「Seele(ドイツ語)」=魂
風邪をひいてから一週間が経ち、私の喉は次第に調子を取り戻していった。
両親の前でもまずまず話せるようになり、彼らは少し安堵したようだった。母は「やっぱりあのソフィア・ガーデンに行ったのが良かったのよ」なんて喜んでいたが、ほんとうは喉の調子が悪かっただけ、とは言えず、私はそのことについては口を閉ざしていた。
智坂先生との面談の効果があったどうかとは別に、私はソフィア・ガーデンのことがずっと気になっていた。いや、正確に言えば、ソフィア・ガーデンのやってきたあの少女のことが気になっていた。
不破さん、と呼ばれていた少女。フィッツのことが、おそらく視えていた少女。私はもう一度あそこに行って、彼女に会わなければならない。この運命的な出会いが何をもたらすのか、この目で確かめなければならないのだ。
日曜日。朝食を食べ終わると、私はソフィア・ガーデンに行ってくる、という旨を母に伝えた。母はいたく喜んで、お弁当まで持たせてくれた。
天気が良ければフィッツを荷台に乗せて、自転車でソフィア・ガーデンに行こうと思っていたのだが、あいにく外は雨模様だった。鉛色の空からは遠慮がちに雨粒が落ちてはアスファルトを湿らせ、黒い斑点模様を地面につくっていた。空気には草の匂いと埃っぽい土の匂いがまじりあっていて、間もなく来る初夏の予感がそこら中に漂っていた。
もう五月だ、と私は思った。
15分ほどバスに揺られてソフィア・ガーデンにたどり着き、私たちはドアを開けて中に入ろうとした。けれど、ドアは胡桃の実のように固く閉ざされていて、どのようにも開かなかった。鍵が閉まっているようだった。
「あれ、早すぎたかな?」
先週来た時もこのくらいの時間だったけどな…と思いつつ、スマホの時間を見る。やはり時間は10時30分。カフェやレストランだって開いている時間だ。
「ねえ、あかり。これ…」
フィッツが指す方を見てみると、そこには張り紙が貼ってあった。
「本日祝日のため休業…。あ、そっか。いまゴールデンウィークだ」
「ゴールデン・ウィーク??」
一年に一回ある長いおやすみだよ、と私は言う。すっかり忘れていた。私があまりに厭世的であるために、世の中が大型連休の真っ最中であることに気付かなかったのだ。どうりでバスが混みあっていたわけだ。
…さて、どうしたものか。
私はソフィア・ガーデンのドアにもたれかかって空を見上げ、これからどうしようか考えた。空はますます濃い鉛色になり、雨を溜め込んだ雲が低く垂れこめていた。雨足が強まりそうだな、と私は思った。
せっかくバスに乗ってまで外に出て来たのに、何もせずに帰るのはもったいない気もする。けれど天気のことを考えると、何をするにも気が重くなってしまう。
「あかり、これからどうするんだい?」と、フィッツがぱらぱらと落ちてくる雨垂れを見ながら私に聞いた。
「いま考えてるところ」
「長いおやすみなら、駅に行けばなにかやってるんじゃないか?お祭りとかさ」
「……人が多いところ、行きたくない」
「やれやれ」
冗談でしょ、と私は思う。学校の、クラスのなかでさえ息苦しいと感じてしまう私が、連休の、人がごった返す駅前に遊びに行くだなんて。そんなことをしたら私の生気がたちどころに吸いつくされてしまう。
私は、カップルやら家族連れやら多くの人が往来する駅前のアーケード街を想像して、身震いした。…やっぱり、帰ってFPSやろう。そう思って脚を踏み出したときだった。
右手の道路から、パシャ、と水たまりを踏みぬく音がした。
気配。予感。そんなものが私の脳裏をよぎる。意識の鈴がりんと鳴るように、何かに気付かされて。私は思わずその音のする方を、ほとんど反射的に振り返った。
ベージュの大きい傘が、私の前にあった。その下に隠されていた姿が、花がひらくみたいにゆっくりと顕れてゆく。スローモーション、と私は思った。一瞬の動作が、象徴的な場面のように、見せつけられるようにわたしの眼に映る。
まただ。またこの場面だ。
