本話において、『東京ブレイド』のキャラクター名表記を『』有りと無し、両方で表記しております。
区分としては、『』有りが役としての意味合い、無しが『東京ブレイド』作中の登場人物としての意味合いとしてご理解いただけますと幸いです。
例
『キザミ』:キザミを演じるメルト、及びキザミを演じる事について触れる場合
キザミ:キザミというキャラクターそのもの
極東に集った21本の刀、『盟刀』は持ち主に様々な力を与える。
そして、全ての『盟刀』が最強と認めた者には、国家を手にする程の力_『國盗り』の力が齎されるという。
以上が、『東京ブレイド』の骨格となる設定だ。
主人公のブレイドを中心に登場人物の出会いと戦いを描きつつ、彼の仲間達_所謂『新宿クラスタ』を結成する迄が舞台『東京ブレイド』の第一幕となる。
続いて幕を開ける第二幕にて登場するのが、鞘姫を頂点とした『渋谷クラスタ』。
この二つの勢力の対立を描いていくのだ。
そしてそれは、『新宿』側のキザミと『渋谷』側の匁の戦いから始まる。
「鴨志田君を紹介してくれたのは助かりました。
あれは良い役者だ。
...時々おかしくなるけど...。」
『匁』_軽薄さを感じさせる普段の人となりとは真逆とも言える役の再現を、完璧と言える段階に仕上げてみせた鴨志田朔夜を手放しに賞賛しつつ、彼の手配を行った鏑木勝也に感謝の言葉を述べる舞台『東京ブレイド』の総合責任者_雷田澄彰。
劇団ララライという役者陣の確かな実力と比例する様に、演劇の界隈内でも硬派なイメージが付いた者達を起用した2.5次元舞台。
原作の『東京ブレイド』が如何に超人気漫画作品と言えど、その幅広いファン層の中でも演劇に興味を持っている者、或いは定期的に観劇をしている者というのは残念ながらまだまだ少数派と言わざるを得ない。
なればこそ、この『東京ブレイド』という特大のコンテンツによって足を運んだ新規客層に、2.5次元のみならず演劇そのもののファンになって欲しいというのが雷田の狙いであった。
その為には2次元のキャラクターを現実へ持ち上げる2.5次元のノウハウと、役者達の単純な演技力の高さの複合が絶対条件となる。
この内、『演技力の高さ』を補填するのがララライであり、鴨志田と同じく鏑木が手配した有馬かなや星野アクアだ。
しかし如何に基礎的な演技力が備わっていると言えど、2.5次元の経験が圧倒的に不足しているのは紛れもない事実。
彼らの手本となり得る鴨志田の存在は、この舞台の成功に不可欠な要素と言えよう。
「ただ...、彼だけは、ちょっと分からなかったかなぁ...。」
先の言葉とは打って変わった静かなトーンで語る雷田の視線の先には、今正にその鴨志田と舞台上で対峙している者がいた。
鳴嶋メルト_さして知名度が有る訳でもなく、本業がモデルという事を加味しても演技力は辛うじて及第点に指先が届くかどうかであり、本来対峙する鴨志田やララライの実力者と並べるべきものではない存在。
同じく彼が出演し、鏑木がプロデューサーを務めた『今日は甘口で』の演技も、素人ながらの努力は垣間見えるものの、上手いとは口が裂けても言えない内容であった。
これがハジケ組の面々の様に、『エキセントリックな言動の役に相応しい』と言える存在ならば、多少の経験の少なさを加味しても推挙する事に理解が及ぶものの、現状メルト個人に対して大した思い入れがない雷田からすれば、他に幾らでも『キザミ』に相応しい存在を手配出来たのではと感じてしまうのだ。
少なくとも、未だ知名度は低くとも確かな実力を持つ存在を見つけ出すだけの人脈を鏑木は持っているのだから。
或いは、彼のデビュー作である『今日は甘口で』の現場にて、何かしら光るものを感じたのだろうか。
「なんて事はない...、ただの私情さ。」
何故彼を抜擢したのか_そんな意図を含んだ雷田の視線に対し、鏑木はいつも通りの皮肉げで、しかし真っ直ぐにメルトを見据えた笑みを浮かべる。
とは言え、その余りに論理性を欠いた言い分には雷田も思わず顔を顰めてしまうが。
「世の中そんなもんでしょ?
