スノウグローブというウマ娘のことを、私は誰よりも知っている。それは彼女と仲が良かったという理由じゃない。
私は彼女のライバルで、その魂に刻まれたウマ娘だ。そしてその刻まれた魂の一片を知っている。
いつの日かの遠い記憶。
きっと貴方は覚えていない。きっと忘れているであろうその日。
だがその場面をはっきりと記憶している。その瞬間を私はいつまでも覚えている。だから私はキミにあこがれた。
地元が一緒だった。同じレースに出ていた。きっかけはそれだけだった。そしてたまたま私たちはお互いに強かった。顔を知っているだけ、お互いに一着を目指している。ただそれだけだった。
そして、私は強かった。勝ち方、走り。幼い子供の基準でいえば天才といわれるほどには強かった。後から知ったが、私の祖先は高名な家柄の血筋と繋がるのだという。才能がそもそも違ったのだ。勝つことは私にとっては当たり前で、疑いようのない事実だった。
その時に出会ったのがスノウグローブだった。彼女は単純に私より強かった。初めて勝てない、勝つことの難しい相手に出会ったと感じた。そして悔しさが私の中に溢れ出てきた。あの時私はウマ娘になったのだ。勝利の渇望、一着を目指す衝動が、魂の鼓動と重なった。スターリースカイという
スノウに勝つ。悔しさや渇望が、私の魂を満たしていた。そのために、私は努力を重ねた。強い私になれば、あの子と並んだ先にもっと楽しいことがあるはずだから。
子供はすぐに成長する。
その数日後。スノウの姿がないがそちらに来ていないかと彼女の両親が訪ねてきた。聞けば、レースに負けた次の日から彼女は昼夜を問わず何度も走りに出かけていたという。窘めてもいつの間にか走っている。いつもなら近くの公園でトレーニングをして、暗くなる前に帰るというのに、その日は友達と出かけるといって出ていき、暗くなり雨が降り始めてもまだ帰らないという。そして誰もスノウと会っていない。
近所の住人や友達にも声を掛け、皆で心当たりのある場所を探し回った。私も友達と雨合羽を着て探し回っていた。雨のせいでやたらと暗い時間になって、運動公園にて一人走り回るウマ娘の姿を見つけた。
既にふらふらと、その体力は力尽き、倒れる一歩手前の様相を示していた。見覚えのある姿だった。
『スノウ!』
『……あぁ、スカイか』
『何してるの?』
時刻は夕方を通り過ぎ、驟雨から雨脚はさらに強まっていた。夏に入りかけの時期とはいえ、雨に濡れてしまえば風邪をひくし、低体温の危険もある。だがスノウは普通なら走るどころか、外出も控えてしまうほどの雨の中を走り回っていたらしい。
何時間も走っていただろうスノウは倒れかける。慌てて近寄れば、すでに体温は下がりきって、唇は紫になっていた。一歩間違えればそのまま行き倒れているほどに。
どうしてそこまでして走るのか。雨でなくてもトレーニングや走ることは大変辛いことだ。普通ならクラブチームや、引退したトレーナーなどの専門家の指導で行うのが常識なのに。
初めて理解が出来ないと感じた。わからないと思った。拒絶や否定の意思に似たそれを私はためらいながらも問いかけざるを得なかった。大切な友達がこうして傷ついてしまうのが嫌だった。
『どうしてそこまで走るの?』
『逃げたく、ないから』
だって、負けるのが怖かったから。
そういってスノウはまだ終わっていない、余計なお世話だとばかりにまた走ろうとする。
『私が、ちゃんと走らなかったから。準備が足りなかった、から』
負けたとき、そんなことを言っていた気がする。確かに、私はちゃんとトレーニングをして、スノウに勝つために何度も何度も練習を繰り返した。
たかが地方の、子供のレースだとしても。でも勝ちたかったから、ライバルに勝ちたかったから、全力で戦って、そして勝った。