傘の下の少女は、私たちを見つめていた。そして、先週と全く同じように、口を開いたのだ。
「羊さん…」
「あなたは…」
雨が一瞬止んで、雲間からひかりが射す。
やはり運命というのは、存在する。私はそう確信した。
・・・
私たちは近くの公園の東屋へ移動し、ベンチに並んで座った。小高くなった公園からは市街地が見下ろせて、私たちはその景色をみながら話をした。
「えっと…。何から言えばいいんだろう。その、先週ぶりです…ね?」
不破さんは戸惑いながらも、そう口にした。どうやらあまり話が得意ではないらしい。どもりながらも、それでもなにかを伝えようと頑張ってくれている。私もその気持ちに応えようと、息を吸い込んだ。
「わたし、井手上あかり…です。あなたは、不破さん…かな?」
「どうしてそれを…?」
「先週、智坂先生が、そう呼んでたから」
「あっ、そっか。そうですよね…」
なんてぎこちない会話なのだろう。これではまるで月面探索隊との交信だ。
きっと彼女と私は似たものどうしで、だからこそ人とのかかわりが久しぶりで、うれしくて、ぎこちなくなってしまうのだ。そう思うとなんだかおかしくなってしまって、私たちは同時に噴きだした。
「ごめんなさい、なんだかおかしくって」
「私たちって、なんだか似てますね」
クスクス、と不破さんは口を押えて笑う。その無邪気な顔が第一印象とは少し離れていて、なんだか新鮮にみえる。
「わたしは、不破たまみっていいます。不滅の不に、破れるで、不破。大げさな名字ですよね」
「そうかな…。かっこいいと思うけど」
「…はじめて言われました」
そう言うと、不破さんは改まってこちらを向いた。私と、フィッツに向かって。本題が始まるようだ。
「それで、そちらの羊さんは…その、どういったことなんですか?ぬいぐるみ…ではないですよね」
「そっか…。やっぱりそうですよね」
やはり、不破さんにはフィッツが視えている。どういうことなのか、なぜそんなことが起きているのかわからないけれど。いずれにせよ、私はそれを確かめにきたのである。
不破さんは静かにこちらを見つめながら、私のこたえを待っていた。だが、先に応えたのはフィッツの方だった。
「あんた、やっぱりおいらのことが視えるんだね…。でも、たぶん悪いひとじゃないね。おいらにはわかるよ」
「わっ…。しゃべった」
「しゃべるさ。おいらだって生きてる。お腹だって空く。眠る。君たちと同じようにね」
そう言ってフィッツは立ち上がると、不破さんの前でくるりとダンスのように回ってみせた。不破さんはそれが現実であることを確かめるようにぱちぱちと瞬いていたが、やがて立ち上がってフィッツの毛に触れた。それで、これが現実であることを理解したようだった。
「えっと、ね。彼はアラヤシキランドっていう場所からやってきたの。私たちが普段みることのできない、けれどたしかに存在している場所から」
「異世界…ってことですか?」
「そう…なのかな?」
私は意見を求めるようにフィッツの方をみた。けれど、フィッツは“異世界”という響きが腑に落ちなかったようだった。しきりに頭をひねって、考え込んでいる。
「異世界というなら、この世界だってそうさ。おいらにとってはね。どっちが本当の世界だとかどっちが異世界だとか、そんなの見方によって変わるもんさ」
「…まあたしかにそうだけど。じゃあ、なんて言ったらいいのかな、アラヤシキランドのことを?」
フィッツはまた少し考えて言った。
「“こっちの世界”かな」
やれやれ、と私は思った。これじゃ堂々巡りだ。
・・・
ぽつり、と雨垂れがひとつ落ちて、それが合図であったかのように一気に雨が降り始めた。さっきよりもずっと強く、たしかな雨だった。
私たちは公園の東屋を出て街の中心部へと向かい、どこか屋内で休める場所を探した。けれど、連休中の街はやはりいつもより混みあっていて、それに加えて私たちと同じように雨宿りを求める人たちばかりで、どこのカフェもレストランも満席だった。しばらくさまよった挙句どこにも行く場所がなく、結局私たちは傘を差しながら駅前広場のベンチに座った。スニーカーのなかにじわりと水分が染みわたってきて、私はぶるりと身震いする。これなら、あの公園にいた方がマシだった。