空いてる席有ったら、気に入ってる子捩じ込むもんだ。
顔も良いし声も良い。
演技の方は、時間を掛けて上手くなればいい。」
「人の舞台を稽古場に使わないで下さいよ...。」
「いや、君も気に入ると思って推したまでよ。
だって君も好きでしょ、がむしゃらに努力する子。」
雷田とて鏑木の言い分が理解出来ない訳ではない。
キャスティングに際して個人的な感情が介入する事等さして珍しい事例ではなく、『上の人に気に入られる』というのは仕事をし易くする為の大きなスキルの一つと言っていい。
彼自身、鏑木の語ったメルトの美点については認めている。
他のキャストと問題を起こした報告も上がってきてはおらず、少なくとも拙いなりに懸命に『キザミ』という役に向き合っていると言えよう。
「それでも僕の考えが納得出来ないと言うなら、彼女の反応を見るといい。
彼のキャスティングが失敗だったかどうかの判断を厳正に下してくれる筈だ...。
何しろ、世界一厳しい目で彼を見ている人だからね。」
鏑木が指差した先に雷田が目を向ければ、そこではメルトのデビュー作_『今日は甘口で』原作者の吉祥寺頼子が、彼が懸命にもがき奮闘する様に真剣な眼差しを向けていた。
(『今日あま』の時と比べれば、確かに鳴嶋さんは成長している...、けれど...。)
今現在、舞台上で『キザミ』として『匁』と対峙しているメルトの演技に、吉祥寺は自身と彼が初めて出会ったあの現場以降、彼が着実に努力を積み重ねた事を、自分が演じるキャラクターと向き合う事の意味を理解している事を感じ取る。
『キザミ』らしい力強さと活気を感じさせる掛け声と、素人目に見ても大きいアクションを続けて尚息が上がっていない様子から受けたものだ。
自身の演技力の拙さを歯痒く感じた様子で頭を下げていた彼の姿は記憶に新しく、あの一件を機に彼がより真剣に役者としての道を進み始めた事を嬉しく思う気持ちは有るが、それらを踏まえて彼女は一つの判断を下さざるを得ない。
彼の演技力は、現状明らかに悪目立ちするものになってしまっている_と。
キャスト陣の中で彼女が演技力についての認識を持っているのは、メルト以外では有馬かなと星野アクア_『今日は甘口で』の出演者のみである。
この他に役者の演技力というものにさしたる見識の無い吉祥寺が実力を判断出来る者としては、公的に数々の賞を受賞している上原大輝が挙げられるか。
何れにせよ、彼女には役者達の演技力がどれだけ優れているか等判断は出来ず、それは多くの演技というものに興味が無い層にとっても同様であろう。
では、そんな者達でも判断出来るのは何か_実力が拙いかどうか、言い換えれば自分達素人と近いと感じてしまうかどうかである。
(原作の彼らの対決は、『キザミ』の方に強者感が有ったけれど...。)
例えば、対峙するキャラクター同士の強弱や上下感がその役者の演技から伝わってくるか。
残念ながら、メルトのそれからは感じ取る事は出来ない。
そしてそれは、原作と舞台上の演技とで観る側が感じ取るニュアンスが変わってしまう事を意味する。
原作における展開は、吉祥寺が感じた通り匁に対して強者感を感じさせていたキザミが、格下と侮っていた相手に対して不覚を取り、悔しさを滲ませるというものだ。
この敗北の経験が、長い目で見た場合後の成長に繋がるのだが、そうなると今のメルトの演技はその前提を覆してしまっている事になってしまうのである。
(...GOAさんはこのキャスト陣を『実力者揃い』と仰っていた...、という事はあの『匁』の方も...。)
会場の外にてGOAが語っていた事を信じるなら、それはつまりキャスト内においてメルトの実力が一際低く映ってしまう事になる。
事実、舞台上での『匁』の再現度は素晴らしいの一言に尽きる。
彼女には『匁』を演じる鴨志田についての情報が無い故に、先入観の無い状態で彼らの演技力の比較をしているが、元より演劇、2.5次元舞台のファンである者から見れば、彼らの実力差はより如実に映る事だろう。
では、メルトが全て悪いのか_彼女にはその考えを否定したい気持ちが有る。
