いつもより甘い日常、あるいは誰かの祈り
長い夢を見ていたような気がする。夢の内容はいまいち覚えていないが、何かを見たという感覚だけが自分の中で残っていた。
思い出そうにも泡沫のように消えていくばかり。手を伸ばすほどのものでもない。夢ってそういうもんだろうと、俺はそのことについて忘れることにした。
と、まぁそれはいいんだが。
「……すぅ……すぅ……」
さっきから体の左半分がやけに暑いと思っていたら、なぜか俺の隣で有希が眠っていた。俺の左腕に絡みつき、なんなら足までホールドし熟睡している。黒髪から覗く穏やかな寝顔がとても可愛らしく思えた。
だけどそれはそれだ。夏のこの時期にそんなに密着されるとさすがに暑い。後、有希の体でそれをされると色々と当たっているから勘弁してほしい。
「有希、起きろー。ってかなんでここで寝てんだよ」
少なくとも俺が寝る前は一人だった。俺が寝ている間に布団に潜り込んできたのだろう。……何か理由があったのかもしれないが、ともかく今は起こすことが優先だ。
「すぅ……すぅ……」
「有希ー。起きてくれー」
今度は有希の体を揺らしながら呟く。さすがに強引に体を動かされると有希も寝心地が悪くなったようで、寝息が徐々に静かになっていき、瞼がそっと開かれる。
赤い瞳と目が合った。
「暑いから一旦離れてくれ」
「……お兄ちゃん」
「うん」
「んふ……」
満足げに笑みを浮かべて有希は再び目を閉じた。閉じるな、寝ぼけてんだろこいつ。
「有希、頼むから起きてくれ。あ、いや起きなくてもいいから離れてくれ」
「やだ」
「なんでだよ」
その言葉を示すように、有希はよりぐっと締め付けを強くする。普通に痛いんだけど。
というかどうしたんだ今日の有希は。いつもより甘えん坊というか、小さいときの有希に戻ったような感じだ。怖い映画を見て眠れなくて俺の部屋に飛び込んできたときもこんな感じだった。そう考えると心配になる。
「……何かあったのか?」
「ううん、何も。何もなかったよ」
「本当に?」
「うん、ちょっと夢見が悪かっただけ」
「そっか」
何もなかったならそれでいい。それはそうとして、有希が怖がるほどの夢ってなんだろうな。ホラー系やスプラッタ系か、でも今はそういう映画見てもあんまり怖がってないんだよなぁ。
「ともかく、一回離してくれない?ちょっとトイレ行ってくるから」
「……うん」
さすがに有希の中でも理性が勝ったようで俺の手足が解放される。だいぶ涼しい。有希の体温結構高いんよな。
朝の支度を諸々終え、リビングに来るとキッチンで調理の準備をしている有希の姿があった。長い髪は後ろでバサッとまとめゴムで結んでいる。
「何してんの?」
「朝ごはん。私が作ってあげる」
「あーありがとう」
いつもの有希はギリギリまで寝ているから、朝ごはんを用意するのも当然俺の仕事だ。やってくれるのは嬉しいけど、それよりも先に疑念に思ってしまうのが俺の性だ。
……ま、人の好意を疑うのもよくないか。
俺は口に出そうとした台詞をそっと押し留めると、ソファーに着き、時間つぶしにスマホを見つめる。
今日は雲一つない快晴らしい。おまけに馬鹿暑い。近頃の気候は馬鹿だ。ほんとどうなってんだ。
「できたよ」
そんなこんな時間を潰していると、そんな声と共にテーブルにいくつかの皿が置かれる。鮭の塩焼きに、卵焼き、味噌汁とご飯だ。一般的な普通の朝食だ。有希が作ったという点を除けばだけど。
「いただきます。お、うまいな」
卵焼きを口に運ぶと、ほどよい甘みが口の中に広がる。甘すぎるのは好きじゃないんだが、これくらいなら好みだ。
「どうも」
「俺よりうまいよ。まじで」
「まぁそうだろうね。お兄ちゃん味付け雑だから」
「うるさいな、料理は愛情だからな。愛情いっぱい入れてんだよ」
「雑な愛情だね。どれくらい入れてんの?」
「目分量」
「くっ、ふふ」
「有希のは愛情入ってないのか?」
「入ってるよ」
「どれくらい?」
「小さじ一杯分くらい」
「少なすぎだろ、もっと入れてくれ」
二人して笑みを浮かべる。なんでもない、いつも通りの朝だった。
「ごちそうさま」
「うん、おそまつさまでした」
朝ごはんを食べ終え、食器を片付ける。今日は俺も有希も、なんなら季乃も鏡花も休みだ。せっかくだし何かできることはないかなぁとか考えていると、ピンポーンという抜けた機械音が響く。
「誰だろ」
「俺が出るよ」
インターフォンのカメラで覗くが、そこには誰の姿もない。悪戯という線も思い浮かんだが、それ以上にこんなことをするやつには心当たりがあった。
「誰?」
「季乃」
「無視しよう」
「そうしよう」
ソファーで再びくつろいでいると、再びインターフォンが鳴る。今度はカメラに怒った様子の季乃が映り込み、ドアがどんどんと叩かれる。
有希と目配せし、仕方ないからそっとドアを開く。
そこには案の定というべきか、ベージュ髪を靡かせ、むっとした表情を浮かべる季乃の姿があった。
「もうなんで無視するんですか!」
「だってカメラに誰も映ってなかったし」
「何年私と付き合っていると思っているんですか!わかっていましたよね?私がいるということを理解して無視していましたよね?」
「最近、この辺悪戯が多いんだよ」