「あのね」と不破さんが口を開いた。
「わたし、不登校なんです」
その声は、雨音に紛れて消えてしまいそうなほど儚くて、あまりに繊細だった。心を締め付けながら、なんとか絞り出しているような、そんな声だ。私には、その感覚に覚えがあった。
私は、なにか返事をしようと思って口をひらきかけた。でも、となりで俯きながら話す彼女の姿を見ていると、そのまま話させてあげる方がいいような気がした。彼女は同情とか共感とかを求めているわけじゃない。きっと話すきっかけが欲しかったのだ。
「入学式の次の日から、学校に行ってなくて。中学校も、あんまり行ってなくて。高校からは頑張ってみようって思ったけど、やっぱり、こわくて」
うん、と私は限りなく優しくうなずく。
「みんなのなかにいると、わたしが消えていっちゃうような気がして、こわいんです。わたしは、わたしのたましいはみんなのはんぶんしかなくて、もうはんぶんまで吸い取られてしまうみたいな、そんな感じがして。わたしはそうやって、はんぶんのわたしのまま、まわりから身を守って生きてきた」
声の震え方からして、不破さんは泣いているのかもしれないと思った。けれど、実際に彼女は泣いていなかった。少し寒くて震えていただけだった。
私は彼女の手を握って、強いんだね、と言った。
「いまはなんとか均衡を保ってるんです。はんぶんのわたしが吸い取られない、ギリギリのところで踏ん張っていて。智坂先生に話を聞いてもらったりしながら、なんとか」
不破さんは少し顔を上げて、私の方を見た。ごめんなさい、というような困った顔で、笑ってみせる。それが、あの日のフィッツの顔とオーバーラップして、私は胸が狭くなったように感じた。
「どうして、私に話してくれたの?」と私は尋ねてみた。フィッツのことが視える特異な少女が私に求めたものは、きっかけだけじゃないと、私はそう確信していた。
「智坂先生がね」と不破さんは言った。
「智坂先生が、言ったんです。“ほんとうに分かり合いたいひとに、近づいていけばいい”って。それで、あの日あなたたちを見たときに、この人たちは大丈夫なんだって、すぐにわかったんです。この人たちとは心の底から分かり合いたいって、本能的に。信じられないかもしれないけど…」
「信じられるよ」
私は間髪を入れずにそう答える。握られた彼女の手が、少しだけ動いた。
「私もそうだったから」
「あなたも…?」
「そう。そういうのをね、たぶん…」
私が確かめたかったことを、彼女は示してくれた。先週の、あの象徴的な出会いは、私にとってだけじゃなかったのだ。だから私はそれを伝えなくちゃならない。彼女もまたそれを求めているのだ。
「そういうのを、運命的な出会いって言うんだよ」
不破さんの眼が見開かれて、数秒の後に彼女は笑った。それは雨のなかに咲いた紫陽花みたいにけなげで、でもどこか儚くて。でも、つながれた手から伝わってくるあたたかさが、力が、彼女の気持ちを代弁してくれているようだった。
不破さんが私の手を握るちからが、より一層強くなった。
「おい…!なんだあれは!」
突如、不穏が街の往来を貫いた。
さっきまで雨の中を泳ぐように流れていた人波が一斉に立ち止まり、すべての眼が一様に同じ方向を見ていた。その視線の先には、巨大なクレーンの化け物。咆哮が雨の午後の気だるさを切り裂いて、空気が邪に震える。
敵襲だ。
「イマジネールゥ!!」
それは長大なアームを伸ばして、今にも街を破壊せんと動き始めていた。今までよりも何倍も、いや、何十倍も大きなイマジネールだった。このコオリヤマ市で一番大きな建造物である電波塔と同じくらいか、いや、それ以上か。
けれど。
私は少しだけ、ほっとしていた。先日のイマジネール・ジェット戦では初弾を外し、私は少しばかりプライドが傷つけられていた。…いくら相手が理不尽な動きをしたとはいえ。
けれど、今回は的が大きく、動きも鈍い。こちらが有利だ…!
