とある大学生が増えた

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分岐

 科葉諸友

 

 

 大学に入り一人暮らしを始めて一年ほど。良本沙汰(りょうもとさた)は己の生活に余裕と退屈を覚えていた。

 

 一年。大人と名乗る人間ならば口を揃えて「あっという間」と唱える期間だが、沙汰の生きがいはその程度で飽きてしまうようなものだった。

 ゲーム、読書、映画鑑賞。沙汰は、ほとんどの人間が持つ、言わば初期装備のような趣味しか持ち合わせていなかった。そしてその初期装備はあっという間に耐久値が減り、壊れてしまった。ゲームは楽しかったが、すぐに飽きが来てしまったし、映画鑑賞も有名作品をちらほら見てそれで満足してしまった。バイトで得た金で大人買いした本は、いつか読もうと思ったまま、帯さえ取られずに部屋の本棚でほこりをかぶっている。

 

 時間はある。読もうと思えば読める。やろうと思えばやれる。見ようと思えば見れる。ただ、それをするために腰を上げる力が湧いてこなかった。気が付けば手はスマホに伸び、youtubeで意味もなく動画を見て時間をつぶしている。多忙だった高校時代、切実に欲しいと願っていた「時間」を今では大量に腐らせていた。

 

 自分の身体が隅から少しづつ腐っていくのを感じていた。自己研磨に充てるべき時間を盛大に溝に捨て、一日中休憩している日々を振り返っては死にたくなり、自分を変えなければならないと思いながらもベットから降りようとしない。ヒトとして、社会動物として、既に死んでいた。あるいは殺されていた。怠惰に。「このままじゃだめだ」が口癖になって久しい。

 

「だめだ……このままじゃだめだ」

 

 このままでも、きっとこの先生きていけることが恐ろしかった。弱者にやさしい日本では、確固たる自己を持たず目的なく無意味に生きる死人すら丁重に保護され、死人のコミュニティの中でぬるま湯に肩まで浸りきり、外気の冷たさを嫌い、寒気の中先に進まんとする者を嘲り、一歩も動かず埋まっていく。

 そうなるのが嫌だった。そしてそうなってもいいと思う自分がいることが恐ろしかった。

 

「「このままじゃ、だめだ」」

 

 いつものように、なにもしないで焦燥に駆られ呟いたその言葉は、しかしいつもと異なり二重になって部屋に消えた。

 

「「え……」」

 

 ベッドの上、ぼんやりと天井を見ていた身体を起こして現状を確認してみれば、左隣りに全く同じことをしている人物を確認できた。

毛先にだけ残ったくすんだ金色は大学デビューの名残。わかめのようなくせ毛は自前で、こだわりのない1000円カットは様々な事柄を諦めた結果。普段マスクで隠している無精ひげはだらしなく伸び、その瞳には生気が宿っていない。

 恐らくここが、人生最大の分岐点。平凡でつまらない腐った日常に超常が起きた。

 その日、良本沙汰は増えた。

 

 

 

 料理は慣れだ、とは沙汰の母親がよく言っていたことだ。そして慣れは停滞を招き、心地の良い退屈に陥る。つまり怠惰だ。こと怠惰については一家言ある沙汰は、もれなく料理についても怠惰にまみれていた。

玉ねぎはハンドミキサーで楽にみじん切りする。ハンドミキサーはどうせ玉ねぎのみじん切りにしか使わないので、適当に水洗いだけして乾かす。

 唐揚げ用の鶏もも肉はもともと一口大に切れているため、そのままいれる。

 にぎやかしのジャガイモも、芽だけ丁寧にとって、あとは適当に皮をむいて八等分するだけだ。トマト缶を目分量で半分入れ、これまた目分量で砂糖とバターを入れ、ルーを2かけ入れればおしまい。通常炊飯ボタンを押せば、50分後にはいつものカレーが出来上がる。何十回食べたか分からない、使いまわしの手抜きレシピだ。

 

 上京したての頃は、張り切って自炊してはできたものをインスタグラムに載せ、料理の魅力を少ない友達に振りまいていた沙汰だが、数か月でその気力は失せ、今では一に楽さ、二にコスパ、三に味、四に見栄えだ。それも、お気に入りのレシピの中からしか作らず、新しいものへの挑戦はやめていた。

 

「ただいま。クッソ腹減った」

「おかえり。あと30分待て」

「うお、カレーじゃん。最高。なんやかんやお前の作るカレーが一番好きだわ」

「自画自賛乙」

 

 沙汰が一人増えてからしばらく経ち、沙汰たちは変化した生活に慣れてきた。家事番は一週間ごとに交代ということになっていた。味の好みが完全に一致しているため、不便はしなかった。作る量が増えることも、普段から多めに作って作り置きが基本だったため苦にならなかった。食費が増えたのは苦しいが。

 

「で、どうだったん、ボランティア活動」

「クソだるかったに決まってんじゃん」

「だろうな」

「うっざ」

 

 沙汰の大学では、単位が足りない者への救済処置として超集中講義が設けられていた。ボランティア活動もその一つであり、夜行バスで被災地まで行き無償労働し、日帰りで帰ってレポートを書くだけで単位がもらえる。

 己が怠惰のせいで常に単位数ギリギリを攻めている沙汰はもれなくこの講義を履修しており、ルーレットに負けた方の沙汰が生贄となった。ちなみになぜルーレットで決めるかというと、じゃんけんだと無限にあいこが続くからだ。

 

「あー、やわらかい布団サイコー。乳酸が抜けてくぅ」

 

 現状、沙汰二人が共有して寝ている一つしかないシングルベッドに沙汰が倒れこむ。うつ伏せで枕に顔をうずめ、溶けるように脱力したその様子からは相当な疲れが伺えた。

 

「汚いから風呂入れよ」

「逆に考えてほしい。お前が超疲れて帰って来た時、第一に向かう場所はどこだ」

「ベッドだな」

 

 言うだけ言ったが、はなから動く気がないことは察していた。なにせ相手は自分なのだから。一年前からこの部屋は沙汰の城であった。この部屋の中でのみ沙汰は王となり、ありとあらゆる身勝手が許される。それはたとえ自分自身が相手でも止めることはできないのだ。

 あーとかふぅとか言いながら至福の時間を過ごしている自分の横に、遠慮なく座る。

 

「狭い。こちとら愛しのふかふかとの感動の再会を果たしてんだぞ。気を遣え」

「一日ぶり程度が感動語んな。だいたい、自分自身に気を遣うなんてのはちゃんちゃらおかしな話だろ」

「おいおい、自分を労わるスキルは社会では必須だぜ。それができずに過労死したり思いつめたりする人がどれだけいると思ってる。知ってるか、karoshiは英語でも通じるんだぜ。SUSHIとNINJAに並ぶ日本発祥のグローバル言語だ」

