元一級呪詛師 スカー・レッド   作:傷んだ赤色

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元一級呪詛師 スカー・レッド

 

 

 ──夕焼けが静謐な教室を赤く染め上げる。

 

 

 

「なぁ、夏油」

 

 

 

 ──夕焼けが私を照らし、影で彼は黒く染まる。

 

 

 

「なぜ呪術師として生き急ぐ?」

 

 

 

 ──私には呪術師としての適性がまるで無かった。

 

 

 

「その力で何を成し遂げたい?人々を救済でもしたいのか?」

 

 

 

 ──彼には呪術師としての適性があり過ぎた。

 

 

 

「それなら、お前は王にでもなれば良かったんだ」

 

 

 

 ──それ故に、私には彼の考えがこれっぽっちも分からない。

 

 

 

「お前は非術師を猿と言うが、お前は猿に溶け込むことは出来まい」

 

 

 

 ──非凡な力があるというのに、それを他人の為に使うお前が分からない。

 

 

 

「醜いものだと、無価値なものだと知れば、それを容認することができない」

 

 

 

 ──私しか見えず、私の為にしか力を使えない私には分からない。

 

 

 

「自分が特別であり、この残酷な世界を救うという信条が無ければ力を使えない」

 

 

 

 ──他者のために戦うには人という種は弱すぎる。

 

 

 

「私も初めはそうだった。でもそれはもう過去の話なんだ」

 

 

 

 ──だから大切でもない誰かの為に命を、力を、精神を削るなんて。

 

 

 

「認めろ、夏油。私達は誰よりも弱かったからこそ、呪術師なんて超越者になったんだ」

 

 

 

 ──なんてこの上なくおぞましい(・・・・・)

 

 

 

 

 

 2018年10月31日、21時23分、渋谷駅地下東京メトロ副都心線ホーム

 

「ちっ、五条のやつ本当に封印されやがった」

 

 意識があるものが4体しかいなかった空間にもう一つ、新しいモノが加わる。

 

「だからあれほど言ったんだ。どんな格下でも油断するなと。適当にしか見ないから足元を掬われる」

 

 ソレは周囲の異常を気にも留めず、かつかつと音を立てながら4体の方へ歩いていく。そしてある程度離れた所で止まると、手にしていたトランクを地面に置き、煙草を咥えた。

 

 反応は漏瑚が一番速かった。人々の間をすり抜けながら近付き、ゼロ距離で燃やす。確かな手応えを感じた瞬間に、それは燃えているにもかかわらず動き出し漏瑚に斬りかかる。

 

 漏瑚は直前で反応して後退し、人混みの中に紛れるがそれは一切惑わされず正確に追跡していく。

 

「何故そこまで動ける!?」

 

「そいつは私の自信作でね、色々と仕込みがあるんだ」

 

 燃やしたそれが壁になってしまい、見えていなかったがソレは先程までと全く同じ位置に立っていた。更に悠々と煙草に火を付け、紫煙を吐き出して漏瑚を観察している。

 

 燃えていたそれは、よく見れば人形のようだった。ピクリとも動かない美しい顔に、球体関節で繋がれ、鎌が付いている腕が4本ある異形の人形。大した損傷もないそれは火が消えた瞬間から少しずつ再生し、既に傷が消え去っている。

 

「やぁ、漸く来てくれたか。いつまで経っても現れないから間違えて殺してしまったかと思ったよ。漏瑚、ちょっと待って」

 

「家族の次は意思疎通のできる呪霊か…。愉快な仲間が多いな、夏油」

 

「仲間とは、また少し違うんだけどね。それで、取り引きの件だけどこうなった以上破棄させてもらうよ」

 

「私がそれに頷くとでも思っているのか?だとしたら私の事を少し舐め過ぎだろ」

 

「悟が封印された今、ただの一級術師の君に私達特級の、しかも複数の相手が務まるとは思えない。それに橙子の術式は構築術式だろう?」

 

 それを聞くと、ため息をつくように煙を吐き出し、夏油に呆れたような視線を向ける。

 

「術式なんて要は解釈と使い方だろ?発想さえあれば後はどうにでもなる」

 

「なら、やってみると良い」

 

 言い放つと同時に夏油の足元から数えきれないほどのムカデのような呪霊が橙子へ向かっていく。

 

