「……知らない天井」
目を開けて一番に出た言葉が、それだった。
まだかすかに建材のニオイが漂う部屋の、アイボリーの天井。
私は寝転んだまま、天井に向かって両手を伸ばし、何度か握ったり緩めたりする。
「──なんて、バカみたいね。私は十六夜咲夜。そう、私は十六夜咲夜──」
誰も聞いていないというのに、私は小声で自分の名前を繰り返し呟いた。
それは多分、昨夜のもみじラインの走りが、まるで現実とは思えなかったから。
自分の名前を呟くたびに、断片的に思い出した過去が反芻する。
ミスティアさんのFDとクリアした、あの奇跡的なコーナリングの一閃が、記憶の波間に呼応して鋭く光る。
途切れ途切れの「サクヤ」の記憶が、繋がっては離れ、離れては繋がり──「十六夜咲夜」と連続していることが現実に思える瞬間もあれば、思えない瞬間もあった。
私は二枚重ねのカーテンを開く。
窓の向こうに広がっているのは、日本を代表する大都会の夕暮れ──
「──私は十六夜咲夜。そして、ここは東京──渋谷の、
私がそう呟いたとき、インターホンが鳴った。
─────
「私一人でも大丈夫だったのに」
玄関でブーツのジッパーを下ろす金髪の後ろ姿に、私は口を尖らせた。
来訪者はアリス──お嬢様が
「そうは言っても、あなたまだ18歳にもなってないでしょ?外界では未成年*1って色々都合が悪いのよ。免許証の上では18歳だけどね……はい、お土産」
そう言いながらアリスはブーツを端に並べ、私に向き直り、紙袋を差し出した。
「アリス、なにこれ」
私はそれを受け取りながら、アリスに問いかけた。
茶色の紙袋には、緑色の円のなかでにっこり微笑む、人魚のロゴが刻まれている。
そのロゴそっくりの表情を浮かべながら、アリスは口を開いた。
「駅前のコーヒーショップで買ってきたの。ほら、スクランブル交差点にある、ガラス張りのビル。あなたくらいの年頃の女の子に、特に人気があるのよ」
「そうなんだ」
外界の女の子は、紅茶ではなくコーヒーなのか──私の知らない「外界の女の子事情」を聞いて、無意識に気のない返事になってしまった。
鈴仙なら、この店を知ってるんだろうか。
霊夢の事故以来、なんだか気を遣わせてるのが気まずくて、鈴仙とも妖夢とも全然会わないままになっている。
元々外界で生まれ育ったはずなのに、私はこの「スターバックス」という名前を知らない。
私くらいの年の外界の子は大抵、高校とやらに通い、女子高生とかいう職業をやっているらしい。
私が「サクヤ」のままだったら、高校の帰りに友達とこの店に立ち寄ったんだろうか。
私はスターバックスを知らない代わりに、ロータリーとFCを知っている。
もみじラインから東京入りしたのは今朝のことだった。
渋谷に着いてすぐ、すれちがった同い年くらいの女の子三人組。
美鈴が好きな漫画の『ポパイ』*2みたいな揃いの上着に、これまた揃いの膝上丈のスカート。
霊夢と魔理沙──魔理沙はもういないけど──私含めた三人で歩いたら、私たちも「女子高生」──霊夢と魔理沙は中学生?なんだっけ──に見えるんだろうか?
