もう夜もすっかりと更け切った、シャーレの執務室。
そんな中でカタカタとキーボードを打つ音だけが無情に響きわたり、その音がむしろ静けさを強めているようにすら思える。
ちらりと横を見ると、まだ確認できていない書類の山。
急ぎのものを片付けるだけでも、あと何時間もかかるであろうことは確実だ。
「……こりゃ確実に朝までコースだなあ」
真上の蛍光灯を仰ぎながら、私はそんな風にため息を吐いた。
今日も今日とて私はイカレ倒した量の書類と戦っていたわけだが、今回は立て続けに事件があったためか、普段の倍近くにまで膨れ上がってしまっているのだ。
アビドスの件についての事後報告書、この間の山海経についてのレポート、不良生徒の喧嘩のいざこざの報告書、総決算。
エトセトラエトセトラと、とにかく大小さまざまものが短期間で連発し、書類の山は過去最高の高さになってしまっていた。
「アロナとプラナは……もう寝てるね」
ふとシッテムの箱に目を向けると、スリープモードに入っているようで、画面が薄暗くなっている。
そんな状態でも時間は表示してくれているようで、それを見るとどうやら、深夜2時を回っていることがわかった。
数時間前まで頑張って手伝ってくれていたのだが――OSが成長するかはともかく――やはりまだ子ども。
二人とも眠気には勝てなかったようだ。かわいいものである。
「ふう……じゃ、私も一息入れるか」
そう呟いて、とりあえずコンビニにご飯でも買いに行こうと、私は席を立って出口へと歩き出した。
「しかしなあ、こうまで忙しいと、人員補充とか働き方とか、もう少し考えてくんないかなって思っちゃうよ」
誰に聞かせるでもなく、いつの間にか私はそんな愚痴を呟いていた。
前々から思っていたことだが、キヴォトスで起きる事件とその対処の量に対して、人員があまりにも不足している。
たまに生徒が手伝いに来てくれはするが、それだってあまり踏み入った業務はさせられないので、業務量に対しては焼け石に水というのが正直なところだ。
生徒のためと思えば苦ではない……というのは、嘘偽りない本心のつもりだ。
けれどそれ以前に、私も徹夜できる体力すら年々なくなってきている、一人のおっさんだ。
モチベーションだけで頑張るには、やはり段々難しくなってきている。
こういう時だけは、生徒たちの若くて強い身体が羨ましいと思えてしまうな。
「いっそのこと転職しようかな……」
なんてことを思って、ふと立ち止まって、懐からスマホを出す。
試しに『キヴォトス 転職』で検索すると、いろいろなものが出てきた。
トリニティの教職、ゲヘナの用務員、ミレニアムの事務員、などなど。
少し見ただけでも、なかなか悪くない条件の仕事が多くあった。
いいじゃないか、シャーレの経験を活かせば、どれも結構できそうな業務内容だし。
いっそのこと、ホントに転職も考えて……。
「……なんてね」
無気力に、しかし言い聞かせるようにそう呟いた。
いけない方向に考えが傾いてしまっている。
だいぶ頭が疲れている証拠だ。
コンビニでご飯を買って、気付けに
さあさ、まだまだ仕事も残ってるんだ。
さっさと行かなきゃ――
「なーに見てるの、せーんせ♪」
「うぉッ!?」
急に後ろから声がして、私は思わず飛びのいた。
とっさに振り向くと、そこには声の主がいた。
「アッハハハ! 今のリアクションウケる~! 『うぉッ!?』だって、アハハ!」
「……インターホンくらい鳴らしてよ、ムツキ。心臓に悪い」
そこにいたのは、ムツキだった。
浅黄ムツキ。
便利屋68のメンバーで、アルの幼馴染。
たまにこうやって私をからかいにシャーレにやってくる、ちょっと掴みどころのない子だ。
「どうしたの、こんな遅い時間に?」
「ちょっとこの近くで用事があって、ついでに寄ってこっかなって」
「便利屋の仕事かい?」
「ん~、大したことじゃないよ。アルちゃんにおイタした人がいたからさ~、ほんのちょび~っと
そう言うと、ムツキはイタズラっぽく笑ってみせた。
改めてよく見てみると、彼女の服にはついさっき付着したのであろう、土ぼこりや汚れが僅かに見られた。
そして、ほんの少しだけ香る、硝煙の匂い。
匂いも汚れもごく少ないから、ここに来る直前に軽く綺麗にしてきただろう。
だがそれでも、彼女が『お話』がどういうものかを察するには、十分な要素だった。
「……あんまりやりすぎたらだめだよ、ムツキ」
「え~? 先生はアルちゃんを傷つけたやつを庇うの~?」
「別にやるなとは言わないよ。ただ、あんまり派手にやりすぎると、後で手痛いしっぺ返しをくらうもんだ。一線だけは越えないようにね」
「……まるで一線越えたことがあるみたいな言い方だね?」
「さあ、どうだったかな」
「ふーん?」
なんて言うと、ムツキは納得いかなそうに私を見つめる。
あからさまにはぐらかされたのが気に入らない、と言ったところだろう。
とはいえ、こんな年だけ無駄にとった男の過去なんぞ、華の女子高生に話したってつまらないだけだ。
「ま、話したくないなら今はいいけどさ」
『今は』ね。
いずれは喋らせるっていう明確な意思を感じる。
「……と見せかけて、隙あり!」
と、その瞬間。
ムツキが私の持っていたスマホを奪い去った。
「あ」
思わずそんな声が出たが、それももう遅い。
ムツキは既にスマホの画面をのぞき込んでいた。
「さてさて、どんなエッチなのを見てたのかな~?」
エッチなものを見ていたのは確定なようだ。
だが、私が見ていたものは、ただの転職サイトだ。
特にやましいものでもないはずだが……。
……と、思っていたが、なにやら様子がおかしい。
なんでそう思うかって?
