『緊張』という現象は、本来我々人類の祖先が他の動物や災害から身を守る為の反応だと言われている。
緊張すると、脳内の扁桃体が感じた恐怖やストレスが信号として視床下部に伝わり、『心拍数を上げる』・『呼吸を速くする』と言った体をすぐに動かせる様準備をさせる指示が送られるのだ。
面接や試験等、心理的ストレスを感じる場面においてもそれは同様であり、つまりそれらの場面に際して『怖くて逃げ出したい』と感じてしまうのは、生理的反応として何らおかしくはないものだと言える。
ましてや、直面する事象に対してその人物が密接に関わっているとなれば、それが周囲に受け入れられるかを不安に感じるのも当然と言えよう。
空気が冷え乾燥しているのを示すかの様に、人々の吐く息は白く、厚手の服装やマフラー等の防寒着に身を包んでいる。
しかしそんな傍目から見た光景とは裏腹に、本来なら年末が近付き、自然風景を含めどことなく寂しさを感じる季節にも関わらず、その場所に集まった人々の多くから活気が感じられるのだ。
それはさながらこの日、この場所に訪れる事を長らく待ち望んでいたかの様であり、その『待ち望んでいたもの』に対する期待感の表れと言えよう。
しかしながら、そんな人々の中にあって尚、それらの感情とは真逆とも言える様子の人物がその場に立ち尽くしていた。
「緊張してる...?」
「しない訳ないじゃないですか...。」
相手からの返答等分かりきった質問ではあったが、それでもその女性_吉祥寺頼子は隣に立つ者に対してそう声を掛けずにはいられなかった。
舞台『東京ブレイド』の公演初日であるこの日、彼女の隣に立つその人物の表情は見るからに強張り、平時以上に口数が少なく感じた故である。
その人物_『東京ブレイド』原作者の鮫島アビ子にとってこの舞台は、ただ自分の作品の舞台化初日というだけではない。
本来なら門外漢である筈の舞台脚本に散々口出しし、当初予定されていた内容から大幅に改変を行なってしまったのである。
そんな状況で『ただの原作者』を気取る事は許されないのだ。
「脚本は納得いくものになったんでしょ?」
吉祥寺のその問いには肯定を返すものの、やはり鮫島の表情は優れぬままであった。
脚本家であるGOAとの合作となった新たな脚本は、どうやらかなり外連味の強い内容になってしまったらしいのだが、原作者というキャラクター達を生み出した立場からすれば、その内容を役者陣が上手く表現してくれれば非常に良い舞台になるだろうと感じてはいるのだが。
「自信満々で出したものがボツ食らう経験、先生にも有るでしょ?」
「有るわねぇ...。」
自分の作ったものが、世界で自分だけしか面白いと思わないものだったら_多くのクリエイターが抱えるそれと同じ悩みに、超人気漫画を手掛ける鮫島もまた悩まされている。
アイデアを出す為に、さながら魂を削る様な思いで考え抜き、懸命に出力したものが全く受け入れられなかった時の無念さたるや、何度経験しても慣れるものではない。
「大丈夫ですよ...、僕もあの脚本の出来には満足しています。
だとしたら、この世界に最低でも二人は面白いと思ってる人がいる事になりますよね?」
世界中を探しても、自分の味方は一人たりと存在しない_そんな考えに陥りそうになる鮫島に手を差し伸べる様に声を掛ける者が現れた。
この脚本を彼女と共に手掛け、そして面白いものになると納得して提出した脚本家_GOAである。