「お前が知ってるなら俺が知らないわけないだろ。……ま、そうだな。今日くらいは俺の分も働いてくれた俺を労わってやるとしよう」

 

 テレビのリモコンに伸びていた手を止め、徐に立ち上がる。効果音はヨッコイショ。向かう先はキッチンだ。

 

「お前がいない間、俺がただ怠惰を貪っていただけだと思ったか」

「うん」

「否定しろよ」

「否定するに足る人間じゃないだろ」

「それな。だがしかし今回の俺は違うぜ」

「ほう」

「これを聞いたら”うひょー、沙汰さん流石っす!”と後輩口調で賛美せざるを得ないはずだ」

「ハードル上げるねぇ」

「プルーチェ買ってきた」

「うひょー、沙汰さん流石っす!」

「カレーを食べた後のあまーい乳製品は黄金コンボだからな」

「ぐう有能」

 

 ダベりながらボウルの中の液体をスプーン混ぜていると、炊飯が終わった。丁度良い。

冷蔵庫からラップにくるまった米を二人分取り出し、レンジで温める。その間に器を用意してカレーとフルーチェをよそる。

 

「あーいいね、クッソうまそうな匂い」

「はいよォ! 良本特性カレー一丁お待ち!」

「あざっす大将」

 

 スマホでSNSを眺めながら猫背で食っていた今までに比べ、沙汰宅の食事は随分にぎやかになった。話し相手が自分というのが、イマジナリーフレンドじみてて虚しいが。

 

「「うま」」

「やっぱチキンカレーだわ。外さない味」

「それな」

 

 自分がもう一人増えた。これは紛れもない超常現象であったが、しかし何ということはなかった。電気代、ガス代、家賃は変わらないし、娯楽に関しても、沙汰は適当なSNSを見るくらいしかしない。結局、増えたのは食費だけ。それすらも増えたバイトで補えた。

 二人で受ける講義を分担し、余った時間でバイトをする。それでも時間は余るので、今まで通り怠惰で閑暇を埋めた。

 人が変わるにはきっかけが必要であるが、それを与えられても生かせるとは限らないらしかった。

 

 

 

 資本主義では才能や実力よりも運がものを言う、というのはどこかの科学者が数学的に証明し、イグノーベル賞を取っていたことだ。

 

「嘘じゃん」

「いや、こんな嘘自分についても意味ないでしょ」

「まあそうか……。それで、会社はどこだ?Chaygames? Hostar? それとも鍵ゲーか?」

「二次元の話でもないって。三次元、リアルの話。ガチのガチで彼女ができたんだって」

「……まじか」

 

 経緯をまとめるとこうだ。沙汰はボランティア活動にてその女性と出会い、流れで活動をともにした。そこで思いのほか話が弾んだのだという。

 

 沙汰は何か特定のジャンルに対しての知識に秀でていたり、相手の話を聞くのが上手かったりするわけではない。そのため、初対面だと時事ネタ程度しか話ができず、いつも数分しかもたない。しかし、今回ばかりは違ったらしい。

 なんとなくよく聞く曲、好きだった本、見たことのあるアニメ、小さい頃ハマったマイナーなゲーム。それらが偶然かみ合い、途切れずに会話が続いたらしい。

 

 その後、たまたま同じ講義を受けていたためそこでも会うようになり、二人が共通して好きな小説原作の映画を見にいったり、趣味関係なく一緒にお昼を食べたりするようになり。

 

「告白したら、承諾された」

「……うそだろ」

「嘘じゃないって」

「だいたい、その好きな小説原作の映画ってなんだよ」

「POP体の四季」

「ポプしきか……。そういや映画化されてたな……」

 

 人肌に飢えた男子大学生の哀れな妄言であると切り捨てたかったが、もう一人の自分は次々と証拠を挙げてくる。LINEの親し気な会話履歴や距離の近いツーショットを見せられたら、さすがにもう否定できなかった。

 

「マジじゃん……」

「だからマジなんだって」

「なんで今まで言わなかったんだよ」

「なんか、こう、言いづらくて。こういうのってほら、俺の勘違いってだけかもしれないだろ。中学の頃、特に関りがなかった女子に勝手に好かれてると勘違いして……」

「あーあーあー。わかった、わかったからそれ以上は止めてくれ俺。その術は俺に効く」

「うっ、思い出したら心が……」

「巻き込み自爆してんじゃねえ」

 

 結論として、どうやら沙汰に彼女ができたのは本当のことらしかった。そして、沙汰はそれを祝福するしかなかった。自分に彼女ができたのを祝うというのは、なんとも不思議な感覚だった。

 

 

 

 ピンポーン。聞きなれた我が家のそれとは異なるインターホンの音色が沙汰を包む。しばしの静寂の後、ガチャリと扉が開き家主が顔を出す。

 時刻は午後を回るというのに、今起きたのではないかと疑いたくなるような、上下寝巻で寝ぐせもそのままというだらしない格好の男だ。沙汰との違いは、服のそこかしこにこびりついて取れないカラフルな汚れがあることくらいだ。

 

「よう。上がってくれてかまわないぞ」

「お言葉に甘えてお邪魔するわ」

 

 玄関に散らばる大量のペットボトルと空き缶をかき分け、そこに靴を脱ぐ。ろくに洗われていないそれらの中には虫が湧いている。なるべく視界に入れないようにしながら進む。

 パンパンにゴミが詰められたゴミ袋が並ぶキッチン兼廊下を抜けると、一変してほこり一つない清潔な部屋が現れる。ベッドとその隣にある勉強机、そして彼の「アトリエ」以外、ほとんどのスペースを棚が占領しており、約十畳ある広い部屋を窮屈に変えていた。

 そしてその棚を埋めているのは、すべてが裸の女の絵だ。

 

「相変わらずだな」

「何がだ」

「何もかもがだよ」

 

 広瀬法則(ひろせほうそく)。沙汰の数少ない友人の一人であり、一日中裸の女の絵を描いている変人だ。

 

「ま、適当な場所に座っててくれ」

 

 法則はそう言うと、キャンバスの前に腰掛けた。客人が来たというのになんとも失礼な態度であったが、法則にとっては裸の女を描くことがこの世の全てにおける最優先順位であるので仕方がない。少なくとも沙汰はそう受け入れていた。というか、慣れた。

 沙汰は空いているところにカバンを置き、法則の後ろに立った。

 

「ほー。今回は随分とあれだな、動きがない」

 

 法則が描く絵は裸の女に限られたが、それでも多種多様であった。肉付きから身長、顔、肌の色。ニキビや黒子の位置や数、手の大きさや足の形に至るまでそれぞれの絵で異なり、それらの見せ方も千差万別であった。

