彼は、その場所に辿り着いた。
「そうか。ここが、君の……」
複数の島が浮かぶ、大きな湖。
青い水面が、島を覆う豊かな緑と鮮やかなコントラストを描いている。
雲の隙間から差し込む太陽の、穏やかな光。
ときおり吹く風に、木々が静かに揺れる。
平和という言葉をそのまま具象化したような眺め。
それを一望できる場所に、青年は立っていた。
「君のスケッチブックの中に、たった一枚だけあった風景画。
君が、辿り着きたかった、場所……」
手に持つものに、目を落とす。
それは古ぼけた手帳のような外観の、一冊のスケッチブックだ。ところどころにある傷みや破れが、主とともに過ごした年月を示している。
青年が片手で器用に開くと、目の前の光景をそのままデッサンしたような鉛筆画が姿を表した。
湖の形も、入り組んだ島の配置も、木々の場所さえもぴったり同じだ。それを描いた人間の確かな観察力を感じさせる絵。
そしてそれ以上に――
それを描いた人間の、心の底からの願いが滲み出る絵。
「他の絵は全部、生き物の死骸とか、兵器の描写だったのに。
この絵だけは、死も争いもない平和な光景だった」
青年の脳裏に、一人の少女の姿が浮かび上がる。
彼よりも頭一つ半も小柄な、痩せぎすで暗い目をした女の子。
自分から何もかもを奪ったスペーシアンを憎み、ガンダムを駆ってテロ組織に協力していた魔女。
だがその実、ただただ死の影に怯え、周囲を威嚇することでどうにか正気を保っていた、哀れな孤児。
3年前に出会い、今でも鮮やかに思い出せる小さな背中に、青年は語りかける。
「逃げたかったんだろ? この場所に。
ガンダムなんてさっさと捨てて、戦いから遠く離れて、こんな場所で静かに暮らしたかった。
……でもあのときの君には、独りで生きていく方法すら分からなかった」
その独語に、答えを期待していたわけではない。
けれど、数秒後。
彼の耳には、たしかに届いた。
そよ風の中に紛れるように小さく響く、少女の声が。
「……そうね。
スペーシアンが憎かったのは本当。
私から全てを奪った奴らに復讐したかったのも本当。
でも結局、私は、死ぬのが怖かった」
低く、悲しみに包まれた、自らの過ちを認める声。
淡々と。しかし、切々と。
「憎しみよりも復讐よりも、ただ生きていたかった。
二人だけで生きていく術を知っていたなら……きっと私は、ソフィを連れて逃げていたと思う。
そんな知恵も度胸も、私にはなかったけれど、ね」
――嗚呼。
聞き終えた青年は、目を閉じる。
死から逃れたくて、だが逃げる方法がわからなくて、少女はただ、スケッチブックに死を殴り描くことしかできなかった。
戦争シェアリングによって奪われた日常を取り戻したかったのに、少女が得ることができたのは、絵の中に写し取った平穏だけだった。
周囲に翻弄されるまま生きざるを得なかった少女の、その悲哀と孤独に、彼はただ慨嘆する。
もっと早く、自分が出会っていれば。
そうすればきっと彼女も――
喉まで出かかった言葉を、しかし彼は飲み込んだ。
すべては終わったことだ。
彼が出会ったとき、彼女はすでに傷つき疲れ果て、忿懣と諦観に囚われた魔女と成り果てていた。
そうならなかった過去を夢想したところで、無意味なことだ。
……そう。すべては終わってしまった。
もう取り戻すことはできない。
だから、自分がやるべきことは――
青年は目を開ける。
視界いっぱいに広がる湖面。そして、それを写し取った少女のスケッチ。
その両方に語りかけるように、彼は口を開く。
「今は、どうだい?」
ふっ、と。
わずかに雰囲気が変わったような気がした。
「……今?」
そよ風に乗って、小さな声が彼の耳に届く。
微笑みながら、青年は言葉を重ねた。
「うん。
今は、
今の君は……
安心できて、いるのかな?」
「…………どういう意味よ。
というか、何を私に言わせたいのよ」
耳に届く声が、少しだけ剣呑になった。
彼は微笑みを深め、穏やかに追い打ちをかける。
「そりゃあ、僕は君の保護責任者だからね。君の今の心境を把握しとかなきゃと思ってさ。
