とても長いですが、作者はFD荻島ではありません
(2025/2/10 01:15)
阪神高速・
「東風谷早苗──あんた、
携帯電話の通話終了ボタンを押す私に、にとりさんがそう投げかけた。
どこか火薬を思わせる紫煙の香りが、アスファルトに染みこんだ。
大阪都心の、アイドリングすら絶えたアスファルトでじっと──発火するそのときを待っているかのように。
私はすこし離れた場所に佇むマシンを見つめながら、にとりさんに答えた。
「警察庁から仕事は受けていますが、身分自体は警察官ではありませんよ。……にとりさんは知っていますか?横浜エリアの34Rのこと」
私が問うと、にとりさんは口の端をわずかにゆがめ、煙を吐き出す。
細く伸ばされた煙が形を失うのを見届けて、にとりさんは口を開いた。
「……インターネットの掲示板程度の情報だけどね。『走り屋殺し』の黒い34Rだろう?
「ええ、そうです。フランドール・スカーレットですね。私がいま受けてる仕事が、まさに『それ』絡みなんですよ。『走り屋には走り屋を』ということで、F4の経験がありながら走り屋の私を、警察庁が非公式に雇っている形です。高速機動隊では、追跡に限度がありますからね」
私の言葉を受けたにとりさんの顔に、邪悪な嘲りの色が浮かんだ。
にとりさんにはお見通しらしい──公務として
しかし、警察にもメンツがある。
「つまり、ターゲットは『悪魔の妹』、ミッションは34R撃墜ってことか。にしても、
にとりさんはそう言いながら、マイルドセブンのソフトパックをちらちらと振る。
「どうぞ。そうですね……三ヶ月のニュル*1
への留学と、アカデミーの学費、そしてポルシェ・911……冗談では済まないコストがかかっているのは事実です。そしてそれ以上に、いまの首都高──こと横浜エリアは地獄以上に地獄、ということです。警察もそれだけ本気だということですよ。
私の「地獄以上に地獄」という言葉に、にとりさんは口角だけを器用にゆがめる。
まるでこぼれた本音を隠すかのように、皮肉の色が浮かんだにとりさんの口元を、漏れ出した煙がぼやかした。
「そうだね……好きでも嫌いでもないかな。『量産車メーカーの最高峰』としての技術に、エンジニアとして心躍るものはある。でも、ただそれだけだ。あのフラット6に、私のこころは震えない。それは──そいつに乗ればきっとわかるさ。ホンダとVTEC──それだけが、私のすべてだ。いままでも──」
にとりさんはそう言って、いま湊町PAにただ一台佇む、フォーミュラレッドのマシンに煙草の火種を向けた。
「──そして、これからも」
あまりのピーキーさゆえに、
吊り目に流したフロントマスクが、私を静かに見つめている。
その瞳は
乗らずともわかる──私はこのマシンを愛することも、欲することも──拒絶することもないだろう。
それは究極のVTECチューン──そして──
「──最悪のVTECチューン。博麗の巫女──博麗霊夢のために河城にとりが組み上げた、環状最速の戦闘機──」
ホンダ・S2000──
─────
「エボは距離を置いたか……賢明な判断だと思うよ。なんだろうね、この嫌な空気は──」
クラウンピースはR35のバックミラー越しにエボを確認し、呟いた。
浜崎橋よりC1外回り合流──先行はガングレーの32R。
クラウンピースはそれより十メートルほど離れ、エボはさらに後方──バックミラーからは消えない程度のペースを保っている。
浜崎橋の左コーナーを立ち上がったとき、なにか白く細長い深海魚が音もなく隣をすり抜けていった──そんな錯覚を、クラウンピースは感じていた。
プロのチューナーであるクラウンピースは、クルマと接するにおいて、数字にできないものを信用しない──乗り手が好むフィーリング、そうした感覚的で主観的なものであっても、それは必ず数字に表れる。
必要なだけセンサーを取り付け、膨大なデータを収集しさえすれば、それは必ず数字の世界で法則として現れる──四半世紀以上スパナを握ってきたクラウンピースにとって、それはまぎれもない真理であった。
同時に、走り手としてのクラウンピースは数字を一切「信用しなかった」──こと公道においては。
120km/hが限界のコーナーは、121km/hではクリア出来ない。
同様に、119km/hではベストではない。
しかし、理想的なラインとスピードは、公道においては一定ではない──容易に移り変わるものだ。
それ以上に、公道には「波と流れ」がある。
不気味な予感──残酷な闘争心に火をつけたクラウンピースがすぐさまそれに水をかけ、アクセルを抜いたのはそれが理由であり──理由はそれだけだった。
「多分、エボ──あんたも感じとったんだよね──あたいと同じ、この嫌な予感を。誰かが知らずにパンドラの箱を『こじ開けて』しまおうとしているような──」
甲高くエキゾーストを響かせる32Rを見つめ、クラウンピースは唇の端を舐めた。
「なんでもない夜だった──そしてこれからも、今夜はなんでもない夜のままなんだろう──でも、あたいにはわかる──」
始まる──今夜を境に、時代が変わる──首都高が変わる──
それはきっと、前向きな意味じゃない──
あの時代がまた、始まってしまう──何かを削り、何かを失い──得られるのは一瞬の快楽と、永遠にも等しいスピードだけ──
そのために若者はいのちを捧げ、東京のくすんだ夜空が一瞬だけ──真っ赤に光る。
真っ赤に燃えて──一瞬のうちに散ってしまう。
はじまりは、何だ──そして終わりのきっかけは、何なんだ──?
その紫は、赤と青の矛盾を内包した色──クラウンピースは地上に体現する地獄を思い、アクセルの右足をゆっくり沈めた──