 今回の絵では右足に重心を寄せ、自然体で立つ女性の後ろ姿が描かれていた。沙汰には芸術に対する教養もセンスもないので、見ても「リアルだな」としか感想が出てこない。

 

「人の想像力はそこにあるものからないものを想像して、ありとあらゆる可能性をそこに見る。時にそれはただあるだけの者よりも魅力的になるものだ」

「……マスク美人的な?」

「ああ」

 

 法則はそこまで言って口を閉じた。おそらく、会話に対する価値観が常人と異なるのだろう。情報を伝達する以外の手段として認識していないのだ。そしてその、情報を伝達するという役割も、迂遠な伝え方をする。

 

 沙汰はふんわりとしか会話の内容を理解できなかったが、なんとなく理解した気になって満足した。法則と友達をやる上で身についた技能だ。これは難解な講義で落単するのにも役立っている。

 

 相変わらず法則の手は素早く丁寧に適切に動く。油絵具特有の厚みのある質感が、女性の存在感を引き立たせ、その者がキャンバスの中にいることを忘れさせる。

 人が来ようが虫が出ようが、おそらく隕石が降ろうが、法則は気が済むまで描くのをやめない。この「気が済むまで」というのは子供がゲームをやめろと言われた時に言う「ひと段落するまで」と同義であり、つまり最大二日連間は続飲まず食わずで書き続けるということだ。

 

 とはいえ幸い、今回絵は既に完成間際であり、最終仕上げ段階に入っていた。黒く艶やかな髪に良く映える赤い蝶の髪飾り。健康的なピンク色の爪。女性の足元に置かれた、脱ぎ去られた後の衣服のしわ。

 細部を書き込んで書き込んで、沙汰が飽きてスマホを見始めた頃、法則は呟いた。

 

「できた」

 

 不意にふと漏れ出たような、小さい声だった。

 

「うんうん、うん。できた、できたぞ。私のヴィーナスが」

「ああ、できたんだ。おめでとう。いい絵だね」

「だろう、だろう! わかるかこの良さが。伝わるものだろう沙汰。この背中に宿る美と背中に隠された無限が」

「うんうん。すごいきれいだよ」

「だろう、そうだ、美しい」

 

 これはなかなかいい絵が描けたんだな。自分の美的感覚から来る感想ではなく、法則のはしゃぎ具合から沙汰はそう思った。

 言葉遣いは堅く大人びている彼だが、その喜び様からは童子のような純粋性を感じる。こうも全力で取り組めるものがあるのは良いことなのだろう。うらやましい限りだった。

 

「さて、それでは鍋にするか」

「おうよ」

 

 沙汰が法則の家に訪れるときは決まって夕飯をともにし、冬は鍋、夏はしゃぶしゃぶと決まっていた。つまるところどのみち鍋だ。

 

「そういえば、今日はなぜ来たのだったか聞いていないな」

「愚痴を聞いてもらいに来たんだよ」

「ほう。愚痴とな。しかしそれでは、私ではなく正善あたりの方が適任であるのではないか。私では精々、それを聞いて受け流すことしかできないぞ」

「だからだよ。親身になって話を聞いてくれるアイツより、理解できないなと聞き流してくれるお前の方が今回に関しちゃありがたいんだ。それくらい、くだらなくて荒唐無稽でどうしようもない、いっそ電柱にでも聞いてもらった方がいいような救いようのない愚痴なんだ」

「……なるほどな。ちなみに、電柱ではなく私を選んだ理由は」

「返答のない電柱に話してもむなしいだろ。同じ電柱でもまだ生きてる電柱の方がいい」

 

 男二人が、裸の女の絵に大部分を占領された部屋の隅にちゃぶ台を広げ、背中を丸めてせせっこましく鍋を囲う。

 

「やはりウインナーは美味いな。鍋に合う。それで、愚痴とはどういったものだ」

「……毎回思うけど、肉よりウインナーに感動するのってどうなんだ。……まあいいか。愚痴、愚痴ね。そうだな、どう話したものか」

「なんだ。野良猫にタイマン勝負を挑んで負けた話をする時ですらためらわなかった君がためらうとは、相当なことだぞ。人でも殺したか」

「俺の生き恥を掘り返してくれるな。まあその、なんだ。……俺が、増えたって言ったら信じてくれるか」

「……はあ」

 

 

 

「まあその、なんだ。君が増えた、もしくは分裂した、というのが嘘か誠かはこの際置いておこう。それで、そのもう一人の自分と呼ぶべき人物に恋人ができたことの何が問題なんだ。むしろ、自分と同じ存在にそれができたというのならば、自分にもできる可能性があると希望を感じるものではないのか」

「いいやダメだね。法則は何もわかっていない。四六時中裸の女の絵を描いて、絵の具を乾かす待ち時間で飯を食っているような、人間が本来持ちうる基本的欲求のいくつかが欠落した人間には分からないだろうが、俺のような自己愛とルサンチマンだけが友達の底辺階級からすれば、他者の幸福はまず初めに妬むべき忌み事なんだ」

 

 引き続き鍋を突きながら、沙汰は法則に愚痴をたれる。

 

「……ますます分からんな。そも、ルサンチマンなんて言葉を知っているならば自らそれを持つ人間であると語るのではなく、それを排除して超人になることを目指すものではないのか」

「それも違う。ルサンチマンは俺たち弱者にとっては自己正当化の道具に過ぎないのさ」

「……なるほど、そういう考え方もあるのか」

 

 実際のところ、沙汰のこの考えは開き直りに近い。彼は幾度となく超人になろうと試みては、その身に染みついた負け犬根性と際限なく湧き出る怠惰にそれをことごとく阻まれてきた。超人になるという目標を何度掲げても、心の底にある彼の本質がそれが無理であることを主張するのだ。そしてあるときから、彼の強大な自己愛がルサンチマンすらも自分を構成する愛すべき要素の一つであると言い始めた。だから、そういうことにしたのだ。そうすることによって彼は、より楽な生き方に逃げた。

 

「話を戻すぜ。とにかく今日は愚痴だ。愚痴を聞いてくれ。せっかく、絵が描き終わって時間があるんだから」

「あいわかった。君が持ってきてくれた国産豚肉分の仕事をしよう」

 

 ちなみに、本日沙汰が土産として持ってきた鍋の具材である国産豚肉だが、スーパーで半額で売られていた賞味期限が今日までの代物であった。しかも、ちゃっかりと半額シールを剝がしてある。

 ここまでの雑談中、コトコトと煮られておいしそうだ。

 