「...天破活殺‼︎‼︎」
「何で‼︎⁉︎」
しかし次の瞬間、鮫島の放った衝撃によってGOAの体は宙を舞う。
彼女が何故こんな技を使えるのか、彼女の性格を加味しても共同作業によって多少なりとも距離が縮まったのではなかったのか、二つの疑問を内包した叫びの後、その体は近くの木へと叩き付けられた。
技を放った張本人はと言えば、まるで初対面時の様に吉祥寺の背後へと隠れてしまっている。
「気にしないで下さい。
この子、青春全部漫画とマジックコンボに費やして男子の免疫無いだけなんで。」
(...いやもっと気にした方がいいんじゃ...。)
「ゲホッ、ゲホッ...。
ま、まぁ、この舞台の成功は役者の皆様に掛かってる。
でも、皆さんは実力ある方々なので...、良い舞台になると信じてますよ。」
息を整えつつ、改めて自分達が作り上げた脚本の内容、そしてそれを十分に表現出来るだろう役者が揃っている事を踏まえ、自信を覗かせるGOA。
鮫島の行動に対する吉祥寺のフォローは、正直な所全く彼の疑問を解決してはくれなかったが、そこには触れない方がいいと察知出来るのも、彼が売れっ子たる所以だろう。
そんな彼の言葉を受け、吉祥寺もまた劇場に設置されたキャスト欄の内の一人に視線を送った。
(実力...、鳴嶋さんはどう対応するのかしら...。)
原作の『キザミ』に有った強者感_役者としての実力を考えれば、どう考えても足りないだろう部分を、自信の作品に出演していた『彼』がどう解決するのか、皆目見当もつかない故に。
「ほうほう、お二人は上手くいってるようでござんすねぇ。」
「まあまあだよ、ははは。」
劇場内にてかつて恋愛リアリティショーで共演して以来の旧交を温めるメム。
彼女と会話を交わす女性_鷲見ゆきと彼女の背後に控えている熊野ノブユキは、あの番組以降プライベートでの交際を開始しており、そんな二人の関係が順調である様子を揶揄い半分で喜ぶが、ふと二人の今の姿とかつて共演した時とのそれに違和感を感じた様だが。
「んーー...?
二人が着けてるブレスレット同じじゃない⁉︎
匂わせお揃っちだー‼︎」
「何でタレントと付き合ってる女って綱渡りしたがるんだろうな...。」
「芸能人だって恋すればただのアホな女の子だからね...。」
「た...、偶々だから!」
メムが感じた違和感の正体は彼女達の手首に有った。
着けている手こそ左右逆であるものの、同じブレスレットをこの様な人目の多い場所で着用している事実に、メム、そして彼女達三人と恋愛リアリティショーで共演した森本ケンゴが呆れた様子を見せる。
一見すると、同番組内でも良好な関係を見せていたゆき達がそのまま交際を続けている様に見えるのだが、実の所彼女は番組最終回におけるノブユキの告白を断っているのだ。
彼女達の関係が実際にどのタイミングで発展し始めたのかはメム達にも定かではないものの、少なくとも公的には『ゆきはノブユキを振った』事になっている。
幸か不幸か、二人共に芸能人としての知名度はそこまで高くない現状では、メムが言う所の『匂わせ』程度で済んでいるものの、男女関係のスキャンダルの危険さは理解出来ていなければなるまい。
ゆきがメムからブレスレットの扱いについて注意を受けていると、ケンゴが客席に到着した者の中に一際目を引く少女を見つけた。
「うわ、めっちゃ可愛い子いる...。」
「あの子、アクアの妹だよ。」
「マジか!
