「この先が総裁の自室になります。ここからは一人でお願いします」
「あ、はい」
事務役と思しき中年の女性に一礼され、スレッタ・マーキュリーは戸惑いながらも頷きを返す。
宇宙港の受付でミオリネに会いたいと願い出た彼女は、20分後には目的の場所のすぐ前に通されていた。どうも、自分が来たらここに案内するよう誰かが手配してくれていたらしい。
「グエルさん、かな……?」
特に理由もなく、そう直感する。
そのまま少女は、一人で廊下を歩き始めた。
ほどなく、閉ざされた扉の前にたどり着く。
この先にミオリネがいる。先程の中年女性が説明するところによると、ここ半日ほどはずっとこの中に引きこもり、婚約者であるグエルの呼びかけにも返事がないらしい。
そんなミオリネに対し、自分が伝えるべきことは何か。
未だ心の整理がつかないながらも、スレッタは扉の前に正座して、その向こうへと語りかけ始めた。
「ミオリネさん、スレッタです」
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長さ60センチ、幅50センチはありそうな分厚い打撃用ミットを示しつつ、カミルは説明を始めた。
「ルールは簡単。防御側はこのビッグミットを持って構える。攻撃側はそのミットに向かって突きなり蹴りなり打撃を放つ。と同時に、相手に向かって文句や罵倒を好きなだけ言うことができる。防御側は一切反論してはならない。
ただし制限時間15秒を過ぎたら攻守交代だ。攻撃側だったほうがミットを構え、相手の打撃と文句に黙って耐えることになる。
この攻防を、二人のどちらかの体力が尽きるまで繰り返す」
な、簡単だろ? と笑うカミルに、トレーニングシャツに着替えたグエルは怪訝そうな表情を向ける。
「本当にこんなのがジェターク寮の伝統なのか……? 初耳なんだが」
「俺は一年の頃、このルールで先輩たちに何度か喧嘩を売られたぞ。体力差で全員返り討ちにしたら誰も挑んでこなくなったが。今から思えば、あの先輩たちが後輩を痛めつけるために適当にでっちあげた嘘八百かも知れんな」
「おい」
「だが、今のお前たちには最適な方法だ。そうだろう?」
カミルは、同じくトレーニングシャツに着替えたラウダに水を向ける。
今まで黙りこくっていた弟は、静かに闘志をみなぎらせ、顔を上げた。
「そうだね、カミル。確かに今の僕にはぴったりだ。これなら兄さんを怪我させずに殴り倒して、翻意を促すことができる」
その手には既にオープンフィンガーのグローブが装着されている。弟のほうは完全に臨戦態勢だった。
カミルはグエルに視線を戻す。
「ラウダはああ言っているが、お前はどうだ?」
「…………」
兄はしばし険しい表情で沈黙する。
だがやがて、カミルの持つミットを受け取ると、
「やってやるさ。言うべきことを言って、その上で返り討ちにしてやる」
弟に向けて構えを取る。
二人の準備が整ったことを見て取ったカミルは、その場から5歩離れると、制服のポケットから耳栓を取り出した。
「俺はこいつを装着するから、お前たちの会話を聞くことはない。お互い体力の続く限り、好きなだけ言いたいことを言い合ってくれ。
……では、ラウダの先攻で開始だ。舌は噛むなよ?」
自身の個人用端末をタイマー代わりに、カミルは二人に試合開始を宣告する。
二人の兄弟の腹を割った話し合い――否、話し合うついでの兄弟喧嘩が、始まった。
―――――――――――――――――――
「自分で選んで、決めて……そのせいでたくさんの人が傷ついて……死んじゃって……。
あんたを母親から引き離したことも、全部……間違ってた。
私はもう、間違いたくない……」
扉の向こうからのミオリネの返答。それを受けてスレッタは、下を向く。
間違い。
脳裏をよぎるのは、この学園にやってきてからの数カ月間。
たくさんの出会いがあった。得るものもたくさんあった。けれど、
「わたしも、たくさん間違えました。
エランさんやグエルさん、ソフィさんとの決闘。……プラント・クエタ。
きっと全部、間違ってた。決闘の前にできることはあったはずなのに、戦って勝てばぜんぶうまくいくって思い込んで、安易な方法を選んじゃって。それで取り返しのつかないことに……」
エランは決闘に負けて、会社に処分され、命を失った。
グエルは立場を失い、家出し、行方不明になった。その後のジェターク家とジェターク社を襲った不幸を、スレッタはペトラから耳にしたばかりだ。
