今日は生憎にも雨模様。鬱蒼とした空がまるで涙を流すかのように大粒の雫を降らしている。
こんな日でも僕は懸命に生きなくちゃいけないというのだから、神様ってやつは随分と厳しいものだ。たまには休みくらいくれてもいいんじゃない?
コツコツと音を立てながらガラス張りの渡り廊下を歩く。
結露して曇ったガラスは、今の僕をそのまま表しているみたいで見るのが嫌になる。
まぁ、あまりにもカンカン照りだと身体の弱い僕には堪えるから、これくらいが丁度いいかもしれない。
「しかし会長め、手紙なんて自分で渡せばいいのに…」
もー。ほんとあの人は強情なんだからさ。お陰様で薬を飲み損ねたじゃないか。早く終わらせてしまわないと、この綺麗な廊下が血まみれになっちゃうよ。
今僕が向かっているのはミレニアムサイエンススクール女子学部のボスの元だ。
セミナーのトップ。生徒会長の調月リオ。
合理主義の塊みたいな人で、結構な独裁者気質。少しばかりやりすぎてるみたいで、それなりの反感を買ってる様子。
着いた渾名はミレニアムの『ビッグシスター』ときた。
うちの生徒会長は、そんなおっかない人に恋をしているというのだから不思議だ。幼い頃からの付き合いみたいだし、そこまでおかしくないかもだけどね。
正直に言ったら僕は調月さんのこと苦手。それでも会長の頼みを受けたのは、僕もセミナーに用事があったからだ。じゃなきゃ苦手な人の所に行くことなんかしない。
…いや、用事というよりかはただ会いたい人が居ただけなんだけど。
しばらく歩いていると、僕が向かう先に曇ったガラスを見つめている女の子が目に入った。…あ、丁度僕のお目当ての人だ。
「こんにちは、ノアちゃん。何してるの?」
「あら、セツナ君。こんにちは。特に何かしていた訳では無いですよ」
生塩ノア。女子学部のセミナーで書記を担当している女の子。一度見たもの聞いた事は覚えているという、所謂完全記憶能力を持つすごい娘だ。
「セツナ君は何か用事が?」
「そうそう、うちの会長サマがね。調月さんにコレを渡してくれって」
「それは…手紙ですか?」
そう、会長が僕に頼んだのは手紙を調月さんに渡すこと。なんで手紙なのかはよく分からない。今時手紙なんて流行らないと思うけどなぁ。モモトークとかあるじゃん。
「そうなんだよ。会長も古風だよねぇ。モモトーク使えばいいのに」
「…あの人も変わり者ですからね」
確かに会長は変わり者だ。それもすっごく。でも、能力に関しては調月さんにも負けてない。なんせ調月さんの渾名をもじって『ビッグブラザー』なんて呼ばれるくらいだもの。『ビッグシスター』に比肩しうる者だからそんな渾名が着いたんだって。全然独裁者なんかじゃないのにね。僕はセンス無いと思うけど、本人はとても気に入っているようだ。あ、モモフレンズの方でもないよ?
「コレ、お願いしてもいい?」
「わかりました。ちなみに中身は…?」
「大丈夫、変なものは入ってないよ。ほら」
封筒から中の便箋を取り出す。そこにはでかでかと『悪戯は程々に』としか書かれていなかった。
『中を見ても問題ないよ!リオ以外には伝わらない筈だからね!』なんて会長は言ってたから僕も見させてもらったんだけど…僕にはよく分からなかった。調月さんてそんな感じの人には見えないけどなぁ。
「あの人悪戯とかするの?そういうのはどちらかというとノアちゃんの領分じゃない?」
「…それはどういう意味でしょうか」
「え、この間『先生』に悪戯してたでしょ?それにユウカさんにも」
このノアちゃんという娘は、結構な悪戯好きだと僕は認識している。普段しっかりしている分、心を許している相手には甘えたくなるのかな?多分そういう甘えの部分が悪戯として表に出てるんだと思う。
「反応が面白くて、ついついやっちゃうんです…」
「あんまり困らせちゃダメだよ?二人とも根っこが真面目なんだからさ」
「でも、セツナ君は私に悪戯されても嬉しそうにしてるじゃないですか」
えぇ?なんで僕?というか、そんな悪戯なんてされた覚え無いんだけど…?