何故なら、彼がまだまだ実力不足である事等、この舞台のキャスティングを行った者には分かりきった事実であった筈だからだ。
芸能界におけるコネクションの重要性は、門外漢である彼女にとっても想像に難くないものであるが、それならキャスティングの段階で『匁』についても『調整』を行えた筈である。
余り褒められた手法ではないかもしれないが、『キザミ』と『匁』の役者の実力を意図的に低い次元で拮抗させる事によって、無理矢理原作の強者感を演出する事も出来ただろう。
このパターンならば、観客側が満足出来るかはさておきコネ採用と原作再現を両立させる事が出来る。
逆に正道を行くのであれば、尚更この舞台に彼をキャスティングした意味が理解出来ない。
キャスティング側が彼に対して何らかの可能性を感じ、周囲を実力者で囲んだ状況で荒療治ながらも成長に期待したとして、逆に彼が周囲との実力差や観客から感じる負の感情に潰されてしまう事は考えなかったのだろうか。
無論、そうした重圧を本当に成長の糧にしてしまう存在が無い訳ではないものの、基本的に吉祥寺の考えは『人はそれぞれ己のレベルに合った環境で活動すべき』というものだ。
故に彼女は、今舞台上でもがき苦しむ彼の姿が不憫に思えてならないのである。
(何で...、人が魂削って作った作品に、下手な人を使うんだろう...。)
「あの『キザミ』ってのの方が、この前泰ちゃんが面倒見た奴か...。
確かにありゃ、『リンスーの意味を分かってない』って言われちまうだろうな...。」
「...何すかその...、『リンスーがどうたら』って?」
先日自身の弟子と言える星野アクアが自宅に連れてきた悩める少年_メルトの演技に対し、初めて耳にする表現で評価を下した隣に座る男性_ベベベーベ・ベーベベの意味を問う五反田泰志。
慣用句の類いなのか、はたまた独自の専門用語なのかは不明だが、意味が理解出来ない事には彼が何を言わんとしているのかを把握出来ない為だ。
「あぁ悪い...、俺の祖国の諺なんだが、日本語だと何て言うんだったか...。
何かこう、『漸くシャンプー一人で使える様になっただけ』みたいなの無かったっけか?」
「...『素人に毛が生えただけ』?」
祖国_毛の王国の諺と同様の言い回しについて頭を捻らせるベーベベに、試しにとメルトに対して多くの業界人が抱くだろう印象を表現する言葉を伝えると、彼にも聞き覚えが有ったのか納得した様子で大きく頷く。
何故一々ヘアケア用品で例えるのかは五反田には理解出来なかったが、長年映画監督として活動する自身を支えてくれているベーベベもまた、メルトに対して同様の印象を抱いた事で一先ず納得する事にした。
「早熟と一緒に、今アイツに出来るだろう事は伝えたつもりです...。」
五反田の言葉、そして彼が見せる不敵な笑みにベーベベも期待を寄せるが、現実としてこの状況をどう覆そうと言うのか全く想像が出来ないでいる。
彼から聞いた先日の一件についての話によってメルトに対しての事前情報を得ていただけに、その演技の拙さについては残酷ではあるが予想通りでもあった。
問題は、他の役者と比較すると悪目立ちしてしまう程に、他の役者が実力者揃いであった事である。
良くも悪くも抜けた存在の能力は、周囲との相対評価によってより如実に観る者の目に映る。
仮にメルトの演技力を数字で表すと『10』であるとする。
この数値を高いと見るか低いと見るかは人それぞれだろうが、ではここで今メルトと相対している鴨志田が『100』の数値を持っているとしたらどうか。
メルト単体ではそこに『実力10の者がいる』だけであったのが、鴨志田という比較対象の登場によって『鴨志田より90能力が低い人』と捉える者が出てきてしまうだろう。
事実、それを他の観客達も感じ始めたのか、メルトの演技を疑問視する囁き声がそこかしこから聞こえ始めている。
「また何か悪巧みしてるって顔だな。」
「悪巧みとは人聞きの悪い。
エンタメの基本ですよ、基本。」
「何か入れ知恵してるって顔ね。」
「別に。
ただのエンタメの基本だよ。」
舞台袖からメルトの演技を見守る中、有馬かなに対し期せずして師と同じ事を語った星野アクア。