ソフィはデータストームによって重篤な後遺症を負った。もし意識が戻ったとしても、元の健康な身体は取り戻せないだろう。
さらには、プラント・クエタ。エアリアルの手で潰してしまった人のことは、今更語るまでもない。
「勝ち続けて、みんなに喜んでもらえて、有頂天になってたんです。
お母さんに後押ししてもらって、誰でも守れる正義の味方にでもなったつもりだったんです。
悪い人相手なら、殺しても仕方ないんだって……そう、思いこもうとしてたんです」
そんな馬鹿げた話はない、ということを、スレッタはよく知っていたはずだった。
殺された人間は、もう二度と生きることはできない。死んでしまった人はもう二度と元には戻らない。
そして――人はみんな生きたがっているのだということを、水星で何度も目の当たりにしていたのに。
「戦う前に話し合えば回避できたかもしれないのに。
もっと手を尽くせば、お互いにとっていい結果にできたかもしれないのに。
わたしが簡単な道ばかりを選んで進んだから、たくさんの人が傷ついて……死んでしまった。
そして、それはもう二度と元に戻せない。償いようがない……」
扉の向こうから返答はない。
でも、きっとミオリネは無言で聞き入ってくれている。そう信じてスレッタは、言葉を続ける。
「……今、お母さんとエリクトが、わたしと同じ間違いをしています。
どんな被害が出るかわからないのに、大勢の人をデータストーム領域の中に取り込もうとしている。たくさんの人を傷つけて、死なせて、無理矢理に、強引に。
わたしはそれを止めたいんです。それがきっと、わたしのやるべきことだと思うから。
……今までやるべきことをやらずにたくさんの人を傷つけてきたからこそ、絶対に、今度こそ、手を尽くして止めなきゃいけないって思うから。
だから、わたしはクワイエット・ゼロに行ってきます」
そして、とスレッタは付け足す。
「ミオリネさんにも、それを助けてもらいたいんです」
いちばん言いたかったことを言い終えて、スレッタは口を閉じた。
正座の姿勢を維持したまま、返答を待つ。
扉の向こうから答えが帰ってきたのは、きっかり10秒後だった。
「……わかってる。私もそれをやらなきゃいけないって……
やるべきことをやらなきゃいけないって、わかってるの。
でも、怖い。また失敗したら、また大勢の人が死んでしまう。私はそれに耐えられない……」
スレッタは身を乗り出した。
「わたしも、怖い、です。死んじゃうかも知れない、失敗してしまうかも知れないって。
わたし一人だったらきっと、ここに来る勇気も持てなかったと思います。でも……」
みんなが来てくれた。自分を助けたいと、大勢の人がこの場所に集まってくれた。
胸の中に温かいものが満ちるのを感じながら、スレッタは思い起こす。
君を一人で戦わせはしない。地球寮の皆が、そう言ってくれた。
これは私たちの戦いでもある。だから一緒に戦う。ジェターク寮の人たちが、そう言ってくれた。
恩がある。利害も一致する。それに、君も放ってはおけないよ。エランの影武者は、そう言ってくれた。
ソフィを救って頂いた恩を、ここで返させてください。ノレア・デュノクは、そう言ってくれた。
私は必ずあなたに償う、だから必ず生き残って。ベルメリア・ウィンストンは、そう言ってくれた。
「みんなが来てくれた。
みんなのおかげで、わたしは今、お母さんを止めるための勇気を振り絞ることができます」
自分は一人じゃない。そして、ミオリネも一人じゃない。
今のスレッタは、そう確信することができる。
「だから、わたしと一緒に戦ってください。
わたしがミオリネさんを支えます。だからミオリネさんも、わたしを支えて……くだ、さい」
最後の部分は、言葉にするのが気恥ずかしくて、尻すぼみになってしまった。
もう一度言い直そうかとスレッタが思案していると、ミオリネの声が帰ってきた。
覚悟を決めた声だった。
「……10分だけ待って。準備を整えるから。」
ぴったり10分後、扉が開いた。
そこに立っていたのは、一部の隙もなくスーツ姿で固めたミオリネ。
戦闘準備を終えた少女は、凛とした声で告げる。
「行くわよ、スレッタ。私たちのやるべきことを果たすために」
「はい! ミオリネさん!」
力強く返答したスレッタは、ミオリネとともに駆け出したのだった。
―――――――――――――――――――
「あの女に……ミオリネに誑かされて、兄さんは変わってしまった!