 それを前に橙子は焦る様子も無く吸っていた煙草に呪力を通してムカデに向けて放る。煙草に一瞬文字が浮かび、次の瞬間にはその体積からはありえない大きさの炎が上がる。

 

 浮かんでいた文字はルーンにおいて神を意味する文字であるアンサズ。炎の神を思い描きながら刻んだそれは漏瑚の作り出したそれに勝るとも劣らない火炎を発生させ、ムカデを1匹残らず消滅させる。

 

「!その炎、正の呪力を放っているのか!」

 

「惜しいな、炎自体が正の呪力でできてるんだ。炎に触れた瞬間呪霊ならあの世行きだ。そんなものがあるならだが」

 

「でもさ、それっておかしく無い?あんたの術式、構築術式なんでしょ?炎を出す術式とかなら出来るかもしれないけど構築術式で炎を、それも正の呪力でできたものなんて構築したらソッコー死ぬんじゃない?」

 

 後ろで暇そうにしていたツギハギ顔の呪霊、真人の単純な好奇心からくる質問。真っ当な呪術師なら相手にしないだろうが、重なったさまざまな要因が橙子に返答という選択肢を選ばせた。

 

「私が使ったのはルーン魔術だ。空想上だが北欧における古い魔術とされているもので、魔力で文字を刻むだけで発動するらしい。その文字をあらかじめ煙草に刻んでおいて、炎を発生させた訳だ」

 

「?空想上のものなんだったら結局炎出せなくない?」

 

「特級といえど発想力は並なのか?それこそ単純だろ。ルーン魔術が発生するという(ルール)ごと文字を構築しただけだ。さて、講義はここまで。次は私からの反撃だ」

 

 実際のところ、理ごと構築するなんて命を懸けてようやく一文字刻めるかどうかというところであり、そんな博打を打ってようやく使えたとしても大した威力にならない。なので橙子が使うルーンは低出力を補うために補助用や正の呪力を出力するものが多い。

 

 ルーンに関してはあまり手の内を晒したくない橙子は強引に話を打ち切り、置いていたトランクを開け放つ。

 

「おまえたち、ホラー映画は好きか?あぁ、返答が欲しい訳じゃないから答えなくていい。で、だ。ホラー映画には怪物が付き物なんだが、これには人を恐怖させる三つの条件がある」

 

 漏瑚の左腕が肩から切り落とされる。

 

「一つ、怪物は言葉を喋ってはならない」

 

 真人の首が刎ねられる。

 

「二つ、怪物は正体不明でなければならない」

 

 しかし夏油だけが呪霊を盾に受け流す。

 

「三つ、怪物は不死身でなければ意味がない」

 

 突如出現した、強いていえば猫に近い形をとるのっぺりした影は特級二人に反応すらさせる事なく、その身を裂いた。

 

「おまえたち呪霊は怪物としては落第点もいいとこだが、被害者としては悪くない」

 

「残念だけど、俺には効かないんだよね!」

 

 真人は魂に干渉されない限りダメージを受けることはない。なので先ほどの攻撃も効いておらず、腕を変形させて攻撃しているがそれは影に何ら効果を及ぼさない。

 

「言ったろ?怪物は不死身でなければ意味がない。そいつは不死身なんだ」

 

 いつの間にかまた煙草を咥えている橙子が呆れたように言う。夏油は影を見つめて、時折トランクに目を向けているが未だその正体は分からない様だった。

 

「十分私の力は示せただろう?そろそろ交渉に移りたい」

 

「その必要はない」

 

 その声は背後の、すぐ近くから聞こえてきた。

 

「終わりだ」

 

 そう呟くと漏瑚は今度こそ橙子を燃やす。

 

 

 

 

 

「ねー夏油、結局あの猫っぽいやつなんだったの?」

 

 真人が橙子が連れていた人形の破片をつつきながら夏油に聞く。

 

「私にも全ては理解できなかった。あまりじっくりは見られなかったからね。説明というより推理になってしまうかな」

 

「その必要は無い。あやつは既に死んだのだからな」

 

「でもアレ構築術式で作ったやつなんだからもう一個くらいはあってもおかしく無いんじゃない?」

 

「いや、多分一個しかないんじゃないかな?特級呪霊ですら反応が難しく、更には攻撃も効かない使い魔なんてまともに作れるモノじゃない」

 