恐らくは彼女も、先日のメルトから受けた相談の件について把握しており、彼の演技を見る自身の表情から『入れ知恵』との発想に至ったのだろう。
尤も、アクアも五反田も彼に具体的な指示を与えてはいない。
ただ、彼に現状を正しく認識させ、行動指針を示したのみだ。
「客に舐められてるってのは、客が油断してるって事でもある。」
アクアの、五反田の、そして油断し切った観客の視線の先にいるメルトが、突如として手にしていた刀を宙高く放り投げた。
その突然の行動には、かなも、ベーベベも、観客も、メルトと相対している鴨志田すら呆気に取られている。
それを見た二人は、彼が『仕掛け始めた』事を察し、共にいる人物へと語り始めた。
「例えばクラスのいじめられっ子が。」
メルトが放り投げた刀は、相当な高さ迄昇り、そして重力に従って落下を始める。
「地味で目立たなかったメガネ女子が。」
回転しながら落下してくる刀の落下地点には、当然ながらその刀を放り投げた張本人がいる。
本物の真剣ではないにせよ、刃先は鋭く、柄の部分には相応の重量が有るとなれば、それを持った事の無い観客ですらメルトの行為を危険に感じるのも当然だ。
「何の取り柄も無いと思ってたオタクが。」
そんな周囲の心配を他所に、メルトは巧みに落下する刀の峰へと腕を引っ掛けると、残った回転を利用しそのまま刀を滑らせていく。
「完全に下手だと舐めてた役者が。」
「いきなり滅茶苦茶凄い事始めたら。」
腕の上を滑り落ちていく刀が行き着く先は何処か。
当然、腕の先である。
一度天へと放られた刀は、再び在るべき場所へと舞い戻ったのだ。
『激アツだろ。』
湧き上がる歓声、恐らくは原作者ですら実際に出来るとは思っていないだろう芸当、それをこの土壇場で成功させ、見事に『原作再現』として成立させてみせたメルトに、かなも、ベーベベも、そして吉祥寺も目を丸くしている。
「...随分な曲芸仕込んだじゃない。」
「俺達が言ったんじゃない。
ただ、演技が下手でもそれを上手く使えば良いって言っただけ。
それを仕上げてきたのはアイツの努力だ。」
「ギャップってのは皆好きなんですよ...。
驚いてる人間の感情ってのは、驚く程脆いですからね。
予想外の出来事が起きた時、情報収集能力が活性するのは人間の本能...ってのは早熟の受け売りですけど。」
「そして、観客はこの後の演技に何倍もの意味を汲み取ろうとするって訳かい...。」
『刺すならここだ。』
(...妙な大道芸覚えてきやがって。)
メルトの大立ち回りに内心で毒づく鴨志田。
成程、観客への効果たるや覿面であり、メルトに向けられる感情の雰囲気は先程とは一変している。
観客は次の動きに否応無く注目する事だろう。
全て計算した上での行動なのかは定かではないが、彼はその行動に感じざるを得ない。
ズレている_と。
前提として自分達は役者なのだ。
キャリアの寡多、実力の有無に関わらず、舞台に立った以上は等しくそう扱われるべきである。
では、観客が求めているものは何か_それは間違いなく『演技』であると彼は考えている。
演劇というメディアの構造上、映像と違い観客の目に映る光景を演出によってコントロールする事には限界が有るのだ。
なればこそ、如何に自身の演技によって作品の世界観に引き込む事が出来るか_2.5次元俳優として着実に実績を積み重ねてきた彼にとって、それはプライドの拠り所なのである。
翻って先のメルトの行動はどうか。
難易度の高い技を成功させた事は認めざるを得ないし、それが正しく原作再現として成立している以上、一定の評価はしなければならないだろう。
だが、これはそもそも演技力の低さに端を発した現象である事も忘れてはならない。
本来ならこの様な曲芸を披露せずとも、自身の演技によって観客を引き込んでこその役者であり、正攻法とはとても言えない方法なのだ。
(分かってるよ...。)
自身の能力が著しく劣っている事。
(分かってるよ...。)
自分の存在が作品の質を下げる要因となってしまっている事。
(分かってんだよ...!)
