博麗霊夢は黙したまま、最後の大学ノートを静かに閉じた。
障子越しに射し込む陽光が、ライトブルーの表紙にやわらかな池をつくっている。
読みふけっているうちに、朝がきていた。
湾岸の夜に
誰かに伝える必要があるとして、それは自分の役目ではないと、霊夢は考えていた。
あくまで自分は部外者なのだ、と。
決め事や約束事といったものに縛られることを嫌う霊夢にとって、これがはじめての「自分自身」との契約であった。
何かに縛られることを、自分の意思で選びとる──それは霊夢にとって、はじめての経験であった。
霊夢は這い寄り、障子を開く。
永遠亭を囲う迷いの竹林は、朝の光に満たされながら、いまもまどろみにたゆたうようであった。
目覚めを拒否するわけではない──しかし、目覚めるときがわからない──竹の眠りを見つめて霊夢は、静かに目を細めた。
魔理沙は──霧雨魔理沙という、自分の「親友」だと名乗る少女は──「目覚めた」のだ。
じゃあ私は?──霊夢は思考を介さぬ無意識の領域で、問う。
その問いは無意識の暗がりに吸いこまれ──反響することはなかった。
魔理沙は「手紙」と称したノートの最後に「もうお前の知っている私はいないかもしれない」と綴っていた。
霊夢はそれを、不思議に好都合だと思った。
霧雨魔理沙について、なにを思い出せるわけでもない──しかし、新たに関係をつくろうとしている自分がいた。
あるいは、つくりたい、と思う自分が。
だから、過去と同じである必要などない──霊夢はそう考えていた。
霊夢には、その欲求の正体がわからなかった。
だが、その欲求は爽快なものだった──だからいまは、それでいいと霊夢は思った。
霊夢は一度瞑目した後、再び布団に戻る。
箱を探り、左腕と右足の紅白の義肢を取り出した。
この義肢についても、ノートに説明が付されていた。
これはいま居候している勢力の手を借りて、魔理沙が自分で設計したものらしい。
外装の金属部品はすべて、霊夢の紅白ワンダーのボディを使って成形したという。
ノートの説明に従い、霊夢は義肢の接合部に霊力を吹きこむ。
たちまち、接合部の金属ボールがゲル状の弾力を持った。
暗灰色のぶよぶよとした球体は薄く広がり、接合部一面の空間を満たす。
それを霊夢は、慎重に充てがった──まずは左腕、そして右足の付け根に。
神経接続の電気的な刺激が一瞬走る。
霊夢は、その一瞬にワンダーとの短い日々を見出していた。
しかし──霊夢はそこに一切の感情を差し挟むことはしなかった。
元から口数の多い方ではなかったが、こころのそれすら減ったように、霊夢は感じる。
霧雨魔理沙の九ヶ月の記録は、博麗霊夢という少女の思春期に、鮮やかな冬の創傷を残した。
霊夢は新たな紅白の左手を見つめながら、直観の思考を走らせる。
こうして人は、大人になっていく──傷跡を持たない大人はいない、歳を重ねるだけでは、人はけして大人になれはしないのだ。
失ったもの──左腕、右足、そしてワンダー──それらはいま、形を変えて霊夢の元に、ふたたびあった。
霊夢は、取り返さなければならない、と思う。
それは、何を?──そして、何のために?
知らなければならない──首都高と走りの過去、そして今を。
知らなければならない──速さの果てにあるものを。
それは、霊夢の──そして博麗の巫女としての天啓であった。
欲望ではなく、快楽でもなく──達成ではなく、実現でもなく。
それは、幻想の調停者としての、博麗の巫女の役目であった。
なぜ、走りが博麗の巫女の役目なのか──その理由までは、霊夢にはまだ見えていない。
しかし、その結論は、まぎれもなくゆるぎないものであった。
博麗の巫女は博麗霊夢で、博麗霊夢は博麗の巫女なのか?──走る