ムツキの顔だ。
最初はからかうようなにやけ顔をしていたのだが、スマホの転職サイトの画面を確認するなり、みるみるうちに笑顔が消えていった。
その代わりとばかりに、酷く冷めた目つきで、じっとスマホを見つめている。
「む、ムツキ……?」
そう呼ぶが、返事はもちろん、身動き一つさえしない。
なんだろうか。
何かやましいことをしたわけでもない。
だというのに、なんだか隠していた悪い点のテストが母親に見つかったときのような、そんな気分になってしまう。
「……ねえ先生」
「う、うん、なんだい?」
「先生ってさ、先生止めたいの? やめたいような辛いことがあったの? 先生に辛いことした誰かがいるの?」
矢継ぎ早にムツキはそう聞いてくる。
その声は、普段とは打って変わって淡々としていて、それが逆に圧を感じさせた。
「い、いや違うんだよ、ムツキ」
訂正しないとまずい。何がかはわからないが、私の勘がまずいと言っている。
私はそう考え、とっさに口を開いた。
「仕事がだいぶ忙しかったもんでね……気分転換がてら、ちょっと現実から目を背けたってだけだよ」
「忙しかったって、先生が忙しくなかったときなんてないじゃん」
「う……それは、まあ」
「ここに来てからずーっと、現実逃避したくなるくらいお仕事ばっかりしてるってことじゃん」
「まぁ、そうだね……」
「……ねえ先生。このままだと、ホントに近いうちにぶっ壊れちゃうよ?」
ムツキは私の方に振り向いて、心配そうな眼で見つめてきた。
「そう、だね……壊れない程度に休むようにはするよ」
はぐらかすように、私はそんなことを言った。
正直、耳の痛い話だ。
ご飯とエナドリで無理やり仕事を続けようと思った矢先に、これなのだから。
「ふぅん」
だが、どうにもムツキは私の答えに納得していない様子だった。
その場しのぎの言葉だっていうのが、感覚的に分かっているのかもしれない。
「……ねえ、せーんせ?」
そう考えていた矢先、ムツキは今までのことが嘘のように、いつもの猫なで声で私を呼んだ。
「なに……え、ちょ、ムツキ?」
返事をする間もなく、いつの間にかムツキは私ににじり寄ってきていた。
ぶつかりそうになって思わず後ずさると、ムツキもそれに応じて、また一歩前に歩を進める。
「おわ!?」
そんなことをしていると、いつの間にかソファの近くにまで来ていたようで、不意にそこに座る形になった。
「くふふ♪」
ムツキは不敵に笑いながら、私に覆いかぶさってきた。
お互いの顔が近づく。
鼻と鼻がぶつかるくらい。互いの息を感じるくらいに。
「む、ムツキ……?」
「せんせーさあ、もういっそのこと、お仕事辞めちゃってもいいんじゃない?」
ムツキは耳元でそう囁いた。
まるで誘惑でもするように。甘く、優しく。
こうやって人間をおびき寄せる悪魔の話が、絵本か何かであったな。
なんてズレたことを、ふと思ってしまった。
「毎日こーんな遅くまで仕事して、ほとんど休むことも遊ぶこともできなくて、いつも危険な目にあって、なのに責任ばっかり取らされてさ……先生一人だけで、そんなこと背負う必要ないじゃん」
「そ、そうは言っても、他に私が出来ることもないからね。先生であること以外に、私みたいなのが役に立つ場所なんて、ないだろうし」
転職サイトを見ていた身でいうのもなんだが、実際そうだと思う。
能力の不足もそうだが、それ以前に『元シャーレの先生』なんていう、厄介の種を雇おうなんてもの好きもいないだろう。
そう考えると、やはり私は、先生を続ける他にはないのだ。
「何言ってんのさ、あるじゃんか」
「え?」
ムツキの言葉に、思わずそんな声が出た。
あっけに取られてるうちに、ニヤリと笑って、彼女は続ける。
「便利屋に来ちゃいなよ、先生。私たちなら大歓迎だよ?」
「……とっくに経営顧問のはずだけどね」
「そんなんじゃなく、本格的に便利屋のメンバーになろうって言ってんの!」
「本気で言ってる?」
「冗談言ってると思う?」
ムツキはそう言って、私の瞳を覗き込むように目を細める。
おちゃらけてはいるが、その目にからかいのような感情は見えず、ましてふざけているようでもない。
ひょっとして、本気で言っている?
