世界が揺れていた。
焦点の合わない目、聞き取れない雑音、感覚のない匂い。
これが夢だという認識でさえ揺れ動き、俺の意識はただ何もない場所を彷徨っていた。
辺りを包み込むのは、あの日見た冷たい光。
――俺は死んだのかな。
わずかに浮き上がった意識が導き出したのは、そんな言葉だった。
過去の情景も、考えすらもはっきりと浮かび上がらない。波にのまれたかのように揺れ動く世界で俺はただただ揺られ続けていた。
永遠とも思える時間彷徨った俺は、唐突に左右の腕に何かの感触があることに気が付いた。
それが何か確認しようにも体は動かず、声も出ない。
でも、どうしてか、俺はそれの存在をどうしても確認しないといけない気がした。
全力で抗い、なんとかして体を動かし、そして無我夢中に声を上げる。
――俺はまだ生きてる。俺はまだ生きる!
わずかに見えた光。その光に向かって、俺は腕を伸ばす。
伸ばして、伸ばして、ようやくつかんだその光。そして俺が目を開くと。
――そこには見知らぬ天井があった。
風が頬を撫でる。心地が良いそれに、思わず首を横に傾けるとそこには見覚えのある人が一人。俺の隣で眠っているのが見えた。
「……有希?」
長い黒髪。眠っているときでも天井に向けて生えている癖毛。僅かに見える顔立ちはいつもと違って穏やかで可愛らしく思えた。
どうやら彼女は俺の腕を枕に椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。でも、なんで?
疑問は尽きなかったが、それとは別に反対側にかかる腕の感触にも気になってくる。
首を反対側に向け、それを覗くとそこにはベージュ色の綺麗な髪が目に入った。
「季乃?」
いつもの調子はどこにいったのやら、彼女は静かに落ち着きのある表情で眠っていた。こちらも俺の腕を枕にして眠っている。
……状況がいまいち掴めない。というかここはどこなんだ?
思い出せる直近の出来事を思い返そうとしていると、俺の腕にもたれかかっていた有希がもぞもぞと動く。
寝心地が悪そうにしばらく動いた後に、やがて彼女はその両目を開いた。
赤い瞳と目が合った。
「……おはよう、お兄ちゃん」
「おはよう」
普段何気なくしていた挨拶。だけどその言葉は、懐かしく感じた。
有希はその後、立ち上がり伸びをすると、近くにあったボタンを押した。
ブーという機械音が鳴り響く。
「有希、さっぱり状況がつかめないんだが何があったんだ?」
「……お兄ちゃんは事故にあったの。覚えてない?」
そう言われて、ようやく思い出した。確か酷い雨の日に急いで駅に向かおうとしてそれで……。
スローモーションで見つめた情景、車のヘッドライト。……思い出した。俺は車に轢かれたのか。
「今、思い出した。ということはここは病院か」
「そういうこと、ナースコールは押したから少ししたら看護師が来ると思うよ」
……俺が病院に居て有希と季乃がここにいるということは、俺が病院に運ばれてから少し時間が経っているということか。……それは申し訳ないことしたな。
「悪い有希、迷惑かけた」
「ほんとにね」
「ごめん」
有希の表情はそっぽを向いていて見えない。だけど、有希のことだ、本当に嫌だと思ったに違いない。有希には嫌な思いをさせてばかりだ。兄として申し訳なくなってくる。
……そういえば今はいつだろうか?彼女たちYUKINOの出番、I-UNITY五回戦のことを考えるとあんまりのんびりしている暇もないと思うが。
「有希、レッスンは……」
右腕側に動きがあった。言葉を遮りそちらを覗くと、まん丸に開いた黄色い瞳と目が合った。
「あ、季乃。おはよう」
「……っ!」
季乃はその言葉を聞き終わるや否や、俺の体に抱き着いてきた。普通に痛い、たぶん怪我したところに当たってる。
文句を言おうとしたが、彼女の瞳から涙が零れ落ちているのを見て止めた。季乃も心配してくれていたのだろう。
「ごめん、季乃。心配かけた」
「……許しません」
「ごめんって」
季乃は俺の胸で静かに泣き続けた。看護師がやってきて声を掛けられるまで、彼女はずっと俺を抱きしめ続けていた。
それから遅れてやってきた医師から軽く診断を受けた。
後ほど改めて精密検査をする予定だが、元より大した異常は見当たらなかったらしく、緊急性はなく、診断も問題なかったみたいだ。
そのことに安堵しながら、俺は有希と季乃に向き合った。
「心配してくれたのはありがたいんだが、二人ともレッスンはいいのか?I-UNITY五回戦近いんじゃないのか?」
「……はぁ」
「慎二さん、私怒りますよ?」
「なんで?」
何が彼女たちの沸点に触ったのかさっぱりわからない。事実としてI-UNITY五回戦が近いのは確かだろうに。
「終わったよ。もう」
「レッスンが、か?」
「違う。I-UNITY五回戦が」
「はぁ!?」
俺の記憶が正しければI-UNITY五回戦は俺が事故にあった日の三日後だったはず。つまり、なんだ、俺は三日間も眠っていたのか!?