相手も同じだ。だが、私は負けたとき、そこまでの覚悟をもって走っていただろうか。
『負けないように、走らないと』
負けてもまた次がある。また走ればいい。そう思っていた。だけど、彼女にとってはそうじゃなかった。
『なんでそんなにこわがってるの?』
『本当の私は、弱いから。弱い自分のままなんて、いやだから』
泣き虫だったという。何でもすぐに泣いて、怖くて、恐ろしくて。レースなんてもっと怖い。追いかけられるのも、闘志をぶつけるってのも。
そんな風には見えなかった。だって地元最強、負け知らずのスノウ。私たちはそんな彼女しか知らなかった。
むしろ、私の方が泣き虫だった。分家筋ではあるが、比較的恵まれた家庭、そして才能。
ブラッドスポーツといわれるほどに血統や伝統が重んじられるレースの世界において、私と彼女の間には越えがたい溝があった。その時に理解していたわけじゃないが、その差は着差やレースの戦績という形で残酷に示されていた。
だが、幼い彼女はそれを踏み越えた。スノウグローブはその現実になお、立ち上がった。小さいながらも、勝負の世界において相応の覚悟を決めて走っていた。
『どんくさくて、鈍くて。頭だってよくない。私は私のことしか、考えられてないんだ』
自分勝手で、もっとわがままで、お姉さんになんてなれなくて。
それはみんなそうだろう。私だってそうだと思っていた。だけど彼女は
『でもレースで勝てば、こんな私でも少しは好きになれる。勝てばみんなが誉めてくれる』
だから、と続ける言葉は確かな重さと意味をもって私に刻まれることになる。
『だから走るんだ、私が私でありたいから。強いウマ娘になりたいから。天才じゃないことはわかっていた。だから
いつの間にか、大人たちがスノウを病院に連れて行こうとする。タオルと、暖かい飲み物やその手を。全て、彼女は拒絶した。
弱弱しく手を払うその姿は、私の知らない彼女の姿だった。レースだったり、学校で見る彼女とは違う、仮面の下の姿。
そして、その目は私を射抜く。身体とは逆に、燃えるような思いを携えた目が私を見る。
『だから、スカイには負けない。絶対に』
いくら力尽きようとも、倒れようとも。命ですらかけてでも。それでも一番は私だと示すんだ。その執念は私を変えた。私の原点。そして越えがたい壁だった。そしてその熱い思いが私の魂の在り方も変えた。
ただ、美しいと思ったのだ。とてもかっこいいと思ったのだ。己の意思に一筋に立ち向かう姿は、ヒーローとは言い難いかもしれないけど。私にとっては間違いなく憧れだった。
一生懸命に生きて、何度でも何度でも戦って、立ち上がって。それをすごいと、ただ心の底から君の姿に憧れた。
だから。
***
どこまでも黄金の、闇が払われていく。照らされる世界の中を走っていた。全力、その限界の先にあるもの。
スノウが苦しそうに、でも決してその歩みを止めずに走ってくる。その魂が燃えている。私は手を抜かない。
「キミの声も、生き様も。誰も見向きもしないだろうな。覚えているのは私だけかもしれない。でももう時間はないんだ」
言葉では分かり合えない。
感情と、衝動はそういった世界を超えた領域を形成する。領域は具現するのではない。そこにある扉を開くことだ。その先にあるのは永遠にたどり着けない迷宮、そして現実という世界。一瞬だけ垣間見える世界だ。
そこで深く知った。私の原点を。
私は知った。貴方の想いを。
だからそのうえで、私は叩き潰していく。
「私にとって憧れだった。私にとってスノウは、目標だった」
だから、何度も挑んだ。何度も追いかけたんだ。確かにキミは強かった。そして何度も負けた。それでもよかった。その震える魂の鼓動が私に力をくれたんだ。
