レースは孤独だ。私以外に信じられるものはなく、あるのは私が今まで積み上げてきたすべてだけ。信じられるのは己の能力と脚だけ。だれもが真に孤独で、頼れるのは感覚と思考のみ。
すぐ後ろのスカイの気配を感じながらそのまま第一コーナーへ回り込んだ。ターフに照らされた光が幾重にも影を作って、その間を縫うようにして走っている。
単調に影が出来ては光に照らされ、それを幾度となく繰り返す。
(まだ、まだだ。ここは抑えろ)
脚質は私は先行、スカイは追い込みだ。それは集団内の相対的な評価に過ぎない。二人だけの世界にはそうした常識も、戦術もなく、頼れるのは己の体一つだけ。
スタート直後の位置は私が前に、スカイは後ろ目につく。私はミドルペースに持ち込む。
何度も観た光景、何度も繰り返したその瞬間。その経験と勘が、焦れば体力を消耗するということを教えてくれる。ペースをあげたところで稼げる距離はそこまでない。その割に体力の消耗は激しくなる。
(身体は動く。いまは順調だ)
私と、あなた。倒すべき敵はお互いただ一人。このレースは二人だけのマッチレースだ。
かつてはトレーニングも競争も、すべてウマ娘自身で行い、文字通り己のすべてを賭けて勝利を求めたという。純粋な力のみがこのレースの勝敗を決める。これが今のレースの源流であり、最古のレースの形だ。
今は廃れた古いレースの形式ではあるが、同時にこれほどまでに私たちに適した形式もない。私たちはその記憶を受け継いでいる。そこに刻まれた魂と記憶は、こうした場所でこそ発揮される。
次第に時間の感覚がなくなっていく。自分以外の世界が広がっていく。引き延ばされるような感覚だった。
冷静な頭のどこかでふと思い出す。
走り、そして語り合う。私たちは時にそう言ってレースでお互いを深く知ることがある。言葉は、万能だが不完全だ。だからこそ、私たちウマ娘は時に走るという行為で通じ合う。より正確にその現象を説明すれば、それは魂と魂のぶつかり合いが一番近いだろう。
走ることで、私たちは自身のもっと深い場所、
己の表像を投影し、世界の感じ方を押し付ける。時間と空間という原初の感覚を上書きし、私たちの内部の刺激が他者に影響を及ぼしてしまう場所。時にアイデンティティさえも歪みかねないほど私たちの根本にあるその場所を、ぶつけ合う。
コーナーに入っていくにつれてその断絶は大きくなっていく。まるで車酔いのような感覚の混乱と、それに伴う気持ち悪さがあった。
思わずコーナーの遠心力で外に膨らんでいく。その大きな力にあらがうのは並大抵ではない。その技術、コントロールと周囲の状況把握。一言でいえば簡単そうな動作は、複雑に絡んだ要因に一つ一つ的確に対処していくことでようやく達成される。
しかし、一瞬の判断の遅れは、中央では明確な隙として付け込まれる。
内から、視界の端からスカイが上がってきた。鮮やかな栗毛が来る。
何度も見て、何度だってその景色に恋い焦がれた。何度もそのイメージと自分の差に愕然としてきた。
スターリースカイはとっても輝いて、とても美しかった。私にはない美しさと、洗練された動きがあった。
どうしてもたどり着けなかった景色と私の理想がそこにあった。それでもなお遠い頂がまだあるのだ。私の居る場所からさらに遠く、さらに高みがある。
あぁ、悔しい。今の私にはたどり着けない場所の景色はもう届かない。残された手札は、私の血のにじむ努力は決して届かない。
私はそれを知っている。その感情もそのくやしさも。こんなはずじゃなかったっていう嘆きもすべて。
そして現実を。もう届かないと知りながらも、この先に夢を追い続ける愚かしさも。
『何もないんだよ』
あぁそうだ、その通りだ。何度もリフレインする言葉はうんざりするほど聞いて繰り返した言葉だ。
『やっぱり決断はしないといけないよ』
消えたくないと、この世界にしがみ付いても席はもうない。私の行く先はこの先にはない。
もう分水嶺は超えている。とっくの昔に、それはターフに初めて足を踏み入れた瞬間から始まっていて、そして終わり始めてもいたんだ。その終わりにむかって、私は今までに何か一つでもいい、何かをつかみ取れたといえるだろうか? 自らの手で選んだといえるだろうか?