「あいつ、リア充になりつつあるんだ。リアルが充実しているという意味での。リアルどころかネット上ですら充実していなかった俺がだ」

「いいことではないか……というのは、君の先の発言からするに違うのだろうな」

「ああそうだ。考えてみてくれ。目の前で、自分の有り得たかもしれない幸せな未来が広がってるんだぜ。まるで俺が、選択肢を間違えたバッドエンドルートを歩んでいるみたいじゃないか」

「ああ、そういう捉え方もあるのか」

 

 実際のところ、自分より先に友人に恋人ができ、嫉妬に狂うなんて経験は今までに何度もあった。酸いも甘いも嚙み潰し、煮え湯をがぶ飲み、苦虫を常食としてきた沙汰にとってはこの程度の敗北は慣れたものであった。

 たとえ法則に恋人ができたとしても、ここまでの心理的外傷は覚えなかっただろう。

 

 問題は、恋人ができたのが「自分」であることなのだ。条件が全く同じであるのがかえっていけない。だからこそそこに言い訳の余地はなく、自分が幸せになりうることが証明されてしまったのだ。

 できるがやらないのと、できないは違う。総じて後者の方が楽だ。できないのであれば、できない可能性が少しでもあれば、現状の解決すべき不幸に対し、「どうせ無理だ」という動かないことへの免罪符をもってして諦めの姿勢を保てる。しかし、できてしまうのならば、できることが証明されてしまったのならば、その先に待っているのは「努力」という沙汰が最も嫌う健全な地獄だ。

 

「いいかよく聞け法則。彼女ができてからの俺はとんとダメになってしまったんだ。いつ何時も隙あらばのろけのろけのろけ。口を開けばのろけ話だ。凡ての道がローマに通ずるように、奴の日常はのすべては彼女に通じていて、たとえどんな匙事も彼女との甘いメモリーに繋げてしまうんだ。もとからスカスカな日常を送っていた俺にとって、スポンジに水が浸み込むがごとく恋愛という劇薬が日常を侵し、支配してしまっている。その結果俺は変わってしまった。いやもうあれは俺でないのかもしれない。リア充を見て爆破願望を抱かない俺なんて俺足りえない」

「分かった、いったん落ち着け。そう急いで喋るんじゃない。というか、リア充の爆破願望を自己同一証明として扱うのか君は。少し歪みすぎじゃないか」

「四六時中裸の女を描いているような奴には言われたくないね」

「違いない」

 

 一息。沙汰が一方的に白熱していた愚痴大会は一時休憩に入る。先ほどまで議論に使っていた口を、しばし鍋を食べるために動かす。

半額となっていた国産豚肉はおいしかった。あと、法則の家の冷蔵庫に置いてあったシイタケも。鍋に入れればどんな食材でもおいしくなるのではないかとすら思った。

 

「……ふう、話を続けるぞ」

「ああ」

「俺は、俺でない方の俺、リア充の方の俺は、だんだん変わっていった。いや、今も変わり続けている。例えば、彼女に食べさせてあげたいだとか言って新しい料理に挑戦したり、彼女に勧められた映画を見てみたり、彼女に会うのだからと身だしなみに気を使ったり。今まで俺を構成していた要素である、怠惰とルサンチマンがなくなってきている。テセウスの船的な話は置いておいて、あれは既に俺じゃなくなっている」

「……そう言われてもな。恋人ができて生活が変わるなんて当たり前だろう。何かがきっかけ大きく人が変わるというのもおかしな話ではない。過去の自分と今の自分が同一でないというのは当たり前のことだ」

「まあそうだけど。でも、少なくとも、今の俺と今の俺が同一の存在でないことは事実だ」

「……まあ、そうだな」

「あの日、もう一人の俺と彼女が出会った日、あるいはもっと前、もしくは俺が二人に増えた時。既に俺たち二人は全く別の個体であって、異なる人生を歩んで、どうしようもないくらいに違う存在に分岐してしまった。これは完全に事実だ。そして裏切りだ。今まで俺は俺より幸せな人間すべてを嫌っていたのに、俺は俺より幸せになりやがった」

「……それも、君だろう。もし仮に、君がもう一人の君の立場だったならば、その場合でも全く同じ決断をしていたはずなんじゃないか。だったらそれを責めるのはおかしい」

「いいやおかしくないね。もし自分が○○だったら、だとか、相手の立場になって考えて、だとかの考え方は割と簡単に破綻するんだぜ。昆虫好きのわんぱくなガキが、虫が大嫌いな女子に対して、完全なる善意の上で芋虫を手渡しすることだってある。その場合、相手の立場になって考えたところでそこまでの意味はない。例え情状酌量の余地が大いにあり、もしかしたら、自分が同じ環境に置かれた場合犯人と同じ行為をしてしまうような場合だとしても、それが罪であるならば法の下に裁かれなければならないんだ」

「罪か。別に法律違反したわけでも、世間一般に批判されるような行為でもないのにか」

「そう。だから裁けない。ついでに言うと、俺が言っていることは完全な難癖でしかないこともわかっている。だから困ってるんだよ」

「はあ……。話が見えてこないな」

「だから言ってるだろ、これは愚痴なんだよ」

「結局君はどうしたい」

「ぶっちゃけ破局してほしい」

「最低だな」

「最低だろ。しかも、俺の手を汚したくない。俺が何か仕込んで破局に誘導するんじゃなくて、ごくごく自然に、誰の目から見ても仕方ない形で破局してほしい」

「そうすれば、やはり自分はどうあがいてもリア充なんてものにはなれないのだと思えるからか」

「……よくわかってるじゃん」

「これでも、君と友達をやって一年だ」

「光栄だよまったく。画家として名が馳せたら焼き肉奢ってくれよな」

「そうなることはないだろうな」

「なんだよ、自信ないのか。俺はいいと思うけどな、お前の絵」

「いや違う。俺が描いた女たちを人に渡したくないだけだ」

「あーね。まったく共感できねえ」

「同意だな。私も君の価値観には共感しかねる」

 

 だからこそ、ちょうどいい具合に友達をやれているのだろう。二人はそう思った。声に出さなかったのは、両者がひねくれているためだ。

 その後も、沙汰の口からは瓦石に等しい愚痴が際限なく溢れ、法則は際限なくそれを受け流した。くだらない夜が更け、沙汰が帰ったのは一時頃となった。

 

 

 

 ピピピピ。ピピピピ。ピピピピピピピピピピ……。

 

「んあ」

 

 時計は十三時を示していた。四限は十三時四十五分からだ。もうひと眠りしようと沙汰は思った。

 惰眠とは史上最悪の娯楽である。何一つ役に立たないし、何かが身につくわけでもなく、記憶にも残らない。惰眠をむさぼった時間はそっくりそのまま人生に空白を作り、何も意味をなさない。そんなものは止めてしまえばいいと本人も思っているが、それをやるだけの意志力と意味が沙汰の人生にはない。