ガンダムに手を出し、地球に降りて暴徒と接触し、そして僕らを遠ざけた!
いい加減ミオリネから離れろ、兄さん!」
怒声とともにラウダはミットに何度も拳を打ち込む。猛烈な連打だったが、ほどなく制限時間を告げるタイマーの音が鳴り、やむなくラウダは手を止める。
呼吸を乱す弟とは対象的に、グエルは何事もなかったかのような顔だった。そのままラウダに向けてミットを放り投げる。
舌打ちした弟がミットを受け取って構えるや否や、今度は兄の打撃が深くミットに突き刺さった。
その拳は重く、一撃でラウダはたたらを踏む。
「全部お前の誤解だ、ラウダっ!
シュバルゼッテの製造を命じたのは父さんだし、地球とはいずれ和解しなきゃならん! ミオリネがいなければ俺一人でも地球に降りていた!
そして、お前らを遠ざけた理由は……っ!」
勝負がついてしまうかと思えるほどの重い連打が、しかしそこで止まる。
兄が言葉に詰まっている間にタイマーが鳴る。弟はすぐさま兄にミットを投げつけ、ここぞとばかりに反撃に出た。
「僕たちを遠ざけた理由はなんだ!? ミオリネじゃないというなら何なんだ!
僕たちが力不足だからか!? それとも、」
ラウダは兄の肩を両手で掴んだ。
首相撲の要領で相手の身体を固定し、ミットに向けて膝蹴りを放つ。
「兄さんが、父さんを殺したからか……!?」
「…………っ!」
瞬間、兄の顔が苦痛に歪んだ。
と同時に、みたびタイマーが鳴る。
15秒が過ぎたというのに、グエルは歯を食いしばり、ミットを持ったまま動かない。
弟は攻撃の手を止め、兄の肩から手を離した。
「どうした、兄さん。もう体力が尽きたのか、それとも反論できないのか」
「…………」
逃げるように下を向くグエルに、ラウダが言葉で畳み掛ける。
「答えろよ! 父さんを殺したから、それが後ろめたくて何も言えないのか!?」
直後、ラウダの手元にミットが飛んできた。
それを構えるよりも早く、激昂した兄が踏み込んでくる。
「何も知らないくせにっ! 知ったような口を聞くなぁ!」
ラウダが胸の前で持っているだけのミットに向けて、兄は何度も何度も右の拳を突き立てた。
「あの時……プラント・クエタで! 俺はテロリストから逃げるために敵のモビルスーツを奪った!
そこに、テロリストを討伐するためにディランザに乗った父さんがやってきた!
ジャマーのせいで通信が繋がらず、相手が誰かを確かめることができないまま、俺たちは殺し合いになっちまったんだっ!」
「…………!」
「俺は怖かった……! 殺されることが怖かった。殺すのはもっと怖かった!
でも、死ぬのが怖くて、死にたくなくて、無我夢中で反撃して!
そっ、その結果が……っ!」
直後、グエルは後ろから羽交い締めにされた。
カミルが大声でグエルに怒鳴る。
「タイマーが聞こえないのか、もう止めろ! 15秒はとっくに過ぎてるぞ!」
その声で、やっとグエルは我に返る。
激昂しすぎて周りが見えなくなってしまったようだ。ラウダを見やれば、ミットを構える暇もないまま無茶苦茶な連打を浴びせられた弟は、衝撃を受け止めきれずに苦悶の表情を浮かべている。
だが兄が謝罪の言葉を口にするより早く、弟は顔を上げた。
余裕を装う笑みを浮かべ、ミットを胸の前で構え直す。
「カミル、僕はどうってことないさ。今の兄さんはとても弱いからね。
さあ、兄さんを離してあげてくれ。ハンディキャップとして、もう少し殴らせてあげるよ」
無論その言葉は、耳栓をしているカミルには届かない。グエルに聞かせるために――兄を挑発するために、あえてラウダは口にしたのだ。
「なんだと……!?」
それを悟りながらも、グエルは無視できない。カミルをはねのけ、再びラウダに襲いかかる。
「ラウダ! お前は知らないんだっ! 殺されることの恐怖も、殺してしまうことの恐怖も!
……人を殺してしまう罪も!」
もはや完全に頭に血が上っている。
一切の手加減のないフックの連打を、ミットの上から弟に叩きつける。
「人を殺してしまえば……許されないんだ! 決して、絶対に!
だって、殺してしまえば、その人は戻ってこない……償いようがないんだっ!