さあ、君自身の言葉で聞かせておくれよ。
今は……どうなんだい?」
言いながら、くるりと振り返る。
新たに視界に入ってきたのは、一人の……少女を脱しつつある女性の姿だ。
3年前に出会ったあの少女と少し面影が似ているが、異なる部分のほうが多い。たとえば身長は10センチほども高く、あの栄養不足気味の身体とは比較にならないバランスのとれた体格だ。すらりとしなやかに伸びた背を、やや大きめの登山用のジャケットに包み込んでいる。
その相手は、内心の不機嫌さを隠そうともせず、鋭い目つきでこちらを睨みつけている――が、あの少女のような警戒や猜疑の色は皆無。少しばかり頬を膨らませている様は、むしろ可愛らしくすらあった。
……と。
彼女はつかつかと歩み寄ってくると、青年が持っているものに手を伸ばす。
「いい加減、返して」
「あ、こら」
拒む暇もなく、あっという間に細い指にスケッチブックをひったくられる。
彼女はそれを大事そうに両手で持つと、ぶつぶつとぼやき始めた。
「……まったく。やっぱり見せなきゃよかった。こんな所まで寄り道することになるなんて」
「いいじゃないか。君の思い出の場所だろ? 僕も見ておきたかったんだよ、どうしても」
「だからって、指導監督にしつこく頼み込んでまで私を地球への出張に同行させる必要は無いじゃない」
「保護観察下でいい子ちゃんを演じ続けるのは疲れるだろ? たまにはこういう思い切った息抜きをしなきゃ」
相手の不平不満を笑顔でいなしつつ、青年は内心でほっと安堵する。
まだ、魔女だった頃の記憶に囚われているのではないか。
その不安は杞憂だったようだ。ちゃんとした返答はもらえなかったけれど、この様子なら、彼女は3年という時間を経て、過去を完全に吹っ切ることができたようだ。
……そう、3年。
あのクワイエット・ゼロの戦いに協力したことによって司法取引が認められ、この少女とその親友がどうにか極刑を免れてから、今日でちょうど3年だ。
「いろいろ、あったなあ」
青年は苦笑を深める。
魔女の指定を外され、未成年犯罪者として保護観察処分が下された少女を、彼は3年前に身元引受人として引き取ることになった。
それからの日々は、今思い返しても、実に苦労と波乱に満ちていた。
なにしろ青年自身、親も頼れる親戚もいない天涯孤独の身の上なのである。身元引受人の資格を剥奪されないためにも、少女へ衣食住を提供し続けるためにも、絶対に失職するわけには行かない。石にしがみついてでも株式会社ガンダムの社員という立場を守り通す必要があった。
これが普通の会社だったなら、生きるために身に着けた演技力を総動員して、青年は大過なく世渡りしていただろう。だが彼の勤務先である株式会社ガンダム、およびその実質的な親会社であるジェターク社は、スペーシアンとアーシアンの間の架け橋となり、友好を深めていくという目的を掲げていた。それゆえ、地球と宇宙の融和を快く思わない連中から目の敵にされる存在でもあった。
早い話、彼の会社は、とにかく敵とトラブルに事欠かないのだ。
結果として、凄腕のパイロットである青年は、何度も会社の幹部たちの護衛として駆り出され、そして何度も危ない目にあう羽目になった。
「僕はテストパイロットだぞ、傭兵じゃないんだ! なのになんで事あるごとにガチの実戦をしなきゃならないんだよ!? 地球のテロ組織だの、オックスアースの残党だの、宇宙議会連合の過激派崩れだの……そういう奴らの相手はもうまっぴらだ!」
一度ならず会社の上層部にそう訴えたものだが、まともに取り合ってもらえたことは一度もなかった。株式会社ガンダムの女社長には「ごめん、今はアンタが一番強いパイロットだから……」と目をそらされ、ジェターク社の副社長には「兄さんの護衛を任されてるんだぞ、むしろ光栄に思うべきだ」と逆に説教をされる始末。
いっそ転職してやろうかと考えたことも一再ではなかったが、こちらは検討するまでもなく不可能な話だった――青年と少女の共通の友人であるソフィ・プロネは、まだジェターク社直営の病院で療養中なのだから。