「ふーん……ま、それなら良いんだけど。それで、何コレ(獄門疆)、どういうこと?」

 

 

 

 

 

「だがそれでは駄目なんだ。私から生まれるモノは私の可能性の域を出ない。答えはいつだって混沌の中で黒く輝いているものだ」

 

「可能性はそんなにたいそうなモノじゃないし、おまえの求めるものは絶対に手に入らないさ」

 

 羂索が術式を発動させようと呪力を込めた時、九十九由基でも、虎杖悠仁でも、裏梅でもない、誰かの声が響いた。

 

 九十九由基も、羂索も弾かれるようにして声の主を見る。

 

「……どういうことだ」

 

「おまえは死んだ筈だ、なんてありきたりなセリフはよしてくれよ。器が知れるぞ?あまりわたしを失望させないでくれ」

 

「いいやあり得ない。どう見てもアレは偽物や幻術の類ではなかった」

 

「…どうやら本当に解ってないんだな。まぁいい、その説明は後だ」

 

 九十九は羂索を警戒しながらも橙子にも同等の警戒を向ける

 

「どういうことかな」

 

「何、一回死んだだけの話だ。気にするな。話を戻すぞ。呪力から脱却なんてしたら呪力の、この世界の核心に至れないじゃないか。だから断固反対だ」

 

 橙子は、地下鉄ホームに現れた時と全く同じ仕草でトランクを地面に置き、煙草を取り出し火を付ける。

 

「それで、羂索とか言ったっけ?あぁ、名前はあの親指に聞いたから自己紹介の必要は無い。お前の言う自分の手から離れた混沌なんてのを確かめるには、その事象に対して観測者以上のポジションでいちゃいけないんだよ」

 

「十分手から離れているさ。私が今まで作って来たものは一から十まで全て私が揃えた。だから、今度は一を与えて放り出そうと思ったんだ」

 

「あぁ、そういうことか。くそ、ただの実験の一環なら理論で止められないな」

 

 少しだけ恥ずかしそうにしながら煙を吐く。

 

「それで、君のプランは?」

 

「言ったろ?現状維持だ。術師も、非術師も、呪霊も何も変わらない。今までと同じままだ。遠からず滅びが待っているこの状況で人がどう足掻くのか、その途中に生まれるのはどんな技術なのか見てみたい。だからまぁ、つらつらと語ったが、端的に言えば遊び場の取り合いだ。私はアリを眺めていたい。お前はアリにきのみを一つ与えてから観察したい。少しの違いだがそれだけでもう相容れない。だから、私はおまえを殺す」

 

 また、地下鉄ホームの時と同じようにトランクを開き、呪力を通して後ろに下がる。するとまたも影だけの猫のような形をした何かが現れる。

 

「それはもう見たよ。トランクを開く事を条件とした限定的な召喚か何かだろう?確かにその式神は速く、攻撃も効かないがそれは同時に防壁になり得ないという事だ。だから手っ取り早く複数方向から攻撃してトランクを破壊すればいい」

 

 羂索の足元から出てきたムカデのような呪霊が六つほどの塊に分かれ、それぞれ別方向からトランクへ向かっていく。しかし橙子は、それをしっかり捉えながらも、何もせずただ煙草を吸う。

 

 そして、ムカデの塊の一つがトランクを打ち、破壊した。

 

「さて、次はどんなおもちゃを見せてくれるんだい?あまり付き合ってられないんだ」

 

「おいおいそんなに焦るなよ。まだ一つ目のおもちゃは遊び終わってないぞ?」

 

「何を言っ……!」

 

 とっさに身を屈めた羂索の上スレスレを影の斬撃が通り過ぎていく。

 

「この短時間で改良してくるとは…!」

 

「違うな、それが現行なんだ。地下で見せたのは旧モデル、見せ札に過ぎない。十中八九殺されるとこに最新の作品なんて持っていくわけないだろ」

 

 実は現行機には狭い空間では使い魔が身動きが取りづらくなり、結果的に仕組みがバレる可能性が高くなるので、使わなかっただけだがそんなことはおくびにも出さず言い放つ。

 

「しかしそろそろ時間か?おい、あっちのおかっぱ頭を頼む」

 

 影はこちらを振り向き(少なくとも橙子にはそう見えた)、頷いてから裏梅の方へと駆けて行く。

 

「時間とは何のことだ?」

 