──そんな想像が一瞬頭をよぎるけど、私は力ずくで引き剥がす。
あの女子高生たちと私たちは、同じようでけして重ならない、交わらない──昼と現実に生きる彼女たちと、夜と幻想に生きる私たちの時間が一致することは、ない。
昼のスクランブル交差点を行き交う彼女たちは、これから私たちが身を投じていく真夜中のアスファルトの戦場を、きっと知らない。
彼女たちの頭上──東京都心で繰り広げられる小さな空中戦を、きっと知らない。
知らないまま彼女たちは大人になり、生きて──そしていつか死んでいく。
対し私たちは大人になることを知らないまま、夜のアスファルトに死んでいくのかもしれない──魔理沙のように。
紙袋の中身を覗きこんだまま動かなくなった私の肩に、アリスが優しく手を置く。
顔を上げると、アリスのブルーの瞳と不意に見つめ合う形になった。
アリスの瞳は青い──でもその色を、単に「青」と表現したくないなと、私は思う。
アリスの瞳はアクアマリン*3のようにも、アイオライト*4のようにも見える。
そこには長い時間のなかで積み重ねてきた知識が沈み、同じくらい長い時間のなかで揉まれ削がれ、そうして洗練されてきた優しさがあると、私は感じる。
人はそれを「知性」と呼ぶのだろうとも。
人間的な愛情の裏打ちのない知能や教育なんてなんの値打ちもない*5──アリスに勧められて読んだ、私の好きな本の一節。
私は、青が好きだ。
海のようにいくつもの表情を同居させる、アリスの瞳のブルーが好きだ。
「十六夜咲夜」を「十六夜咲夜」たらしめるものの大半は紅魔館──レミリアお嬢様だけど、ほんのすこしだけ、私の根拠にアリスがいる。
レミリアお嬢様は、赤が一番美しい色だと言う──そして流水を禁忌とする吸血鬼にとって、海は天敵にも等しい。
その従者である私が青を好いていていいのかって、思わなかったわけじゃないけれど──もみじラインの夜を越えたいま、それでいいのだと思う。
私は「サクヤ」で「咲夜」なんだから。
「……?どうしたの?」
無言でただ見つめていただけの私に、アリスは訝しげに──そしてすこしだけ不安げに、そう問いかける。
「──んーん。なんでもない。……アリス、目ヤニついてるよ」
嘘だ。
なんとなく気分が良くなって、アリスをからかってみただけ。
しかし、魔女には効果がなかったようだ。
「嘘おっしゃい。私は肉体の変化を止めてるから、垢の類は一切出ないの。……さて、紅魔館のメイド長様は、いつまでお客を玄関に立たせておくのかしら」
アリスが「ふんす」と両手を腰に当てるのに合わせ、どこからか現れた上海が同じポーズをとった。
私は苦笑しながら、リビングへの扉を開ける。
……私が後ろを向いた瞬間に、アリスがさっと両目をこするのを、私は見逃さなかった。
─────
────
───
──
「──大体状況は呑みこめたわ。咲夜、あなたは古明地チューンを選んだのね」
私が話を結ぶと、アリスは宙を仰いでそう言った。
「そう。だからしばらくは地底の方に行くことになりそうなの。でもちょっと準備したいことがあるから、一週間くらいこのマンションに住んでいてくれって、こいしが」
私は昨夜のもみじラインから現在に至るまでを、アリスに説明していた。
話が終わる頃、キャラメルマキアートの入った紙コップはすっかり冷たくなってしまっていた。
茜色だった空はとっくに、群青色に染まっていた──もっとも、道玄坂なんて渋谷のど真ん中、昼も夜もさして変わらないのかもしれないけれど。
「ここ、古明地姉妹の物件だったのね……さすがというかなんというか……」
そう言ってアリスは改めて、リビングルームをぐるりと見渡す。
まるで、こいしとその姉のことをよく知っているかのような口ぶりだ。
「アリスはこいしのこと知ってたの?」
私が問うと、「詳しいわけじゃないけれど」と苦笑して、アリスは説明する。
「こいしというより、姉のさとりの方をちょっとだけね。面識があるわけじゃないけど、外界でそれなりにうまく立ち回ってた妖怪の一人よ。有力な
「そうなんだ。……まあ実際、一階の駐車場に停められてるクルマを見たときから、なんとなくわかってた。これだけの富裕層が入居してるマンションを、渋谷の中心に建てるだけの土地と資金を持ってる古明地姉妹……妖怪の身でそこに行き着くには、クリーンなやり方では足りないだろうってことくらい」
手遊びをしながら俯いて応じた私に対し、「幻滅した?」とアリスが問いかける。
私は顔を上げる。
「そんなことない。……お嬢様方には今までもこれからも、悪いことも危ないこともしてほしくないけど、私はまだ全然『妖怪』を……『夜』を知らないから。私は走りのなかで、それを知っていくのだろうから。走りだけが、私とお嬢様をつなぐただ一つの言葉だから」
私の答えを聞いて、アリスは柔らかく微笑んだ。
「聡いのね、咲夜。あなたと出会ってもう五年が過ぎたけど……子供の成長って早いものだわ」
「またアリスは私は子供扱いする」
私が口を尖らせると、アリスは「ごめんなさいね」と苦笑する。
「咲夜が素敵なレディになった記念に、今夜は銀座でディナーにしましょうか。レミリアからカード預かってきたし」
「銀座……聞いたことはあるけど、ここから近いの?」
「メトロの銀座線で一本よ。東京ではクルマより鉄道の方が早いの。ほら、支度してらっしゃい」
そういってアリスは私にもう一つの紙袋を渡す。
外界用の服が入っているのだろう。
アリスにお礼を言って、私は寝室に向かう扉を開けた。