かくして青年は、ペイル・テクノロジーズ社の支配下から脱して3年が経過した今もなお、金持ちたちの都合に振り回され続けているのであった。
なんとも、人生とはままならぬものである。
「……まあ、とはいえ。
行動の自由はあるし、危険手当はたっぷり弾んでもらってるしで、あのバアさんどもの下でモルモットしてるよりははるかにマシだけどね。
それに」
そろそろ文句の種も出尽くしたのか、彼の連れ合いは、腕組みをしてぷいと横を向いている。
その彼女を――かつてとは別人のように穏やかな雰囲気の少女を、青年は改めて見つめる。
この3年間は、彼女との平和な日常の積み重ねでもあった。
少女のささやかなワガママを受け入れて、殺風景なアパートに花を飾り、家具の配置を変え、生活に彩りと潤いを与える。二人の共同生活は、青年のこれまでの人生の中で最も楽しい時間だった。
育ち盛りの少女にたっぷりと栄養を取らせ、彼女の要望に応えて数々の通信教育を受けさせ、彼女の求めに応じて体力トレーニングをともにこなす。かつて魔女と呼ばれた子供が健やかに変わっていく様を見守る日々は、青年にとって何にも代えがたい思い出となった。
文字通り命がけで稼いできた金の大半が、彼女の養育費と、彼女の友人の入院費用に消えていく。それが何の苦にもならない。どころか、喜びすら感じているほどだ。
以前の、自分が生き伸びることだけを唯一の目的としていた頃の彼であれば、決してありえないような心境の変化だった。
「変わったのは、むしろ僕のほう、なのかもね」
作り笑いではない本物の笑みが浮かぶ。
たしかに仕事では苦労も波乱も多いけれども、間違いなくこの3年間は、この上もなく充実した日々だったと言っていい。
深刻に悩むことなんて、せいぜい一つか二つ、といったところ。
たとえば……
「なんでニヤニヤしてるのよ、こっちをじろじろ眺めながら。何かおかしいことでもあった?」
……気がつけば、少女が怪訝そうな表情でこちらを見ていた。思っていたよりも長く思い出に浸っていたらしい。
青年は肩をすくめつつ、口を開く。
「いや、可笑しいというか……
お互い、3年前から変わったなあ、と思ってさ」
そのまま彼は、何の気なしに続けた。
思えばそれが悪かった。
「そう、3年前の君は」
「……私は?」
「栄養不足であんな痩せこけてたってのに、さ。
今の君は本当に」
「太 っ た っ て 言 い た い の ?」
即座に青年は後ずさった。
首元と頭を覆うように腕でガードする――反射的に命を守るための姿勢を取っていたことに、我に返ってから気づく。だがそうなるのも無理はなかった。眼前の人間から発せられるのは、何度も死線をくぐった彼ですら慄くほどの圧倒的なプレッシャー。相手は棒立ちだというのに、まるでナイフを首筋に突き立てられているかのようだ。
青年は恐怖に震えながらも、恐ろしい形相の少女に向かって言い訳を並べ立てる。
「ちょ、ちょちょっと待て! 違うって! 早とちりだって! 僕はそんなこと言ってないって!」
「昔 は 痩 せ て た ……と笑ったじゃない」
「言葉のアヤだよっ! 昔は不健康に痩せてたけど、今の君は魅力的なプロポーションだねって意味だッ!」
必死の思いでまくしたてると、ようやく少しだけプレッシャーが弱まった。
しかし、まだ相手は根に持っているのか、かつての彼女を思わせるキツい視線で睨みつけてくる。
「……そう言ってくれて嬉しいわ。けど、実のところ図星よ。最近は2キロもオーバーしてるの、目標体重から」
「あ、そうなの? 全然そうは見えないけど」
「ありがとう。太ったこと自体は自業自得。私が油断して甘いものを食べすぎたのが原因。
……でも、あんたが考えなしに毎日のようにスイーツを買って帰ってくるのにも問題があると思わない?」
「いやだって、君があんまり幸せそうに頬張るものだから……
……でもね、重ねて言うけど、太ってるようには全然見えないよ?
