「エメラルドのそよ風、誘う。遥かな未来♪」
その日は風の強い夕暮れの日だった。
いつもの学校帰り、帰っても暇だなぁなんてどうでもいいことを考えつつ、帰路をとぼとぼと歩いていると、風と共にその歌は流れてきた。
「Happyな予感、カバンにいっぱい詰めたらGoodDay♪NewDay♪」
まず耳に入ったのは、鮮明な歌声。初めて聞く曲だったにも関わらず、その歌声一つで耳が奪われる。
「一瞬の魔法、あなたの存在。変えたのOneWay♪MyWay♪」
それは今まで聞いた何よりも透明だった。瞬く間に俺の体へと浸透し、指先一つに至るまで響き渡る。まさしく自分の存在が変わったかのような実感だった。
「Sharing。想像以上の共鳴にFeeling♪光った、その眩しさに泣きそうになる♪」
今までの人生で感じたことのない感覚だった。でも、不思議と恐怖はなくて、むしろずっと浸っていたいと思う感覚で、気が付くと俺は夢中になっていた。
「笑って、そこにいてくれるだけで。羽ばたけるよもっと♪」
自ずと足が進み始める。この歌をもっと傍で聞きたかったから。もっとこの感覚に浸りたかったから。
「毎秒、想いを束ねて♪」
心臓が、全身が、喜びの声を上げていた。この歌声に浸りたいと、何度も叫んでいた。気が付けば俺は駆け出していた。
「あなた目掛けて投げるから」
草木を駆け抜け、ようやく開けた視界。小さな公園の整備された石畳の上に、彼女はいた。
「You are my precious♪」
長い黒髪に左側でちょこんと結ばれた髪の束。青空を思わせる瞳は、宝石のように美しく真っ直ぐで、綺麗に輝いていた。
俺を変えた歌声の持ち主であり、俺が初めて好きになった相手。
長瀬麻奈との出会いだった。
……懐かしい夢を見た。
俺が麻奈ちゃんと出会ったときのことだ。
あの時の俺は本当に若かった。客観的に自分を捉えられてなかった。
目を見開いて速足で歩いてきた俺の姿にあの時の麻奈ちゃんは恐怖を覚えたらしい。彼女は風のような速さでどこかへ逃げていった。
後日、誠心誠意謝ったが、あの言動は今の俺でもどうかと思う。でもそのおかげで話し始めるきっかけになったのは事実だけど。
甘く苦々しい思い出。けど、懐かしい思い出に思わず笑みが浮かぶ。
「ってそんな場合じゃなかったな」
時間を見ると、出掛ける時間までわずかだ。急いで支度をすると、まだ寝起きでぼけーとしている有希を連れて家を出る。
今日は鏡花のデビュー日だ。
「おはようございます」
まだ日が上がりきっていないほどの時間。そんな早朝にも関わらず、すでにライブ会場には彼女がいた。
「鏡花。集合時間にはまだ早いだろ?こんな朝早くに来なくてもいいんだぞ」
「はい、存じ上げています。ただ眠れなかっただけですので」
鏡花はいつも通りの表情だ。けれど、ほんの僅か、口角が緩んでいるのが視界に映る。その言葉に偽りはないのだろう。
……打ち合わせをやるには俺にやることがある。とはいっても、楽屋でじっとしていてくれというのも酷な話か。
「会場の準備、手伝うか?」
「はい、ぜひ」
手伝いとはいっても、彼女はこれからステージでライブを行う身だ。体力や集中力を使う仕事や、重労働をさせるわけにもいかない。
ということで軽作業として物販の品出しを手伝ってもらうことにした。
作業手順を教え、お互いに慣れてきたころ。鏡花はぽつりと口を開いた。
「初めて会ったときのこと覚えていますでしょうか?」
「もちろん」
何となく寄ったあの並木通り。風の吹く先に彼女がいたことは今でも覚えている。
「あの時に私は初めてアイドルにスカウトされました。その時のことを私も鮮明に覚えています」
こっ酷く振られたときだ。変に気を使われるとかそういうわけじゃなかったから、俺の中でも火が付いたのかもしれない。
けれど、俺はともかく、鏡花はなぜその出来事を鮮明に覚えているのだろうか。
「私自身、あのときの感情を全て理解できているわけではありません。ですが、一つだけ現象としてはっきりしていることがあります」
「それは――胸がときめいた、ということです」
思わず目を向ける。
なぜなら、その言葉は、その感情は、聞いたことがあったから。
「私自身、後から気づいた現象です。美化されただけなのかもしれません。ですが、この気持ち自体に大きな変化はないかと思われます。なぜなら今でさえ、その感情が続いているのですから」
鏡花の空色の瞳と目が合う。
その瞳は宝石のように美しく真っ直ぐで、綺麗に輝いていた。
その輝きは、その美しさは、酷く見覚えのあるものだった。
そこでやっと。俺がアイドルに求めていたもの、なぜ鏡花をスカウトしようと思ったのかに気が付いた。
少しして会場の設営は無事完了し、リハーサルと最終確認の打ち合わせも終えた。