「あぁ気にするな」

 

 その時、ばしゃり、と虎杖たちを封じ込めていた氷が溶ける。

 

「ただ毒が回っただけだ」

 

 だろ?と脹相の方を向いて確認する。

 

「穿血で俺の血が混じったんだ。当然だ」

 

「それじゃあっちはあっちで楽しんで貰うとして、一つ面白いものを見せてやる。キミらの中に構築術式の使い手がいたらよく見るといい」

 

 煙草を手の中で燃やし、消す。そのまま目を閉じ、呪力を首元へ集中させる。

 

「構築術式、仮想極ノ番『守護の獣(トーテムポール)』」

 

 その言葉(トリガー)で橙子の背中に黄金色をした蝶の羽のようにも、乱れ咲く花のようにも見えるものが展開される。

 

「さて、それでは術式の開示の時間だ。これは極ノ番と銘打っちゃ居るがいかんせん出力が低い。開示で能力を底上げして漸く上の中レベルって所だ。肝心の内容だが、これは厳密に言えば構築術式の極ノ番ではない。構築術式のみで展開できているわけでは無いし、たとえ同じ術式の奴でも多分これと同じことをやるのは無理だ」

 

 だからあくまで『仮想』なんだ、と言う橙子は何処か自慢げに見える。それはまるで工作したものを親に見せる子供のような。

 

「肝心の内容だが、コイツは攻撃術式でも防御術式でも無い補助術式だ。効果は単純、術式の発動だ」

 

「術式の発動?そんなもの極ノ番とは……そうか、そう言うことか!最も警戒すべきは五条悟ではなく君の方だったか…!」

 

 羂索が呼び出した呪霊を、橙子は雷で焼き払う。

 

「答え合わせだ。私の極ノ番はストックした他者の術式の使用だ」

 

 それに一番驚いていたのは九十九だった。

 

「待て待て!それじゃあキミは他者の術式を奪えるのか!?」

 

「奪う、と言うか借りている、と言う方が正しい。とは言ってもあの特級みたくコピーしてるわけじゃなく、これそのものが『術式』というわけだ。私の背に他人の体から術式だけをテレポートさせて固定していると言えば分かるか?分かるだろ。開示は大体こんなところだ」

 

 羂索はちらりと裏梅を見ると、ちょうど影の怪物が消えていく。凍り付いた何かの破片が散乱する中で片膝をついて荒く息を吐いている。今すぐに戦線復帰というのはさすがに無理だろう。

 

「ほう、空間に冷気を放出し続けて氷結させるとは考えたな。つぎはもっと距離感を離させたほうがいいか?」

 

「!」

 

 いつの間にか隣にいた橙子はそう分析しつつ、羂索の肩に手を置く。

 

「次は実践だ。投射呪法」

 

 羂索は薄いガラス状に囚われ、そのまま蹴りをまともに喰らう。すぐに後ろへ飛び、身構えるがその時にはもう次の攻撃が放たれる。

 

「変換呪術。赤血操術、『穿血』」

 

 音速で放たれたそれは真っ直ぐに羂索の心臓へと向かうがイカのような呪霊を盾にし、それを貫いたことによって生まれた一瞬の速度の低下で辛うじて避ける。

 

「そら、まだまだ行くぞ。呪言。『動くな』『呪霊操術を使うな』」

 

 羂索は穿血を避けた不安定な体勢のまま空間に縫い付けられたように止まる。橙子は止まった羂索の首を掴み、畳み掛けるようにまた別の呪術を発動させていく。

 

「洗礼聖呪。洗礼詠唱」

 

 その呪術は本来何の力も発揮しないことがほとんどだった。なぜなら、術式発動の前提条件として反転術式を使用できなくてはならなかった。反転術式を使用できる者だけでも希少なのに、更にこの術式を待ち合わせる必要があったのだ。

 

 しかし、その分術式効果はかなり強力だった。術式には物理的攻撃力がほとんど、というより全く無いがその代わりに一級だろうが特級だろうが問答無用で祓うことができ、更には一時的に呪術を使用できなくさせることも出来る。

 

「まさかその術式を使えるとはね…!」

 

「まぁ、ただの好奇心だ。『私が殺す 私が生かす 私が傷つけ私が癒す。我が手を逃れうる者は一人もいない。我が目の届かぬ者は一人もいない。打ち砕かれよ。敗れたもの、老いた者を私が招く。私に委ね、私に学び』」