こないだの筋トレのときに見たけど、ウエストは相変わらずうっすらと腹筋が浮かんでたし、しっかりくびれもあったし」
などと賛辞を並べて懐柔を図るも、なぜか、相手がこちらを見る視線はますます冷たくなっていく。
その剣幕に圧倒され、青年は口を閉じざるを得ない。
……なんでだ。ちょっといい雰囲気になったと思ったら、なんでいつもこんな感じになっちまうんだ。
僕か? 僕が悪いのか?
そう。数少ない悩みというのが、これだった。
お互いに共同生活にも慣れ、ぎこちなさや不要な遠慮も消えていき、さあこれからもっと親密になるぞ、と青年が意気込みだした頃からの話だ。なぜか会話の途中で、相手が急に機嫌を損ねてしまうのだ。
この事態さえなければ、今頃はきっと二人の仲も、もっと踏み込んだものになったに違いないであろうに。
何故だ。何故なんだ?
防御姿勢のまま苦悩する青年の脳裏を、ふと、半年ほど前に会社の後輩から受けたダメ出しがよぎる――
『先輩って普段はかっこいいのに、ふとしたときにデリカシーのない発言が出ちゃうんですよ。それじゃ彼女さんに嫌われちゃいますよぉ?』
ゆるふわな口調とは裏腹の、なかなかに手厳しい苦言だった。
そのときの青年は、ははは気をつけるよ、と笑ってやり過ごしたものだが。
……あれ? あのリリッケの指摘、実は正しかったのか?
本格的に悩み始めた青年の脳裏を、さらに別のセリフがよぎる――先日ソフィ・プロネを見舞った際、たまたま二人きりになったタイミングで、ソフィ当人からこっそりと耳打ちされた言葉。
『エランってさあ、たまに一言多いよ?
もうちょっと気をつけなよ、ノレアってば繊細なんだから』
「……君にだけは言われたくないんだけど!?」
青年はわりと本気で憤慨したのだが、ソフィは構わず続けてきた。
『よく考えてみなよぉ。ちゃんとお互い好意を伝え合った上で、ノレアと3年も同居してるんだよ? そのわりに大して進展してないじゃん。おかしいと思わない?』
「い、いや……
それは僕の仕事が忙しいせいでもあるし。
アイツが成人するまでは……まあその、清い交際であるべきだ、とも思ってるし……」
ごにょごにょと言い訳を返すも、暇を持て余した入院患者は容赦なかった。
『そうかなあ? ホントにそうかなあ?
日常の何気ない一言が少しずつ相手を傷つけ、だんだんと距離感が広がり、ついには破局に……
こういう展開、こないだ読んだコミックでも見たよぉ?』
「うぐぐぐぐ……
ま、漫画と現実を一緒にするなよなっ!