いいや、その問いかけすらもう遅い。既に選択の機会は終わったんだから。
手に残る手札は少ない。貧弱な基礎とその上に立ち上がる小さい枝のような木。着いた花は徒花で、実をつけることはなかった。それが私のすべてだった。
だけどそれでも足掻いている。今だってそうだ。なんでこんな苦しい思いをして走ってるんだ。なぜ覚悟して走っているんだ。もう既に息は上がり、ペースについていけない。それもそうだ。私は未勝利で相手は重賞ウマ娘。そこには比べるまでもない差がある。
忘れそうになる覚悟、手放して楽になってしまえばいいと何度も思い、何度も手放した感情。ここで手を放してしまえば楽になれるだろう。そうしてすべて捨ててしまえば、きっとまた何かをやり直せるだろう。甘い話も楽して生きることも、それのどこが悪い。
無意味に生きるのは嫌なんだ。こうして何の糧にもならない体力の消耗に付き合う道理もないだろう。
そうだろう、スノウグローブ。
何かが手に触れた。それは触れたわけじゃない。目の前にはない概念的なものだが、確かに触れた。
例えるなら、
その先は何かわからないが、それを開けないと後悔する。必ず、その先に進まなかったことを後悔し、何度もその日のことを慟哭と共に思い出す。そんな予感があった。
恐怖だろうか。そのトビラを開け放つ先には破滅があるかもしれない。また失敗するかもしれない。そんな思いが私にドアを開けることをとどまらせる。
言葉を超えたその先へ、私は何も
『失う前に取りこぼさないように進むしかないんだ』
ああ、そうだ。もう何もないけれど。私が私であること。その疑いようのない事実まで落としてしまえば、もうこの先に進むこともできない。
そうやって恨みながら、妬み、羨望するだけの日々を過ごすのは嫌なんだ。負け犬でもいい。ただその負け方に意味があればいいのだ。負けても、それが誰かの糧になり、私のエゴが世界に何かを残せたのなら。
その意味は私の中で作り上げたものだ、それは私の中の意味だ。それを否定されてたまるか。私のものを、私だけの世界を誰かのコトバでぐちゃぐちゃにされてたまるか。
私の手で、そのドアノブを掴む。
『恐れないで』
きっかけはたったそれだけ。だがそれだけで十分すぎる。
私はトビラを押し開けた。
****
世界が変わった。重苦しいほどの寒さと、暗い闇が世界を包み込んだ。
「これは」
フレイシュタットは確かにそれを知っている。『領域』と呼ばれるそれは、一部の、時代を作るウマ娘が発露するという世界の理を一時的に塗り替える奇跡。だが、それを知っているが故に信じられない。ありえない。
だが、それは目の前の二人から発せられるものであるが、その元をたどるとスノウグローブから出ているのだ。その証拠に、スノウグローブはスターリースカイに食いついている。いや、いま抜き返した。
「なんで」
そう、スノウは未勝利、スターリースカイは重賞ウマ娘。普通なら、その力量さは一目瞭然、勝ち負けは勝負するまでもなく決まっているはずなのだ。それなのに。
「どうして食いついている。なぜ、追い抜いて走り抜けていけるんだ」
本来ならありえない光景。その先に進みゆくことは万が一にもありえないはずなのに。
「いや、違う。これは領域だが、領域じゃない」
そう呟く声が聞こえた。
スーツ姿の女性。年齢は若いが、胸のトレーナーバッチが確かにトレーナーであることを示していた。
「これは
「なら、これは、目の前の光景はいったい何ですか」
「強いていうならば、破滅逃げ、火事場のバ鹿力ってやつかな。スノウは根性と意思で、脚を磨り潰しながら走っている」
そういうトレーナーは冷たく彼女たちを見ていた。そこには心配も、同情も感じられない。
