「……海、か」
久瀬豪太郎はいつものようにほとんど表情を変えず、黒いサングラス越しに水平線を睨んでいた。
といっても、睨んでいるというよりは、ただそこに「存在」しているだけのようにも見える。
彼の視線の先には、午後の陽光を浴びてキラキラと反射する穏やかな日本海。
波は小さく、規則正しく寄せては返すだけで、まるで喧嘩を売る気など微塵もない。
そんな海を、豪太郎は無言で観察し続けていた。
砂浜の中央付近では、昇龍會の面々がパラソルの下に陣取り、クーラーボックスから次々と缶ビールを取り出してはプシュッと開けている。
普段は血と汗と鉄の匂いにまみれた連中が、今日は珍しく水着姿でだらけていた。
Tシャツを脱いだ舎弟たちは、刺青だらけの体を惜しげもなく晒し、すでに二、三本空けたビールを片手に大声で笑い合っている。
「ゴーさん、マジで泳がねぇんすか?」
「水着着てきた意味ねぇじゃん!」
「いやいや、あの黒サングラスと黒パンツ一丁で岩場に座ってるのがもう絵になってんだよ……」
そんな軽口を叩きながらも、誰も本気で豪太郎を海に引きずり込もうとはしない。
彼の周囲には、見えないが確かに存在する「空気」の壁があるからだ。
その壁を平気で踏み越えてくる存在が、一人だけいた。
「ゴーさん! 奴らに見せてやりましょう! あのバッキバキの腹筋と、背中の龍!」
来理人が、タンクトップを一気に頭から抜き捨てた。
陽光の下で露わになった上半身は、まるで彫刻のように筋肉が浮き上がり、腹筋は深く刻まれた八つに割れ、背中には昇龍會の象徴である龍の刺青が大きく翼を広げている。
舎弟たちが一斉に「おおおっ!」と野次馬モードに切り替わる。
「サザンクロスのヘッド、マジでヤバくね!?」
「腹筋の溝にコンドーム一本入れられそう……」
「バカかお前ら!」
来理人は笑いながら舎弟の一人の頭を軽く小突き、続けて豪太郎の方を見た。
「なぁ豪太郎。お前も脱げよ。せっかくのマッチョボディ、見せびらかさないなんてもったいねぇだろ」
「……脱がねぇ」
即答。
しかも声に抑揚がほとんどない。
来理人は肩をすくめて笑った。
「相変わらずつまんねぇ奴だな」
そのやり取りを遠巻きに見ていた昇龍會の若いやつらが、ひそひそと囁き合う。
「ゴーさん、来理人さんにあんな口きかれてんのに全然キレねぇんだな……」
「まぁ、あの二人ならなぁ……」
誰もが知っている。
この二人は、殴り合いの果てに互いを認め、互いを「最強の敵」でありながら「唯一無二の何か」と位置づけている。
だからこそ、こんな馬鹿げたビーチに、同じ空間に存在していられるのだ。
そして、その共存をさらにカオスにしている張本人——
「おらぁぁぁ! この波、弱ぇな! もっとデカイのこいよぉぉぉ!!」
金色の尻尾をブンブン振り回しながら、孫悟空が波に向かって拳を叩き込んでいた。
拳が水面に当たるたびに、ドバァッ! と水柱が十メートル近く立ち上がり、周囲の海水浴客が悲鳴を上げて逃げていく。
「ちょっと! アンタ! 波を殴ったら津波起きるでしょ! ルール守って!!」
ルシアが悟空の尻尾を掴んで引きずり戻す。
水着姿のルシアは、普段のクールなイメージとは打って変わって、かなり露出度の高いビキニだった。
それでも彼女の表情は仏頂面のまま。
「でもよぉ、ルシア! この波、俺のパンチ一発で割れちまうんだぜ! つまんねぇ!」
「つまんないのはアンタの頭でしょ! いい加減にしろ!」
悟空はルシアに引きずられながらも、ニカッと笑っている。
その笑顔があまりにも無邪気で、ルシアは思わずため息をついた。
「……本当に、どうしてこんな馬鹿と一緒にいるんだか」
そんな騒ぎを横目に、来理人が豪太郎の隣の岩にどっかりと腰を下ろした。
手には二本の缶ビール。
一本を豪太郎に向かって放り投げる。
豪太郎は無言で片手で受け止め、プルタブを引いた。
ゴクリ、と喉を鳴らして一気に半分ほど飲み干す。
来理人も同じように一気に飲み、息を吐いた。
「珍しいな、豪太郎。お前がこんなとこでボーッとしてるなんて」
「……うるせぇ」
「ははっ、相変わらず口数は少ないな。でもよ」
来理人は空を見上げ、ゆっくりと言葉を続けた。
「たまにはこういうのも悪くねぇだろ?