暇にあかせて色々本を読んで知識だけは身につけてるみたいだけど、君、恋愛経験なんて無いだろっ!?」
さすがに頭にきた青年は大人気なく怒鳴ってしまったが、ソフィは堪えた様子もなく。
ただニヤニヤと笑って、
『恋愛経験がないのはエランも同じでしょ。どーせソフィが初恋のくせに』
とどめの一撃を加えてきたのだった。
……完全に図星だったので、青年はぐうの音も出なかった。
そして今、二人の指摘を念頭に置きながら、これまでの思い出を真面目に見返してみれば――心当たりが無いでもない。
たとえばシュークリームをお土産にしたとき。食べ方がハムスターみたいで可愛いと笑ったら、ぷいとそっぽを向かれてしまった。
相手のトレーニングを手伝ったとき。ふとももから膝裏にかけての筋肉のつき方を褒めたら、あんまりジロジロ見るなと後ろ足で蹴られた。
相手が作ってくれた夕食を頬張りながら「うーん、これが愛妻料理……なんてね♪」なんて冗談を飛ばしたら、真っ赤になった相手から丸一日ほど口をきいてもらえなかった。
そのときは他愛ないやり取りのつもりだったのだけど、言われた方にとっては噴飯もののセリフだったのかもしれない。
もしかして、いい雰囲気というのはただの思いこみで、相手の感情はとうに冷え切っているのかもしれない。
ぞっとするような想像がちらついて、青年は泡を食った。
防御姿勢から一転して直立し、頭を下げ、大声で謝罪を述べる。
「ご、ごめんっ! 僕が悪かった! 無神経だった!」
「……っ」
青年の態度の急変に意表を突かれたのか、少女は目を白黒させつつ後ずさる。
だがすぐ気を取り直し、ふう、と息をついた。
そのまま彼女は、青年の背後の方を指差す。
「……もういいわ。わかった。
とりあえずあんたは、あのへんで景色でも眺めてて。
私はしばらく、これを手直ししてるから」
そう指示する少女の左手には、青年から奪い返したばかりのスケッチブック。
青年が開いていたのと同じページを開き直すと、すぐにそちらに目を落とす。
「お気に入りの絵だったけど、いま見直すと色々と気に食わないところがあるから……ちょっと手を入れるわ。
10分くらいで終わるから、その間、あんたは一人で反省してて」
「……はい」
青年は力なく返答し、少女の指示したとおりの場所へ、とぼとぼと向かっていく。
どうやらこの場はなんとか収まりそうだ。
だがこのままでは、いずれ完全に見捨てられる日も来てしまうかもしれない。
唇を噛み締めた青年は、今までの自分の言動を、真剣に反省し始めたのだった。
――――――
数年前に自分自身が書いた風景画を、注視する。
完成したときには正確な写実ができたと満足していたけれど、今見直してみれば、あちこちに単純なミスや歪み、稚拙な省略が散見される。やはり素人の手習いでしかなかったのだと痛感させられる。
そしてそれ以上に強く呼び起こされたのは、この絵に筆を走らせたときの自分自身。
『逃げたかったんだろ? この場所に。
ガンダムなんてさっさと捨てて、戦いから遠く離れて、こんな場所で静かに暮らしたかった。
……でもあのときの君には、独りで生きていく方法すら分からなかった』
図星だった。
腹立たしいほどに的確な指摘だった。
スペーシアンへの憎しみを反芻していたのも、テロの大義を叫んでいたのも、死をスケッチブックに殴り描いていたのも……
結局は、ただの八つ当たりだったのだろう。
危険な戦場から逃げられないことへの。
ガンダムに乗って寿命を削っていることへの。
そして何より、逃げたいと思っているのに、何もできない無力な自分への。
今ならば、それがわかる。
なぜなら、今の自分は――
「…………」
無言のまま顔を上げると、しょぼんと肩を落とした青年の背中が見える。
彼から先ほど投げかけられた質問を思い出す。
『今は、
今の君は……
安心できて、いるのかな?』
当たり前でしょ、バカ、と。
相手の耳には入らないよう、口の中だけでつぶやく。
