「すっげえ……」
それ以上の言葉が見つからない。
国産車も外車も、旧車も新型車も──なんでもないファミリーカーからレース仕様のマシンまで──
青山一丁目の交差点が赤信号になるたび二台のマシンが並び、青になった瞬間かっ飛んでいく。
現代の基準でいえば、コンパクトカーや軽自動車の加速の方が鋭いかもしれない。
でも、ここに集まったやつらは「速かった」。
その目はただただぎらつき、燃えていた。
集うマシンを舐めるように見回し、やつらは品定めする。
その瞳が秘めた問いはただ一つ──俺とお前、はたしてどっちが「速い」んだ?
この混沌とした熱気──「競技」のハコにおさまらない、ねっとりとからみつく、流体のような熱気──
私の知る
まるで分化直前の細胞──ここの走りはなによりも透明で、ただひたすらに形を持たない「速さ」そのものだった。
私が呆気にとられていると、ヘカーティアが私の裾を引っ張る。
「なんだよ、ヘカーティア」
「ほら、魔理沙ちゃん、あそこ。……知ってる顔じゃない?」
「知ってる顔……?いまは三十年くらい前の外界だろ?美鈴以外にいんのかよ……」
ヘカーティアが指差す方へ目を向ける。
青い髪の小柄な女だ。
オレンジ色の小型ハッチバックにもたれかかって腕組みをしながら、その女は青山一丁目の交差点を見つめていた。
「あれは……河城にとり?そうだよ、河童の河城にとりだ。あいつ、この時代外界にいたのか?」
異質な空気──まるで、なにかを待ち受けているかのようだ。
他のやつらは対戦相手を探す、お祭り騒ぎのテンションだが──こいつは明らかに違う──
冷静な目で「見極め」ている瞳だ。
……妖怪の山で何度か会ったことはあったが、こいつ「こんな目」をするやつだったのか?
あまりにも鋭く──そして冷たい瞳だ。
人間人間連呼しながらフレンドリーに接してくるにとりしか知らない私には、そっくりの別人と言われたほうが現実味がある。
「そう、彼女は河城にとり。『あの』河城にとりよ。あなたが知っているのはあくまで『幻想郷の河童』としての河城にとり。あそこにいるのは『技術屋』──そして『チューナー』としての河城にとりよ」
「まじかよ……たしかにあいつ、クルマいじりとか好きそうだけどさ。……『チューナー』ってことは、あいつも美鈴みたいにショップやってたのか?」
「そうよ。紅美鈴の『紅龍レーシング』とほぼ同時期に、河城にとりは東京で『河城スピード』を開業したわ。いまは店を畳んで大阪で小さな整備工場をやってるはず。ちなみに、得意としたのは──この十年くらいあとに登場するVTEC。そして彼女が組んだ一基は──魔理沙ちゃん、あなたもよく知ってるエンジンよ」
そう言いながらヘカーティアはにとりの方に向かって歩きだす。
私は慌てて後を追いながら、知ってるマシンを振り返る。
VTECと言われて真っ先に思い出すのはただ一台。
たしかあのエンジンは大阪から引っ張ってきたはずだ。
「まさか──霊夢のワンダーに積まれてるB18C環状SPLのことか?」
「ピンポーン、大正解。あれは河城にとりがチューナーとして最後に組んだエンジンよん。河城にとりは一貫してホンダの小型FF、そしてNAにこだわり続けたチューナーよ。そのこだわりが仇となって東京で行き詰まり、阪神環状で息を吹き返したってところね。──当時、一般市民が触れられる最先端の『技術』は自動車だったの。この時代に外界に存在できた人外は大抵、人間を理解する
ヘカーティアはそう意味深なことを言い、にとりのマシンをじっくりと見つめる。
オレンジ色のボディに、時代を感じるフェンダーミラー。
霊夢のワンダーよりも古そうなデザイン──てことは、初代……あるいは二代目か?