 

 どこか神聖な感じる空気を纏いながら滔々と告げていた詠唱がゴッという音と共に橙子が地面に頭を強く打ち付けたことで止まる。

 

「チッ、こんなところで使うことになるとは………………でもやっぱりその術式は使い勝手が良くないだろ。詠唱中は隙だらけだからこうして中断させられる」

 

 羂索が止まったままの体制で橙子に告げる。

 

「複数の呪術をほとんどノーリスクで使うって発想は面白かったけどね、羽の形にしたのは少し効率が悪い。更に言えば呪言で呪力を使うな、とでも言えば良かったんだ。君も私の事甘く見過ぎだ」

 

「おまえも複数の呪術が使えたのか」

 

「まぁ君ほど多くは無いけどね。でも君の発想は参考にさせてもらうよ。構築術式なんてわざわざ使うようなものじゃないと思ってたけど中々面白そうだ」

 

「はぁ…私はここまでか。漸く洗礼詠唱を実践で使えると思ったんだがしょうがない。後はおまえたちの健闘に期待しよう」

 

 パキパキと、橙子の顔がひび割れる。そこでふっ、と橙子を押さえつけていた何かが消える。

 

「うーん、あの子達も強くはあるんだろうけどまだ僕に届くほどじゃないかな。悪いけど用が済んだら逃げさせてもらうよ」

 

 ふらふらと立ち上がり、ひび割れた顔のままニヤリと笑う橙子は自分の胸元を指差す。

 

「私が呪詛師認定を外された理由は知ってるか?」

 

「…いや、知らないね」

 

「実は追手の呪術師や賞金目当ての呪詛師に被害を出しすぎてな。呪詛師認定されたのも上層部の連中が私の人形を恐れて冤罪をかけてきただけだったから簡単に外せたんだ」

 

「…………」

 

 羂索の反応を見て橙子はこいつ知ってたな、と推測する。

 

「その時甚大な被害を出したのがこいつ。私は便宜上『匣の怪物』と呼んでる」

 

 顔から段々侵蝕していたヒビは伸び続け、遂にはガラガラと破片が崩れ始める。

 

「こいつは作る時に私の命を数百個単位で持っていってな。私にすらこいつの本体がどこに行ったのか、正体は何なのかも分からない。だからこの身体の中にあるのはどこかの本体につながる扉だけだ」

 

 身体が欠け、暗闇となった場所から影のような触手が伸びる。

 

「私を殺した者を狙うようにしてるから、おまえが死ねば消える。あぁでも気を付けろよ?上手く立ち回りすぎると奥から本体が出てくる」

 

 そして、バキッと背中側へ首が折れた瞬間、ソレは解き放たれる。

 

 

 

 

 

「ちっ、結局うまく逃げたか」

 

 橙子はトランクケースに腰掛けながら紫煙を吐く。頬に付いた血を拭い、もう片方の手に持った資料を脳に焼き付ける。

 

「高専の奴らも何人かは生きててくれれば良いんだが」

 

 逃してしまった羂索と日本中に発生した結界への対処を考えながら橙子はため息を吐く。記憶し終わった資料を投げ捨てる。散らばったそれは床一面に広がる液体で濡れていく。

 

「いざとなれば国外に逃げるべきか…いや、逃げたところで羂索が生きてるなら変わらないな。クソ、初めから本体を出せば良かったか?いや、それだと日本どころか世界ごとひっくり返るな」

 

 少し気だるげに立った橙子はトランクを持って出口へ向かう。パチャパチャと音がするがそこに橙子以外の者はおらず、橙子もまたそれによる汚れを気にしていない。

 

「実験レベルに留めていた私の複数起動を本格的に行うべきか?それとも一つ一つ潰していったほうがいいのか…ダメだな、解析してみないことには判断できない。まぁ、身中の虫を一つ潰せたから多少は動きやすくなるだろ」

 

 出口に差し掛かったところで橙子は吸っていた煙草を後ろへ投げ捨てる。煙草は地面に落ちる前に炎に包まれ、床や散らばっていた木片に引火して段々と炎が大きくなっていく。

 

 ごうごう、と燃え始めた時にはもう橙子はおらず、そこにはただ炭へと変わっていく数多の肉片が転がっているだけだった。

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