「え、あ、それでどうだったんだ、I-UNITY五回戦は?」
「あのさぁ。そんなことより自分のこと心配しなよ。腕も足も折れているんだよ」
改めて俺の体を見渡すと、左腕と右足がギプスで固定されている。反対の手足にも傷の手当てをした跡らしいものが見て取れる。
「こんなのどうってことないだろ。時が経てば自然と治る。それよりも――」
「どうってことなくないです!ふざけないでください!」
俺の声を遮り、季乃が鋭い声を上げた。強い語気で言われたその言葉に思わず息をのむ。
「ずっと、ずっと目を覚まさなかったんですよ?どれだけ心配したと思っているんですか!」
「いやそれは確かに悪かったけど…」
「じゃあ聞きますけど、三日間も眠っていた理由知ってますか?」
「……医学的なことはわからないけど、事故による精神的なショック…とか?」
「過労です」
「……」
過労。……働きすぎてたってことか?確かに最近ずっと夜遅くまで仕事していたし、休日も姫野の目的を崩すため行動していた。肉体的な疲労は蓄積していたことは事実だろう。
なるほど、だから彼女たちは怒っているのか。
「……悪い。これからは自己管理もしっかり……」
「そう言った言葉を聞きたいわけじゃありません!」
季乃は今まで以上に声を荒げ叫んだ。……わからない。なんでこの子はこんなに怒っているんだ。
有希に助けを求め視線を向ける。だけど彼女も俺を助けるつもりはないようで、冷たい視線を送るだけだった。
「ごめん季乃。お前が怒っていることも、俺が悪いこともわかった。どうしたらいい?」
「知りません!」
答えてはくれないよな。
……季乃は俺のことを心配してくれていた。それは俺にもわかったし、目を覚ました俺を見て泣くほどの想いがあることもわかった。そこで俺に言ってほしいことは何か。
「はぁ……そういう理屈的なことじゃないんじゃない?」
困っている俺を見てか、有希はため息を吐くように言葉を漏らす。
理屈的なことじゃない?それはどういう意味……いや、この考えがもうダメなのか。
直感的に俺が正直に思った言葉、か。
「季乃」
「……」
俺が声をかけると季乃は怒った様子で、でも視線は真っ直ぐに俺へと向ける。
散々泣き腫らしたような跡、拗ねたようにつり上がった瞳。疲れ切ったように垂れ下がった頬。今までで一番酷いその表情が、なぜだがとても愛おしくて、気がつけば言葉はするりと出てきた。
「心配してくれてありがとう。――約束通り、置いていかなかっただろ?」
「っ……」
息を呑むような声が聞こえる。今にも泣きそうな季乃を見て、俺は一つ、言い忘れていた言葉を思い出した。
「――ただいま」
「…………ほんとに慎二さんはお馬鹿さんです」
季乃の瞳から涙がこぼれる。
瞳に映ったその笑顔は何よりも美しく感じた。