やっぱ遺伝子強えなぁ...。」
「親の顔見てみたい...。」
「絶対美人だろうな...。」
「ああ、それならあの子の隣に。」
メムから齎された『少女がアクアの妹』という情報により、その美貌に納得すると共に彼ら兄妹の生みの親の姿が気になる様子の三人。
成程、子供が揃って美男美女であるなら、その両親もまた相応の美貌であろうと考えるのは自然な事だ。
そんな三人の疑問に対する答えを示す様に、メムが少女の隣にいる人物へと視線を促すが。
「あれってまさか...、本物の魚雷ガールさん⁉︎
それにあの隣の人って...‼︎」
「巻きグソ
「凄え...。
『ウンコ頭のイケメン彼氏』って実在したんだ...。」
「そっちな訳ねーだろ‼︎‼︎
せめて人間から選べや‼︎‼︎」
「なんか、周り雰囲気有る人多いね。」
近くで話題の中心となっている事等露知らないアクアの妹_ルビーが、席に着きつつ周囲の人物から一般客とは異なる雰囲気を感じる事に疑問を抱く。
それは例えるならば、自身の隣に座った魚雷ガール、或いはもう片方の隣の席に座る人物を挟んで更に隣に座っている苺プロの斉藤社長夫妻の様であり、何となしにではあるものの『人の上に立っている』という雰囲気が服装や立ち居振舞いから見て取れる故だった。
彼女もまた、自身の父と兄の関係者枠として席を獲得したのだが、彼女達が座っている席は全体の中では後方であり、そういった『お偉方』にはもっと見やすい前方の席が用意されるのではと考えたのだが、その疑問にミヤコ達が答え始める。
「劇場の後ろの方は、大体関係者席だから。
客の反応を見るには、やっぱり後ろじゃないとね。」
「お客さんの反応...?」
「ああ。
反応の有無や良し悪し。
公演中の客の反応ってのは、アンケートよりもよっぽど生の反応が見られるからな。」
「どのシーンで、誰が出ている時に盛り上がるのか。
特に今回のアクア君の様に、普段舞台に出ない人に対してのそれは貴重な情報になるギョラ。」
「成程...。
何か偉い人になったみたいで気分良いね‼︎」
「ドヤらないの。」
裏側の事情を説明され、自分までもが偉くなったかの如く気分を良くしたルビーに、ミヤコと壱護は呆れた様子だ。
すると、ここまで黙々と何かをしていたらしい彼女の隣の人物が立ち上がった。
「よし、これでオッケーじゃん?」
「...ママ、何それ...?」
その人物_彼女の母であるアイは、正に準備が整ったと言わんばかりの表情で胸を張っているが、彼女としては母が身に付けていたらしい代物が気になる様子だ。
いきなり襷と鉢巻を着用されてはこの反応も無理からぬ事か。
少なくとも彼女達が家を出る時には着けていなかったその襷と鉢巻には、『雰囲気』の文字が刻まれているのだ。
「これ?
『雰囲気タスキ』と『雰囲気ハチマキ』。
さっき魚雷先生に貰ったんだけど、これ着けてるとめっちゃ雰囲気出るんだって。」
「引退したとは言え、あの『B小町のアイ』がいるとバレれば騒ぎになる事も考えられるギョラ。
カモフラージュと考えれば分かりやすいかしら。」
「いや、そんなの着けてたら逆に悪目立ちするんじゃ...。」
謎の襷と鉢巻についての概要を説明されたルビーだが、その効能には疑問を感じざるを得なかった。
母にそれらを渡した者が魚雷ガールであるという事実、そして渡した本人によって語られた目的を鑑みると否定し難い気持ちは有るものの、冷静に考えれば『妙な襷と鉢巻を着けた変人』と思われるのが関の山であろう。
そんな人物とあの『B小町のアイ』が結び付くとは思えない_周囲の人々の心理を逆手に取った作戦とも考えられるが、いっその事ミヤコや壱護の様にフォーマルな服装に身を包んだ方が余程変装としての効果を発揮する様に思えるのだ。
「うおっ⁉︎
見ろよ、あの辺に何かめっちゃ雰囲気有る人いるぞ‼︎」
「きっと凄い偉い人なんだよ...。
失礼の無い様に近付かないでおこう。」
「⁉︎」
「お、ちゃんと効いてるみたいだね!
ルビーも使う?