「あ、そうなんですか?」
「嘘」
「もう!」
びしばしと腕を叩かれる。なんとなく、季乃が家に入りたそうな気配を出していたので、さりげなく家の中に案内する。
「有希ちゃん!」
「うわ、不審者だ」
「ぐへへ、襲っちゃうぞー」
「うわー」
季乃は笑顔で有希に抱き着き、有希はめんどくさそうにその対応を行っていた。二人はずっと仲良しだ。きっとそれはどこまで行っても変わらないんだろうな。
「ってか何しに来たの季乃」
「暇でしたので遊びに来ました!」
「そう」
「もう一つあります」
季乃は一回有希から離れると、俺の前にやってくる。真剣な表情を浮かべていたから俺も真面目に彼女と向き合っていると、彼女は俺の手をそっと持ち上げ、両手で包み込むんだ。大切なものを握るようにそっと。
「慎二さん、ありがとうございました」
「……えっと、ごめん。何が?」
「いえいえ何でもないですよ。ただお礼を言いたい気分だったので。それだけです」
彼女は小さく笑みを浮かべた。穏やかな優しい笑みだった。
「もう要らないって言いたいんじゃない?」
「決別の言葉だったか」
「違いますよ!なんですか有希ちゃん。嫉妬ですか?お兄ちゃんが取られたから嫉妬しているんですか?」
季乃はこれ見よがしに腕を絡ませ、有希を挑発する。あんまりそういうことすると、この子怒るからやめてほしいんだけどな。
「……」
有希は表情を消すと、無言でこっちに近づいてきた。もう片方の俺の腕を奪い取り、ぎゅっと体を寄せる。
「えっと有希?何してんの?」
「お兄ちゃん。お兄ちゃんは私のお兄ちゃんだよね?」
そう言って、有希は上目遣いで俺を見上げる。澄ましたような表情で甘えてくる仕草が、俺の心をちょっとだけ揺さぶる。
「違います!お兄ちゃんは私のお兄ちゃんです!」
季乃もぐっと体を寄せる。彼女も俺を見上げ、口調とは裏腹にちょっとだけ照れた様子を見せる。この子のこういったいじらしさは感情を揺さぶられる。
まぁそれ以上に単純に状況が掴めない。両手に花だなははは、という言葉よりも、何してんだこいつらの方が勝る。
「いやお前のお兄ちゃんではないだろ」
「うるさいです。私のなんです!」
「何言ってんの。私のに決まっているじゃん」
「どっちかを選んでくださいってやつか」
「なんで先に言うの」
「ほんとですよ。さっきからやけに冷静ですし、なんですかこいつ。もっと喜んでください」
二人からジト目を向けられる。そう言われてもなぁ、そう思ってしまうことは仕方がないし。まぁでも。
「ありがとう。二人が俺を想っていてくれているのはわかったよ」
「うざ」
「すかしてますよこいつ」
「酷い言われようだ……」
こっちがなんだこいつだよ。どうにかしてくれ。
「どこか出掛けるんですか?」
「うん、ちょっとな」
有希と季乃を宥めた後、二人でテレビを見ているのを横目に俺は上着を羽織り、出掛ける準備をしていた。
「ちょっとってどこですか。私も行きます!」
「ちょっとはちょっとだ。すぐ帰ってくる」
「だからちょっとってどこですか?ちょっとって場所があるんですか?」
「ちょっと」
「ちょっとちょっと」
「うるさ」
有希の突っ込みに笑みが零れる。ボケを拾ってくれると嬉しいよな。
それはともかくだ。俺も行きたい場所が思い浮かんだ。理由はわからないけど、なんとなくあそこに行きたいなとそう思えた。
「まぁそんな遅くはならないから」
「ちゃんと帰ってきてね」
「待ってますからね」
二人の声を背に、俺はドアを潜る。ちょっと遠いが車ならそんなに時間は掛からないはずだ。
磨かれた石造りのタイルは一面を染め上げ、両サイドに植え込まれた街路樹が視界を彩る。木々に囲まれた都会のオアシス。そんな並木街道に俺はたどり着いた。
春の時期に咲いていた桜は姿を無くし、今はすっかり緑が生い茂っている。
「ここに来るのも久しぶりか。今じゃ出勤も車だからなぁ」
免許持っていないときはこの道を通って駅と職場を往復していたから記憶に良く残っている。この景色は変わらないものらしい。
「にしても暑いな……」
今日は、というか今日も東京は猛暑日らしい。太陽から降り注ぐ熱が徐々に体力を奪っていく。上着を手に抱えると、少しでも日光を避けようと日陰を歩くことにした。
「あっ……」
その時だった。風がふわりと舞い、思わず手に持っていた上着が吹き飛ばされる。慌てて手を伸ばしたが、それは俺の手をすり抜け去っていく。
幸いにも強風は一瞬だけだったようで、上着はすぐに地面に落ちた。そのことに安堵し、それを取りに行こうとして、気づいた。
上着の前に一人の少女がいた。
「っ……!」
思わず電流が走った。なぜなら、彼女がここにいるとは思いもしなかったから。
「――落とし物ですよ。慎二さん」
「あ、ありがとう」
凛とした美しい響き。静かな、でも確かな信念を感じる声に、俺は思わず言葉が詰まる。彼女と会おうとしてここに来たわけではない。なんなら彼女がここにいることすら俺は知らなかったのだから。
だけど俺はこの言葉を言わないといけない気がして、気が付くと口が開いていた。
「鏡花。俺は今、幸せだよ」
空色の瞳がそっとほころぶ。鏡花は静かに笑みを浮かべていた。