命の危険はなく、食べたいだけ食べられ、行動にそれなりに制限はあるけれど、自主的に勉強もトレーニングもできる。
こんな環境は、3年前は絶対に考えられなかった。
地球の孤児が、ガンダム乗りの元魔女が、スペーシアンたちに囲まれながらそんな境遇を得ることができたのは、ひとえに彼のおかげだ。
彼が、命がけで自分たちを守ってくれるおかげだ。
『黒衣の騎士、って呼ばれてるんだってさ』
先日ソフィを見舞った時、彼女からそう言われたのを思い出す。
彼が病院の手続きのために席を外したタイミングでのことだ。
『地球との融和を掲げるジェターク社と、地球との和解のための賠償実行委員会を護衛する部隊のエース。
どんな敵も打ち払い、あらゆる襲撃を最小限の被害に留める黒いモビルスーツ。
もうSNSだけじゃなくて、テレビとかでも話題になってるよ。凄いね、エランのやつ』
にひひ、と笑った後で、ソフィは急に真剣な表情になった。
こちらに顔を近づけると、小さな声で耳打ちする。
『……すごく危ない橋を渡ってるよ、アイツ』
そう。
その通りだ。
彼は隠し通しているつもりなのだろうけれど、ソフィに言われるまでもなく、私もうすうす感づいている。
彼は今も、命の危険にさらされている。3年前までの自分たちと同じように。
そしてそんな彼に対して、今の自分は何もしてやれない。ただの重荷だ。彼の厚意に甘えているだけだ。
無言のまま私が沈み込んでいると、ソフィは気遣うように続けてきた。
『ねえ、ノレア。
エランがそんな危ないことしてるのは……わたしのせいでしょ?
あんた一人を守るためなら、エランはそんな真似しなくていいんでしょ?
なら、わたしのことは見捨てていいよ。自分のことは自分で何とかするから。
ノレアはアイツを連れて、二人でさっさと地球に逃げなよ』
バカ、とソフィの頭を小突く。
それから相手の頭を抱きしめ、告げる。
「私はあんたに命と心を救ってもらったのよ。あんたのことは絶対に見捨てない。
たとえ彼から見捨てられることになっても、ね」
それは嘘偽りのない本心。
3年前、否、それよりずっと前から、ソフィは私に寄り添い、私が生き延びるのを助けてくれた。
だから私は、何があろうと、彼女を見捨てるつもりなんて無い。
するとソフィは、小さく笑った。
ホントにノレアは真面目だねえ、と。
そして、
『でもノレアの優先順位がそれじゃあ、困るんだよなあ』
そうつぶやいたあと、急に話題を変えてきた。
私に頭を抱かれたままの態勢で、
『そういやさ、ケッコン、まだなの?』
そんなことを尋ねてくる。
ケッコン?
……結婚?
……まだ、って?
意味がわからず首を傾げるも、我が友人の舌は止まらない。
『だからさ。まだケッコンしないの?』
「……誰と誰が?」
『決まってるでしょ?
ノレアと、エランだよ』
「……っ!?」
ばっ、とソフィの頭を離す。
顔を引きつらせながら後ずさる。
そんな私の様子を面白がるように眺めつつ、ソフィはここぞとばかりに早口で畳み掛けてくる。
『最近見舞いに来る株ガンの連中、みんなノレアとエランの話題で持ちきりだよぉ?
そろそろ将来について二人で真剣に話し合うべき時期です! とか力説してた。主にリリッケが』
「そ、そ、そんそんそんなの、は、早っ……」
『そんなの早すぎるって? んなワケないでしょ。
もうアレだ、エランとデートして夜景見て気分盛り上げて、勢いのままにそのへんの茂みでキスしたりイチャイチャしたり、あとイケナイコトとかしてるんでしょ?』
「ま、ままま、まだっ、まだ、手っ、手ぇ」
『まだ手ぇ繋いだだけだってぇ? ……ちえっ、ホントにろくに進展してないじゃん。エランの甲斐性なしめ……』
渋い顔で舌打ちをした直後、ソフィはまあいいや、と肩をすくめた。
腰砕けになっている私に向けてぐいっと身を乗り出すと、
『とにかくさ。ノレアはエランが好きだし、エランだって本気でノレアが好きなんだよ。
だからさぁ、ノレアがケッコンしようって言えば、すぐ成立するよ?
