こんなに語るくらいに。良い所とアピール、私でよろしければ一緒に考えますよ、先生」

「……、……」

「一点に集中して熱意がある点とか、アピールポイントな気がしているんですけれど」

「は……えっと」

「あとお医者さんなのですよね。意中のひとの怪我なども治せたり?」

「……流石に治療行為に下心は」

 

 私は微笑んだ。

 

「誇りをお持ちですね」

「……」

「こちらのクリニックには長く?シリンジョン……お父上の仕事を引き継いだとか?」

「い、いや、俺は……父さんの手が足りないから、代わりに……ずっと、ここに……。最近はあまり、患者は来なくなったけど……」

「ずっと。……貴方、お父上に似ていると言われません?」

「え、いや、全然……俺なんか……どこが……?」

「困難な問題を、諦めないところとか。そうかもと思ったのですが、」

 

 ほかにも、足掻き方とか、諸々。

 でもまぁ。

 

「――貴方は貴方ですね。その人らしさにも色々あります、探していけますよ」

「……、……」

 

 ぷわ、と膝の子があくびをした。私は微笑んで、その子をそうっとゆっくり揺らした。

 

「あなたもね」

 

 柔らかでまだ眠たげなその子は、でもふやふや笑った。

 

 …、…。

 

「この子、お名前どうしましょうね」

「へッ!?」

 

「なんと呼べばよいかなと。……ねぇあなた、どんな名前がいいかなぁ。何が良い?」

「ぱあ」

「うん」

「ぱぷわわ!」

「ふむ。……「ぱぷわわ」ちゃんもなかなかに良いね」

 

 私はドクターにも、ぱぷわわちゃん(仮)を見せた。

 

「ドクターはどう思われます?」

「……」

 

 彼の視線は、ぷわぷわと声を出すその子へ向いた。

 

 逡巡したように伸ばされた手は何度か引っ込んで、しかししばらくして、そうっとその子の頬をつついた。

 彼は無言だった。でもその手は慎重だった。

 

 彼の動きを注意深く観察していた私は、その緑の手の先が元の場所に戻ったのを見て口を開いた。

 

「――ああ、どうも話が脱線していました。すみません。急がなくていい話です、ゆっくり行きましょう。ドクターのアピールポイントと一緒に少しずつ考えましょうか」

 

「……。わ……わかった……やってみようと思う……。でもちょっと待った、一回休憩を挟ませてくれ。こんなに誰かと色々話したのは久しぶりで、」

 

 

 

 ふいに、扉向こう。

 ―――がたん、と遠く、外で大きな音がした。

 

 

 私ははっとして顔を上げた。

 

 膝の子をそっと椅子に乗っけつつ口を開く。

 

「――先生。この部屋の電気を消せますか」

「え、え?できなくはない。そこのキーカードをスキャナーに、」

 

 素早く立ち上がって私は赤いカードをスキャナーに押し当てた。ぱっと電気が消える。

 

「なに、どうしたんだ。何だ急に――」

 

 私は医者の腕を引っ張った。彼らの耳の位置はわからないが、一応顔を近づけて小声で言う。

 

「どうぞお静かに。……ご存じの通り、私は追われています。今の音は追手の回収チームかも。――――ごめんなさい、私と居ると貴方がたも危険ですね」

 

 相手のパニックがないことを確認しながら、ゆっくり手を離す。

 

「このまま私は行きます。――貴方はしばらく出ずに、ここに居てください」

 

 そうっと開いた扉に近寄ってから、廊下を覗き込む。

 音は近くで聞こえない。

 

 ぐっと、手元に何かが押し付けられて、医者を振り返る。――彼に返そうと差し出していた赤いキーカードだった。彼はブンブンと首を振って再び私にそれを押し付けた。

 

「―――……ありがとうございます、ドクター」

 

 律儀に両手で自分の口を押さえて頷いた彼に、思わず笑ってしまった。

 

「少ししか一緒に案を考えられずにすみません。……ドクター、無事にまた会えたら、ぜひ」

 

 緑の頭は小さく一度縦に振られた。よし、と私はもう一度外を見る。

 ――左右に影も音も無いことを確認して、私は飛び出した。

 

 

