その時、冴羽獠の時間はまるでストップモーションのように、ゆっくりと流れていった。
銃撃されたハインツが体を後ろに傾け、地面に鈍い音を立てて倒れる。飛び散った血しぶきを全身に浴びながら、彼は思考の洪水に飲み込まれていた。
守るべき対象、ハインツが
万全の状態で護衛していたのに、それを破られた。
シティハンターとして、致命的な依頼の失敗、そして敗北。
来生三姉妹に、父との対面を果たせなかった、悲劇に変えてしまった。
俺は、何が、何をミスった? どこで間違った?
あのゴルゴ13が、遠距離狙撃の達人が、どうしてここまで至近距離から?
何故このタイミングで奴は狙撃を決行した? チャンスはいままでいくらでもあったのに!
依頼の報酬。泪との一発も、そして香が受け取った高額報酬も、全てご破算となった。
裏の世界のナンバーワン、その異名も、信用も、そしてプライドも全て失った。
取り返せない、取り返しがつかない。
心臓を貫通している、間違いなく。
もう……ハインツは、助からない。
思考がぐるぐると回る、巡る。
脂汗と冷や汗が、まるで競い合うように全身から噴き出して来る。
暑い、寒い。猛る、震える。湧き上がる、沈み込む。
怒りが、悲しみが、自責が、絶望が。やり場のない感情の数々が、獠の全身を這いまわる……止まらない。
そんな永遠とも思える時間は、美女たちの悲しみの声で終わりを告げた。
「いやあぁぁぁぁーっ! お父様あぁぁぁっ!」
泪が倒れたハインツの傍らにしゃがみ込んで、錯乱しながら懸命に話しかける。
「なんで、なんで、なんでよぉーっ!」
瞳が血塗られた父の胸にすがり付きながら、涙をぽろぽろ流して理不尽な絶望へ抗議する。
「うそ……そんな、パパ。やっと……会えたのに」
愛がハインツの足元でがっくりと両ヒザを付き、感情を失った顔で現実を嘆く。
(……すまん)
獠が心底からの謝罪を向ける。ハインツを守れなかった事よりも、この美女たちにこんな涙を流させてしまった、自分の不甲斐なさに対して。
そしてその泣き声の三重奏が、彼を現実に、やるべき行動に引き戻した。
「香……すまないが、
そう背中で告げて、懐のマグナムを抜いて、一歩、二歩踏み出す。
顔を上げる。前を向く。もうとっくに居なくなったゴルゴ13の狙撃地点、ほんの10m先の地点を、その先の逃走経路を、睨み据えて。
ダッ! と駆け出した。左手でスマホを取り出しながら、喫茶キャッツアイの裏手の路地に飛び込む。
「海坊主ッ!」
”獠か! どうなった……殺られたのかっ!?”
電話に即応答した海坊主に、獠は断固たる決意をもって、冷静かつ怒りを含んだ声でこう告げた。
「奴を……ゴルゴ13を、
オトシマエは必ず取る! この借りは絶対に返す! 絶対に逃がさんっ!!
(俺に……美女のあんな悲しい涙を見せた代償、きっちりと払ってもらうぞ、ゴルゴ13ッ!)
シティ
電話の向こうで「分かった」とだけ答えて通話を切る海坊主。同時に獠が失敗をし、ハインツが殺されたことも察した。彼は美樹に向かい、恩人である来生三姉妹へのせめてもの
「美樹! 獠の奴はしくじった。ゴルゴを包囲するぞ!」
「了解よ、
◇ ◇ ◇
「お父様、お父様っ! お父様ッ!!」
今だ
心の臓を撃ち抜かれた彼が、その直前までに体に流された血液が体内を一周するまでのわずかな時間、娘達との再会を辛うじて果たす。
「るい……泪、か」
「お父様っ!」
息も絶え絶えのハインツに、泪が涙でくしゃくしゃな顔を向ける。瞳もまた顔を上げ、ハインツの血でまみれた顔を、思い出の父に向ける。
「しっかり、しっかりして……やっと、やっと会えたのに」
「ひとみ……瞳、か。大きく……」
彼女の方を目だけで追い、右腕を上げてその頬をすっ、と撫でる。
「パパ……わたし、愛だよ。わかる?」
傍らにしゃがみ込んだ愛が、その父からもらった唯一の宝物、名前を告げる。
「おお……おお、お前が、愛、か……なんと……」
三人の娘を一人ひとり目で追って辛うじて一言告げる。そしてそれがハインツの残り時間をほぼ全て奪ってしまっていた。
ハインツは、まるで最後の力を振り絞るかのように、自分の顔を覗き込む娘達に、言葉を紡いだ……。
「絵、を……わたし、の……個展の……絵を・・・・・みるの、だ……」
その言葉を最後に、ハインツは糸の切れた人形のように、その首を、手を、がっくりと垂れた。
「お父様あぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーっ!!!!」
泪が天を仰いではばからずに泣き叫ぶ。瞳は逆に座ったまま俯いて、声にならない慟哭を上げていた。
愛は父の遺言を心で何度もリピートし、その意味が分からずに呆然としていた。エヲミロ、絵を見ろ? どうして?
それ、この状況で言う事?