なら、すればぁ?』
恐ろしいほどのド直球を投げつけてきた。
他人が言いにくいことをズバズバ遠慮なく指摘するのが得意なソフィからの、久々の剛球、かつビーンボールだった。
そのときの私は――
怒ってごまかすことも、黙り込んで有耶無耶にすることもできたと思う。
我が親友といえど、いくらなんでも不躾にもほどがある質問だったからだ。
けれど、もうひとつ、長い付き合いでわかっていることがある。
ソフィが急に馬鹿げたことを口にするとき、こいつは案外、相手のことを真剣に心配していたりするのだ、と。
「…………」
だから私はいったん目を閉じ、気持ちを落ち着け、自分自身の思考を整理する。
――もちろん、彼が好きかと問われたら、好きだ、と答える。
自分たちを保護してくれるから、という理由だけではなく。
決して態度には表そうとしないけれど、常にこちらの安全と安心を気にかけてくれている。そんなさりげない優しさが、好きだ。
……意外と子供っぽい思考回路とか、見透かしたような態度とか、からかいの領域を踏み越えたセクハラ発言とか、まあ、色々と気になる点はあるけれど……
そのあたりはだいたいソフィと似たようなものなので、こっちもとっくに耐性はついている。
だから、彼とケッ…ケッコ……いや、ええと、つまり。
共に……そう、彼と共に生きたい、という願望も、確かに、ある。
自分の罪とか、ソフィの治療とか、法律とか、現実にはいろいろと問題はあるけれど。
そういったしがらみを脇に置けば――もちろん、ある。
ある、けれども。
考えを巡らせ、自らの願いに筋道をつけ、頭の中で言葉の形に変換してから。
私はソフィをまっすぐに見つめ直し、首を横に振った。
「まだ、駄目。だって今の私は何もできない子供。足手まとい。
……あいつが必死で稼いできたものを、ぬくぬくと安全な場所で消費しているだけだから」
ジェターク社や賠償実行委員会の尽力によってようやく解体に向かいつつある、戦争シェアリングというシステムがある。
それはスペーシアンが兵器を売るために地球に小規模な紛争を強いる制度。地球に殺し合いを強制しつつ、地球から金を巻き上げ、宇宙という安全な場所でぬくぬくと浪費する構図だ。
かつて私は、それを何よりも憎悪した。
だからこそ、今の私は、今の彼との関係を受け入れることができない。
こんな自分のままでは、彼と結ばれたいなんて口が裂けても言えない。
「自分の食い扶持くらい稼げるようになって、足手まといじゃなくなったら。
あいつの隣に、自分の足で胸を張って立てるようになったら。
そのとき私は、あいつに告白できる……と思う」
その答えを聞いたソフィは、もう一度笑ったものだ。
呆れたように、感心したように。
『ホント、ノレアは真面目だねえ』
そして私の肩を抱いて一言、がんばれ、と励ましてくれたのだった。
数日前の回想から抜け出して、もう一度、数年前に自分が描いた絵に視線を落とす。
稚拙で、未熟で、必死さだけが先走った風景画。
決して叶うはずのない願いを込めたスケッチ。
「…………」
ちらりと目線だけで青年の方を見やると、まだ彼は肩を落としたままだった。
情けなくも気落ちしたその背中を、まだ自分より遥かに高くたくましい背中を、瞳に焼き付ける。
私は視線をスケッチブックへと落とすと、ジャケットから取り出した消しゴムで絵の一部を消した。
空白にしたその場所に、新しい線を走らせ始める。
かつて願いを込めた絵に、新たな願いを乗せていく。
背中を一つ。
そして、もう一つ。
5分ほどで仕上げて、私はスケッチブックを閉じた。
まだラフの段階に過ぎないけれど、今はそれでいい。
鉛筆とともにジャケットの内側にしまい込んで、私は前へと歩き出す。
彼の横に、並ぶ。
「待たせたわね。行こう」
「えっ、あっ」
意表を突かれて驚いたのか、彼はびくりと身をすくませた。
そして、まじまじとこちらを見つめる。