社長達は使わないって言うから余ってるんだけど。」
「...ううん、大丈夫...。
調子乗ってるとか思われたら嫌だし...。」
「これだけ人がいると、どんな人に見られているか分からない...。
賢明な判断だと思うギョラ。」
自身の判断を好意的に解釈したのだろうか、母も魚雷ガールも自身の決断を賞賛するが、何という事はない。
こんなものを着けて劇に集中出来るとは思えなかっただけである。
舞台へと続く通路。
既にキャスト陣はメイクも整え、『東京ブレイド』の登場人物になっている。
間も無く迎える事になる開演の時刻を過ぎれば、否が応でも彼らは観客の前にその身を晒さなければならないのだ。
そんな通路の壁に背中を預け、話し込む男女がいた。
「いいのか、あかねと話さなくて。
楽しみにしてたんだろ?」
「おじさんのそういうデリカシーの無い所キラーイ。」
『東京ブレイド』の登場人物_『つるぎ』に扮した少女の軽口に対して、隣に立つ男性が彼女の頭を撫でようとするが。
「ちょっ、ストップ、ストップ!
メイク崩れちゃうわよ。」
「っと、悪い悪い。
ついいつもの癖でな。」
少女による制止によってその手は留まり、男性の方もまた今の互いの状況を思い出し己の非を侘びる。
二人の外見だけなら随分と年齢差が有る様に思えるのだが、それを感じさせない良い意味での気安さがお互いの柔らかい表情からも見て取れた。
「別に今更でしょ。
そういうのを態々口に出して...、しかもこんな直前によ?
自分の中に留めて、芝居の燃料にしとく位でいいの。」
「...フッ、『舞台のノイズになる方がイヤ』ってか?」
「あら、よく分かってるじゃない。
かなちゃんポイント10点進呈しちゃうわよ。」
「そりゃありがたい。」
男性_ボーボボの自身の考え方に対する解釈に満足げな様子の『つるぎ』役_有馬かな。
彼と初めて出会った時は、アクアに苦汁を舐めさせられた自身の感情を理解出来ていなかった様子であったと言うのに、それが巡り巡って同じ舞台に立つ事になろうとは、改めて彼の常識破りさを実感してしまう。
今にして思えば、当時の生意気な子役にああも真っ直ぐに疑問をぶつけてくる彼と、本能的に波長が合う事を感じ取ったのかもしれない。
「...『意識しない』ってのは、やっぱり難しいか?」
そんな彼のおかげで当時よりも多少は精神的に余裕が出来たと自負はしているものの、次の問いには肩をすくめる他無かった。
そもそも自分と黒川あかね_同じ天才と称される者同士ではあるが、役者としての性質は全く異なる事は自覚している。
役柄に対するアプローチの方法、『良い演技』とは何かについての考え方、言ってしまえば演技の向き合い方から異なる相手だと言えよう。
そして、それ程考えの違いが大きいのであれば、彼の言う通りいっそ全く別世界の存在と考えてしまう方が、精神的には余程健全である。
「あの子の演技は確かに異質ね...。
おじさんは目の前で見てたからより強く感じたかもしれないけど、例えばあの『魚雷ガールさんの模倣』...。
何をどうやったのか、普通じゃ考えられない程に役に入り込む...、って言うより役を『宿してる』って言い方の方が適切かしら...。
そんなミュータント相手にまともにやり合うもんじゃないって頭では分かってるけど...。」
「...けど?」
「...あの子の演技からは、『私が正しい』、『貴方は違う』。
そういう圧を感じるワケ...。
ほんとーにムカつく...。」
「じゃあ、負けらんねぇよな。」
吐露した感情を、相変わらずこの男性は否定せず、ただただ受け止めてくれる。
背中を押す事も、障壁を排除する様な事もしない。
ただ倒れそうになった時に、何も言わずに支えてくれる。
だから自分は今もこうして錯覚出来るのだ。
自分は自分の正しいと思う道を強く進んでいける『有馬かな』なのだ_と。
覚悟の宣誓を、自らの額に刻まれた苦い記憶を指差しつつ言い放つ。
「ハッ、おじさんもちゃんと見てなさいよね。
『元天才』でも、あの時の練り山葵の礼位はしてやれるって思い知らせてやるんだから‼︎」
「...ねぇアクア君。
ボーボボさんといる時のかなちゃんって、どんな感じなの?」
自身の隣に立つ『鞘姫』に扮する少女_黒川あかねの余りにも唐突な問いには、さしもの星野アクアも返答に詰まってしまった。
他に幾らでもタイミングは有ったであろうに、この本番直前での質問。
それもかなとボーボボが共にいる時となると、少なくとも今回の役柄上では関係の薄い間柄、つまりは『役者』という領域から外れた彼女が知らないかなについての情報を欲している事になる。
「...そうだな...。
例えば、子供の頃に可愛がって貰った美容師とかいなかったか?