中央のトレーナーは時折このような冷たい目をする。温度のない、フラットな目だ。中央という魔境で生き抜くために、データはデータ、起きた事実とウマ娘の思考や走りを冷酷に分析し提示することに長けた人間。それは若手もベテランも同じ、そこには現実を現実として、時に冷酷ともいわれるほどに冷たい理性があった。
「それに、スノウは圧倒的に足りてないんだ」
「それは技量的な意味で?」
「いや、闘志だよ。彼女は自分自身の世界で留まってしまった。広い意味で他者の存在を受け入れてないんだ。だから、競り合いやフルゲートの勝負に向いてない。気性的に勝負に向かないところがある」
「他者の存在を?」
「そう、他の要因もあるけど、一番は闘志が欠けていることだ。負け癖がついているのもあるね」
冷たく、見下ろす目にはいったい何が映っているのだろうか。トレーナーには他人の視点に立って俯瞰し分析する能力が必要だ。私たちウマ娘だけでは見落とす可能性をトレーナーは掬い上げ、勝負を確かな勝利へと導かなければならない。その時に必要以上にウマ娘と近くあってはならない。
ウマ娘への深い愛と、その愛ゆえにウマ娘と距離を取らねばならぬという相反する感情の狭間。そこに在る筈のトレーナー。だが、先ほどから感じるこの違和感は何だろうか。
「でも、あなた、あの子のトレーナーでしょう?」
止めないの、と言外に問う。さっきの会話で察するに、この人はスノウのトレーナーだ。だとするなら、破滅的に自身の脚を壊しに行くスノウを止めないのはなぜだ?
怪我の防止は、トレーナーが優先して取り組むべき課題だ。ましてや担当の前で、この人はなぜ止めずに見ているのだ?
「そうだね、だけどこれはあの子が自分の意思で出たレースだ。私には止める理由も関係もないよ。すべてはあの子のものだからね」
「……冷たいのね。優しい人だって思ってたけど」
そう、非難するかのように見つめる。一瞬視線が交差した。
「トレーナーは誰もが夢を見る。そしてウマ娘に願いを託す。勝手に背負わせてしまう。ダービーや三冠の栄誉はウマ娘の物。だけど人間は、そこにはたくさんの想いを背負わせてしまった。私たちはそこから守ってあげないといけない。トレーナーは夢に一番近いところにいながら、故に距離を取らなければならない。批判的に事実を見れない者から潰れていく。勝手に潰れるだけならましも、ウマ娘を巻き込むくらいならトレーナーになる資格すらない」
そう言ってトレーナーは相変わらず温度のない目でターフを見る。決して目を離さない。話している間にも、レースは動いていく。
「私たちはそうあるべきで、そうでないならウマ娘を守れない。怪我だけじゃない。その未来も奪ってしまうんだ」
そう言ってターフを見つめる。違和感は確信に変わっていく。
あぁ、そうか。この人は冷たいのではない。余りにも愛が深いのだ。
このトレーナーは、一番スノウを心配して、一番スノウのことを考えている。だから逆説的に冷徹になっているのだ。中央でもここまで切り分けている人はなかなかいないだろう。
「なら、トレーナーは、スノウが勝つと思ってる?」
「もしかしたら、ありえるかもしれない」
「勝つ、とは言わないのね」
「まだわからない。だけど今彼女の中にある闘志は本物だよ。それは闘志というより願いというべきかな。そして基礎基本の反復と確実な動作の徹底がレースの最終的な差に繋がっていく。そこに彼女は気づきながらも、その願いが強すぎるが故に振り回されていた。基礎も基本も、感情の反射を抑えるレベルまでにはなかったんだ」
つまり、今までの彼女は精神と肉体がうまく嚙み合わず、いわばレースに常に掛かっているような状態だったということか。