ひとしきり悲しみに暮れる三姉妹の周囲では、すでに他の面々が次の行動へと動き始めていた。香がミックに連絡を取り、ハインツの遺体を教授の元に回収するための指示を出していた。
武内と平野は周囲にちらほら集まり始めた野次馬を追い返し、麗華は冴子に連絡を取って事の次第を告げ、事態をなるべく大きくしないように念を押していた。裏の世界のイザコザに表の警察が早期介入するとかえって混乱を招くからだ。特に冴羽獠が敵討ちに向かっている今はなおさらである。
永石は長年探していた親友が目の前で死んだことに対し、三姉妹の悲しさをも汲んで、怒りで肩を震わせている。やがてヒザを付いた彼は、その拳で地面のアスファルトをゴッ! と殴りつけた。
やがて教授とかずえの乗った車が到着し、毛布を持って降りてくる。それを出迎えた香が、未だハインツのそばに佇む三姉妹に声をかける。
「泪さん、瞳さん、愛ちゃん……シティハンターとして、お詫びの申し上げようもありません。とにかく、ハインツさんを」
そう促した瞬間だった。瞳が香をきっ! と睨みつけて立ち上がると、その胸倉を引っ掴んで……
パァンッ!
強烈なビンタを、彼女の頬に叩き付けていた。
「なにが……なにがシティハンターよ! 世界一のスィーパーよ!! どういうこと? なんで、どうして……こんな事にっ!」
パァン、バチィン、ピシィッ、と音を立てて、泣きながら何度も何度も香を殴りつける瞳。
「返して、返してよ! お父様を……返しなさい、このポンコツスィーパーっ!!」
「よせ、瞳っ!」
錯乱する瞳を背後から羽交い絞めにして抑える俊夫。
「なんで!? 放してよ俊っ! 知ってるでしょ、私たちがどれだけ頑張って、苦しんで……泥棒までして、お父様に……会いたかったのに、それが、こんな、こんなっ!」
パンッ!
そんな瞳の頬を、今度は俊夫が引っ叩いた。
「憎むべき相手を間違えるな! ハインツさんを殺したのは香さんじゃない!!」
「……俊、っ」
その俊夫の剣幕に、瞳はまるで怒りの行き場を失ったように呆然として、その場に立ち尽くした。
その足元では、かずえと教授がハインツを毛布でくるんで、自分の車に乗せてから告げる。
「じゃ、ワシらは退散するぞい」
頬にアザを作った香が、こく、とだけ頷いたのを見て、車を発進させる教授たち。その様を見届けてから、俊夫が香に頭を下げた。
「すいません槙村さん、瞳が取り乱してしまって……」
「いいえ、いいんです。当然の事です」
香は獠に「後は頼む」と言われていた。それは依頼を遂行できなかったシティハンターの一員である香に、依頼人たちへの詫びをしておいてくれ、という意味でもある。
ある意味ゴルゴ13と渡り合うよりも困難な仕事を、香は逃げずに引き受けたのだ。
「泪さん……依頼を果たせず、本当に申し訳ありませんでした。頂いた前金は必ずお返しします」
そう泪に頭を下げる香。だが泪は誰よりも取り乱していて、未だに空を仰いだまま「お父様……お父様……」と、うわごとのように呟き続けている。
妹たちよりもより長い時間、ハインツとの思い出を持っている長女の泪にとって、ショックはより大きかったのだろう。普段の気丈な彼女の壊れっぷりに、周囲の誰もが沈痛な面持ちになる。
「
「え?」
末娘、愛の言葉に瞳が、そして泪がはた、と目を向け、耳を傾ける。
「パパ、展示会に絵を見に行けって言ってたよね……あれがパパの遺言なら、行くべきなんじゃないかな」
愛はハインツに対する記憶が無かった。彼女が生まれる前にハインツはすでに失踪してしまっていたのだ。
その事実に加え、泪と瞳が激しく取り乱してしまったことで、彼女は泣き崩れるタイミングを失ってしまっていた。その代わりにハインツの残した、どこか不自然な最期の言葉がひっかかっていたのだ。
「私も、そうすべきかと思います」
永石が無念の
画家の彼が残した絵を見ることで父親を感じられるならば、ここで悲しみに暮れているよりは、せめてもの慰めになるのではないだろうか、と。
「じゃあ、行きましょう」
香が頬を赤く腫れあがらせたままそう勧める。ここから展示会場までは徒歩でほんの5分ほどの距離だ、獠に後の事を任せられた香にとって、彼女たちのエスコートは残された最後の仕事になる。
瞳は俊夫に、泪は永石に支えられながら、失意のままに会場へと向かう。開場時間はまだ二時間以上も先だが、それでもあそこに行けば父が、父の生きた痕跡がある、そう信じて重い足を会場へと運んだ。
エレベーターすら無い雑居ビルの階段を上がり三階に到着する。一応、絵画展示会の体裁を整えられた花輪や飾りつけ、看板のしつらえられたドアの前に立つ一行。
そしてその前には、一人の男が立っていた。
「来生様ご一行の皆様ですね。
うやうやしく挨拶したのは、つい先日瞳が入れ替わろうと襲いかかって躱されたあの作業員だった。今日は一転背広姿で、紳士的に瞳たちを出迎える。
「どうぞお入りください」
ドアを開け、一行を会場に招き入れる男。未だ誰もいない部屋の中に入った彼女たちは、その壁と言う壁に並べられた絵画の数々に……言葉を失っていた。
「おとう、さま……」
そこにあった全ての絵画。それらはすべてが『ミケール・ハインツ』だった。
彼の自画像がその会場を埋め尽くしていたのだ。ある絵は彼が真剣な表情で絵筆を握り、別の絵は美しい女性とティータイムを楽しんでいる姿だった。また別の絵は、彼が美しい風景の中、満足げに深呼吸している。
そんな絵の一つに目を止めた瞳は、それから目が離せなくなった。いまっよりずっと若い頃のハインツが、幼い少女の頭を嬉しそうに撫でている絵であった。
――そしてそれは、幼い頃の