「──サクヤ。まだ水の中で目を開けられないのかい?」
「──うん。だって……こわいんだもの」
「──サクヤ。夜に一人でトイレに行くのがこわいのかい?」
「──うん。だって……こわいんだもの」
─────
ブレーキを踏む。
シフトレバーをPレンジへ。
ハザードを焚き、サイドブレーキを引く。
そして私はやっと、我に返る。
いつのまにか、私はもみじラインを下りきっていた──FCに抱いた疑問の答えを、見いだせないまま。
正直、ほとんど無意識のまま走っていたのだと思う。
私は念の為FDから降り、ぐるりとまわりを一周する。
傷は一切、ついていない。
タイヤとボンネットに手を当てる。
そこにはまだ熱が残っている。
私はひとり、ため息をつく。
私は初めて、クルマに圧倒されていた。
それでいながら──それこそ無意識だったのに──もみじラインをハイペースで無事に下りきれてしまった事実。
認めざるを得ない。
これが完成されたチューンド──なによりも美しい毛並みを持ちながら、調教を拒絶する獣。
私はまだ、チューニングの浅瀬にいたのだ。
いまならわかる──美鈴が私に与えたFCは、あくまで「首輪のついた狼」だったのだと。
いまならわかる──自分で組んだFCは、ただ血を浴びただけの戦闘犬──血を流すことを知らないまま、ただ血に塗れただけで戦える気になっていた──そんな無知の獣だったのだと。
私は──人を殺したことがない。
お嬢様方は私を気遣って伝えていないようだが、私は自分の調理している肉が「何の肉」なのか知っている。
私は──本当は知っている。
お嬢様や美鈴がときどき「狩り」に赴き、小悪魔さんがそれを「精肉」していることを。
お嬢様や妹様が、紅魔館の身内だけのときに傾けているグラスの、ドロリとした赤──ラベルレスのボトルから注がれるそれが何なのか、私は知っている。
私は知らないふりをしてきた──レミリアお嬢様が、「知れ」と言わなかったから。
私は知らないふりをしてきた──レミリアお嬢様が、教えずに育ててくれたから。
お嬢様は私を、「吸血鬼の従者」でありながら「人間の娘」として扱ってきた──私は、わかっていながら、お嬢様の優しさに甘えていたのだ。
人の形を保ちながら、吸血鬼に忠誠を誓える──そのギリギリの距離感で。
──怖い。
私がFDに感じた恐怖はきっと、「本当の夜」に踏み出す覚悟を試されていたから。
チューンドの深淵に踏み出すこと──そして魂を吸血鬼に差し出すこと。
それは無関係なようで、同じ「夜」なのだと思う。
失うのが怖いのか?後戻りできないことが怖いのか?
それとも──わからないから怖いのか?
「──サクヤ。水の中で目を開けること。夜の廊下に一歩踏み出すこと。……たしかに、怖いかもしれないね。だけど、本当に怖かったらすぐ目を閉じればいい──怖かったら、すぐ一歩引き返せばいい。サクヤ──わからないままじゃ、ずっと怖いままだよ?」
──そんな単純な話じゃないの。
私は──わからない。
ずっと知りたかった答えがすぐそこにある気がする。
でも、知ればもう、後戻りできない。
いままでの私でいられなくなるような──そんな気がする。
私はFDの運転席に戻り、エンジンをかける。
目を閉じて、ロータリーの息づかいを両耳で探る。
FDは、じっと私を闇の中から見つめている。
それが私のFCだとしても、きっと答えは返ってこない。
アイドリングする2ローターは、静かに私を待っている。
ロータリーはいつも、走り出すときを待っている。
そして──ロータリーは「走る者」以外をけして、待ちはしない。
「わかりたいのなら、走るしかない」
誰もが無意識に、その言葉にたどりつく。
誰が言い出したのかわからない──だけど──
私はFDをUターンさせ、シフトレバー手前の「L/W」を押す──ラストワードへ。
FDの車高が下がる──見た目の変化はそれだけ。
しかし、マシン内部は一万回転を回し切る状態へ移行、NOSがアンロックされている。
「──獣なのね」
とこしえの闇の、その先へ──さらに深く──さらに暗く──
私は黒より深い夜の闇へ、FDとともに踏み出した──互いにナイフを突きつけながら。