「今ようやく彼女の体のスペックと感情が、
そう言って、トレーナーは柵に体を預けるように力を抜いた。
「でも、スノウが言った通り、もう遅すぎたんだ。それがあと一年、半年でも早ければ」
冷静に現実を見ながらこの人自身も、理想と現実の狭間に生きている。いまだに夢見る理想と、うまくいかない現実にもがいている。それでもなお、夢を見ている大人なのだ。
彼女に可能性を見出した。彼女の適性と、確かな夢を見た。でもそれを育てきれなかった。そんな後悔を隠すこともなく吐露していく姿は、確かにトレーナーらしくもない。
「でも、その限られた手札で彼女は最善の道を選んだ……選択したんだ、自らの手で。未勝利とか関係なしに、自分の選択をした」
初めて、トレーナーの目に揺らぎが出る。
「私はスノウに勝手に背負わせて、そして可能性を見出した。その先にある暗闇に、私は共にいてあげられなかった」
弱音を吐くトレーナーは、やはり年相応に悩み、足掻いている。その姿が私たちと重なった。
「ごめんね。トレーナーで大人なのに。私はまだこうやって悩んで、道を示すのもままならない。こんなとこ、生徒に見せないようにしていたんだけどね」
「……いいえ。でも見てください。スノウグローブのこと」
そう言って、私たちはスノウグローブを見る。いくら領域もどきを展開したところで、やはり二人には純粋な力量の差と、技術の差があった。
「本当に、スノウグローブはバ鹿で、そして未勝利も勝てぬほどに弱かった。未勝利が終わっても何度も終わってないって言って、現実を見ることもできないほどです。今も、既に失速しかけている」
夢から覚めるのを拒んでも。否応なく来る時間は残酷だ。
何時かは夢から覚めてしまうのだ。私たちはいつまでも夢を見続けることはできない。その時、きっと広い世界に自らの脚で立って走り出さなければならない。
「
領域もどきの力は、そこまで持続しない。結局は、素のスペックやの才能に押し返される。だけど、このレースは、決闘は意味あるものだと感じ取れた。もうとっくの昔に醒めた夢を。ようやく終わらせることが出来たのだろう。
その表情は苦悶に満ちていた。だが、走っていた。
「どれだけ愚かでも、バ鹿だといわれても。でも、その走りは、スノウの走りは……美しいなって思います」
「……そうだね。彼女は、走っている。あの子の意思で、走っている」
少しだけ、羨ましかった。スノウは全力で挑み、すべてを賭けてここに立った。その走りが何よりも雄弁に証明していた。
中央にいるウマ娘の全てがそうして真正面に生きているわけでもない。早々と己の限界を悟り、挑むことを諦めた子は沢山いる。天才でもないが普通よりは優れている才能を使い、緩く美味しいとこだけをうまく受け取れるように立ち回る。それはたぶん間違いじゃない賢い選択だ。費用対効果、コスパ、総合的に考えて一番得する道を選ぶのも一つの方法だ。
そうして生きることに後悔はない。スノウのような生き方をしたいとも思わない。だが、その走りに少しだけ、私の心は揺さぶられる。
「さぁ、そろそろ終わりだね」
「帰るんですか?」
「もう私の仕事は終わったよ。彼女はもう一人で行ける。あの子は今、夜明けを迎えたんだよ」
レースは第三コーナーに移る。周囲の誰もが息を飲んで見守っていた。勝負はまだわからない。もつれるように展開する。
瞬間、世界は眩いばかりの光に塗り替えられる。それは暁の光だ。満天の星空と、黄金の大地が広がっていた。
「これは……」
強度の高い、本物の領域だ。会場を包み込むほどの光が知覚される。だけど、それは暖かかった。寒い夜が明ける。暁が訪れる。
「夜明け前が一番暗いんだ。そして光が世界を照らして次が始まる」