「ノアちゃん僕に悪戯した事なんてあったっけ?」
ぜーんぜん記憶に無いや。一ヶ月以上前の事ならいつも通りなんだけど、それより最近の事だとちょっと不味いかも。
「はい。一番直近ですと…十日前ですね。それより前にも時折。ちゃんと記録もしていますけど見ますか?」
「大丈夫。ノアちゃんがそう言うなら間違いないだろうからね」
しかし十日かぁ。やっぱり悪化してるみたいだ。薬を増やしてもらって…も意味無いか。これに関しては薬は症状の進行を抑える程度しか出来ないとお医者さんからも言われてるし。
「しかし、十日前の事を覚えていないというのは…」
「あ、あはは。いやぁ、最近物忘れが酷くてね。なんでだろうなぁ?」
ノアちゃんは僕の病気のことは知らない。というか知ってる人が家族を除いたら会長くらいしか居ない。言いふらしたりとかして同情されてもしょうがないしね。
さ、余計なボロを出す前にとっとと退散だ。
ノアちゃんとお喋りも出来たし、調月さんへの手紙も彼女に任せれば安心だからね。
「じ、じゃあね。手紙、お願いね?」
返事を待たずに踵を返して帰ろうとしたら、制服の袖を引っ張られた。
「あ…あの、ちょっと待ってください…」
「ノアちゃん?」
「……もう少し、お話しませんか?」
なんとも魅力的な提案。だけど、今の僕にとっては同時に最悪に近い展開でもある。
ノアちゃんのことは好きだ。とってもね。
一緒に居られるならそれに超したことは無いと思ってるけど、今日は話が別。…でも、うん。もう少しだけなら大丈夫かな。そう思いたい。
「…良いよ!実は僕も、もっとノアちゃんと話したいと思ってたんだ」
少し陰っていた彼女の顔が笑顔に変わる。ノアちゃんの事をいつも余裕のある感じだって皆は言うけど、僕はそうは思わない。僕の前だとだいたいこんな感じで、コロコロと表情の変わる年相応の女の子だ。
…僕の記憶の限りだとね。それも一体どこまで信用して良いものか。
「そういえば、実は最近『先生』に教えてもらった遊びがあるんです」
「へぇ?それってどんなの?」
「こうやって、結露した窓に文字を書く遊びです」
細い指をなめらかに窓に滑らせながらノアちゃんは言う。
そうして少しの間文字を書いて彼女は指を離した。
『Qui aimes-tu le mieux, homme énigmatique, dis ?』
それは、古い詩の一節だったと思う。
訳すると『謎めいた人、あなたは誰を一番愛していますか?』となる。
思い付きの落書きにしては、随分と長い文章だ。詩が好きなノアちゃんらしいけど…この詩を書いたことに、意味はあるのかな?
聞いたらきっと彼女は答えてくれるだろう。だから、僕は敢えて聞かないで分からないふりをする。聞いてしまったら、それがノアちゃんを縛る鎖になりかねない。それに、先の短い僕にこの言葉はあまりにも勿体ないから。
「『先生』に教えてもらったって…ノアちゃんは小さい頃とかにやったこと無かったの?僕はよくやってたけどなぁ」
多分だけどね。
話しながら僕も同じ様に文字を書く。
ノアちゃんが書いたような古い詩ではないし、文字も違う。今のキヴォトスで普通に使われている文字で。
『刹那は残らず瞬きの間に消え去りて。願わくば、貴女の記憶の中からも』
「それは…詩ですか?」
「いいや?特に意味は無いよ。…うん。意味は無いんだ」
ごめんねノアちゃん、僕は君に嘘を付いた。
これは自身の未来を受け入れた、僕の心の内。
僕が終わればきっと君は悲しむだろう。だから僕と君が出会ってからの日々を消し去って、どうか幸せに生きて欲しい。
もう居ない人の事を忘れられず、刹那の内に通り過ぎて行った過去に囚われるだなんて。そんなに悲しいことは無いのだから。
「…雨が止んで陽が登れば、消えてしまう刹那の記録。私はそれがとても好きになりました。儚いものですが、だからこそ」
「そうだね。この大きなガラスのページの文字は、僕と一緒だ」
名は体をあらわす、だなんてよく言ったものだよ。