トレセン学園に入学してから、キミは私に『次に会うのはターフの上で』と言った。確かにそれは明確な拒絶だった。キミはそのことを後悔しているといっていた。拒絶し、そして突き放したことが、悪意に満ちているというそれが私を傷つけたのではないかといった。
でも私にとっては違う意味で受け止められた。自分自身に対しストイックで厳しく、それでも他者へ不器用な優しさを持つスノウに、明確に敵として捉えられて私は嬉しかったのだ。スノウグローブというウマ娘の中に、その魂に、私はライバルとして刻まれたのだ。
「私たちは分かり合えない。だけど、ターフでなら分かり合える。お互いの正義、それがぶつかり合うその狭間に、きっと答えがある」
ターフの上では私たちは常に孤独だ。レースで頼れるのは自分だけ。
一生の内で全力で走れるのはせいぜい良くて数分、十数分ぐらいだという。それ以上走れば体の限界が来る。その短すぎる瞬間に光り輝く為だけに、私たちは何年も賭けて、己の全てを費やしていくのだ。
その裏で、何度泣いたかわからない。枕を涙で濡らして、不安におびえたかもわからない。でもその時、キミのあの燃える瞳が私を貫いたあの瞬間。震える魂の鼓動がまた私を前に進めたんだ。
「その燃え盛る瞳が、魂の声が、私の消えてしまいそうな想いに力をくれたんだ」
中央はスタートラインに過ぎないこと、その場所で燃え尽きることもあることも覚悟していた。だが私はそれを通過し、未勝利を勝ち抜き栄光の舞台に登った。その切符を掴み取った。わたしは持っている側の強いウマ娘だった。
そしてキミが落ちていくのを見ていた。必死に抗う様を見ていた。何度も何度も走り込み、ぼろぼろの体で駆けていくのを見ていた。それでも私は前に進んだ。前に、行けるところまで。手の届く限りどこまでも。
キミがたどり着けなかった景色、来ることのできなかった世界。私ならそこへたどり着ける。それだけの力がある。
勝つことは、君のように自分を限界まで高め、誰かが挑もうとしてもなお届かぬ壁になるということ。
かつてキミは私に負けたことが許せないと言っていた。だから、そんな悔しさも、後悔も持ちえないほど強くなろうと決めた。
スノウが強くあるためなら。その隣に立つ私も強くなければならない。だってそうでしょう?
隣に立つことを認めてくれた。そうであるなら私は最強でなければならない。ライバルとはそんな関係だ。
強くあろうとしたその姿に、私は憧れた。勝負と誇りの世界で生きることを証明するということ。どれほど愚かといわれようとも、無駄だといわれても。
決して咲くことのない花だとしても。己の生き方を貫くというつらさと険しさや実を結ばないという絶望と、その果ての祈りを抱えて。
「それでもキミは走った。誰も見向きもしないだろう道を。報われないとしても、私はその道の途上に倒れた声を私は知っている。その言葉を私は受け取った。だから私はその脚で証明する」
恨まれ、妬まれ、何度も自問自答したうえで絞り出される一滴の雫。その疑いようのない託された想いはとても小さなものだとしても。
多くの人が叶わぬ夢と挫折した何かを持っていたはずだ。だけど、私は強いから。その場へたどり着ける。私に重ねられ、勝手に背負わされる思いはきっとそうした自分の残骸を、徒花だった者たちの想いを背負っていくことなんだと知ったんだ。
「私はキミの気持ちを知っている。キミの暗闇を知っている。キミだけじゃあない。いろんな人の、いろんな声を、想いを知ってきた」
空虚な暗闇だとしても。そこに私たちは小さいけど輝きを灯すのだ。生きている限り、その声の限り叫ぶのだ。私はここにいたと、私はここで走っていたと!