「不破さん、こっち!」
「な、なんですか…これ!」
「ごめん、あとで話すから!」
私は不破さんの手を握ったまま駆け出していた。とにかく高くて開けた場所へ。イマジネールはまだ動き始めたばかりだ。まだ誰も傷ついていない。今ならまだ間に合う。今回は、一撃で決められる。
私たちが駅ビル駐車場の屋上にたどり着いたときにも、まだイマジネールは攻撃を開始していなかった。不気味な音でクレーンのアームをしならせながらまごついているだけ。攻撃を躊躇しているのか。指示を待っているのか。いずれにせよ、攻撃しない理由は、ない。
「あかり、チャンスだよ!」
「わかってる!」
完璧な初動だった。数回の戦闘を経て、私は少しずつリアルなプリキュアファイトに慣れつつあるのかもしれない、と思ってしまうくらいに。
私はイデアル・トリガーを握って、祈りを込める。
「イデアル・イマージュ!」
ひかりが私を包み込み、次々に変身が行われてゆく。願いのかたちを纏って、清廉で、勇敢なプリキュアの姿へ。薄桃色のレース。白のドレス。長く艶やかな銀の髪。次なる想像へ、未来へと、私自身がつくり変えられてゆく。
「顕れる真実の姿、キュアイデア!!」
すべての顕現が終って、私はいつもの口上を宣った。これは一種の、世界に対する宣言である。
そして、今も不安に自らをかき消されそうに小さく震えている不破さんに、優しく微笑みかけた。
「あなたは…その姿は…?」
「私はね、プリキュアなの」
「プリキュア…?」
「そう。あの化け物を倒す使命をもった、戦士だよ」
私は、街の水煙に紛れて立つクレーンの化け物を指さす。
不破さんは、まだ現実と夢との区別がつかないようなぼんやりした眼で、私とイマジネールを交互に見た。そしてもう一度、プリキュアとしての私と目が合った。
「すごい…。あなたは、英雄さんだったんだ」
「え、英雄…!?そんな大層なもんじゃないよ。誰にも正体、明かしてないし…。だからこれは私とあなたとの、はじめての秘密だね」
私は自分の唇に人差し指を当てて、内緒のジェスチャーをした。そして不破さんに背を向け、素早くボルトを引いた。スコープを覗いて照準を合わせ、呼吸を整える。
そして、引き金が引かれる。
「プリキュア!アナムネーシスバレット!」
ひかりの弾丸は迷いなく空を裂き、クレーンの化け物の頭部を直撃した。ヘッドショット。完璧な攻撃だ。
けれど…。なんだろう。何か変だ。違和感が私の思考を独占して、喉が詰まるような心地悪さを覚える。二戦目のタンクといい三戦目のジェットといい、敵は私のアナムネーシスバレットを対策してきている傾向にあった。なのに、今日の“狙い撃ちしてくれ”と言わんばかりの大きすぎる標的はなんだ。遅すぎる初動はなんだ。…考えろ。敵は何を考えている…?
「まさか…デコイ!?」
「そのとおり」
禍々しい声が背後から響いて、戦慄が私の脊髄を走り抜けた。まずい、と反射的に向こうとしたけれど、遅かった。一瞬にして視界が反転し、数秒の間をおいて激しい衝撃が私の全身を襲う。私はどうやら何ものかに攻撃され、吹き飛ばされたらしかった。
やばい、呼吸、できない…。
「井手上さん!」
「あかり!!」
二人が私に駆け寄ってくる。私はフィッツの手を借りてようやく体勢を立て直した。そこでようやく、私は目の前の敵の姿を確認した。
それはバイクの形をした化け物だった。イマジネール。悪い想像の権化。さっきの攻撃は、こいつの体当たりだったのだろう…。そして、その向こう側に、羊のかたちの影。
「あかり。あいつが…」
「わかってる。あいつが悪の手先ってわけね…」
白煙の向こうから現れたのは、羊の軍人だった。アラヤシキランドの羊兵。プリキュアの敵。フィッツの敵。間違いないだろう。私は、とうとう、正体を暴かれてしまったのだ。
プリキュアリアルファイトに慣れてきた、だなんて思い上がっていた自分を突き飛ばしてやりたい。今こうして敵に不意打ちを食らい、ふたりの友達を危機にさらしているこの状況は、間違いなく私の油断、驕りがもたらしたものだ。
…不覚!!