そういう仲の良い大人と一緒にいる感覚に近いと思うが...。」
「成程なぁ...。」
この場にいない第三者の情報を明かす故にアクアも幾分アバウトな説明となったが、どうやら質問者側はその答えに得心がいった様子だ。
とは言え、何が『成程』なのかも分からずでは納得出来ない為か、彼女へと質問の真意を問うと。
「『今日あま』の時にも思ったんだけど、その時は理由が分からなくて不思議だったんだよね...。
何でこんなに堂々としてるんだろうって。」
彼女が最初に感じた違和感_『今日は甘口で』のキャスト陣においては必然的に相方となるメルトやその他共演したモデル達は、内情を知らない彼女から見ても素人としか思えない存在であったにも関わらず、かなの演技は良くも悪くも彼らに配慮しない普段通りのものであった事実。
これが『東京ブレイド』における上原大輝、『今日は甘口で』内の一部でのアクアの様な実力者との共演によって引き出されたものなら納得出来るが、当然ながら当時のメルト達をその条件に当て嵌める事はどう彼らに寄り添っても不可能である。
逆に言えば、メルト達がどれだけ真面目に取り組もうが、相方として相応しい演技を見せる事は有り得ないからこそ、彼女は彼女自身の演技を貫いたとも考えられるが、それは作品全体のバランスを強く意識する彼女のイメージとは反するものだ。
「でも、かなちゃんにとっての精神的安寧、『無条件に後ろ盾になってくれる』って思える存在がいたのなら話は変わってくる。
自分らしく振舞う事を肯定してくれる人が近くにいるなら、あの演技も...。
ううん、もしかしたらアイドル活動も『その為』って考えれば...イダッ⁉︎」
あかねの思考は彼女の脳天に訪れた衝撃によって中断させられた。
彼女が恨めしげに衝撃が来た方向へ視線を向けると、呆れた様子のアクアの手刀の痕跡が残っている。
「叩く事ないじゃん!
私彼女だよ⁉︎」
「なら、尚の事こっちに戻って貰わないと困る。
考えるのは自由だけど、せめて終わってからにしろよ。」
番組によって成立した関係とは言え、仮にも自分の恋人である相手にする仕打ちかと抗議の声を上げるあかねだが、余りにもばっさりと切り捨てるアクアの言い分にぐうの音も出ない。
彼からすれば、よりにもよって本番直前というタイミング、しかも第三者の情報を要求した挙句思考に没頭する彼女の振舞いに、軽い手刀の一発で済ませてやった事を感謝して欲しい位である。
幾ら彼女の実力に疑いの余地がないとは言え、先の質問が単なる知的好奇心を満たす為だけのものであったなら、流石にTPOの観点から看過出来るものではない。
「...別にこっちだって遊びじゃないもん...。
相手の状態を正しく認識するのだって大切な事でしょ。」
「...ボーボボさんの存在一つで有馬がそれ程強敵になるのか?」
「そんなに難しい事じゃないよ。
アクア君にだって有るんじゃない?
