「およそ300年前のある日、日本だけでなく地球上の至る所で不可思議な現象が唐突に同時発生しました。それは当時、人類がそれまでに積み上げてきた知識の結晶であった
突然変異した動植物、過去に例のない天変地異、人類の生命を脅かす
朝食の時間が終わり、午前中の授業が始まっていた。給仕の仕事は昼食の時間まではなく、それまでは自由に過ごして良いことになっている。
俺は近現代史の授業を教室の入り口から聴講していた。
「日本は大混乱に陥りましたが、当時の指導者が即座に軍を発して魔物を制圧。魔物たちから生存圏の大部分を守りました。しかし、日本が真の苦難に直面したのはこの後です」
今の時間、俺には自由時間が許されている。とはいえ俺は給仕であって学生ではない。生徒たちと同じように授業を受けることは叶わない。なので教室に入ることはできずにこうして立ち聞きをしているわけだ。正直立っているか座っているかの違いしかなく、問題はない。
「当時の世界は今よりもずっと狭く、密接に繋がっていたのです。日本で生み出されたものが海を渡って他の国で消費されているということが起こっていました。その逆も然りです。
そのように世界中で物の流れが出来ていました。それが当たり前の世の中にもなっていたのです。しかしこの日以来、その流れの全てが断ち切られることとなります」
先生から貰った教科書を開く。教科書に限らず本というのは基本的に高価だ。平民が一年働いて何とか一冊、安いものなら買えるという値段だ。俺のような給仕にポンと渡すものではないが、境遇に憐れまれて貰った。幸運だし、ありがたいことだ。
「その影響の全てをこの場で述べることはできませんが、最も深刻だった影響は飢饉です。当時を生きる人々の食糧を十分確保することが出来ず、多くの人が餓死しました。
人々に不満が溜まり、中央集権体制であった日本の中央政府の求心力が著しく低下することになりました。そこに当時の中央政府の軍隊では対抗が難しかった魔法使いが日本中に現れた。その二つがどのような結果を招いたか、分かりますか?」
どのような結果か。俺が教科書を貰ってなかったとしても、今の時代を生きている以上予想は付いたはずだ。
不満を持った人々は魔法使いを旗頭として中央政府へ反乱を始めたのだ。反乱が日本各地でドミノ倒しのように広まっていき、中央政府がそれを抑えられなくなる。
かつて一つであった日本は無数に分裂し、謀反人たちはそれぞれが貴族を名乗り、自分たちの領土を主張して争いを始めた。
つまり、戦国時代の再来だ。
「だ〜れだ?」
授業を廊下で聞いていると突然、背後から抱きつかれると同時に俺の両目が誰かの指によって塞がれた。ふわりと良い香りが俺の鼻をくすぐる。指先はしなやかで柔らかく、ひんやりとしていて心地良い。
「鈴村さんはこうやって狙いの男を落としているんですか?」
「正解です! 実際されてどうでした? かわいい後輩系女の子に好かれてる特別感が得られたでしょう?」
「ふふふ。確かに悪い気はしませんね」
俺の両目を覆っていた手が外される。振り向いて顔を確認すると、彼女は悪戯の仕掛け人らしく悪戯っぽく笑う。
給仕服を着ているのを見れば分かるが、彼女は俺と同じく学院の使用人であり給仕、つまり同僚だ。この学院で働き始めたのは入学式の数日前。俺の方が早いためか、『センパイ』と呼ばれている。
ついでに言えば、さっき俺が来るまで華之宮のクレームの対応をさせられていた哀れな少女だ。
「ところで、センパイはこんな所で何してたんですか?」
「この教科書を見れば分かるでしょう? 授業を聞いてたんですよ」
「うわあ、真面目君だ〜! センパイは給仕なのに勉強熱心なんですね!」
「給仕だからとかは関係ないですよ。そういう鈴村さんだって、実家で厳しく教育されたんじゃないですか?」
「いや私は勉強は嫌いでして、もう『サボれるならサボりたいっ〜!』って感じでしたよ。自分から進んでなんて、とてもとても……」
学院の給仕をしている鈴村さんだが、実家は決して貧しいわけではない。彼女の実家はここ十数年で一気に成り上がった大商家、金持ちだ。
「私は『センパイって女にしか興味のないチャラ男系かな〜? 私と同類かな〜?』と思ってたのに……騙されました! 責任を取ってください!」
「じゃ、結婚でもしますか?」
「いえ、それはちょっと。私はお金持ちの貴族様の玉の輿以外興味ないので。センパイが私を愛しているのはよく分かっていますが、その気持ちには応えられません! ごめんなさい!」
「それは残念です。あれ? もしかしたら今、人生で初めて女性に振られた瞬間かもしれません」
「なら、私が初めての女ですね!」
けらけらと笑う鈴村さん。金持ちの実家を持つ彼女が何故給仕などやっているのか?