「はじめまして、プリキュアさん。ようやくお会いできて光栄ですよ」
「あんた…。アラヤシキランドの兵隊ね」
「いかにも。私がアラヤシキランド軍三等陸尉、レキシントンである」
レキシントンと名乗る羊兵はそう言うと、胸を張ってこちらを見下ろした。胸に光る徽章の多さは、フィッツが着ていた軍服のそれとは比較にならない。幹部なのだろう。
そして、直に顔を合わせて改めて気付く妄信的な目つき。言葉の端々に感じとれる不寛容さ。こいつらは、私たちやフィッツとはまったく異なる考えをもつ、相容れない存在だと、全身の細胞がそう私に伝えていた。
「いやはや、貴様には幾度となく辛酸を舐めさせられてきたが…それも今日で終了だ。ここで貴様を墜とせば中枢の老人どもも黙るだろうな…。それに」
レキシントンはフィッツの方を向いて言った。
「脱軍した痴れ者も、ここで“回収”すれば一石二鳥だ。プリキュアを倒した後に貴様を軍へ連れ帰る。間違いなく極刑だろうな」
「レキシントン…!あかりに手は出させないよ!」
フィッツは真っ向からレキシントンに対峙し、言い放った。
フィッツは軍から逃亡している身だ。そんな彼に待ち受けている極刑って…どんなのだろうか。考えたくない。フィッツが無明の闇の静寂に吸い込まれ、消えてしまうことなんて…。
それでも彼は、そんな自分の状況を捨て置いてまで、悪の前に立ちはだかっている。あなたがいちばん怖いはずなのに。
なのに、プリキュアである私は、なにをやってるんだろう。
私はなんとか力を振り絞って立ち上がる。
「フィッツ、不破さんを連れて逃げて」
「あかり…でも…!」
「それが最善の択だよ、今は。お願い」
フィッツと不破さんの姿が、私の眼に交互に映る。
いま、残っている勝ち筋は私だ。フィッツにイマジネールを撃破することはできないし、不破さんはそもそも巻き込まれてしまった一般人であって、最優先で守らなければならない。となれば、私が根性でこのイマジネールを倒すしか、この局面を乗り切る方法はないのだ。1vs1なら、まだ勝ち目は残っているはず。
けれど。
レキシントンの次の一手で、その思惑がすべて瓦解することになる。
「この私が、貴様への対策を怠っているわけがないだろう?…なあ。一対一なら勝てると、そう思ったんじゃないのか。キュアイデアよ」
「…なにを、する気なの」
「こうするのさ」
レキシントンは懐から、懐中時計のようなものを取り出した。上端のリューズを巻き、不敵に笑ってみせる。まずいことが起ころうとしている。それを止めなくてはならないのに…!
「来たれ!イマジネールよ!」
その瞬間、懐中時計の文字盤から黒い霧があふれ出す。そしてその禍々しい霧は、不破さんをめがけて地を走ったのだ。
「なに、これ…!うっ、あたま、が…」
「不破さん!」
私が動けないままに、黒霧は彼女のなかに入り込んでしまう。どくん、と空間が不気味に脈打って、ときが止まるような感覚がした。
「貴様のような臆病で気弱なニンゲンが一番イマジネールになりやすいのだ…。勝手に悪い想像を膨らませてくれるからな」
「不破さん!」
最悪の展開だ。この黒い霧は、ひとの意識からイマジネールを作り出すもの。それが取り込まれてしまったということは、不破さんが、悪い想像に乗っ取られてしまう…!
「不破さん!飲みこまれてはダメ!戻って来て!」
「無駄だ」
レキシントンは不敵に笑った。夜の烏のように平坦な眼で。三日月のように鋭利な口元で。
「いまから夜が始まるんだよ」
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夜…?夜になったのかな。目の前が暗い。でも月も星も出ていない。あれ、わたし、どうなったんだろう。生きてるの?死んでるの?頭が重くて、くらくらする。くらくら、くらくら…。
わたしって、いままでどうやって生きてきたんだっけ。
昔のこと、嫌なことが、黒い風みたいにわたしの頭上を吹きすぎてゆく。
“そこにいたの、気付かなかった”と、誰かが言った。
“不破?そんなのクラスにいたっけ”と、誰かが言った。
顔のないニンゲンが次々にわたしの前に現れて、口々に何かを言っていく。ゴミを棄てていくみたいに、踏みつけていくみたいに。
別に、わたしは彼らに対して怒っていなかった。うまく自分を出せない自分が悪いんだって思えば、ちょっとは悲しかったけど、誰かに怒りの感情を抱いて辛くなることなんてなくて、楽だったから。わたしはひとりぼっちで、いや、影の薄いはんぶんぼっちで生きていて、それでいいって思っていて。
それでも。
それでも、わたしのたましいは日毎にすり減っていく。
わたしは、わたしのことを解ろうとするひとを恐れた。わたしのことを解ったように話すひとを恐れた。たとえはんぶんしかなくたって、わたしが必死に守ってきた今にも消えそうなたましいを、好き勝手に弄ぶひとを恐れた。
わたしのたましいが誰かに理解され、想像され、形を変えられてしまったら、わたしははんぶんのたましいさえ明け渡すことになってしまう。
わたしが、消えてしまう。
だからわたしは逃げた。隠れた。守った。自分自身を脅かす全てから、わたしは逃げたんだ。
学校から逃げ、社会から逃げ、部屋に引きこもった。
でももう、いいや。わたしはもう、疲れたんだ。
わたしはここで死ぬんだろうか。謎の生命体に意識を乗っ取られ、たましいを食い尽くされるのを、暗い水底で眺めながら。誰かの役に立てないまま、はんぶんぼっちですらなくなって。わたしがわたしですらなくなって。それ、ほんとうの死だな。
誰か?
