静岡県御殿場市、長尾峠──午前一時
「それでは、諏訪子様、神奈子様。いってきます」
「ああ、気をつけるんだぞ、早苗」
「とりあえず下り一本、折り返して上り一本ね。いってらっしゃい早苗」
東風谷早苗は頷き、パワーウインドウを上げる。
パールホワイトのS14シルビアが乾いた音を響かせながら、ゆるい右コーナーに消える──すぐ切り返して左を抜けてストレート──アクセル全開──
「いやあ、いい音してるよね、神奈子。どんな
「諏訪子、それは神としてどうなんだ……まあ、否定しないがな。あくまで
「なーに言ってんだか……昔は早苗に隠れてV12ツインターボなんてやってたくせに。センチュリーのエンジンをターボ化して千馬力とか、あんた本当馬鹿でしょ。早苗の趣味がいいのは私の教育の賜物だって。2000GTに横乗りさせて育てたのは正解だったね」
「お前だって昔はファミリア・ロータリークーペをターボ化してヤンチャしてたじゃないか。……凍った諏訪湖でドリフト遊びして、氷が薄くなってるところを踏んで水没……助けてやったのは間違いだったかもしれないな」
「わかってるって……いいじゃない、昔のことは」
こうなったときの神奈子はくどい。
はいはい、と私は生返事をして聞き流す。
私は諏訪湖の底に沈んだファミリアのことを思う。
あの子で散々無茶したっけ。
神奈子は知らないだろうけど、ファミリア沈めちゃった夜、私さすがに泣いちゃった。
五百年ぶりくらいかな。
ファミリアを買った頃、本当はコスモスポーツが欲しかったんだけど、当時の守矢神社の財政状況じゃとても無理だった。
「ロータリーは未来のエンジン」なんてもてはやされてた時代──守矢神社もモータリゼーションの波に乗って駐車場を整備し、交通安全のお守りをつくりはじめた頃の話だ。
「神奈子、最初は反対してたよね。安易に時代に乗っかるのはよくない、って。ほら、守矢神社が交通安全のお守りつくった頃」
「随分古い話を持ち出すじゃないか、諏訪子。神ってやつは、どうも昔話が好きでいけない。出雲の奴らと同じだな」
「あんたも神でしょうが。それに、私たちからしたら、クルマの登場なんて『つい最近』のことでしょ?」
「まあな。信仰の形は人の営みの中で変わる──我々はその寄る辺となるため、安易に揺らいではいけない。その考えは、今も変わらない」
「──だけど、信仰の形に合わせて神も変わらなくてはいけない。気づいたんだよね、私たちは。だから守矢神社はモータリゼーションの波に乗り、科学に神が取って代わられる時代を乗り越え──そして、幻想郷に居を移した」
神格と歴史こそあれど、諏訪の山中に位置する守矢神社はだんだんとその信仰を失いつつあった。
自動車が市民にいき渡り、道路整備が進む──その流れに乗ったのは正解だった。
交通の便が最悪──創建から数えて、一番守矢神社を訪れていたのは山伏だ──守矢神社の立地のネックはモータリゼーションが解決した。
ファミリア・ロータリークーペ。
新しい時代の到来を予感させるロータリーエンジンが、時代に一矢報いようとする私たちの波長にピタリとはまった。
小型軽量でパワフルなロータリー──回転運動で取り出したエネルギーをそのまま回転運動へ──他のエンジンと根本的に異なる構造は、その走りを見たものすべてに未来を予感させた。
しかし、ロータリーは孤独なエンジンだった。
実用化にこぎつけたのはマツダだけ。
軽量コンパクトでハイパワー──その利点はレシプロエンジンの開発競争にたやすく追い抜かれ、最後には脆弱性と悪燃費という印象だけが残った。
それは科学の波に押し流されていった、数多の強大な神格たちの姿と重なる。
古事記の遺産が科学の発展には最後抗えなかったように、ロータリーもレシプロの発展には抗えなかった。
「諏訪子は、あのときコスモスポーツを買わなくて後悔しなかったのか?」
「ファミリアを沈めちゃった後に?……たしかに、ずっと欲しかったよ。でも、私にとってのロータリーはいつまでもファミリアだけっていうか──ロータリーは『これから』のエンジンじゃないんだよね、私にとっては。『あの頃』を色褪せないままとっておきたい──その気持ちが多分、2000GTを選んだんだと思う」
「金なら十分にあったしな。早苗が生まれ、代替わりして──千年に一人の逸材といえる風祝の誕生は、守矢神社の信仰を揺るぎないものにした。科学が発展しても科学では証明できない『本当の奇跡』──」
「そう、お金じゃなかったんだよね。買おうと思えばコスモスポーツもダース単位で買えたし……早苗が生まれたとき、私は確信したよ。守矢神社はその気になれば、多分日本の信仰をすべて掌握できるって。科学技術でのし上がったこの国を、宗教国家にできるくらいには──って。でも、なんか違ったんだよね。もう古事記の時代じゃないし、人間の行く末をそのまま見守ろうと思ったっていうか──だから私は同じ時代の、レシプロの名車として、トヨタ・2000GTを選んだんだと思う」
神奈子は黙って耳を傾けている。
私は言葉を続ける。
「早苗には『そういう時代』があったと知っていてほしい──でも、早苗が生きる時代は『そういう時代』じゃない──早苗はこの先いつかロータリーを選ぶかもしれないし、選ばないかもしれない。私は聞かれれば、ロータリーが輝いていた時代を早苗に教える。でも、聞かないのならそれでいい。それは風祝だって同じこと。早苗が信仰を集める生き方を選ばないのなら、私はそれでいいんだよ。幻想郷なら信仰がなくっても、私たちは早苗とずっと一緒にいられるんだから」
「そうだな。その答えは、早苗が走りの中で見つけていくことだ──おっと、もう戻ってきたぞ」
「速くなったね、早苗。いっぱい褒めてあげようね、神奈子」
「もちろんだ。私たちの早苗は誰よりも速くなるからな」
S14のエキゾーストが御殿場の空に響き渡る。
それは人と信仰の道しるべだ──こよなく走りを愛する二柱はそう思いながら、コーナーを立ち上がるヘッドライトに大きく手を振った。