率直に言えば男漁りだ。この学院には貴族が多く通う。『社会勉強も兼ねてしばらく働いて貴族様に気に入られてこい、ついでに良い男を捕まえてこい』と放り出されたと聞く。
この学院での目標としては俺も似ている。似たもの同士というわけだ。
「ところでセンパイ。何度も言ってますが後輩相手に敬語なんて使わなくてもいいですよ。私は別に貴族じゃなくて平民ですし、センパイが
この戦乱の世の中で生まれた存在であり、多くの場合は戦で敗者が勝者に戦利品として連れ去って匪民にすることが多い。しかし、食べるのに困って自分から匪民になることや、街中を歩いていて人攫いに遭って売られるなど様々な理由で匪民になり得る。
匪民になると民ではないということで色々な権利が剥奪される。どのような権利が剥奪されるかはそこを支配している貴族の法次第だが、真っ当に生きるのは難しい。
「匪民もお金があれば平民にはなれます。しかし、貴族と結婚すれば平民を通り越して貴族へ二階級特進! 私は男漁り、センパイは女漁りをお互い頑張りましょう! そして人生一発大逆転してやりましょう!」
鈴村さんは人差し指を空に向けて盛り上がっている。もしかしたら、あえて道化を演じて匪民の俺を元気付けてくれているのかもしれない。
「ですね。お互い馬鹿な貴族を捕まえてパパッと成り上がっちゃいましょうか」
「その意気です! そしてそれが分かっているのなら何故、今朝の華乃宮様との初エンカウントを台無しにしてしまったのでしょうか? せっかく私が神アシストをしてあげたというのに」
「神アシスト?」
一体何のことかと思ったが、鈴村さんはそのまま自慢げに話し続ける。
「ほら、華之宮様のクレームって『料理の見た目が汚いですわ!』だったでしょう? あれって実は私が料理を運んでる時に、わざとこう、ぐちゃって――――」
「ああ、なるほど……」
鈴村さんのことを理不尽なクレーム対応を押し付けられた可哀想な少女だと思っていたが、非常に真っ当なクレームだったようだ。
「計画は大成功! 華之宮様が期待通りカンカンになってくれました。そこにセンパイがやってきて、華之宮様がセンパイの顔を見て『ぽへ〜♡』ってなる所はもう神に愛されていたと言っていいです! 後はセンパイが華之宮様を暗がりに連れ込んでちょっと優しく愛を囁いてパンパンするだけでした。それだけで貴族になれたというのに、この意気地なし!」
「いや、そんな単純な話じゃないですから」
「いいえ、恋愛も人間も単純なものです。私の計画は完璧だったと言っていいです。私の計画の誤算はただ一つ、センパイがクレーム対応だけ済ませてさっさと帰ってしまうチキン野郎だったということです!」
臆病者と罵られながら腕をペシペシと叩かれる。鈴村さんの話が面白くて俺は思わず笑ってしまった。
「鈴村さんの完璧な計画を台無しにしてしまってごめんなさい。ただ、今日は近現代史の授業がありましたから長話はしたくなかったんです」
「まったく、呑気なんですから。センパイはものすごいイケメンですし、貴族の女も涎を垂らして欲しがる存在だと思って余裕をかます気持ちは分かりますけど。しかしそれでも匪民から抜け出したいのなら、目の前に転がってきたチャンスをしっかりと手にしないと!」
「はい、次から気をつけます。さて、そろそろお昼の時間ですね。またお仕事が始まります。食堂に行きましょうか」
「……この人は本当に匪民から抜け出す気があるのでしょうか?」
色々と文句を言われながら食堂へ一緒に向かう。近現代史の授業はまだ続きだが、今日は授業初日で全体の概要を話しているだけ。別に良いか。
俺は鈴村さんが上昇志向が強く、損得勘定で物事を見る傾向がある利己的な女性だと勝手に思っていた。だが、彼女は思ったよりも他人思いで心優しい少女なのかもしれない。少なくとも俺のことはよく心配してくれている。
尤も、無用な心配だが。
鈴村さんの『本当に匪民から抜け出す気があるのか?』という問いには『今のところはない』というのが答えだ。
もちろん匪民でいたいわけではないし、貴族になりたくないわけではない。ただ、重要なのは『匪民でいるか? 貴族になるか?』ではなくて『どのような選択をすれば自分の望みが叶うか?』だ。
匪民が結婚して貴族になれば必然的にしがらみが生まれる。望みを叶えるという観点では、貴族ではなく平民や匪民でいた方が良いということも起こると思っている。
俺の望み、それは
貴族と結婚すれば手っ取り早く偉くなれる。しかし結婚というカードは何度も切れるものではなく、簡単に解消できるものでもない。後々になって後悔するようなことは避けたい。慎重になる必要がある。
そして上に昇るのが俺の望みだが、
とにかく
それが俺の人生においてやらなければならないことであり、俺が生まれてきた意味でもある。
「そういえばセンパイ。今日の午後は魔法学の最初の授業がありましたよね?」
隣を歩く鈴村さんが問いかけてくる。
魔法学。貴族がこの学院に入学する理由の大半がこの授業を受けるためのようなもの。貴族は全員魔法学の授業に出席する上に、初回の授業だけは授業を取らない無関係な人間も教室に入って授業を聞くことができる。
魔法の才能があるということは力があるということ。力が全てである乱世で大成するには魔法の才能の有無は重要な事柄であり、誰もが注目する。そのために魔法学の初回の授業だけは部外者も教室への立ち入りが許可されているのだろう。
「そうです。一緒に観に行きますか?」
「もちろんです! 貴族はみんな集まりますよね? 将来有望の男は誰なのか、しっかり見極めないとですね〜!」
鈴村さんが俺の顔を下から見上げてニヤリと笑う。俺も同意見だ。絶好の女漁りのチャンスなのは間違いない。彼女の言う通り、しっかり見極めないとな。