大阪府某所──午前零時
大都市近郊の、鉄工所と町工場が密集した工業地区。
寝静まった裏路地を、一台の赤いクルマが徐行する。
ハイフラッシュツートンのAE86型カローラレビン。
そのクルマは一方通行の道路でウインカーを焚き、ブロック塀に挟まれた敷地入口で左折した。
4A-Gエンジンのアイドリングが止み、レビンから二人の女性が降りる。
ともに長髪──運転席から降りた女性は白髪、助手席からは橙色の髪の女性。
「ありがとうございます、妹紅さん。京都からここまで」
「京都から大阪なんて、そんな大した距離じゃないよ。普段に比べたらこのくらいは近所さ」
「遠いときは京都から仙台でしたっけ。長距離ドライバーは大変ですね」
「まあ、トラックドライバーって仕事は私の
運転席から降りた白髪の女性──藤原妹紅はセブンスターをくわえながら言う。
妹紅が指先に灯した火を煙草に移す──紅美鈴はそれを見届け、目の前の建物のシャッター横にかけられた看板を見つめる。
──看板の銘は「河城自動車」。
工場の窓からは灯りが漏れている──作業する音は聞こえてこない。
「この工場、自宅を兼ねてるんだよ」
妹紅はくわえ煙草のままそう言うと、シャッターの隣にある扉を開く。
くすんだグレーの縁に、磨りガラスをはめ込んだ窓──キィー、と扉は軽々しい音をたてる。
「あんたらに払うゼニはないよ。債権者だって言うのなら、書類きちんと耳揃えて持ってきな。じゃなきゃあんたらの尻子玉抜いて食わせてやる──ああ、妹紅。あんたかい」
「今夜行くって連絡入れてたろ、にとり。にしてもどんな挨拶してるんだお前」
「最近ロクでもない取り立てする奴らに居場所かぎつけられちゃってね。数十年前に東京でつくった借金の話を今頃してるんだよ、わざわざ大阪まで乗りこんできてさ。でも口約束だったからしらばっくれてんの」
「めちゃくちゃだなお前」
「めちゃくちゃなのはあんたも同じでしょ、妹紅。日銭稼ぎに幻想郷の外でトラッカーとか……ああ、灰皿はそこ。敷地内でポイ捨てしたら殺すからね」
「殺せるもんなら殺してほしいよ。ついでに輝夜も殺してくれ……いや、やっぱ輝夜だけでいいな。輝夜だけ殺してくれ」
「あいかわらずだね、あんたと輝夜は……そんで?『紅龍レーシング』オーナーの紅美鈴がうちに何の用?うちは看板通り、ただの自動車工場だよ」
妹紅と談笑していた青髪の小柄な女性が美鈴に目を向ける。
にとりと呼ばれていたその女性は、胡乱げな瞳で美鈴を見据える。
「……随分懐かしい名前を知ってるんですね、河城さん」
「にとりでいい。堅苦しいのは苦手だから。……知ってるもなにも、私もあのときいたからね。──1980年の青山通り。アメリカから持ち込まれたライトニングイエローのC3コルベット。ハードに過給機チューンを施した7.4リッターV型8気筒エンジンを搭載。USのストリートで鍛え上げられたそのマシンは、ただの改造車が席巻していたこの国にチューニングカーの衝撃を与えた。そのチューナー兼ドライバーの紅美鈴を、あの日の青山通りにいた人間が知らないはずないじゃない。あなたは私のことなんて知らなかっただろうけど」
「いえ、知ってますよ──『河城スピード』オーナー、河城にとり。NAチューンにこだわり、VTECを得意とするチューナー。河城にとりの組むB型エンジンは、滑らかな加速感と継ぎ目なしに官能的なVTECサウンドを乗り手に与え──その仕上がりは『空力の先のエクスタシー』と形容される」
「よく知ってるね。『終わらない加速が空力の限界に阻まれてしまう葛藤』それが私のウリだった──でも、それは昔の話だよ。うちは『河城自動車』であって『河城スピード』じゃない」
にとりはそう言いながら、作業途中だった3S-GEのオーバーホールに戻る。
2本目のセブンスターを吸っていた妹紅が口を開く。
「美鈴、にとりはもう戻るつもりはない。お前と紅魔のお嬢の頼みだったから連れてきたけど、来てみてわかったろ?取り付く島もないってことが」
「そういうこと。霊夢に売ったあの
妹紅はにとりの言葉に首肯し、続ける。