すでに会場は開場し、お客さんもライブ会場へと入り込んでいる。その様子を眺めながら、俺は鏡花と共に資料をぎりぎりまで読み込んでいた。
「お疲れ様です!」
「お疲れー」
聞きなれた声が響く。有希と季乃だ。相変わらず元気な季乃と、今日も元気に癖毛が跳ねている有希の様子に笑みが溢れながら、俺と鏡花も言葉を返す。
「いよいよことことちゃんデビュデビュですね!準備はオケオケですか?」
「オケオケです」
「ばちばちです!」
「なんだよばちばちって」
「おこおこです」
「はいはい」
季乃と軽口を叩いていると、有希に資料を奪い取られる。
「それにしても本当によかったの?デビューが私たちのライブ前で」
鏡花のデビューライブは、YU☆KI★NOのライブの直前にある。もちろん直前といっても前座みたいな形ではなく、別ライブとして存在はしているが、お客さんによってはそう見えてもおかしくはないだろう。
でも、だからこそ、注目は集められる。
同時に酷いプレッシャーが掛けられることも容易に想像ができた。
「元より人前に出ることは慣れています。プレッシャー程度、これまで幾度となく体感してきました」
「そっか。ま、気楽にね。失敗してもなんてことないよ。季乃だっていっつも失敗してるんだから」
「先々週はノーミスでした!フルコンボでした!!」
「可だけどね」
「有希ちゃんが虐めてきます!」
「はははは」
「なんで笑うんですかこの裏切り者!」
季乃に脛を蹴られる。痛い。
俺が季乃を宥めていると、有希は鏡花を前にしてそっと微笑みかけていた。自分の好きなものを自慢げに話すような喜びの籠った笑みだった。
「鏡花」
「どうしました?」
「アイドルって中々面白いでしょ?」
有希のその言葉に、鏡花はそっと笑みを浮かべる。
「えぇ。面白いですね」
YUKINOも自分たちのライブの準備がある。彼女たちとは一度別れ、改めて俺は鏡花と向き合っていた。
「さて、いよいよ開演だ。鏡花、準備は良いか」
「万端です」
「そうか。……鏡花はすごいな。俺の方が震えてばかりだよ」
実際に俺の手は先ほどから震えっぱなしだ。心持も良くないし、緊張しているのだろう。
「不思議な人ですね。実際にライブに出るのは私なのに」
「ほんとだよ」
思わず苦笑いが零れる。鏡花も同様に小さく笑みを浮かべていた。
「ですが、ご安心ください」
そう言って鏡花は震えている俺の手を握った。柔らかく細い指が、俺の手を優しく包みこんだ。
「あなたが見つけてくれた蕾は、立派に芽吹きました。あなたからもらった言葉で私という花は色づいたのです」
「だから、あなたはそこで見守っていてください。そこにいてくれるだけで、私は羽ばたけます」
「選んだこの道が決して無駄ではなかったことを、私が証明して見せましょう」
あぁ……やっぱりだ。やっぱり鏡花はあの人に似ているんだ。
言動とか容姿とかじゃない。その心の在り方が、俺が好きになった彼女にそっくりなのだ。
「行ってきます。慎二さん」
「……あぁ、いってらっしゃい。鏡花。楽しんでな」
鏡花は微笑み、ステージに上がっていく。俺は静かにそれを見つめていた。
古都ことの初ライブが始まる。
「お初にお目にかかります。私は古都こと。古い都にことと書いて、古都ことと申します」
「まずはこの場所に足を運び頂いたことに最大限の謝辞を。誠にありがとうございます」
「私がこの場に立つまでにたくさんの苦労をおかけしました。家族、友達、マネージャー、事務所の皆さん、スタッフの方々、そして今この場所に居てくださった皆さん、私という存在に関わってくれたすべてに感謝を伝えたく存じます」
「ですが、いくら言葉を募ろうと、私の陳腐な言葉ではきっと伝わらないのでしょう。だからこそ、この感謝を、この想いを、このライブに通じて伝えます」
「私が見てきた今までと、これからを込めたライブです」
「では、お楽しみください。――『風花雪月』」
「最後のその時まで」
始まったのは四つ打ちリズムをベースにシンセサウンドと和楽器を合わせた、独特な世界感。
緩やかで穏やかに見えてどことなく深い奥深さを感じるシンセサイザー。そこに和楽器特有の激しさが見事にマッチした神秘的な曲。
それを彩るのが、鏡花の歌声だ。
「青い風、花が揺らめく。よすがなる日々の中に」
鏡花の歌は一言で言えば美しい。まるで高級な楽器を丁寧に鳴らしているかのような美しさがそこにある。
ただ今の彼女の歌はそれだけではない。
「運命 そう思えた一瞬で、道を決めた」
一人の少女が想いの丈を語るような、優しく強い音色。少女の初々しさを感じるその声に、全身が包み込まれていく。
「胸の鼓動が指し示す 私を探して」