誰かに忘れられる小さな声を、その限りに叫んでいた。私はその声の上に走っているから。
己のすべてを賭けてここにいるのであれば、私も手を抜くことはしない。勝っても負けても。悦びも悲しみも嫉妬も怒りも。そして言葉にできないこの感情や衝動も。すべて私たちのものだ。誰にも奪えないその結果が私たちの証明になるのだから。
この広大な世界、冷酷な世界だとしても。その声は確かに私に届いた。そしてその声を、願いをさらに高みへ。そうして語られる世界は、沈黙が包み込む世界より、何よりも尊いものなのだ。
さぁ、終わらせよう。夢も、何もかも。
「スノウグローブ、ここで決着をつけよう」
そして始めよう、新しい光の包む世界へ。
誰かを蹴落とさなければ掴めない栄光だというのなら手は抜かない。私のために、私の想いのために。
「最強の私、その隣を走るキミも強かったと。私の中の最強はずっとスノウグローブ、唯一人だ」
「夢を終わらせよう。それは私のため。エゴのため。そしてキミからもらったものを世界に叩きつけて、それをもって証明する」
大バ鹿ものでも構わない。何もかもすべてねじ伏せてやる。
「どこまでも連れていくよ。ここだけで終わらない物語を私は紡いでいく。背負った想いも託されたキミの願いも全て。そして語ろう、その蹄跡で。それだけが、私たちの世界にできることだから」
愚かなエゴイストだ。そして証明する者でもある。空の星は新たな恒星の誕生を祝福する。荒涼たる大地に黄金の光が差し込んでいく。そして燃えるような灯の中を走る。
暗闇に満ちた世界を照らし、切り裂くように輝くそれはまさに福音だ。
君は自らを弱いと言った。確かに弱かったかもしれない。だけどそこにあったのは何物にもない無類の強さだ。自らの強さを知るもの、そして限界を知るものよ。その先が決して開かれぬものだとしても、走り続けるキミはきっと強い。
あなたの強さを証明するために、私の全身全霊をもって叩き潰す。そのうえで、どこまでも駆け抜けてやる。
スノウグローブの隣を走る私は、こんなにも強かったのだと。ライバルは強かったのだと、高らかに叫ぶために。
****
「———ハハ、そうか」
あれから何度駆け抜けたか。もう二千mどころか、何十キロも走っているような感覚があった。
雪原の中から黄金の大地へ。暖かい光が輝く世界に反転する。苦しさも、胸の痛みもどうでもよくなるほど美しい景色の中を走っていた。もはやフォームも思考もあったもんじゃない。全力も全力、もう限界はとっくに超えていた。
私たちはお互いにその景色を見ていた。いや、押し付けあったと言っていい。私の紛い物と、君の本物の領域がぶつかる。
そして勝手に持って行って、勝手に背負って行ってしまう。
ああ、いいさ。それが君の正義なのだろう?
だったら、君はそうあるべきだ。勝てるのなら、勝て。私を礎に、どこまでも高く!
私のたどり着けなかった、高い頂へ!
全力で走ったものにしかわからないこの仄暗い感情も、魂もすべて。ありふれた、どこにでもあるつまらない物語だったけど。
これは私の手で始めた私の物語だ。だから私自身の手で終わらせなければならない。勝ちも、負けも、全て私の蹄跡なのだから。
「知ってるよ、その気持ち。孤独や寂しさに絶望も全部私のものだ。私以外にどうこうできやしない」
徹底マーク。浸徹するように私の心を抉りぬいてくる光。いくつもの粒子が私を貫いていく。
黄金は変わらず世界を包み込み、光に満ちた世界は私の横でただ揺れるだけだった。その世界で、私の中から段々と圧力がかかってくるような感覚があった。
「だけど、それでもいい。私の価値もその意味も全部決めるから。力は強大で、私はあまりにも無力だけどそれでもいい。残ったものはきっと良いものだからね」