私の心を見透かしたように、ヘカーティアが教えてくれる。
「これは二代目シビック……通称スーパーシビックよ。しかもオレンジってことは、CXグレードね。当時発売されたばかりの、本格的な走りのグレード。このCXの登場を機に、シビックのワンメイクレースが始まり、国産メーカー各社はホットハッチに力を入れ始めたの。シビックのスポーツグレード自体は初代の1200RSに始まるけど、本格的なレース向けグレードの始まりはこのスーパーシビック・CX──タイプRの原点ともいえるマシンは、ホンダ一筋の名チューナー・河城にとりの原点でもあったの。そのマシンが新車同然で、この『青山ゼロヨン』にいたっていうのは──なんというか、運命的よね」
「へえ……これがワンダーの先代か。なんだか不思議な気分になるぜ。なんつーかデザインに時代を感じるっていうか──こいつの次がもうワンダーって、イメージがガラリと変わったんだな」
「そうねえ……このずんぐりしたデザインは、当時でも時代遅れ感があったみたい。実際、スーパーシビック自体はあまり振るわなかったモデルだし。あとは多分、フェンダーミラーなのが大きいんじゃないかしら。いまでこそ当たり前のドアミラーが解禁されたのは1983年……いまから三年後の話だから。ほぼレーシングカーみたいなマシンが市販されて、改造車がナンバーを取れる時代しか知らないあなた達からしたら信じられない話よね」
ヘカーティアの言葉に私が相槌を打とうとしたとき、場違いなエキゾースト──これだけのクルマが、改造車が集まっているなかでも「場違い」と感じられてしまうほどの轟音が近づいてくる。
ドロドロと濁った低回転の音──巨人の呼吸を思わせる、トルクそのもののような音だ。
幻想郷──いや、日本ではあまり聞くことのないこのエキゾーストは──おそらく大排気量のV型8気筒、アメ車だ。
そこに特徴的な過給音が混じる──スーパーチャージャーか?
大排気量V8にスーパーチャージャー──こんなマシンをこの時代に、そしてこの青山ゼロヨンに持ちこんだ奴は、ここまでの話を聞くかぎりただ一人だろう。
集まった誰もが口を閉じ、音の方向を見つめる。
青山一丁目の交差点にマシンを並べようとした奴らも道をあけ、困惑した表情でガラス越しに状況を見守っている。
道がクリアになった途端、そのマシンは雄叫びを上げて加速する。
さっきまではあくまで「巡航速度」だと言わんばかりに──そして雷光のように飛び去るかと思われたマシンは、一切迷いのないフルブレーキングで、停止線にアイアンバンパーをぴたりと合わせる。
加速性能──そして制動距離。
居合わせた誰もが、それがパフォーマンスにすぎないことを理解していた。
そして、それが「パフォーマンス」である事実がなによりの「格の違い」だった。
ボンネットからはスーパーチャージャーが飛び出しており、ドライバーがアクセルを煽るたびに、三つ横並びの穴がパタパタと開閉する。
居合わせたほとんどの人間が、映画でしか見たことがない本格的なチューンド・コルベット。
そのライトニング・イエローの左ハンドルから、赤い長髪の女性が青山の地に降り立つ。
C3の「コークボトル」に負けないプロポーションと、成人男性以上の長身。
凛と伸びた背筋からは濃厚な武の気配が漂う。
すらりとした足にぴたりと張り付く、リーバイスの褪せたインディゴ。
大排気量のV8を踏み抜いていたとは思えないほど華奢な、よく履きこまれたオフホワイトのコンバース。
その女性は集中する視線を受け止めながら、なんでもないような仕草でポケットからラッキーストライクを取り出し、シルバーのジッポーで火をつける。
青山通りの静寂の中で、カシャン、とライターの金属音だけが響き渡った。
まだ1ドルが200円以上だった時代──その女性は、当時の若者たちが憧れた「アメリカ」そのものを身にまとっていた。
彼女の自然体と──そして見るからに激しいチューニングを施されたライトニング・イエローのコルベットが、彼女がUSのストリートからやって来たことを、なにより証明していると誰もが思ったことだろう。
この女性がおよそ三十年後、吸血鬼の館で、立ったまま昼寝をする呑気な門番をしているなんて、誰が信じるだろう。
彼女の名は紅美鈴──この一人の門番、そして一人のチューナーの物語を通して、私は32Rの過去を紐解いていくことになる──