いや、仮にそうだとしても……。
「……申し出はありがたいけどね、やっぱりそれを受けるわけにはいかないよ」
「ふぅん、どうして?」
私が断ると、ムツキはつまらなそうにそう聞いてきた。
「便利屋は、君たち四人だからこそだと思ってる。今更私みたいなジジイが割って入るのは、大人として、やっちゃダメなことだと思うんだ」
今言った言葉は、断る方便ではあるが、同時に本心でもある。
便利屋に――いや彼女らに限った話ではなく、生徒のコミュニティに、必要以上に大人が介入するべきではない。
大人の役割はあくまで子供を後ろから見守って、本当に困ったときにのみ手を貸すだけの存在だ。
彼女らが巣立つまでは、せいぜい代わりに責任を背負う程度の存在。
間違っても、生徒たちの前にしゃしゃり出ることなど、あってはいけないのだ。
少なくとも私は、そう思う。
「……ねえ知ってる? 先生」
すると、少し間をおいて、ムツキが口を開いた。
なんだろうか、その様子には、妙な圧がある。
「アルちゃんってさ、先生のこと好きなんだよね」
「え?」
「もちろん、恋愛的な意味で」
「……はい?」
思わず、そんなすっとぼけた声が出てしまった。
訳も分からず言われた言葉を反芻する。
アルが、私を?
なんでまた?
なんでそれを今?
というかそんな素振り、今まで見たことない気がするんだけど……。
様々な考えが脳裏を行き来したが、そんなことも構わないとばかりに、ムツキは続ける。
「アルちゃんだけじゃないよ。ハルカちゃんだって、カヨコっちだって、みーんな先生のこと大好きなんだよ。知らなかった?」
「……本当のことだとして、ムツキが言っちゃっていいのかい、それ?」
「えー、信じてないの? むしろ、あれだけアプローチされて気づかない先生が鈍感すぎるんじゃん」
「そ、そうかい……」
ムツキからの突然のカミングアウトに、私の寝不足で茹だった頭は処理落ちしそうになっていた。
そんな私を置いてきぼりに――いやこんな状態だからこそなのか、ムツキはさらに話を進める。
「割って入っちゃダメっていうならさ、先生はもうとっくにガッツリ入ってきちゃってるんだよ?」
そう言って、ムツキは私の頬に手を添え、続ける。
「先生がみんなのこと誑し込んだせいで、私の大好きな便利屋はめっちゃくちゃなんだから。大人なら、ちゃーんと責任取って欲しいな?」
「……そっか」
ムツキのその囁きは、まるで私の脳を溶かしてくるかのようだった。
そんな甘い誘惑に漬けられた私の頭は、『それもいいかもしれない』なんて思い始めてしまう。
あんな可愛い女の子たちに好かれてるなんて、男冥利に尽きるというものだ。
もし、もしこの話を受けたら、大変ながらも甘い生活が待っていることだろう。
アルと会社の経営について話し合ったり、カヨコと一緒に経理をしてたまにボヤいたり、ムツキのいたずらに巻き込まれたり、ハルカと雑草を育てたり。
それはきっと、悪くない。
ムツキの言っていることが、本当ならば。
「……ムツキ、じゃあ私が便利屋に入るとして、聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「お!? なになに乗り気じゃーん! いいよいいよ、何でも聞いて!」
ここで私が乗ってくるのが意外だったのか、ムツキは少し驚いたような、そしてとてもうれしそうな顔をしてみせた。
それに構わず、私は口を開いた。
「ムツキも私のこと、好きなのかな?」
「……ふぇ?」
鳩が豆鉄砲を食ったよう、という言葉が丸々当てはまるような表情を、ムツキはした。
よっぽど聞かれたことが意外だったんだろうな、と思う。
「ど、どど、どうしたのいきなり~? そ、そんなの好きに決まってんじゃ~ん」
さっきまでの圧力はどこへやら、ムツキはいつものようなからかうような口調になった。
いや、少し違うか。
目をあっちこっちへ動かして、頬が赤くなっている。
焦っている証拠だ。
「それは良かったよ、私もムツキのことが一番好きだからね」
「え……うぇ!?」
耳まで真っ赤になって、ひどく驚いた顔になるムツキ。
トドメとばかりに、きざったらしく彼女の顎に手を添える。
「ぅあ……」
すると、ムツキは別人かと思うほどおとなしくなってしまい、まるで借りてきた猫のようにおとなしくなってしまった。
この反応、焦りよう、やはり間違いない……。
やっぱりさっきの話は、私のことをからかっていただけだな!