まともな方法で太刀打ち出来る程、この演劇の出演者は甘くない事。
(情けなくて...、みっともなくて...‼︎)
自分の無力さを嘆いた事等、今迄有っただろうか。
少なくとも、抑えつけられない程に湧き上がってくる感情を持った記憶は無い。
そして、そんな状態になった人間が、どんな声を出すのかも。
「ううぅぅぅぅ...‼︎
ああぁぁぁぁ‼︎
ああああああ‼︎‼︎」
人の激情は、時に周囲の思考を停止させ、視線を逸らす事すら許さない。
先の『原作再現』による効果も重なり、観客の目はメルトの一挙手一投足、指先の動き一つに至る迄釘付けにされてしまう。
「おぅれはぁ...‼︎‼︎
誰にも負けねぇぇぇぇ‼︎‼︎」
この一分の為に、悩み、苦しみ、助力を請い、全てを注いできた。
覆しようのない鴨志田との実力差を、ほんの一瞬だけ覆す為に。
その想いは、確かに人々の反応に表れた。
先程は驚き、歓声が湧き上がったのに対し、今この時は文字通り周囲から言葉が出てこない。
彼の激情は、その瞬間だけではあるが、間違いなく会場中を支配してみせたのである。
それは、本来『東京ブレイド』という作品にとっては神に等しい存在である鮫島すらも同様であった。
そんな彼女の隣に座る人物の反応に、鏑木は自身のキャスティングが正しかった事を再認識した。
「ほら、僕の目に間違いは無かった。」
鳴嶋メルトを世界で最も厳しく、そして優しく見ていた女性は、この会場で最も大きく彼への期待を裏切られていたのだから。
強い感情は、時に言葉よりも強く他人の感情を揺り動かす。
その女性_吉祥寺が必死に嗚咽を堪える姿は、その証明と言えるだろう。
「よくやったわ‼︎
後は私達に任せなさい‼︎」
『ブレイド』と『つるぎ』_仲間の余りにも頼もしい背中を目にした時、漸くメルトは人心地ついた気がした。
よくやった_その言葉が、自分の演技に対する賞賛であると勘違いしても今だけは許されるかもしれない。
舞台裏に入ると、スタッフからタオルと水分が渡された。
当然ながら、演劇そのものはまだまだ続行中であり、先の一幕にて昂った感情を落ち着かせ、可及的速やかに次のシーンへの準備を進めなければならない。
それは重々理解出来ている筈なのに、メルトの体は中々動く事が出来なかった。
自分にとっての一番の見せ場が終わった_自分は上手くやれていたのだろうか、観客の反応はどうだったのか、また自分のせいで作品が台無しになってしまっていたら、そんな答えの出ない疑問に支配されてしまった故に。
そんな疑問と共に興奮が落ち着いてきたのか、ふとした瞬間に冷静になる事が出来た彼が視線を上げると、つい先程迄舞台上で相対していた鴨志田と目が合う。
自分と違い、冷静に水分補給を行う彼の姿に、演技以外の部分でも差を感じてしまう。
彼の目に、先の自分はどう映ったのか_また新たな答えの出ない疑問を抱こうとした時であった。
「んだよ、やるじゃんか!
ゲネん時と全然ちげーな‼︎
良い感じに感情乗ってんじゃん。
次もこの調子で頼むぜ。」
そんな疑問を吹き飛ばす様な勢いで肩を組んできた鴨志田が、素直に先の演技を賞賛してくる。
仮にも彼は2.5次元という世界においては、このキャスト陣の中で尚指折りの実力者の筈だ。
そんな彼の賞賛の言葉、そしてそんな行動に出た意味を理解しようとして、再び硬直してしまっていたらしく、自分に掛けられた声に体を震わせてしまった。
「お前、そんな顔してて楽しいのかよ?」
以前にも、同じ相手に同じ事を言われた時の記憶が甦る。
思い返せば、自分の至らなさを悔しいと感じる様になったのは、あの一件が契機と言えよう。
あの時、自分が頭を下げた女性は観劇に来ているのだろうか。
観ていたとして、どんな反応をしていたのだろう。
結局の所、数々の疑問は何一つ自分では答えが出せそうにないが、少なくともこのアフロの男性からの問いにはハッキリと答える事が出来る。
「...はい...、滅茶苦茶楽しいです...‼︎」
ギャグが入る余地が全く無い...。