三大欲求のうちの一つが沙汰の脳をまどろみに沈めていく……。

 

 ピンポン。

 

 うるさい。宗教勧誘なら帰れ。幸せな怠惰に満ちた沙汰の脳が睡眠を続行する。

 

 ピンポンピンポンピンポン。

 

「……」

 

 再度三回インターホンが鳴り、ここでやっと沙汰の脳が覚醒した。

 寝過ぎでけだるい身体を起こし、玄関に向かう。もう片方の沙汰は既に起床済み、どころか家を出ている。今頃彼女といちゃラブ中なのだろう。妬ましい。

 

「はいはい、どちら様ですか肥井くん」

「わかってんじゃん」

 

 扉を開けば、そこには予想した通りの人物がいた。肥井正善(こえいしょうぜん)。沙汰の数少ない友人の一人である。

 

「沙汰くんこれ以上休むと単位落とすでしょ。わざわざ起こしにきてやったんだから感謝しろよな」

「あー、そうだな。ありがとう」

「じゃあお昼ご飯食べに行こうよ」

「朝マックにするか」

「朝の賞味期限は一時間前に切れてるよ」

「わあ太陽が真上」

 

 毒にも薬にもならない会話をしながら、寝ぐせを直して服を着替える。

 

「よし、行くか」

「いやいいのそれで。せめてカバンぐらい持ちなよ。講義行くのに手ぶらはないっしょ」

「どうせ出席取る以外しないだろあの講義。あと、財布持ってくとお前奢ってくれないし」

「財布なくても奢らないって。財布持ってくか食い逃げするか選びな」

「……これでも、高校時代は陸上部だったんだぜ、俺」

「食い逃げを選ぶなよ」

 

 正善は、沙汰が持つ唯一のまともな友人と言っても過言ではない。まあそもそも友達なんて法則か正善しかいないのだが。

 ちなみに、何かの授業でペアを作ることになった時、あまり者二人でペアを組むことになったのが二人の出会いだ。さらにちなみに、正善は重度の人見知りである。そうでなければ沙汰などとは関りを持たなかっただろう。

 大学に行く途中にある安い定食屋に行きながら、正善と話す。

 

「……うん。なんか今日はいつもの沙汰くんだね」

「そりゃあ俺はエビデイエビタイムSataRyomotoだからな」

「あはは。いやね、うん。この前沙汰くんに会った時、なんか雰囲気が変わっててびっくりしたんだけど、気のせいだったのかな」

 

 それは、きっともう一人の良本沙汰だ。

 

「そういえば、彼女さんはどうなの。この前嬉しそうに報告してくれた時はものすごい驚いたけど」

「あー、ええと」

「なになに、上手く行ってないの」

 

 もしそうなら、どんなに良かったことか。沙汰とその彼女は現在も良好な関係であるようだった。つい昨日も、彼女と一緒にお好み焼きを作った写真を見せてくれやがったばかりである。同日こちらの沙汰は男二人でせせこましく鍋をつついて愚痴をこぼしていたのだから、光と影のコントラストが美しい。

 

「いやいや、上手く行ってるよ畜生」

「おうおう。え、なにそれどんな気持ちなの。上手く行ってるなら嬉しいんじゃないの」

「う、う……。うれ、しいです。はい」

「そんな苦虫をかみつぶしたような顔で言うセリフじゃないっしょそれ」

 

 二人の沙汰は、講義を分担して負荷が等分になるようにしているが、それ以外では自由に動いている。幸い沙汰は友達が少ないので、同時刻に違う場所にいてもそれに気づく人間はいなかった。

 そして、一人の沙汰が彼女を作り充実した日々を送っているのに対し、もう一人の沙汰は今までと変わらずに肩まで怠惰に浸かっていた。

 

 毎日講義以外で外に出ず、人ともほぼ関わらない生活を送る沙汰にとって、数少ない知り合いから聞く「沙汰」の話はほとんどが自分でない方の沙汰の話だった。最近、大学で知らない学生から話しかけられることも増えた。そういうときは何とか取り繕うのだが、少し限界を感じてきていた。今度沙汰と話し合って解決策を考えた方がいいかもしれない。

 まるで、何かが自分という存在を侵食しているような気分だった。いや、何かなどという曖昧な表現は適さない。自分だ。沙汰は沙汰に、沙汰という存在の隅に追いやられていた。

 

「そうそう、この前話したゲームの話なんだけど」

「ああ、うん」

 

 正善が話すそのゲームを沙汰は知らない。

 

「そういや沙汰くん、田中教授に質問メール書いてたけどどうなったの。ほら、なんか授業で使うサイトにログインできなくなっっちゃったやつ」

「ええと」

 

 そんなことは知らない。

 

「そういえば、この前用意してたプレゼント。もう渡したよね。彼女は喜んでた?」

「そんなこと知らない!」

「え」

「あ、いやすまん。ええとあれだ。ちょっと今彼女と喧嘩中。今日は彼女の話はなしで頼むわ」

「ええ……。大丈夫なの」

「まあ、うん。たぶん時間が経てば何とかなる。だからそんなに気にしないでくれ」

「ならいいんだけど。……そういえば、この前言ってた映画見たけどすごい良かったよ」

「ああ、だろ」

 

 それも知らない。

 結局、その日は講義に集中できなかった。いつも通りのことだが。

 

 

 

 沙汰が帰ると、沙汰が出迎えてくれた。

 

「おかえり。夕飯はシチューだぜ」

「シチュー」

「なおちゃんが好きなんだって、シチュー」

「ああ、そう」

 

 なおちゃん、なおこ、二見尚子(ふたみなおこ)。沙汰の恋人の名前だ。沙汰は直接会ったことはないが、写真を見た限り地味だが結構奇麗な人だった。妬ましい限りである。あと、彼女のことをなおちゃんなどとあだ名呼びする自分を見るのはかなり気分を害する、はっきり言ってサブいぼが立つほど気持ち悪いので止めてほしいと思った。

 

「今日、正善と会ったんだけどさ」

「おう」

「あいつの話すこと、俺が知らん事だらけだったんだよね」

「あー。というと、俺は知ってることか」

「そゆこと」

「たしかになあ。俺もそういうこと割とあるわ。なんとかボロ出さないように頑張ってるけど」

「ま、限界があるわな。今日とか彼女のことについて聞かれて、あまりに分からんかったから喧嘩中って嘘ついてごまかしたぞ」

「まじか。なおちゃんのことならいくらでも教えるんだけどな」

「のろけ話とTicTocほど無駄なことはない。俺の前で彼女の話をするんじゃねえこのリア充」

「ごめんて。で、話を戻すけど、要は共通の知人に関する非共有知識の問題だよな」

「おう」

「いっそのこと二人いることを話すか」

「うーん、いや。ぶっちゃけ面倒な未来しか見えない」

「あー、まあうん」

 