確かに時は止められず、残酷だ。だけど、それは福音だ。私たちは、また始めることが出来る。
さぁ、行くんだ。
「スノウ! 行って!」
それは希望の光だ。どこまでも進めるという祝福だ。
「行け! どこまでも! 君自身のその先へ!」
****
誰も教えてくれない。誰もその闇を見てはいない。
そう、誰も。
一人で孤独で冷たい領域。冷酷な世界が私を覆っていく。
私が、私でありたいからこの世界に踏み込んだ。そして忘れていたことを、私は思い出した。
何かを踏み越え、結局何もできずに一人孤独に消えていく。私にとって世界はそうだった。私は大きな物語の、主人公にはなれなかった。
そこは雪に覆われた荒野で、荒れ果てた道なき道をたった一人で走っていた。ひどく寒く、寂しい場所だ。
冷たい風が体温を奪っていく。脚はとられ、一面の雪原は方向感覚さえも狂わせる。残酷なまでの自然がそこに広がっていた。
とても強大な力を前にして、私は無力だ。同じように現実は私にとっては冷酷だった。恵まれない環境、足りないと思えばいくらでも足りないし、比較してもそれが埋まることはなかった。
私は私の手で掴めるものを掴んできたと思ってきた。だが、この場所に入れたことは得たことにならない。ここはただのスタートラインだ。
ようやく私は、己を知った。
そこでようやく、私は私という存在を、世界の中でどういう存在かを知った。
私は
所詮は
「なんだよ、せっかくの扉の先まで行っても、これじゃあ最初から負けてたみたいじゃあないか」
結局のところ負けたのだ。勝負にも、一縷の望みの賭けにも。
実に私らしい領域だ。誰かに負けたという慟哭でさえも雪に吸い込まれる。この場所ではすべてが死に絶え、そして消えていく。そこは完全な雪の世界を閉じ込めた世界で、包み込まれた場所は所詮紛い物。閉じ込めた想いはそこで永遠に回り続けるだけなのだろう。
たどり着いた祈りの果て。そこで私は何を語ればいいのだろうか。何をそこに語ればいいのか。それは誰かに届くのだろうか。
ウマ娘がウマ娘で居られる時間は限られている。
たった一度、生きるチャンスを与えられて、そして走っていまこの瞬間をまた走っている。だからせめて。
「私は、あなたになりたかった。強いあなたに私を重ねて。私も強くなりたかった。でも強くなれやしない。それもそうだよ、私は私自身を信じていなかったから」
何かになりたかった。何物かになりたかった。だけどそう思うだけで何かを決意をもって選んでくることをしなかった。努力は当たり前。だけどその努力を私の意思と覚悟で進めなかった。
「私は勝利を求めてたんじゃない。私が掴み取らないと意味がないのに、努力してそれを見て、と醜く泣き叫んでいただけだったんだ。何も掴もうとしていなかったし、見えてなかった。輝いて、煌めいて、あなたが
怒りは恐怖の裏返しだ。薄っぺらな心を守るように、包んで仮面をして、とっくの昔にぼろぼろになった私の心を繋ぎとめようとして。
思い出を閉じ込めて、私の大切なものをしまい込んで、グリセリンとミニチュアの世界は一つの世界として成り立つ。だけど、閉じ込めた時間と空間はいつの間にか変質してしまっていた。
「だけど、そうすることが出来ないんだ……今更、でも私は前に進みたいんだ」
世界に罅が入る。ああ、もう終わりなんだろう。
だけど、それでいい。この感情も、喜びも。私は輝く星にはなれなかったけど。もうこのまま嘆くだけ、そして見ているだけなのは嫌なんだ。
異変を感じたのは、景色が罅割れていったからだった。リアルと見間違う雪の積もった地面にクレバスのように深い罅が入っていく。分厚く垂れ込む雲は割れてその先にある景色を見せてくる。
どこまでも高い景色、そして星の光。