「美鈴、あんたなら気づいてるだろうけど、私のレビンはフルノーマルだ。パーツ取り用の車体から取った純正部品しか使ってない。延命のための社外チューニングすら許容しない。──純正部品が手に入らなくなれば廃車にする、極端かもしれないが、そういう気持ちで私は乗ってる。クルマには『終わる自由』を持っていてほしい、不老不死の私はそう思う」
なにも返す言葉がない──正論だ。
いわゆる旧車の寿命を延ばすために、アフターパーツで修理する──ゆえに名車とよばれる存在に、本当の死は訪れない。
長命種にもいつか死は訪れる──だから、終わらないことの残酷さを本当の意味では理解できない──美鈴は思う。
「私はチューニングにうんざりしてるんだ。金と免許を浪費して、無法に道路とクルマを痛めつけて、そして命を落とす……馬鹿みたいじゃないか」
吐き捨てるようににとりは言う。
「妹紅はチューニングカーで免許を失い、一度トラックドライバーとして廃業した。私は激化したチューニングショップの経営戦争に敗れ、多額の借金を背負って東京から大阪に逃れた。──そこでやめとけばよかったんだ。得意とするVTECが花形だった阪神環状──私はチューナーとして返り咲いた。『西の河城、東の紅龍』──首都高の帝王と呼ばれた紅龍レーシングに対し、環状の河城スピードは大阪のプライドそのものだった」
にとりは言葉を切り、妹紅のセブンスターを一本取り出し、くわえる。
妹紅が火をつけ、にとりは煙を吐き出す──妹紅はにとりを気遣わしげに見つめながら。
にとりは続ける。
「──ある日気づいてしまったんだよ、私は。VTECは、B型は──それだけじゃない。エンジンは、クルマは、手を入れなくちゃいけないのかって。速くなければ意味がないのか?どうして生まれてきたままの姿で愛してやれない──すべての機械はそのままで美しいはずなのに。すべての機械には意味がある。目的を持って生まれ、すべての仕組みに意味がある。効率化と高性能化は機械の正解。でも、その正解は別の機械が、次の世代がアップデートすればいい──より速いクルマがほしいなら新しいクルマを買えばいい。速いクルマが出てこないなら、社会や経済を変えればいい。過去にすがって、生まれた姿を異形に変えて──より強く、より速く──生まれてきた姿のまま機械を愛してやれない、そんな自分とチューニングに嫌気が差したんだよ、私は」
にとりが話し終わると、沈黙が訪れた。
「──でもにとりさん、あなたはやりきったんですか」
沈黙を破り、美鈴が口を開く。
「やりきった?何を言ってるんだ、美鈴」
ピクリと眉を上げたにとりを見て、妹紅が言う。
美鈴は妹紅に構わず続ける。
「霊夢さんに売ったあのB18C……ヘッドカバーが赤でした。噂に聞いたことがあります。河城スピードで組まれたエンジンのうち、河城にとり自身が本当に認めたものはヘッドカバーがグリーンに塗装され、胡瓜にちなんだペットネームが水色で刻印されると」
「なんだよそれ、私も知らないぞ。にとり、そりゃ本当なのか?」
「……馬鹿に詳しいじゃないか。そうだよ、それは本当の話。もっとも、B16A『千秀1号』とB16B『千秀2号』、その二基しかないけどね。『
「……しかしにとりさん。流れは変わりつつあります。幻想郷はいま、走りの中で新しい時代を迎えようとしているんです」
「紅魔にほだされたのかい?レミリアも首都高で散々『見た』はずだけど」
「……お嬢様は『見て』きました。あまりに多くのものを。私には、お嬢様の真意はわかりません。幻想郷に『走り』を持ち込む……34Rの調達も検討しているようです。それがどういう結果に行き着くか私にはわかりません。しかし……私はお嬢様を信じてみようと、いまは考えています」
「……そうかい。しかし、それでも私の気持ちは変わらない。私はチューニングをやらない。私の組んだB18Cは勝手にしな。売った以上は霊夢のもの。せいぜい死なないように走ってくれればそれでいい」
「……わかりました。それでは、私はこれで。妹紅さん、帰りは結構です。八雲に帰りは頼んであるので。ありがとうございました」
「わかった、気をつけて。……悪かったな、力になってやれなくて」
「いえ、気にしないでください。……にとりさん、いずれまた」
にとりは美鈴に背を向けたまま、返事をせず3Sエンジンに向き合っていた。
美鈴はそれ以上なにも言わず、河城自動車をあとにした。