 実は俺、二人いるんだよね。そんなことを話して信じてくれるのは、純粋なガキか頭のいかれた法則くらいだろう。それで、二人いるところを証明するためにわざわざ家に招くのも、よほど関係が深い人でないと難易度が高いし、二人そろって外を歩いたら確実に騒がれる。

 さすがに、研究機関にさらわれて非人道的な実験を行われるようなことはないだろうが、沙汰二人のどちらかは無戸籍者ということになってしまった場合、公共機関の利用や大学の学籍に問題が生じる。普通に考えれば「戸籍が住民登録されていない双子」だ。親にまで迷惑がかかりそうだ。

 

「とりあえずは、現状維持だな」

「まあそうね」

 

 結局何も解決しないままだ。沙汰の大好きな停滞である。

 

 

 

『明日はカラオケ行ってくるから』

 

 朝、というか昼。目が覚めた沙汰は今日も今日とて既に家を出たもう一人の沙汰の言葉を思い出す。最近沙汰は、彼女経由で知り合った友人と出かけることも増えた。対して沙汰は今日も一人引きこもり生活だ。

 

「随分と、陽キャになっちゃってまあ……」

 

 妬ましい限りである。過去に、まだ沙汰が分裂する前、自分の中で陽キャという存在について一人会議したことがあった。そしてその時出した結論が「頑張ればなれないこともないけど、友達が多くても遊ぶのが疲れそうだし、陽キャは陽キャで大変そうだからならない」であった。残念ながらその結論は間違っていたようだ。

 

 テロテロリンテロテロリン。

 

 沙汰がベッドの上でスマホをいじくって無益な時間を享受していると、着信音が鳴った。どうやら沙汰からのようだった。

 

「もしもし」

『もしもし俺。ちょっと頼みがあるんだけど』

「はいはい」

『今日の六限、俺の代わりに出てくれない』

「えー。報酬は」

『金貨五枚』

「どこの国だよそれ。異世界転生でもしたのか」

『うそうそ。そうだな、来週の飯当番も俺がやるとかでどう』

「破格すぎね。いいけど」

『了解、頼んだわ。あの授業出席するだけでいいから』

 

 そういえば、アイツ最近は料理が楽しくなってきたとか言ってたな。

 

 

 

 六限。沙汰は初めて行く授業だったが、教授が配った資料に書いてあることを音読するだけの、典型的なつまらない授業だった。確かにこれなら、行かなくても問題なさそうだった。

 退屈な時間。いつも通りの停滞。やることがないと無駄に頭が回りだす。

 

 俺がこうして無駄な時間を過ごしているうちに、世界では勤勉な人たちが前に進み続けている。法則は裸の絵を描き続けるだろう。きっとそれは、絵の技量を養い彼の糧になるし、何より自分の好きなことができているだけで上等だ。正善は真面目な奴だから、俺の何倍も勉強してるし、部活も頑張ってるから将来就活するときに役立つだろう。沙汰は、もう一人の俺は、今では彼女を作り友達も増えて、ものすごく充実した今を生きている。

 

 俺は、俺だけは、何もないスカスカな生活をしている。俺は昨日何をした。なにもしていない。今日だって何もしていないのにもう五時だ。きっとこれから帰っても何もしないのだろう。大学生活を振り返って、俺は何をした。何を残せるというのだろうか。

 ダメだ、だめだだめだ、このままじゃだめだ。

 そう思っては、何もしないのだろう。救いようがない。

 

 

「おつかれさま、沙汰くん」

「……おう、おつかれさま」

 

 講義が終わり、そのまま家に直帰しようとしたところで正善に遭遇した。というか、正善もこの講義取ってたんだな。その言葉はもちろん口には出さない。

 

「そういえば、この前のテストどうだった」

「だめだな。というか今回、めちゃむずかったじゃん。なんかこの講義、例年受講生の半分が落とすらしいぜ」

「そんなこと言われてたね。僕も今回はかなりヤバい。多分四割も取れない」

「まじか」

 

 正善は真面目だが、容量が悪い。何度かテスト本番で大コケして落単していた。今回もそうなるかもしれない。

 

「いやあ、今回は正直切りだね俺は」

「ええー。必修だよ。来年またやるのいやだな」

「とはいえもう無理だって。俺三割も取れた気しないもん」

「うーん、まあでもまだいけるっしょ

「無理だよ」

「そう。ま、僕は頑張ってみるよ。ワンちゃん期末は取れるかもしれないからね」

「無理だよ!」

「え、いや、そんなに言わなくてもいいじゃん」

「……っいや、すまん。その、あれだ。頑張ってくれ」

「え、あっちょっと」

 

 やってしまった。その一心が沙汰の思考を満たす。不思議な焦りがとにかくここにいてはいけないと体を動かし、走り出す。

 走りながら考える。一緒に落単してくれよ。いやそんなことを友達に求めるなよ。俺が変わらないと。でも変わるなんて無理だ。だめだこれじゃあ来年も落とすんじゃないか。沙汰の頭をどうしようもない考えがめぐる。

 思考がまとまらず、息が切れる。

 

「はあ……はあ……」

 

 思考がまとまらない。

 ……ここまでくれば、追ってこられない。歩こう。半ば言い聞かせるようにそう思考し、ゆっくり、ゆっくりと速度を落として歩いていく。

 苦しい。息もそうだが、それ以外も。世界が自分の居場所をギリギリと絞り上げている気がした。

 

「……少し、休むか」

 

 今までも、こういう感情から来るどうしようない問題は時間が解決してきた。ひとまず、いつも通りの無益でくだらない時間でそのちっぽけな自尊心についた傷をいやそうと沙汰は考えた。

 だから。

 

「あっ。沙汰!」

 

 だからだ。

 

「奇遇だね、えへへ。というか、確か今日は友達と買い物する予定があるんじゃなかった」

 

 だから、今彼女にだけは会いたくなかった。

 

「……沙汰? どうしたの、顔色悪いよ」

 

 取り繕え取り繕え取り繕え取り繕え取り繕え取り繕え。俺は良本沙汰。二見尚子は俺の恋人で、俺は彼女のカレシ。

 

「ああごめん、ちょっとめまいがして」

「大丈夫? もしかして体調崩したから行くのやめたの?」

「ああ、うん。ちょっとね。でも、大丈夫。帰って寝たら治るから……」

「……ほんとに大丈夫?」

 