毎日殴り合って、マガリ出して、血まみれになって、誰かが死にそうになって……それもいいけどさ。
こうやってバカやって、ビール飲んで、海見て、馬鹿騒ぎしてるのも——俺らしくねぇか?」
豪太郎は返事をしない。
ただ、缶をもう一口。
波の音と、遠くで響く舎弟たちの笑い声と、悟空の「俺もっと泳ぎてぇ!」という叫び声が混ざり合う。
しばらくの沈黙の後、豪太郎がぽつり。
「……まぁな」
その一言だけで、来理人は満足そうに口角を上げた。
「だろ?」
二人は並んで海を眺めた。
夕陽が水平線に近づき、空が徐々にオレンジに染まり始めている。
波の音が少しずつ柔らかく、優しく聞こえてくる時間帯だ。
遠くでは、昇龍會とサザンクロスの舎弟たちがビーチバレーに興じていた。
といっても、もはやバレーボールではない。
完全に殴り合いの延長線上にある、拳と拳がぶつかり合う音が響く格闘技だった。
バシュッ! とボールが割れる音。
「俺の勝ちだぁ!」
「てめぇそれ反則だろ! 拳で打つんじゃねぇ!」
「うるせぇ! お前が先に蹴り入れてきたじゃねぇか!」
笑い声と怒号が混ざり合い、砂煙が舞う。
悟空はルシアに肩車されながら、その様子を指さして大笑いしている。
「すげぇな! あいつら本気でやってんぞ!」
「アンタは黙ってなさい!」
ルシアの声にも、どこか楽しそうな響きが混じっていた。
豪太郎はゆっくりとサングラスを外した。
夕陽の光が、彼の瞳を赤く染める。
普段は隠されているその瞳は、驚くほど澄んでいて——どこか、遠くを見ているようだった。
「……最強ナンバーワン、か」
小さく呟いた声は、波の音にかき消された。
でも、その横顔には——いつもの無表情の中に、ほんの少しだけ、柔らかいものが混じっていた。
来理人がそれに気づいて、ニヤリと笑う。
「おい豪太郎」
「……なんだ」
「今、ちょっと笑ったろ」
「……してねぇ」
「嘘つけ。口角上がってたぞ」
「……うるせぇ」
来理人は大笑いした。
「お前も人間だったんだな」
豪太郎は答えず、ただ空の缶を握り潰した。
その音が、カチンと小さく響く。
夕陽が海に沈みかけ、辺りが茜色に染まる。
悟空が「腹減ったー!」と叫び、舎弟たちが「バーベキューすっか!」と動き始め、ルシアが「火の始末はちゃんとね!」と注意し、来理人が立ち上がって「肉焼くぞ!」と言い、
豪太郎は——
静かに立ち上がり、みんなの輪の中に、一歩だけ近づいた。
誰もそれに気づかないふりをした。
でも、来理人はちらりと豪太郎を見て、満足そうに頷いた。
海は今日も、ただ静かに寄せては返していた。