名前の通り僕の命は刹那で終わる。…刹那と言うには若干長生きかもしれないけど。
まぁ、どんな名前だったとしても僕の運命は変わらなかったと思うけどね。
「一緒、ですか?」
「僕もセツナだからね。同じで一ーごぶッ!?」
話している最中、唐突に湧き上がってきた胃の不快感。それに抗うことが出来ずに咳き込めば、掌は真っ赤に染まっていた。
あちゃー。思ったより早かったな。
「え…!?セツナ君!大丈夫ですか!?」
「大丈夫大丈夫。お昼に飲んだトマトジュース吐いちゃった。飲み過ぎたかな…?あ、ノアちゃん寄っちゃダメだよ。君の真っ白な制服が汚れちゃう」
平静を装って適当にはぐらかす。冷静に見ればコレがトマトジュースなんかでは無いことくらいすぐ分かるだろうけど、今は動揺してるだろうしなんとかなるでしょ。
不幸中の幸いとも言うべきなのか、そこまで沢山は出なかったから手持ちのハンカチで床に落ちた少量の血を拭いていく。
「よし、綺麗になったね。それにしても男子学部の制服が黒で良かったよ」
なんだか身体がとっても冷えてきたぞぅ。これ以上は本当に不味い。家に帰るまではもたないだろうから、何処か人に見られない場所に行って早いとこ薬を飲まないと。
「…本当に大丈夫ですか?」
「うん、平気だよ。でも、もしかしたら風邪でも引いたかもしれないからぼちぼち帰ろうかな」
「わかりました…。セツナ君、お大事に」
「じゃ、またね〜」
足早にそそくさとその場を去る。遠ざかる僕の背中と、もう何も残っていない筈の床を交互に見据えるノアちゃんに気付かないまま。
〜〜〜〜〜
しばらく歩いていたら丁度いい空き教室を見つけた。中を覗いても、人が居る様子は無い。入ってみればふわりと埃が舞い、それがこの教室が使われていない事を示唆していた。
「よしよし、ここなら大丈夫だね」
ガサガサと制服のポケットを漁り、薬を出していく。その数は尋常じゃなく、普通の人が見たらやばい薬でも飲んでるんじゃないかと思われそうなくらいだ。
うーん、これはオーバードーズ。
でもこれくらい飲まないと僕の病気を抑えられないというのだから、恐ろしいものだ。
ミレニアムの技術でもどうしようもない病気。発症例も僕を除いて他に無く、手の打ちようが無いと。
今の僕に記憶力が無いのと吐血はコレが原因。
とはいえ内容自体は至極平凡なもので、ただ脳に悪性腫瘍があるというだけ。
でもその腫瘍に特異性があるみたいで、なんと完璧に切除しても一週間足らずで元あった場所に再生してしまうんだとか。その原理は全く分からないらしい。
しかも身体を流れる血液に乗って物凄い勢いで他の内臓に転移していくときた。今はもう肺や胃にも転移している。
コレを治療するなら全身の血という血を抜き取ってから、全ての腫瘍を切除しないといけないとお医者さんは言っていた。そうすれば治る『かも』しれないと。でも当然、そんなことをしたら人は死ぬ。
だからこうやって薬を飲んで、腫瘍の転移と成長を抑えるしかできないというわけだ。
「この調子じゃあ、全部忘れるまで秒読みかなぁ?」
自分の言葉に縁起でも無いなとついつい苦笑する。こんな事を言ってると本当にそうなってしまいかねない。
一つずつ飲んでいくのも面倒なので、全部纏めて口の中に放り込む。その時に何となくで教室のドアの方を見たら、随分と見覚えのある顔が此方を見て居た。
………薬、見られたかな?
そのまま見なかったことにして、顔を背けてから薬を飲み込む。後ろからガラガラとドアが開く音がした。
「…セツナ君。今のは、なんですか」
ゆっくりと、そしてはっきりと。コツコツという足音と共に。聞こえないとは言わせないぞと言わんばかりの言葉。
「さっきバイバイしたばっかりなのに、また会ったね。今日はノアちゃんと一緒に居なさいって神様が言ってるのかな?」
「私の質問に答えてください。聞こえなかったのであれば、もう一度言います。今のは、なんですか?」
ここから入れる保険ってある?