暗闇に光が滲む。結界がうねりを伴って破壊される。暗く冷たいモノクロの雪の世界が明るい金色の温もりに塗りつぶされる。幾万の風が吹き荒れ、草や花々が青々として春の香りを運んでくる。
その時、私の魂が弾けた。
私の知らない世界、知らない空気だ。
多くの人がいて、たくさんの声援の中を走っていた。多くの知らない光景、知らない熱気があった。私より、いや、トレーナーより身近に、私と走るものの記憶があった。
歓声、そして悦びの記憶。託されたいくつもの光景が広がっていく。いくつもの声が聞こえる。私の取りこぼした声や、そもそも私の認識すらできなかった祈りでさえも。
摩耗した魂は叫んでいる。まだここにいるよって。そんな風に、消えそうな心が震えている。
わたしはそっと抱きしめた。大丈夫だよ、もう、休んでいいんだよって。きっとどこまでも連れて行ってくれるよ。
ああ、何で私は天才じゃなかったんだろう。なんで私はこんな風になれなかったんだろう。鮮やかな栗毛が金色に輝いて、私の先へどんどん進んでしまうんだ。
「どうしようもなく安堵してるんだ。もう裏切らなくてもいいんだって。約束を、破らなくてもいいんだって」
そうであることを本気で向き合えただろうか。そうでありたいと挑めただろうか。たった一度でもいい。己の力で何かを掴めたといえるだろうか。
そんなの、綺麗な言葉で一言で語ることはできない。だが私は示した。走りで今まですべてを出した。
そうして魂が燃え尽きる。咲き誇った花は花弁を散らし空に舞う。
でも、それでもいい。私を知ってくれた。私の想いを継いでくれた。それだけで満たされる。
暗い道が光に包まれ、そして立ち止まった先に。まばゆい光と満天の星空が広がっていた。
いつの間にかまた最初の雪原だった。寒い、寒い世界だった。
木々は枯れ、草も生えない荒れた土地。世界は何も語らず、あるのは絶望だった。
だが、その足元から小さな花が目を出していた。
小さな雫、それは雪の中でも芽を出す小さな花。
「本当に、私らしい」
何も語らぬ世界を前に私の在り方が変わっていた。それは希望だった。何もないと思っていた絶望から逆説的に希望が滲んだのだ。
「……さ、行こう」
枯葉が舞う。それを契機に風が吹き荒れる。花弁と種子が飛びあがりどこまでも飛んでいく。それは新しき声となり、誰も知らぬところでまた咲き誇るのだろう。
そして幾千もの道がなき今、名もなき星の歌が、もはや誰かが口ずさむだけにしか残らなかったとしても。
必然と消えゆく大きな流れの中で、暗闇に沈黙してしまうよりは、声が反響する世界の方がずっといい。
私のこの思いも。誰かの想いになるのなら。
ふと、幼い私がそこに立った。小さな私が私を見つめる。
《辞めちゃうの?》
あぁ、そうだな。悲しいけど。道はここで行き止まりだったさ。
醜いままここにいられない。弱虫は辞めたけど、そうあるために自分を誤魔化しながら生きていくのはまた違う。
自分の道はここで終わり。だからこの先に行くね。もう夢は終わったから。
《そう。弱虫はやめたの?》
もちろん。私は強いからね。
《そっか。ならよかった》
そう言って私はここで消えた。
この日、一つの星が終わりを迎えた。
***
気づけば第四コーナーを抜け、直線だった。
言葉はここまで交わすことはなかった。だが互いに深く理解していた。
譲れないこと、そして託したこと。二分間の決闘は眩いばかりの黄金の果てに決着がついた。
全てをひっくるめて彼女たちは理解していた。
歓声も、応援する声もなく。二人の足音だけが響くレース場。奇妙な静寂の中、まばらな観衆の中。
スカイはどこまでも差をつけて、どこまでも先に行って。
私たちは静かにゴールポストを通過した。
視界が反転する。頭が爆発しそうなくらいに血が登っている。そして遅れてくる気持ち悪さ。そして全身の熱さ。痛み。平衡感覚がぐるぐるめぐって全くわからない。
「スノウ!」