誰かって…誰だっけ。
「――さん!」
なにかが聞こえる。
誰か。誰かが、いたような気がする。
「――さんは、臆病―――じゃない!!」
聞いたことがある声だ。どこか、遠い場所で。ずいぶん最近…。
「――さんは!ひとりじゃない!!」
過去の出会いが、スクロール画面みたいに下から上に流れてゆく。そのいちばん下。いちばん最近の出会いが、再生される。低画質だけど、あたたかい映像。
「不破さんは!私と!ともだちでしょうがぁ!!!」
こんどははっきりと聞こえた。水底まで、たしかに届いた。
トモダチ。と口にしてみる。トモダチ、トモダチ、トモダチ…。友達。ともだち。
さらり、と頭上にひかりが射しこんでくる。プールの底からみえる陽光みたいに淡くて、それでも、あたたかいひかり。
思い出すんだ、と誰かが言った。思い出すんだよ。きみのともだちの名を。そしてきみ自身を取り戻すんだ。そこからすべてが始まるんだよ。
わたしは目を閉じて祈った。はんぶんは、わたし自身のために。そしてもうはんぶんは、誰かのために。
わたしのたましいのなかに、ひかりが流れ込んでくる。
そのときわたしは気付いた。わたしのたましいのもうはんぶんは、誰かのために空けられたスペースだったんだ。わたしは、もうはんぶんぼっちの人間じゃない。もうはんぶんを誰かで満たすから、わたしはわたしでいられるんだ。
あなたがわたしのたましいのはんぶんに居てくれるから、わたしはわたしなんでしょう?
そうでしょう?
あかりちゃん…。いや、キュアイデア…!!
わたしの胸がまばゆく光って、きんいろのトリガーが形作られる。はじめてみる光景なのに、はじめて触るものなのに、それがわたしに何を求めているのか、すぐにわかった。
私は、わたしの全部の魂で、あなたと戦うんだ。
精いっぱいの祈りと願いをこめて、わたしはそのトリガーを引いた。
「プリキュア!イデアル・イマージュ!!」
夜が晴れた。
雨があがり、風は止んだ。雲間から日差しが流れ出すように、きんいろの帯がわたしの身体を包んでゆく。わたしの動きに、想像に合わせて、それらは白いブーツへ、カナリア色のドレスへ、ブローチへ変わってゆく。
これが新しい自分、とわたしは思った。これが、ほんとうになりたかったわたしなのだ。これが、わたしがほんとうにしたかったことなのだ。暗い水底から、はるか雲間の彼方へ。はんぶんのたましいから、ぜんぶのたましいへ。
「顕れる不滅の魂!キュアゼーレ!!」
そう、わたしはだれかのために戦うプリキュア。
だから、だからこそわたしのたましいは、不滅なんだ。
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「できるはずがない…!イマジン・ミストを打ち破っただと!?」
「不破さん、あなた…」
「まさか、二人目のプリキュアが現れるなんて…」
私たちの眼前に顕現したその姿に、目を奪われる。煌めく朝陽のような、カナリア色のドレス。美しく結われた長い金の髪。そして、不動の山々のごとく揺るがない気高さ。不破さんは自分で自分自身に打ち勝って、願いを形づくってみせたのだ。
キュアゼーレ。魂の象徴。その佇まいだけで伝わってくる。
彼女は美しく、そして、強い…!