…無いだろうね。なんとか誤魔化せないかなぁ。
「…なんの事かな?僕は歩き疲れたからここで休まさせて貰ってただけだよ。ほら、僕って身体弱いでしょ?体力もあんまり無くて、だからーー」
「薬を、飲んでましたよね?それも、沢山」
あ、無理。どうしようもないや。
「…ノアちゃんだけには知られたくなかったんだけどなぁ」
「…セツナ君」
「薬は病気の進行を抑えるものだよ。ヤバいやつとかじゃないから安心して」
「……治るんですよね?」
治ると言えたら、どれだけ良かったことか。
まだ間に合う。ここでそう言えば、多分通る。
だけど、今嘘を付いたら。きっと僕の方が耐えきれない。
「…治らないよ」
「…セツナ君、今は嘘を言う必要はありません」
「治らないんだ。持ってあと一年。卒業できれば最高って所かな。…多分、もっと早いだろうけどさ」
目を見開いてふるふると彼女は首を振る。段々とその瞳には涙が溜まり、許容量を超えた分が床へと落ちていった。
「嘘、うそです、そんな、そんな」
「嘘だったら良かったんだけどね。そうもいかないんだ」
「なんで、なんで教えてくれなかったんですか…?もっと早く知っていれば、私も力になれたかもしれないのに…」
そんなことは無い。僕は君と会えた。それだけで十分すぎる程に力になって貰ったんだよ。
「ノアちゃんと知り合ってから体調が前より良くなってさ。本当なら、今頃はもうここには居なかった。だから、泣かないで。君のおかげで僕はここに居るんだ。君のおかげで生きていられている。…まぁ、そのせいで生きる事に未練タラタラになっちゃったけどね」
「どうして、だってそんな、それじゃあまるでーー」
「だって全部事実だもん。君が考えているそれも、僕が健康体だったなら…ね?でも、そうじゃない。こうやって遠回しに伝えることしか出来ない。はっきりとは口にしたくないんだ」
殆ど言ってしまってる様なものだけど…まだ逃げ道はある。これなら、この先に『本当にそうだったのか』という猜疑心を芽生えさせることが出来る。人間という生き物はそういう思考になれば、必ず悪い方に考えを転ばせるものだから。そうすれば、いずれは。
「…さっきのあれも、本当は意味があったのですか…?」
…ほんと、よく覚えてるなぁ。こんな時でも頭は冴えてるし。拍手しちゃいたいね。
「うん。『刹那は残らず瞬きの間に消え去りて。願わくば、貴女の記憶の中からも』…どうせ僕は近いうちに居なくなるから、さっさと忘れて幸せになってくださいってね。ノアちゃんへの僕なりのアンサーだよ」
「気付い、て……?…それなら、ちゃんと答えてくれても良かったじゃないですかぁ…!」
「ごめん。僕は君を縛り付けたくなかったんだ。ちゃんと答えたら、ノアちゃんは絶対に忘れないだろうから」
だから、ダメなんだ。君はこの先もずっと生きていける。僕と違って。だから、もっと先の未来を見て。
今なんて、僕なんて。あっという間に終わる、取るに足らないものなんだから。
「セツナ君、私は貴方がーー」
唐突に放たれそうになったその言葉に対し、人差し指を立てて口元にあてる。
「ストップ。駄目だよ、最後まで言ったら。それがノアちゃんの趣向として固まっちゃう。それは、もう未来の無い人に向けるべきものじゃないよ」
「…それでも、最後まで言わせてください…。せめて、私の気持ちだけでも…」
首を横に振って僕の気持ちを示す。
…僕はそれを受け取れない。これは君の為なんだ。
「……なん、で、ですか?どう、してっ…?」
ただただ悲痛な声を上げて咽び泣く彼女のことを、僕は見ていることしか出来なかった。
嗚呼、僕がこんなじゃなければなぁ。
君に想いを伝えられたのにさ。
君の想いを受け取れたのにね。
君にこんな思いをさせることもなかっただろうに。
ごめんね、ノアちゃん。こんな僕で。
〜キャラ設定〜
勿忘草セツナ
ミレニアムサイエンススクール男子学部の二年生。
男子学部のセミナーに所属している。役職は庶務。
キヴォトス全土で見ても前例のない不治の病に侵されていて、残りの余命も長くはない。
記憶力もだいぶ落ちており、一ヶ月以上前のことは大事な人との記憶以外殆ど忘れてしまっている。
ノアの悪戯に関しては覚えていないのではなく、それを悪戯だと認識していないだけ。
ノアとは入学してすぐに知り合った。学部は違えど同じ学年、同じセミナーであったことからよく話すようになり、自然と互いに惹かれていった。
趣味は読書。一ヶ月経てば本の内容も忘れる為、何度も新鮮な気持ちで読めるらしい。
一年生の時にノアがミレニアムプライスで出した詩集だけは、内容を一字一句全てを記憶している。
『先生』とはそこまで関わりがない。というより、多数の生徒と交流している彼に余計な心配をかけさせない為に関わらないようにしている。
彼の苗字である勿忘草は実際に存在している。
花言葉は『真実の愛』『私を忘れないで』