 沙汰の顔色は悪い。ただでさえもう一人の沙汰に比べ室内にいる時間が長いため白い肌は、完全に血の気が引いて青白くなっており、全力で走った疲労が抜けきっていない肺は空気を求め、息が上がっている。今にも倒れそうだった。

 

「大丈夫……」

「……うちに来なよ。夕飯、シチューなんだ。もともと三食分は作る予定だったから量は問題ないし。なんだか、今の沙汰を一人にするのはまずい気がするし」

「……ぇ」

 

 尚子がそう提案するのは至って自然なことであり完全なる善意から来るものであった。それに対し沙汰は。

 

「あ、ああ……」

 

 沙汰は、それにうなずいてはいけないことを理解していた。直感が、理性が、本能までもが、彼女の提案に乗ってはいけないと訴えかけていた。もしそんなことをしたら、沙汰は決定的に壊れてしまう気がした。

 

「どうする?」

「そう、させてもらおうかな」

 

 だから、沙汰がなぜそう返したのかは、本人にすら分からない。

 

 

 

「ほんとに具合悪そうだね、あとちょっとで着くから頑張って」

「ありがとう……」

 

 家に着くまでの道すがら、彼女は沙汰を心配し、繰り返し優しい言葉をかけた。なんていい人なのだろうか。惚れてしまいそうだった。実際、沙汰はそういうところに惚れたのだろう。苦しい。

 

「とちゃーく。散らかっててごめんね、今片づけるから」

 

 扉を開けるといい匂いがした。ペットボトルと空き缶が転がっていたり、捨てそびれたゴミが置いてあるなんてことはなく、ブーツやスニーカーが向きを揃えて置いてある清潔な玄関に出迎えられる。犬の刺繡が施された玄関マットがかわいらしい。

 ごくり。踏み入れてはならない聖域に踏み込む緊張から、のどが鳴る音がした。

 

「……お邪魔します」

「はいはーい、上がっちゃってー」

 

 溜めることなくしっかりと洗われている洗い物。整理された料理棚。清潔な廊下を抜けると、これまた清潔なリビングが現れる。部屋に漂うほんのりと甘い、感じのいい匂いが動悸を強める

 生活感を主張するのは椅子に掛けられたパーカーや部屋の隅に置いてあるパジャマ、ローテーブルの上に置かれた数冊の小説とコーヒーが入っていたらしきマグカップ、机の上に広がる教科書とレポート用紙。それらからも不潔感は感じられず、むしろその生活感すらもこの部屋に不思議な魅力を与えていた。

これで「散らかっている」判定ならば、沙汰の部屋などゴミ捨て場と同じような物だろう。

 

「おつかれさま。どうする、ちょっと横になる?」

「……いや、そこまでは大丈夫。ほんとに。時間が経てば、治るから」

「そう?遠慮しなくていいからね、辛くなったら言ってね」

「うん」

 

 彼女の視線の先にあるベッドを見る。あんなところで寝てしまったら、多分ほんとに取り返しがつかなくなる。沙汰はそう思った。彼女の匂いに包まれてまどろみに落ちたらどれだけ心地が良いだろうか。考えただけでゾッとする。

 とりあえず、ローテーブルの隣に置かれた座布団の上に座る。

 

「はいこれ、粗茶ですが」

「粗茶というか麦茶じゃん。……ありがとう、麦茶が一番好きだわ」

「でしょう。知ってる」

 

 だめだ。居心地がいい。気持ちが悪い。

 

「そういえば、カル藁読んだよ。沙汰が随分推してたから読みたくなっちゃって。もう、滅茶苦茶よかったよ」

「だよな。いや、あれはマジ神作だから」

「最後の最後のタイトル回収が良かったよ。カルネアデスの藁って出てきたとき、思わず声が出ちゃったもん」

「わかる」

 

 雑談が異常に弾む。初めて会うはずなのに相手は自分のことをよく知っていて、沙汰自身も不思議とどう返答したらいいのかが理解できた。沙汰が彼女を好きになった理由がよくわかる。気が合う。沙汰の彼女なのだから、当たり前のことなのかもしれない。なんだよそれずるいじゃん。そう思ってしまう自分に吐き気がする。

 

「そういえばこの前行ったカラオケ屋さん、今度の土日で割引キャンペーンやるんだって。また一緒に行こうよ。私、最近リチャード・ソンジリスの歌練習してるんだー。聞いてもらうよ」

「そうだね、また行こう」

「そうだよ、また元キーでキャラメP曲歌ってよ」

「……うん」

 

 いまさらになって沙汰に当たり前の前提条件が付きつけられた。彼女と付き合っているのは沙汰ではない方の沙汰なのだ。

 

「先週一緒に見た映画、今度あれの続編やるんだって。今度はテレビじゃなくて映画館で見ない?」

「……いいね」

 

 彼女が話しているのは、沙汰ではない。沙汰と全く同じ顔をして、同じ体で、同じ人生をつい最近まで歩んできただけの別人だ。当たり前のことだった。

 

「……ねえ、沙汰」

「なに?」

「ありがとね、いろいろ。沙汰には助けてもらってるよ」

「……」

 

 止めてくれと叫びたくなった。沙汰は彼女を助けたことなどない。その言葉を受け取る資格があるのは沙汰でない方の沙汰だ。

 沙汰は自分の首が自らの手で絞められていくのを感じた。

 

「好きだよ」

 

 めまいがした。沙汰は、喉から手が出るほど欲しいその言葉を受け取ってしまった。それも宛先違いという誤りの結果で。

 今すぐにでも逃げ出すか、いっそのこと真実を話したかったが、己の名誉と、もう一人の己のために、望まれる返答を返さなければならなかった。

 

「俺も好きだよ、なお」

 

 吐き気がした。自分の口から出てくるでたらめに。他人の信頼にただ乗りして幸せを感じてしまう自分に。

 

「えへへ」

 

 そう笑う彼女はとてもかわいらしい。そう思った沙汰はどうしようもなく気持ち悪い部外者でしかない。

 

「これ。本当は、明後日やる予定だったお誕生会で渡そうと思ってたんだけど、どうせなら当日に渡した方がいいよね」

 

 そう言って彼女が取り出してきたのは、奇麗なラッピングがされたプレゼントだった。

 

 ああ、そういえば俺、今日が誕生日だったのか。正善にも法則にも伝えてないのに、彼女には伝えてたんだな。一瞬そんな、どうでもいい感想が出てきて、その後に情報の処理を終えた沙汰の脳が全力でそれに拒絶反応を示す。

 

「えへへ、大したものじゃないけど……」

 