 

 

 廊下を慎重に歩くが変わった様子はない……いや?前方、左側で音がする。足音というには、どこか引き摺るような音だ。徐々に近づいてくる……。

 

 通路の角で何かがうごめく気配を感じ、私はとっさに近くに散乱した荷物の中から、倒れた棚の下、その隙間に体を押し込んだ。

 

 

 ……、……。

 

 

 薄暗いために見えにくいが、やはり何かが近づいてくる。

 わずかな明かりに、相手の影が浮かび上がる。

 

 まず見えたのは、赤い色だった。大きな2つの鋏。そのあとに細い幾つもの足が、地面を小さく叩いて這うように進んでいく……。

 

 ロブスター……あるいはザリガニのような赤い色の巨体は、息を殺す私の目の前を、音を立てて通り過ぎる。暗闇の中で、黒々とした丸い目玉と、その首に掛かった輪の赤いライトが光っている……。

 

 

 影が遠ざかっていく。

 音が小さくなっていく。

 

 

 ……、……。

 

 

 行ったか?そうっと息を吐こうとして。

 

 ――――ぎぃ、と。私が隠れていた棚の近く、不安定に傾いでいたストレッチャーが、倒れた音がした。

 

 

 一定の速度で離れて行っていた足音が、止まる。

 

 

 息をのむ私の方向へ、それが踵を返して近づいてきて、

 

 

 

 

「……ぱわわ?ぱぁぱ?」

 

 

 

 ふいに、声が聞こえた。

 追っ手とは反対の方向の通路。緑のあの子の声。

 

 遅れてバタバタと走り寄る音が聞こえてくる。

 

 

「……あぁぁぁ、勝手に外に出てはダメだろう!――――どうわぁ!回収部隊!?どどどどどど、どうも、……!」

 

「……」

 

 

 

「お、お、お勤めご苦労、クローレンジン君……いやクラウレンゾ君、だったっけ…!?こ、こ、こんなところまでよく、」

 

「……」

 

「え?……凶悪犯罪者?怪しいやつを見なかったかって?それは……」

 

 通路の先。

 聞こえる医者の声が、すうっと、落ち着いたものになる。

 

「それは、―――うん。怪しいやつなんかは、見なかったな」

「……」

「ああ、被害にあっている者も見てないし来ていない、()()()()に心当たりはない。……へ?安全な場所まで送っていく……?はぁ、ええと、ど、どうも……」

 

 

 医者の声と共に……再び足音が、少しずつ、遠ざかっていく……。

 

 

 

「……、……」

「―――え、この子は俺の子かって?え……ええと、ええっと、」

 

「……」

「……あぁ……まぁ……、そう……か……」

 

「……」

「そう……だな。いや、正直まだどうやって関わればいいのかよくわからなくて……」

 

「……」

「え?……『最初はそんなもん』……?」

 

「……」

「あ、そうなの、君にもお子さんが…」

 

「……、……」

「ああ、その腕輪の印……たくさんの……動き回って大変だった……そう……、……え?今度会ってみるかって、いやぁ、あのだな、ええと……――――」

 

 

 

 話しながら、彼らはどんどん遠ざかって、やがて声が聞こえなくなる……。

 

 

 ……。

 

 ……、……。

 

 何の音もしなくなって暫く、私は隠れていた棚の下から顔を出した。

 彼らが消えた駅の方面を見つめる……。

 

 ……ものすごく気になる会話だったが、やるべきことがある。

 私は意を決して棚から這い出し、音を立てないように急いでその場を離れた。

 

 

 

 ―――幸いにして、そのあとは誰にも会わず、無事に開いた裏口らしき場所にたどり着くのだった。




P1:身体が回復した。ジバニウム生物に関して素人。
*この状況でチェイスにならない展開があるか?フラグを折ったか?――またぞろ余計なことを。

臨時の医者:勢いで煙に巻かれ、話題と意識を逸らされた。根は素直かもしれない。

生まれたてのブロブ:ぱぱをわかっている。健やか。

赤い鋏の回収部隊員:危険人物の存在を示す幼子の悲鳴は、一度とて響かず。よって急行せず通常のスピードで巡回し、一般市民を避難誘導した。

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