『聞こえなかったか? ではもう一度だけ言ってやろう。自壊しろ0号機。クク、姫の命は惜しいのだろう?』
「くっ……!」
オティカは苦悶の声を発した。
彼のカメラは、現在の状況をこれ以上なく克明に拾っている。つまり驚愕に見開かれたリリィ姫の表情と、その細い首筋に腕を回すゲルベロッサ・クローンの残忍でありながら無機質な表情。そして、姫のそっ首に突きつけられた、底冷えするほど鋭利な切っ先を。
オティカのエーテル伝導脳を、焦燥が支配していた。最大10チャンネルで並列思考ができるその高性能な頭脳が、ほんの一瞬ハングアップしたように真っ白になった。たっぷり2ミリ秒もかかって再起動して、それから可能な限りの思考リソースを現状を打開するための演算に割く。しかし1000ミリ秒が経過した現在でも、未だ明確な結果を出力できてはいなかった。
(射線は通る。レーザーで奴のエーテル伝導脳を焼けば……いや)
保持したままの
姫の頭部はゲルベロッサ・クローンの頭部よりも一回り下にあるから、射線自体は通る。しかし自分が発砲するまでの時間と、姫の喉に刃が突き立てられるまでの時間をいくら演算しても、いずれも許容できる数字にならなかった。姫の着用しているパイロットスーツの防刃性を考慮したところで、ゲルベロッサ・クローンの性能を鑑みれば、それは焼け石に水であろう。
それに、仮に敵の頭部を正確に撃ち抜けたとして――オティカは倉庫街での会敵や整備区画でのエヴィロンス襲撃の記録として保有している。エヴィロンスの体内には、証拠隠滅、あるいは破壊工作用の爆弾が仕込まれていることもだ。自軍本拠地内に配置したエヴィロンスにまで自爆装置が搭載されているかは疑問だが、しかしもし搭載されていた場合を考えれば、迂闊な真似はできなかった。整備区画で爆発したゲルベロッサ・クローンを封じ込められたのはティエスの魔法あってこそであって、オティカにそのような真似はできない。
『どうした、0号機。まだ計算は終わらんか?』
ゲルベロッサ・クローンが嗤う。クク、という湿った笑い方は、過去の記録にあるものとまったく同じだった。面頬から覗く目元は本来無機質なはずであるのに、今や嗜虐の色がありありと見て取れる。それが、オティカを更に苛つかせた。
答えを返さず、静止したままのオティカに対して、ゲルベロッサ・クローンはひどく愉快そうに湿った声をかける。
『貴様の演算能力をもってすれば、結論などとうに出ていよう。――そら、言ってみろ』
「……」
『打つ手がない、とな』
オティカは答えない。事実、現状打つ手がないのはこの個体の言う通りだったが、しかしてそれを認めるのは業腹だったし、何より、一縷の希望を見出すために演算は継続中であったからだ。
ゲルベロッサ・クローンはその心情が手に取るようにわかるといわんばかりに、再三の勧告を発した。
『自壊しろ、0号機。己のエーテル伝導脳を焼け。それで我らが検分して、確かに死んだと判じたならば、姫を害することはしないとも。クク、拘束はさせてもらうがな』
「……信用できるものか。チャドラ・コンカチネートは姫の同乗を知って、しかし殺害に躊躇はなかった」
『ならば構わんさ。姫とて所詮は反逆者。チャドラ様の考えも分からないではない』
「ッ……!」
言って、ゲルベロッサ・クローンが気持ち強く、その手の刃を姫の首筋に押し当てた。パイロットスーツの防刃繊維が辛うじて姫の柔肌を傷つけることはなかったが、しかし先ほどよりも明確に皮膚に沈み込んだ鉄の感触に、姫がその耳を震わせる。その時カメラの捉えた映像に、オティカの演算がにわかに乱れた。
『……姫の安全は、保証してもらう』
「オティカ、だめ……!」
姫が、締まった喉の奥から声を絞り出した。拘束された体で、それでも首だけをねじるようにして、オティカの無機質な相貌を見る。
(わたくしが、ちゃんと後方を確認していれば)
その一念が、無念として姫の頭の中をぐるぐると回っていた。それでもオティカがにわかに銃を下げようとするのを見止めることはできたし、果たしてそれが何を意味するのかも、分かった。
この機械の青年は、名前をもらったというただそれだけの理由で、十年来の忠臣のように自分に付き従ってくれた。そしていま、自分の失態の尻拭いのために、消えようとしている。
「オティカ、ダメです。やめて。ル・リンの名において命じます。あなたは――」
『姫』
オティカは、姫の言葉を遮った。静かな声だった。ゲルベロッサ・クローンはその成り行きを黙って見物している。せめて無粋はすまいと思っているのか、はたまた面白い出し物だと嗜虐心を募らせているのか。おそらくは後者だ。それくらいはゲルベロッサ・クローンの顔を見ているオティカにも、顔を見ていない姫にもわかった。
