雲一つない満月の夜だった。
霧の湖は銀色の月光にさざめいている。
「来たわね」
近づくエキゾーストノートを聞きわけ、少女は運転席で呟く。
やわらかな金髪に白磁のような肌──黙っていれば人形と見紛う容姿の少女が、湖畔に駐車されたスカイブルーの1968年式アルピーヌ・A110から降り、ロータリーサウンドの主を待ち受ける。
アルピーヌのドライバーは、アリス・マーガトロイド。
「おまたせ、アリス」
クリスタルホワイトのFC3S型RX-7から降りてきたのは十六夜咲夜。
「大丈夫よ咲夜。私もさっき着いたところだから」
「アリスにしては珍しいわね。本当にいまさっき着いただなんて。三十分前に到着して『さっき着いたところ』って言うタイプでしょ?」
咲夜はアルピーヌのリアに手を当てて言う。
「ああ、あれはいつも遅刻する魔理沙に文句言わせないための保険みたいなものだから……ほら、遅刻魔ほど他人の遅刻にうるさいでしょ?今日ギリギリだったのは、魔理沙のRに横乗りしてたから。『もう行かないと』って言ってるのに『アリス、あとちょっと』そればっかり。すごい惚れ込みようよね」
「魔理沙のR」と聞いて、咲夜の表情がわずかに固くなる。
まあ、私が今夜ここに来たのは、この話をするためだ。
おせっかいなどこぞの吸血鬼がコウモリの足に手紙をくくりつけて家の窓を──無視していたら一週間叩き続けていた。
咲夜のこととなると、レミリアは行動がすこしおかしくなる──いや、すこしじゃないか。
一週間も窓を叩くくらいなら、直接来たほうが楽でしょうに。
そんなことを考えながら、私は咲夜に口を開く。
「すこし霧の湖を流しましょうか。左回りで一周、私が後追い。お手柔らかにね。あなたのFCと私のアルピーヌじゃ馬力が違いすぎるから」
わかったわ、そう言って咲夜はFCに乗りこむ。
私もアルピーヌに乗りこみ、窓を開けて咲夜に手で合図した。
霧の湖の周囲には、二つのヘアピンと一つのクランクを除き、すべて見通しの良い高速コーナーで構成された道路が敷設されている。
その名はレイクサイド・パークウェイ。
いびつな円形にヘアピンとシケインをくっつけたレイアウト──流すペースから本気の高速アタックまで、この周回コースの許容範囲は広い。
冥界ハイウェイ最高速を目指す走り屋は、大抵ここを経由する。
「──流すペースって言ったじゃないの。聞いてたのかしら、あの子」
アルピーヌのスピードメーターは140km/hをオーバーしているが、咲夜のFCはじわじわと離れていく。
FCのマフラーが一瞬火を吹く──シフトアップのタイミングが変わっている。
ミッションのギア比をどうやらすこしいじったみたいだ。
以前より最高速寄りのセッティングに──あのギア比なら、冥界ハイウェイの下りにピタリとはまるだろう。
FCのリアハッチに咲夜の迷いがうつる。
乗り手の感情は、すべてクルマの後ろ姿にあらわれる。
FCのギア比を変えたことと、魔理沙がRに乗り換えたことは、きっと無関係ではないはずだ。
FCの右のリアがわずかにブレる。
レイクサイド・パークウェイは幻想郷で最初期の舗装路だ。
路面は一見整ってるし、流すペースならなんてことはない──だが、本気で攻めていくと古いアスファルトが牙を剥く。
レイクサイド・パークウェイの高速アタックでは、サスペンションのしなやかさが肝だ。
硬いばかりの足ではとても踏んでいけない。
咲夜の足回りはここに合わせて煮詰められたセッティングのはず──ここで踏める足回りなら、咲夜のテクニックがあればどこでも踏めるだろう──その咲夜が、FCの挙動にブレを生じさせている。
思っていた以上に、迷いがあるのかもしれない。
私は咲夜にパッシングし、停車を促す。
だが、咲夜が止まる気配はない。
「ちょっとまずいわね」
この先はヘアピンだ。
普段の咲夜ならなんてことはないスピードだが、今の咲夜にはおそらく状況が見えていない。
ヘアピンにさしかかる──ブレーキが遅い──
そのスピードとラインでは曲がりきれない──私は上海と蓬莱を窓から放ち、次の状況に備える。
──咲夜はFCを無理やりスピンモードに持ち込む──私は上海と視界を共有──ヘアピンの出口に対向車はなし──アルピーヌのリアをブレイク──
スピンするFCを、私は右サイドからドリフトでかわす。
「危なかったわね」
ルームミラー越しに私はFCを確認する──ぶつけずに済んだみたいだ。
ついてきなさい、と私は窓から咲夜に合図し、すぐそばの駐車場に向かってアルピーヌを発進させた。