『この人には自分の一番良い所を見てて欲しい』って経験。」
彼女の言葉に促され自身の記憶を遡ってみれば、成程確かに覚えが有る。
あの病室での奇妙な出会いから始まった『彼女』との関係は、確かに幾分『格好良い大人』として振舞おうとしていたかもしれない。
単なる同好の士としてだけでなく、『彼女』の日々を懸命に生きようとする姿に勇気を貰っていたのは紛れもない事実だ。
一医療従事者としての冷徹な自分が、どれだけ希望的観測を続けても『彼女』に残されていた時間が途轍もなく短い事を無意識に理解していた面も有ったのやもしれない。
「...すっごいニヤケ顔...。
えっ、何、初恋の人とか?」
「...そんなんじゃねぇよ。
で、そうなると有馬はどうなるんだ?」
初対面以来長い付き合いであるアクアの初めて見せる表情、あからさまな誤魔化し方を訝しむものの、それを追求する時間が無い事と自分から始めた話題である為か、あかねも先の情報を加味してかなが見せ得るパフォーマンスについて分析を再開する。
精神的余裕は集中力とストレス耐性の向上へと繋がり、それはパフォーマンスの向上に結び付いていく。
劇団ララライの名だたる役者達、こと2.5次元という世界においてはこの役者陣の中でも頭一つ抜けた存在である鴨志田、舞台出演の経験こそ少ないもののキャリアの長さから確かな実力を誇るアクア、そして『目立つ』という部分に関しては他の追随を許さないあの変人達。
それらを悉く凌駕し得るだけの存在感をかなが放つとしたなら。
「一般的に言われる有馬かなの全盛期。
...『天才子役』と呼ばれた頃のあの人が、また現れるかもしれない...。」
その可能性を彼女がどれ程の覚悟を持って語ったのか。
『天才子役』の呼び名は伊達ではなく、老若男女問わず当時の有馬かなは多くの人々を魅了した。
その中には、彼女と同じ様にかなに憧れ、同じ道を志した者もいる。
そして同じ道を歩めばこそ理解出来てしまう。
今のかながあの時自分が憧れた存在とは別物となってしまっている事、それがこの芸能界という世界で生き抜く為の方法としては否定し難い事を。
故に『あの有馬かな』はもう二度とこの世に現れないと考えてしまっていた。
「...勝てるのか?」
「どうだろうねぇ。
『あのかなちゃん』が相手じゃ、流石に自信無くすなぁ。
私も本気で行かないと無様にやられちゃうかも。」
「その割には楽しそうだな...。
...まぁ、やれるだけやってこいよ。
俺も茶碗二個分位は助けてやれるかもな。」
かつてあかねが圧倒したあの戦い。
その再現を期する『カノジョ』を守るべく、アクアは共に歩みを進める。
『カレシ』として、『懐刀』として。
金田一敏朗にとって、最も緊張する瞬間は何かと問われると、彼は決まってこう口にする。
舞台の幕が開ける瞬間だ_と。
そしてそれは、開幕迄一分を切った『東京ブレイド』においても同様である。
自らが代表を務めるララライの面々、舞台のプロデューサーを務める鏑木勝也が手配した実力者達、そして田楽マンの伝手らしい癖の強い者達。
彼にとっても初となる2.5次元舞台での演技指導、更には稽古開始から間もない段階で原作者と脚本家の衝突、その後脚本の大幅な変更と振り返ってみれば怒涛の一ヶ月間であった様に思う。
自分が考え、指示した演技の方向性は正しいのか。
役者達は十全のパフォーマンスを発揮してくれるだろうか。
本番中に何かトラブルが発生しないか。
考え始めればキリが無く、身体中の筋肉が硬直する感覚から脱する事が出来ない。
開幕を告げるブザーが会場内に鳴り響く。
この瞬間、彼はいつも深呼吸を行っている。
自らを落ち着かせる為の、そして自らが指導し表現を託した役者達を信じて送り出す為のルーティンだ。
「さぁ、開幕だ。
全部出して来い。」
漸く開幕です。
次回、メルトの名シーンである『キザミ』対『匁』から開始します。
筆者も大好きなシーンなので気合い入れて書かせていただきます。