真剣な表情で、尋ねてくる。
「ね、ねえ。その、悪いんだけどさ……聞いていい?」
「何?」
「今までの僕の発言ってさ……何が悪かったんだ? 僕としては、心から君のことを褒めているつもりだったんだけど……」
「……は?」
小声で、呻く。
少しだけ考え込み、そして、思い至る。
つまり彼は、わざとこちらを怒らせようとしたり、挑発したりしているわけではないのだ。
こいつからたまに飛んでくるデリカシー皆無のセリフは、彼にとっては、特に悪気のない通常の表現だったのだ。
「……そっか。
こいつ、ソフィとは違うんだ」
己の誤解を悟って、私は頭を抱えた。
3年も一緒に暮らしていたのに、どうも私は、彼のことをきちんと理解できていなかったようだ。
無意識のうちに、こいつの性格を、ソフィと同一カテゴリーに分類していた。
口数の多さとか、コミニュケーション能力の高さとか、いい加減さとか、協調性のなさとか。
あとは当人たちから聞いた、育った環境の劣悪さとか。
二人が似ている部分は多くて、だから彼も他人の感情など気にしない図太いヤツなのだと思い込んで。
彼が何か妙なことを口走ったら、ソフィに対してやるように、こっちもキツめの態度で応じていた。
けれどもそれは、大きな間違いだったらしい。彼の失言は、異性の気持ちを推し量る経験の不足に由来するものだったのだ。
女っ気のない戦場暮らしだったという彼の過去に思いを巡らせれば、その結論にはすぐに辿り着けただろうに。
自分の迂闊さをしばし反省した後、私は顔を上げた。
心配そうにこちらを見つめる彼に右手を伸ばし、左手首のあたりを掴んで、歩き始める。
「えっ……? あ、あのっ、これって……?」
狼狽える彼に構うことなく、私は告げる。
「黙って歩いて。戻りながら教えてあげるわ」
そういえば、ソフィは先日の別れ際、こうも言っていた。
『一つだけアドバイス。
エランにもうちょっと優しくしてあげなよ。
アイツ、ノレアが思ってるより大分バカだよ?』
その言葉の意味が、今になってようやく理解できた。
彼にはきっと、私が色々、手取り足取り教えてやらなければならないのだ。
だから私は、彼の隣を歩きながら、
「まず第一に。
女の子には迂闊に体型の話はしないほうがいいわ。いくら褒め言葉でも、ね」
真面目くさった顔つきで、女心のレクチャーを始めたのだった。
――決して得られるはずのない平穏を、与えられた。
スケッチブックに描き殴った、決して叶うはずのない願いは、叶った。
だから私はもう一つ、スケッチブックに願いをかける。
湖畔の絵に、二つの背中を――前を見て並んで歩く、彼と私の姿を付け足して。
彼から与えられるだけでなく、彼に与えられるように。
彼に守られるだけでなく、彼を守れるように。
彼の足りぬところを、私が補えるように。
そして、もし。
彼がそうしてくれたように、私が彼の憩いとなることができたなら。
そのとき私は、彼に告白しよう。
残りの人生を、ともに分かち合ってください、と。
レクチャーを続けながら、私は一人、そう誓った。
――――――
さて。
この後、エラン・ケレスと呼ばれる青年は、ノレア・デュノクというコードネームを持つ少女とともに、地球の出張先に向かい。
現地で進行する陰謀に、心ならずも巻き込まれる羽目に陥る。
「ふざけんなミオリネ! 今は彼女が一緒なんだぞっ!? 僕たちは一足先に帰らせてもらう!」
「その帰るための手段である軌道エレベーターが、テロの標的になってるのよ!?
なんでもいいから時間を稼いで頂戴! ラウダに頼み込んで増援を出してもらうから、到着までどうにか保たせて!」
「そんな仕事を押し付けるなっての! テストパイロットと保護観察中の一般市民だぞ、こっちは!」
会社の上司に悪態をつきつつも、青年は少女とともにテロの阻止に乗り出すこととなるのだが――
それはまた、別の物語である。