きっとそれはこの音色が透き通っているからだ。指先一つまで満たしていくこの感覚に俺は懐かしさを感じる。
「あなたが導いてくれた世界を 誰よりも羽ばたくために」
いや、その感覚だけではない。彼女の胸の内に浮かべる感情、感じたことのあるその想いは、音色以上に懐かしくて涙が出そうになる。でも、マネージャーであることが最後の砦となって、俺は涙を押し留め彼女の歌に集中した。
「例えいくつ季節が廻ろうとも 例えこの身が変わろうとも
揺るがない想いを抱き 私は歩み続ける
変わらないこの愛を あなたに届けたいから」
一コーラスを終え、間奏へと入る。そこで俺はようやく我に返り、お客さんの様子を目に入れる。
彼らは思い思いにペンライトや手を掲げ、そして放心していた。それだけ夢中にさせられているのだろう。古都ことというアイドルに。彼らの感情は俺にもよくわかった。
間奏が終え、次のコーラスへ移り行く。
「雪が寄り添い、月が欠け行く。時は過ぎ去るものだと知った」
ここからは歌よりもダンスがメインの演出になってくる。歌で夢中にさせられた感情を、熱中に変えるに良い演出だ。
「あの日の情景も いつか消え去っていくのだろうか」
――来る。
細い手足を細やかに扱う無駄のない仕草。その一挙手一投足はまるで羽のように軽く、まるでCGのように精密に動く。
「月日が過ぎていく 想いだけを残して」
けれども、その動作の端々に移る初々しさの残る少女らしさと、瞳に移る物悲しみ気な感情に心が激しく揺れ動かされる。まるで彼女の心が自分の心になったかのような感覚さえ覚える。
「だからこそ 羽ばたいていこう この今を忘れないように」
彼女は大きく空を飛んだ。皆を目に入れるため、古都ことの想いを全てここにいる皆に伝えるように。大きく、大きく飛び上がった。
「例えいくつ歳を取ろうとも 例えこの世界が変わろうとも
私だけは変わらない 永遠に在り続けるから
この想いを あなたに届けるために」
曲が終わりに近づき、エンディングへと入る。曲調も緩やかになり感傷的な気分が浮かび上がってくる。
「春の花に誘われ」
彼女の言葉に、思わず俺が鏡花に出会った時のことを思い出した。
……あの時の俺は無意識にアイドルに何かを求め、それが何かわからずにアイドルをスカウトできずに悩んでいた。
そんなときに風の導きと共に出会ったのが、鏡花だった。
「夏の風に吹かれ」
彼女に出会って一番にピンと来た感覚があった。体に電流のようなものが流れ、直感的に俺が求めていたのは彼女だということを知った。
それはなぜか。
「秋の月に惹かれ」
……結局のところ、俺という人間はどこまで行っても変わらない生き物なんだろう。いくら折り合いをつけたって、いくら乗り越えたつもりになったって、いつまでも、ずっと引きずり続け、追いかけ続ける。
俺が鏡花に感じたもの。それは。
「冬の雪に寄り添う」
長瀬麻奈のようなスター性。
「そんな日々をこれからも過ごしていく」
我ながら愚かだなって苦笑いが浮かぶ。麻奈ちゃんはもう亡くなった。きちんとお墓参りもしてそれを認識したはずなのに、まだ彼女を求めてしまっているのだ。
伝説のアイドル。長瀬麻奈という存在を。
顔を上げると、鏡花の姿が目に入る。
ファンの皆を想い、スタッフを想い、自分と関わったすべての人を想って歌う。
そんな彼女の姿が、長瀬麻奈の姿と重なって見えた。
「例えいくつ季節が廻ろうとも 例えこの身が変わろうとも」
マネージャーとしてダメだということはわかっている。鏡花と麻奈ちゃんは別物だ。一緒にしてしまっては、必ず大きな過ちを犯すことになる。
「揺るがない想いを抱き 私は歩み続ける」
だけど、それでも、今この瞬間だけは……。
「変わらないこの愛を あなたに届けたいから」
彼女が心からの笑みを浮かべる。皆を想った慈愛のような美しい笑みを。
……この感情に浸ることを許してほしかった。
「きっと ずっと 誰よりも あなたに愛を届けます」
古都ことの初ライブが終わる。ライブが終わっても会場は無音のままだった。
「……ご清聴ありがとうございました」
それを見てか、どことなく不安げな様子の鏡花が頭を下げた。
その瞬間だった。
会場が爆発した。
もちろん比喩表現ではあるのだが、そう表現してもおかしくないほどに会場中から声が上がり、拍手の音が響き始めた。
「ことちゃーん!最高だったー!!」
「もう優勝や!」
「お歌最高だったよー!」
気持ちはわかる。俺も観客席にいれば声を出していただろう。それほど、最高で感情が揺さぶられるライブだった。
鏡花はその様子に目を見開くと、やがて頬を緩め、どことなく照れくさそうな笑みで口を開いた。
「ありがとう、ございます」
その言葉を境に、古都ことにとびっきりの拍手が送られた。