「イマジネール・バイクよ!奴を跳ね飛ばせ!!」
「イマジネールゥ!!!」
バイクの化け物は後輪から白煙が巻き起こるほどエンジンをふかしはじめた。そして急激に加速し、唸りをあげてゼーレに突進してゆく。
私は思わず声をあげる。
「ゼーレ!よけて!」
「必要ないよ」
ゼーレは動かなかった。ただ前方を見据え、イマジネール・バイクの進行を見定めている。
そして、その身体にきんいろのオーラが宿った。彼女の想いに応えるかのように、トリガーが大盾へと形を変える。
「私は、もう逃げない」
イマジネール・バイクが衝突し、破滅的な音とともに火花が舞い散る。
けれど、ゼーレの盾には、かすり傷ひとつ付いていなかった。それどころか、イマジネール・バイクのほうが車体が歪み、ライトが割れ、崩壊を始めている。
「硬い…!」
「なんなのだ、貴様は…!」
レキシントンの眼には、もうかつての不破さんは映らない。
そこにあるのは、絶対防御と化した不滅の象徴。魂のプリキュア。イマジネールの猛攻を退け、その歯牙のひとつもかかることはない、強く美しい少女の姿だ。
「わたしは、もうわたしを見つけた。誰かがわたしのなかに居てくれてることで、わたしは不滅になれるって気付けた」
イマジネール・バイクは錯乱し、なお体当たりを連続で仕掛けてくるが、ゼーレを前にして全く有効な攻撃をすることができない。すべての攻撃はゼーレの盾に防がれ、滅され、相殺される。
金の大盾はまるでゼーレの想像に呼応するかのように自在に動き、彼女の手元を離れてなお敵の攻撃を先読みし、防御を行う。
ぶつかるごとにイマジネール・バイクのボディはことごとく崩壊し、とうとう走行不能になった。
「だからわたしは、プリキュアになるって決めたんです!!」
「みとめられるかぁ!!!」
レキシントンは半狂乱になって叫んだ。先ほどのような不敵な笑みはもうどこにもなく、ただ否定的な感情を、烈火のように滾らせているだけ。
けれど、どんなに感情を顕わにしたところで、彼にはもう戦える手段は残っていなかった。
彼はもう詰んだのだ。
「イデア!いまです!!」
「…っ!オッケー!!」
ゼーレの合図に、私はアクションボルトを引いて応える。
こんどはもう外さない。彼女が覚悟をもって闘いに身を投じ、逆転に導いてくれたこの局面。彼女が私に応え、ともに立ち上がってくれたこのよろこび。
私は希望をもって悪を打ち砕く。
「プリキュア!アナムネーシスバレット!!」
雨上がりの虹が、ひかりの道を描く。その延長のように、鮮やかな弾丸がイマジネール・バイクを撃ち抜いた。
浄化のかがやきは、水煙となって天雲へ還ってゆく。
「たったひとつの魂にこそ賛歌あり…。悪い想像よ、お眠りなさい」
私はいま、この瞬間、とてつもない心強さを感じていた。
不破さんはひとりじゃない。そう言ったのは私自身なのに、なぜだかその言葉に救われたのは私自身だったらしい。やはりこの出会いは、運命だったのだ。
「あかりちゃん…!」
体力を使い果たしてしまったらしく、私はその場にへたり込んでしまう。けれど、すぐに不破さんが駆け寄ってきてくれた。
「不破さんに助けられちゃったね。ありがとう。それと、あなたを戦いに巻き込んじゃったこと、ごめん」
「ううん、そんなこと…。あかりちゃんがわたしを助けてくれたんだよ。暗い夜の淵から。それと…」
彼女は目じりを拭って、精いっぱいの笑顔で言った。
「名前で、呼んで…!」
そっか、と私は思う。はじめて私がプリキュアになったときと、一緒だ。
『あかりって呼んで』って、私は言ったっけ。あのときの光景が、彼女の姿と重なって、なんだか私は泣きそうになってしまう。
でも…そうだな。これから私たちは、パートナーになるのだ。一緒に戦う友達。バディ。名前で呼ぶだけじゃ、足りないんじゃないだろうか。
だったら。
「これからよろしくね、たまちゃん!!」
私はそう言って手を差し出す。
そしてたまちゃんは、おそらくは今日一番の笑顔で、迷うことなくその手を握り返した。
プリキュアに、新たな仲間が加わったのだ。
キュアゼーレ、絶対にかっこいい。