ましてや俺は、父さんを……俺たちの父さんを殺してしまったんだぞ!?」
全力で叫ぶグエルの瞳に、涙が浮かぶ。
「俺はもう、許されない……絶対に許されない。
みんなからも……お前からも、許してはもらえない……」
そして、兄の手が止まった。
フックを打ち込んだ体勢のまま、呆然と涙を流す。
「そうだ。許されないのが怖くて、憎しみを向けられるのが怖くて、俺はお前たちを遠ざけた。お前に打ち明けることができなかった……」
グエル・ジェタークは悟った。
親しい人たちを危険から遠ざけたかった、というのは本当だ。
自分以外の誰にも死んでほしくない、というのも、間違いなく本当だ。
だがそれよりも、自分は怖かったのだ。嫌われるのが、憎まれるのが、断罪されるのが怖かったのだ。
だから皆を遠ざけた。
そんな理由で皆を遠ざけたという事実を、認めたくなかった。
けれども。
殴り、叫び、感情の限りを尽くした果てに、認めざるを得なくなった。
やっと自分は、自分自身の本心と向き合えたのだ、と。
ああ。
だから、もう逃げられらない。逃げてはいけない。
弟の断罪を、皆の憎しみを、自分は受け入れなくてはならないんだ――
直後、兄に向けてミットが放り投げられた。
反射的に受け取ったグエルを、弟が睨みつける。
「構えろ、兄さん。ここからは僕が言いたいことを言う番だ」
直後にラウダは、全力のストレートをミットに打ち込む。
それは、これまでのどの攻撃よりも重い一撃だった。
「誰が許さないだって!? 誰が誰を憎むって!? 兄さんは僕をそういうふうに見ていたのかっ!?」
ふざけるなよ! 兄さんがどんな罪を犯そうとも、この宇宙の全てが兄さんの敵に回ろうとも、僕は兄さんの味方だっ!
兄さんと初めて会ったときから、ずっと……ずっと僕は、兄さんの味方だ!」
なぜ信じてくれないのか。なぜ頼ってくれないのか。なぜ打ち明けてくれないのか。
今まで溜めに溜め込んできた激情のすべてを乗せて、ラウダはミット越しに兄を打ち据える。
「泣くほど怖かったんだろ!? 泣くほど辛かったんだろ!?
だったら、話せよ! 頼れよ! 相談しろよ!
僕は、僕らは、いつだって兄さんが相談してくるのを待っていたのに!」
左腕で兄の肩を掴み、ラウダは右の拳を打ち付ける。
そうしながら、ラウダの目にも涙がにじむ。
「兄さんは隠してるつもりかも知れないけど、兄さんは本当は弱いんだ! 繊細なんだ!
兄さんは独りじゃ無理だ……僕らやジェタークの皆の助けがなけりゃ、兄さんはやっていけないんだ!
兄さんは弱いから……だから僕らは皆、兄さんを助けたいと思ってるんだ!」
そして弟は右手でも兄の肩を掴み、腕力だけで強引に引き寄せた。
涙を流す兄を真正面から見据え、告げる。
「お願いだから言ってくれよ……! 助けてくれって。力を貸せって。
頼むから独りで泣かないでくれよ……!
僕を孤独から救ってくれた人が、誰の助けも借りられずに泣くなんてやめてくれ……!
頼むよ、兄さん……っ!」
見開いた目から、弟は大粒の涙をこぼす。
グエルもまた、ミットを取り落とし、両手で顔を覆った。
やがて、絞り出すように己の願いを吐き出す。
「……助けてくれ、ラウダ。
俺だけじゃクワイエット・ゼロを止められない。皆を守れない。
俺は、大切なものを守りたいんだ……」
ラウダは兄を抱きしめた。
かつて自分が、初めて出会った兄にそうしてもらったように。
「任せてくれ、兄さん。
兄さんのために、みんながここに集まってくれた。
だからなんとかなる。絶対になんとかしてみせる」
あとは両者とも言葉にならなかった。ただお互いを抱きしめ、感情の赴くままに涙を流す。
――兄弟喧嘩は終わった。兄弟のすれ違いも、また。
ひとまずの区切りがついたことを見届けて、ジェターク兄弟を見守ってきた男は、安堵の吐息を漏らした。
もはや必要のなくなったタイマー機能を切り、端末を制服のポケットに戻す。
泣き続ける二人を横目に耳栓を外しつつ、カミルはふと、苦笑したのだった。
やれやれ。本当にお前らは、支え甲斐のある兄弟だよ。