《やっと来たね》
その声は、私の声じゃない。もっと深層でつながりあったコトバだ。
世界は崩れていく。私だけの世界、私の作り上げた領域が真っ逆さまになっていくように、すべてが逆再生されていくように空に上がっていく。
《世界はあらゆる可能性に開かれている。君の視線の先は壁でも、ガラスでもない。本当の世界だ》
夜明け前が一番暗い。その暗さはきっと寂しく、寒いものだ。だがそれでも朝はやってくる。
その瞬間を、ずっと待っていた。世界が光に包まれるとき。再び始まる。
瞬間、はじけ飛んだ。そして光に包まれた。
《さぁ、行こう》
***
それは光だった。とてもまばゆい光。希望の光か、あるいは私を焼き尽くさんとする強烈な光線か。暑ささえも感じる眩い光線。
走っていく。前も見えないくらいの強烈な光。
空は高くどこまでも青かった。影が地面に色濃く刻まれる。
今、どこにいるのかもわからないが、がむしゃらに走り抜ける。
ただ、この膨大なエネルギーが段々と圧を伴ってきていた。これは私の能力をはるかに超えたものだということ悟った。このまま抗い続けることも出来ないだろうと私の経験が言う。
(なんだ、この圧力、この密度は……!)
伊達に中央で走ってきていたわけじゃない。中央に入るということはこうした格の違いを日常的に目の当たりにするということで、常に自分と相手の力量差を把握しなければならないのだから。そうしなければ、アイデンティティも何もかもが壊される。それでもこれはあまりにも格が違いすぎる。
眩いばかりの光に中てられ、黄金の場所に立つ。根本から異なる世界。これが本当の領域だ。
いまだ相手の背中が見えないほど眩い光の中を走る。今自分がどうなっていて、今自分がどこにいるのかすらわからない。
(弱いとか、努力とか、そういう次元じゃない)
これが本物だ。絶望しそうになるほどの差。そして圧倒的な時間と練度の差。努力の差を感じた。
痛みが突き刺さる。できたことをしなかったこと。己の中にある甘えと怠惰はもう取り戻せない。
投げ出したければ投げ出してしまえばいい。いつでも辞めて逃げれる。ここはそういう場所で、どんな選択が可能だ。
脚を止める、簡単な話だ。そうしてしまえば楽かもしれない。自由なのだ、何もかも。故に
ああ、そうだ。私がこの手で選択した。引退した、そう言っても結局、この瞬間に走っている。
なぁ、そうだろ? スノウグローブ。
光の輻射圧が私の脚を鈍らせる。それが私を押し返さんとする。ジワリと、私を遠ざけ、焼き尽くさんとする。
もうやめよう、と。そう声が聞こえる。これ以上、何の意味があるの? そういう疑問が聞こえる。
誰かの諦めた声、夢の折れる音。自分の中のそれを受け入れるほど、私は弱くもなくて。
浸透する圧が私を焼き尽くそうとする。
抗って、切り抜いて。その先に、抗うことなく突き進む背中が見えた。私と何もかもが違う。そして何もかもがそこにある。
そう感じられるほどその走りは美しい。あまりにも洗練され、そして自分自身には決して真似できない上澄みのそれとわかるほど。
「ようやく来たね」
光り輝く中、ついていくとそこは、一面に広がる黄金だった。
彼女の領域。光り輝く世界。その場所は眩しく、そして圧迫してしまうほどの量。
「ずっと、待っていたよ」
「あぁ、そうだね。とても長かった……本当に」
「言った通り。絶対に、この場所に来るって信じてたから」
模擬レースも、決闘も。すべてはこの瞬間のための前座に過ぎない。この瞬間、ここが、本当のスタートライン。
「さぁ、行こう。まだ見ぬ先へ!」
長くなりましたが、次回でレースは終わります。
次回、祈りをこめた銀の弾丸。
果てのない道に、キミは何を選ぶだろうか。