「――ゲルベロッサ・マーナガルムズ」
老人が何の気負いもなく名乗った名に、オティカが一層身構えたのがわかった。姫もまた息を呑む。もしや、と思いこそしたが、姫の記憶に残る往時のゲルベロッサと比較すれば、その佇まいはいかにも草臥れていた。髪には白いものが混ざっていたし、体躯は老いて萎びている。しかしその身に纏う鋭い気配は昔と同じで、左目の傷もまた、彼を彼たらしめるアイデンティティであった。
老人――ゲルベロッサは剣を肩に担いだままの姿勢で、その獣じみた口の端からくつくつと笑いを零した。
「そう警戒するな、機械人形。そこの鉄屑と比べれば、貴様はずいぶんな芸達者のようだな?」
「……何が目的で、オレたちを助けた」
「まずは謝辞を述べるべきだと思うのだがな」
オティカはゲルベロッサの言を無視するように詰問する。ゲルベロッサはそれに対して気分を害した様子は無く、ただ小言とともに肩をすくめた。
「オティカ」
「危険だ」
「いざというときは頼みます」
言って、姫がずいと前に出る。止めようとするオティカを制して、姫はゲルベロッサの目をしっかりと見据えた。オティカはなおも咎めようか迷って、結局姫の言うとおりにした。無機質ながら剣呑な視線が注がれる中、ゲルベロッサはそよ風とも感じていない風の自然体だ。
「ゲルベロッサ、まずは感謝を。あなたがいなければ、わたくしの命はなかったやもしれません」
「過分なお言葉痛み入る。とはいえ、そこな機械人形はあの鉄屑よりはよほど演技上手だったから、俺の加勢がなくとも何とかしたやもしれぬがね」
「そうだとして、命を救われたことは事実です。わたくしの感謝の念は変わりません」
姫はそう言い置いてから、視線に力を込める。
「その上で、聞きたい。近衛の将でありながら父王ウィドーの膝元に真っ先に下り、前王ドラスをその手で弑した貴公が、なぜわたくしを助けたのです。父王に弓引くこのわたくしを」
「新たな主としてリリィ姫を見込んだから、という答えでは不服かな?」
「不服です。軽々に仕える主を変えるものに、信は置けません」
「軽々、か」
ゲルベロッサの怒気がぶわりと立ち上ったのが、荒事に慣れていない姫でさえ分かった。オティカが即座に前に出て、手甲から肉厚の刃を展開する。
ゲルベロッサはそれを見止めて、皮肉気な笑みを浮かべた。
「クク、面白い。そのような粗末な得物で、俺と勝負しようというのか。機械人形風情が」
「貴様が姫に刃を向けるなら、必然そうなる」
オティカは断然とした口調で言って、即応の構えをとった。
――オティカとて、先ほどゲルベロッサ・クローンがなすすべもなく解体される光景はしっかりと記録している。ハイスピードカメラですら残像しか捉えられない神速の剣技に、果たしてどれだけ対抗できるかは怪しいものだった。それでも、オティカが姫を守らないという選択肢はない。
「その意気やよし、と言ったところか。クク、少しは楽しませてもらいたいな」
ゲルベロッサはそう言って、肩に担いでいた大太刀をゆらりと下した。只管無造作に見えるその所作は、しかしすでに必殺のモーションの一部である。オティカの高性能なセンサーが、ゲルベロッサの微細な重心のズレを検知した。来る。オティカは両の手をガードポジションに、腰を落として防御の構えをとる。果たして、受け止めきれるか。
「ハイハイ、双方そこまで」
ぱんぱん、という手拍子が響く。しかし張りつめていた緊張の糸は、辻の角からひょっこりと顔を出した第三者によって無残にも断ち切られた。オティカはさらなる未知の勢力の登場に警戒度を上げたが、対するゲルベロッサはひとつ嘆息して剣気をおさめる。
現れた男は、壮年の賢狼人だった。そして姫は、その顔に見覚えがあった。
「あなたは……ベオ侍従長!? よくぞご無事で」
「姫様こそ、ご無事で何よりです」
男は人好きのする笑みを浮かべて、ぺこりと頭を下げた。
「姫、こいつは?」
毒気をごっそり抜かれながらも、オティカの声にはまだ警戒の色が濃い。姫はそんな彼を落ち着かせるように、穏やかな口調で答えた。
「この方はベオ・ヴォルフ侍従長。レイフィール王族の世話全般を司る方で、城内で働く侍従たちをまとめ上げてくれています」
「くわえて、賢狼王統派の支持者でもありますね。つまりは味方です。安心してください、オティカ君」
ベオは姫の言葉を引き継ぎ、能天気なピースサインを添えて名乗った。オティカはこれで完全に毒気を抜かれ、構えを解く。
「オレのことも知っているのか」
「無論です。「野生の後継者」が決起するまでは、姫様とも密に連絡を取っておりましたし」
とはいえ、いくら早馬でやり取りしたとしても2日3日の遅れは出ますが、と付け加えて頬を掻く。
姫はそんなベオの様子に、ひどく安心したようだった。
「連絡が途絶えてからは、父王が苛烈な罰を課していないか、心配しておりました。本当に、よくぞご無事で」
「ウィドー王はそのようなご無体はなさいませんよ」
ベオはそのように言ってから、ようやく表情を引き締めた。
「姫様、再会を喜ぶのは後にしましょう。増援が来ては厄介です。積もる話は移動中に」
「……はい。急ぎましょう」
姫はしっかりと頷いた。秘密通路の入り口はすぐそこである。オティカに目配せをすると、彼は姫が隔壁の操作パネルを弄っている間、その背後を固めた。
「――開きました。こちらです」
「オレが先行する。姫はオレの体を盾に」
一見壁にしか見えなかった場所に、通路の入り口がぽっかりと口を開けている。まずオティカが入って、その後を姫が続いた。
「行きましょうか。将軍、後ろはおまかせします」
「フン、忘れられているのかと思ったぞ」
ゲルベロッサが呆れたように悪態をつく。
次いでベオが入り口をくぐり、最後にしんがりとしてゲルベロッサが隠し通路に入ると、壁の穴はまるでそんなものがなかったようにただの壁に戻った。