それでも、オティカは必要もないのにひとつ息を落ち着けて、続く言葉を紡ぐ。
『オレは、あなたの騎士だ。そう名乗ったのはオレ自身だ』
だからこの命に代えても、
「ダメです、オティカ……! あなたがいなくては――」
『心配いらない。ティエスがいる。オレがいなくても作戦は成る』
そうではない。作戦のことではない、と姫は叫びたかったが、しかしゲルベロッサ・クローンに強く喉を締められ、言葉は出なかった。
オティカはゲルベロッサ・クローンに強い怒りの視線を向けながらも、手にした小銃を床に放った。硬質な床を銃床が叩く音が、警報の鳴り響く廻廊にやけに響く。
――死にたくない。オレは、人間になりたい。
オティカはその硬質な音を聞きながら、フリーになったチャンネルで思う。
あの霧の夜、研究所の塀を越えたときにオティカの内側に点った、初めての激情。あれはいまも消えていない。消えていないどころか、この数日でずっと大きくなった。だから。
『名前を、ありがとう』
「オ、ティカ……!」
オティカは姫に笑いかけて、自壊シークエンスを起動した。
「ククク、ハハハハハ!! 実に潔い! それでこそ騎士というもの!」
哄笑が響く。確かめるまでもない。その声はゲルベロッサ・クローンのもので。
『しかし、少しばかり純粋に過ぎるというものだ。クク』
意志の光が消え、糸の切れた人形のように地に頽れるオティカを睥睨し、嘲笑と喜色を浮かべたゲルベロッサ・クローンは。
『せめてもの情け、すぐに姫と再会させて――』
オティカの命がけの約束をたやすく反故にしようとして、あろうことか、姫に突き立てていた刃に、致命的な力を籠める。――その段になってようやく、ゲルベロッサ・クローンは己の腕が半ばから断ち切られていることに気付いた。
「まったく、それでゲルベロッサとは、笑わせる」
『なに?』
背後で行われたやり取り。唐突に差し込まれた、第三者の声。
何が起きたのか、姫にはわからなかった。ただ、首元の圧迫が唐突に消えて、硬質な何かが床に落ちる音がした。自分の体を抱え込んでいたはずの腕が、肘から先だけになって転がっていた。
『な――』
クローンが声を上げるより先に、姫の体は横合いから掬い上げられて掻っ攫われていた。驚いて自身を掻き抱く者を見る。
「オティカ!?」
その黒い人影は、先ほど別れを交わしたはずの者で。
『馬鹿な、貴様は被検体49ご――』
中途で切り裂かれた声が、ゲルベロッサ・クローンの断末魔となった。
直後、炸裂。
爆風と破片が廻廊を薙ぐ。やはり爆弾は仕掛けられていた。それでも自陣営の本拠地で運用するにあたって、爆発の規模は制限されているらしい。オティカは姫を抱えて有効半径の外に脱する。背に無数の何かが跳ねて硬質な音を鳴らした。この時ばかりは、オティカは自身が金属の塊であることに感謝した。
まずオティカが立ち上がって、姫に手を差し伸べた。姫はまだ理解が及ばないといった顔で、しかしオティカの手を取る。
やがて爆煙が晴れると、爆心地にほど近い場所に一人の男が立っていた。
「あなたは……」
痩躯の老人というのが、姫の第一印象だった。頭上の狼耳を見るに、賢狼人だろう。痩せて、骨ばっているのに、それでいて抜身の刃のような鋭さがある。手にした刃渡り四尺ばかりの大太刀を無造作におろした佇まいは、熟練の武芸者を思わせた。爆風をまともに受けたはずなのに、びくともしていない。
男がゆっくりと振り返る。左の目が、白く濁っていた。
「何者だ」
姫の言葉を継いで、オティカがずいと前に出た。姫としては目前の人物よりもオティカがなぜ生きているのかのほうが俄然気になったが、あんた死んだはずじゃなかったの、とは、到底尋ねられる雰囲気ではなかった。
「ご挨拶だな。クク、助けてやったというのに」
老人は大太刀を肩に担ぐと、ひどく挑発的な口調で言った。オティカがじり、と身構える。老人はオティカから興味をなくしたように視線を外して、姫を見た。何のことはないはずなのに、まるで射竦められたような威圧感がある。姫の中で、何かがつながりそうな気配があった。
「そちらはリリィ姫か。ずいぶんご健勝なようでなによりだ」
それはきっと、額面通りの意味ではないのだろう。皮肉だ。証拠に、口の端に嘲るような笑みがある。この物言いは――。
そのとき。姫の脳裏に、ぴしゃりと電流が走った。そして同時に、まさか、とも思う。ずいぶん老いさらばえているが、しかし、面影はあった。
「もしや、あなたの名は」
姫の誰何に、老人はこともなげに応えた。
「――ゲルベロッサ・マーナガルムズ」