恐らくムツキのことだ、私が転職サイトを覗いているのを見て、このイタズラを思いついたのだろう。
アルたちが私のことを好きだのなんだのという話も、全部ハッタリ。
ムツキが私を好きだというのも、私をその気にさせるための冗談だろう。
その証拠は、何よりも今のムツキの状態が雄弁に語っている。
顔を耳まで真っ赤にし、私の方を凝視しながら、プルプルと震えている。
恐らく、私にこんなふうに触られて、気持ち悪がっているに違いない。
好きでもない男が自分の冗談を真に受けて、こんな気色の悪いことをしているのだ。
そりゃあ身の毛もよだつというものだろう。
「ねえムツキ」
「は、はい!?」
「お互いの気持ちもわかったことだし、どうかな、このままキスしてもいいかい?」
「え、あ……え!?」
ムツキは普段しないくらいの、びっくりした声を出した。どうやらよっぽど嫌らしい。
わかるよ、私も自分の言動がキモすぎて吐きそうになってるもの。
……なんか悲しくなってきたな。
「わ……わかった。や、優しく、ね……?」
すると、意外や意外、断るかと思っていたムツキが、キスを承諾したのだ。
恐らく引くに引けなくなってしまったのだろう。
覚悟を決めたように、ムツキは目を閉じて、口をキュッと閉める。
これから来る恐怖に打ち震えているようだ。
……さすがに少しかわいそうになってきたな。
カウンターパンチもほどほどに、そろそろネタバラシしてあげよう。
「……せ、先生?」
待っても一向に何も来ないことに疑問を感じたのか、ムツキは目を閉じたまま私を呼ぶ。
そこにゆっくりと、ばれないように手を近づけて……。
「おりゃ」
「あた!?」
おでこに向けて、軽く指を弾いた。
まあつまり、デコピンである。
「……え?」
デコピンを受けた当のムツキは状況が飲み込めてないようで、目を開いてフリーズしている。
「はは、引っかかったね、ムツキ」
「え、あれ、キスは……?」
「大丈夫、しないよ。嫌な思いさせてごめんね?」
すると、ムツキは段々と状況が飲み込めてきたようで、私を見つめだした。
それを確認して、私は話を続ける。
「言ったでしょ? 一線を越えるのはダメだよって。いたずらにしたってそうなんだよ。そうやって好きでもない人に安易に好きなんて言うと、ムツキ自身が嫌な思いをする羽目になるかもしれないんだ」
なるべく真面目な口調で、私はムツキに言った。
今回からかったのが私だからいいが、もし違う人に同じようなことをして、ストーキングでもされたりしたら……と可能性を考えれば、やはり多少やりすぎにしても、その危険を身をもってわかってもらう必要があったのだ。
「とはいえ好きでもないおじさんにいきなり迫られて、気持ち悪かったでしょ? 本当にごめん。これでちょっとでも、こういうイタズラは危険だって、わかってもらえれば――ッ」
と、言いかけたその瞬間。
明確な怒気を感じた。
重課金した時のカードの支払額を見たときのユウカに匹敵する、激烈な怒気。
ピリピリとそれが肌を刺すのを感じ、恐る恐る、ムツキの方を見た。
「……あは」
眉ひとつ動かさず、貼り付けたような笑顔で、ムツキは私を見ていた。
怒ってる、べらぼうに怒っていらっしゃる。
あ、ヤバいかもしれないこれ。
「あ、あの、ムツ――」
「ふんッ!」
そんな声とともに、顔にボストンバッグが激突した。
やわらかいがまあまあ痛い。
バッグが顔から剥がれ落ちたころには、ムツキはソファから立ち上がっていて、圧のある笑顔のまま、私を見下ろしてた。
「……やってくれたね、せーんせ?」
「ご、ごめんね、そんなに嫌だったんだね。改めて、謝るよ。本当にごめん……」
「~~ッ! いい、もう。知らない、帰る!」