いつからいたかわからないが、トレーナーが私に駆けよってくる。模擬レースでもなければ本物のレースでもないのに、私の体は細かく痙攣していた。
まっすぐ向いた視界は空を向いていた。
どうやら倒れこんでいたらしい。
「はぁ、はぁ、っはぁ! 私は、そう」
「スノウ」
何処か余裕を残したスカイが近づいてくる。それもそうだ。彼女は重賞ウマ娘なのだ。
随分と遠回りしてきたようにも感じる。結局は答え、というにはいささか乱暴すぎる気もするが、この決闘は確かに意味を持っていた。
「いい、レースだったよ」
「ふふ、そうだね。本当に。いいレースだった」
二人して笑いあう。もはやわだかまりも、心残りになる何かもなかった。
「ありがとうな」
スカイは何も言わなかった。ただ一つだけ。
「私はここで引退だ」
「そっか……寂しくなるね、せっかく一緒に走れたのに」
自分をターフに縛り付け、醜くしがみ付くための理由も今ここに果たされた。
ようやく納得できた。ようやく、この場所で果てることが出来た。
「何言ってんだよ。もっていったくせに」
「フフ、そうだね。勝手にとって行っちゃった」
笑いあう。こんなにすれ違って、こんなにも涙を流していたのに、どこまでも感情は穏やかだった。今までの激情は驚くくらいに凪いでいた。
「ずっと待ってた。いつか見たキミを。その仮面の奥に隠してしまった本当の顔を」
本当の自分なんて、誰も必要としてないと思っていた。誰もその存在を受け入れようとはしないだろうと思い込んでいた。
己の信念、決めたことが崩れてしまうことが直視できなかった。どれほど取り繕っても、やっぱり弱いままだった。
「そうかー。無様だったかな」
「いいや、カッコよかったよ」
真正面から言われるととても恥ずかしいが、この顔の火照りも走ったせいだということにしておこう。
誰しもが順番で上手くいくなんてない。だけど、最後に誰かに託せたのなら。こういうのも悪くなかったんだろうな。
「みんな、忘れてしまうだろう。私みたいなモブウマ娘のこと」
覚えてくれなんて言わない。それは誰かに強制できはしない。
だけど、私の小さな雫のような祈りは確かに届いていた。
「私は忘れないよ。いつまでも覚えてる。キミが輝くウマ娘だってこと」
「はは、なんだよそれ」
共に駆け抜けたこの瞬間が楽しかったのだ。だけど心を躍らせ、沸き立つその感情はもう静まり返ってしまった。
その思いも、楽しかった思い出も。投げ捨てた想いだって遠く彼方に消えていくのだろうか。
でも何時か、このことも青春の思い出だと語ることが出来るだろう。
遠い未来になれば、一瞬の輝きだったと語ることが出来るだろう。
「本当に、長かったよ」
遠く、暗い空には星も何も見えない。凪いだ感情が、鮮明に視界に入る野外投光器の光を取り入れる。
「ほら、立てる?」
「うん、なんとか」
そう言って私はスカイとトレーナーの手を取って立ち上がる。周りを見渡せば、多くのウマ娘とトレーナーの姿があった。
誰かがぱちぱちと、拍手をした。それはいつの間にか広がっていく。何重にも重なる拍手が最後に送られた。
この時、一人のウマ娘の魂が燃え尽きた。その燃え盛る魂はとても大きく、美しいものだった。それは真っ白な灰になって、燃え尽きたのだ。
「いいよ。キミの想いも全部、背負っていくから。私が連れて行ってあげる」
「……そう。ありがとう」
そういって見上げた空は高く暗い。ポカリと空いた穴にまた、私は思いを詰めていくのだろう。
託した想いは、いつしか永遠になるのだろう。
「どこまでも、駆け抜けていって」
幸運を祈って。私はその先に幸いあれと願う。
きっと、どこまでも駆け抜けていけと。
幸運を。死に行くものよりありったけの敬意を。
次回で最終回です。
魂が燃えつき、死んだ先にまた始まる。
貫いた先に見えた光、その行く先。君はその先にまたどんな物語を歩みだすか。