 それを渡されるべきは、沙汰ではない。もう一人の、彼女に対して真摯に付き合いその愛を勝ち取った沙汰が貰うべきものなのだ。

 思わず伸びた手を切断したいと思った。そこまで堕ちてしまった自分に心底嫌気がさした。

 

「……沙汰?」

「ごめん!」

 

 ここから一刻も早く逃げ出さなければならなかった。脳が肺が胃が足がそれぞれ意志をもってここからの脱出を求め動き出す。

 

「っはぁっ、ぐぅぁっ、ぇぐぁっ……ひゅぁっ」

 

 心臓も肺も踊ってしまってろくに息ができなかったが、それでも走って逃げだした。

逃げて逃げて、足がもつれて転んだ。

 

「ぅあふぁっ……ぅぁっふ……」

 

 そのまま、また立ち上がる気も起きず、一歩も動かずに地べたに寝そべったまま丸まる。膝を抱え込んで、最悪な現状に泣いて吐いた。

 

 きっとこの世界は俺がいなければ完璧に回る。俺は良本沙汰という存在の邪魔者でしかない。俺が二人に分かれたあの日、俺の良いところが全て集まって新たな良本沙汰を形成し、あまりものの、俺という存在のありとあらゆる欠点を寄せ集めて今の俺という粗大ごみが作られたに違いない。

もう、自分はこのままじゃダメだと思った。

 

 ドッペルゲンガーを見た人は死んでしまうのだという。それはもしかしたら、こういうことが原因なのかもしれなかった。一般的に考えて、自分という存在は二人もいらない。意図的に考えないようにしていたが、沙汰の将来は暗い。いまのまま、二人三脚で生活なんて、社会に出たらできるはずがない。それに、彼女と同棲や結婚をするとことになったとしたら、沙汰は今度こそ完全にお邪魔虫となる。戸籍もなく学歴もない成人男性が野に放たれれば、待っているのは絶望だ。

 

 ドッペルゲンガー。どちらが死ぬべきかなんて、だれの目から見ても明らかだった。どちらが偽物であるかも、これまた明らかだった。

 だからこそ、ああ。

 

 

 もう、自分はこのままじゃダメだと思った。

 

 

 

 

 ガチャリ。

 開き慣れたドアには鍵がかかっていなかった。どうやら、もう一人の沙汰は既に帰宅済みのようであった。

 

「おかえりー」

 

 リビングから自分の声が聞こえてきた。そちらを見ればデスクチェアに座る背中が確認できた。

 沙汰は返事を返さずに一直線で、靴を履いたままキッチンへと向かった。シンクの下の両開きの扉を開けば、そこには目当てのものが収納されている。見慣れた金属光沢が今日は特に鋭い。

 

「……ふぅ」

 

 沙汰は、自分の首に包丁を突き立てた。

 

「……じゃあな」

 

 薄皮を突き破り、肉を分け、包丁が進む感覚。動脈に辿り着くと、噴水のように血が吹き出す。

 

「ぐ……ぁっ……」

 

 派手に血が飛び出て、自分のことながら驚いてしまう。苦しそうにもがく手足をどこか他人事のように眺めた。

 

 ドクドクドクドク。ドパドパドパドパ。

 

 赤い血は生きている証だった。時期に黒い血に変わる。

 シーツに広がった。床に滴った。一目見て手遅れと分かる量の、抜け落ちた命。

 

「……な」

 

 沙汰は最期の言葉を言う前に死に絶えた。

 最期、目が合っていた。自分のことだから、何を言おうとしていたかわかる。「何してるんだよ」、もしくは、「なんで」。

 

 仕方ないじゃないか。こうするしかなかった。俺を責めるなよ。自分のことだぞ。沙汰は心の中でそう言い訳をした。

 

「どうだ。どうだ俺、ざまあ見たな」

 

 足が温い液体で浸る。もう一人の自分の生きた証を踏みつける。

 

「彼女ができても料理が上手くなっても、お前は俺なんだから、人間なんだから、殺せば死ぬんだよな」

 

 包丁を引き抜こうとして、思いの外固く刺さっていて抜けず、血で手が滑って尻もちをつく。無様に血にまみれる。

 

「うぐっ。っははは。はははははははあ。おかしいよな。こんなにあっさり、死んで」

 

 死。口の中でその言葉を転がす。噛み砕いて頭の中に送り、脳でじっくりと処理する。

 生まれて初めて人を殺した。自分を殺した。自殺だ。他殺だ。

 

「そうだよ。お前はさ、死んだんだよ。だから、あれだ。お前は死んだから、もう何もできないんだ。お前は死んだんだからな」

 

 手の震えが止まらない。それなのに、瞳孔が開いたままの自分はピクリとも動かない。それをそうしたのは自分なのだ。

 

「あ、はは、はははは!あははははははぁぅオェッ」

 

 思わず笑い声が出た。そして吐いた。ゲロが血に混じる。しかし、どうせまとめて掃除するのだから問題はなかった。

 

「そうだ。この後は、そうだな。死体は風呂場で血を抜いて、レンタカーを借りて、ドライブでもしよう。海沿いをずうっと走って、できるだけ人気のない場所にそれを捨てるんだ。俺は生きているんだから、行方不明者は出ない。誰も俺を探さない。仮に見つかったところで、俺は生きているのだから殺しようがない。ついてる指紋も毛髪も、すべて俺のものなのだから問題ない。そうして後は。後は、そうだな」

 

 後は何も残らない。

 

 ああよかった、これで俺は生きていける。沙汰はそう呟き、今度は滑らないように、しっかりとシンクの淵を掴んで立ち上がり、血を拭くためのタオルを探した。その途中、リビングに置いてある箱が目に留まった。

 体が吸い寄せられるように動いてそちらへ向かった。見れば、その箱は奇麗にラッピングされている。そしてその横に、メッセージカードが置いてあった。書きかけのようだ。図らずとも、これがもう一人の沙汰の遺言書となったらしい。

 

『Happy Birthday to Me !!

 最近元気がないから俺は俺のことが心配でなりません。でも今日はめでたい日だから、これでも食べて元気を出そうぜ。もちろんこれは俺の誕生日でもあり俺を祝うものでもあるんだから、俺も一緒に食べさせてもらう! 最近は忙しくてなかなか話ができなかったから、今日は久し』

 

「ぁ」

 

 どうやら、今日沙汰が沙汰に六限の代理をさせた理由は、沙汰にサプライズでこれを買って来るためらしかった。

 彼女にすら友達と用事があると言っていたあたり、沙汰はこのささやかなサプライズを前々から計画していたのだろう。

 

「う、あ……あ、うっぷぁうげえええええええええええええ」

 

 胃液しか出なかった。

 

 

 




 彼に限らず人生は分岐します。後悔しない選択をすることが望ましいですね。

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