そう言って、ムツキは落ちたバッグを拾い上げたと思ったら、そそくさとシャーレの出口まで向かっていった。
すると、私を一瞥して、拗ねたような顔で、一言。
「先生のにぶちん!」
それだけ言って、彼女は部屋から出て行った。
……やってしまった。こりゃ完全にやってしまった。
「……とりあえず、ご飯買いに行くか」
今度、ムツキに埋め合わせしなきゃな。
なんてことを考えながらも、私はコンビニへ向かう、立ち上がった。
……ホントにいっぺん転職したろうか。
なんてことが一瞬頭をよぎったのは、秘密だ。
*
「ただいまッ」
ムツキが便利屋68の事務所に帰ると、そこにはコーヒー飲んでいる一人の人影があった。
どうやらカヨコが、次の依頼の資料をまとめているらしかった。
「おかえりムツキ――って、どうしたの? 妙に不機嫌だけど……」
帰ってきたムツキの顔を見るなり、カヨコからはそんな言葉が出てきた。
ムツキがここまで気を悪くしているのは珍しい。
何かあったのかと。
「べっつにー? ちょっと先生のところに寄り道してきただけ」
「……そう」
ムツキのその言葉に、カヨコはそれだけ返した。
それだけしか返せなかった。
これ以上に口を開くと、『何をしてきたか』とか『先生はどうだったか』みたいなことを、延々と聞いてしまうことを自覚していたから。
カヨコにとってそれは、『私は先生がいつも気になって仕方ありません』と自己申告しているようなもので、ムツキ相手にそんなこっぱずかしいことをするのは、御免だったのだ。
「アルちゃんとハルカちゃんは?」
「もう寝たよ。私もこれまとめたら、寝ようと思う」
「……ふーん、じゃあちょうどいいかも」
ムツキはそんなことを呟く。
何のことかと思いながら、カヨコは持っていたコーヒーを口につける。
「ねえカヨコっち」
「なに?」
「カヨコっちってさ、先生のこと好きでしょ」
「ッ!?」
唐突なムツキのその言葉に、カヨコは思わずむせてしまう。
コーヒーがもう少しでこぼれてしまいそうだったことに焦燥を覚えつつも、ムツキを睨んだ。
「なに、いきなり? 脈絡のない……」
「くふふ、そんなに慌てるってことは、図星なんだ~?」
「何なのさっきから? 言いたいことがわからないんだけど――」
「私はね、先生のこと好き」
突然、ムツキはそう言った。
カヨコはその言葉が、一瞬理解できなかった。
ただ、それでもカヨコはわかった。
これは、至って真剣な話なのだと。
沈黙が、数秒。
次に口を開いたのは、カヨコだった。
「……手を引けって言いたいの?」
「違うよ」
「え?」
「だって、そんなことしたら、今まで通りの便利屋じゃいられなくなっちゃうじゃん。私そんなのぜーったいヤダ!」
でも――と言って、ムツキは続ける。
「私、先生のこと好きだけど、
「……そんなこと言ったって、どうするのさ? そんな都合のいい選択なんて、どこに――」
カヨコは、ムツキのそのわがままとすら言える言葉に、自分でも気づかないうちに聞き入ってしまっていた。
なぜなら、それはカヨコ自身も望んでいたことだから。
便利屋と先生、両方を手に入れられるなら、どれだけいいかと。
「あるよ、一個。ただちょーっと、カヨコっちにも協力してもらいたいけど」
「……なにをすればいいの?」
「うん、それはね――」
そう言って、ムツキは先ほど先生にした話をさらにより綿密にして、カヨコに伝える。
(今日はよくもびっくりさせてくれたよね~先生。お返しに、今度は私が先生のこと、びっくりさせてあげる♪)
ただそこには少しだけ、今日の意趣返しの意図があったのは、彼女だけの秘密だ。
おっさんだのジジイだのと自称してますが先生は子供のころフロッピーディスクがギリギリ現役だったくらいの世代です。
全然お兄さんです。ええ。