二両編成の電車は穏やかなリズムで線路を進んでいた。乗客はまばらで、車内にはわずかな話し声と電車の振動音だけが響く。窓の外には彼方まで広がる海が見え、昼間の陽光を受けてきらきらと輝いていた。
「あ、海」
ぼんやりと窓から景色を眺めていたコナンは、小さく声を出した。隣で本を読んでいた灰原が反応して顔を上げるが、興味がなかった為、その視線はすぐに本へと戻った。
電車が進むにつれて、次第に景色は変わり始めた。海は街に隠れ、すぐに建造物の群れも減っていき、緑豊かな田園風景が姿を現した。広々とした田畑が広がり、風に揺れる草木が青々と生い茂っている。
電車は小さなバス停のような駅をいくつも通り過ぎた。どの駅もほとんど無人で、木製のベンチと古びた待合室だけがある。時折、ひとりかふたりの乗客が降りていくが、すぐにまた静寂が戻る。
車窓から見える景色はどんどん田舎へと変わっていった。山々が近づき、川がゆるやかに流れている。電車はそのまま進み続け、やがて鳥羽駅に到着した。大きな駅舎はどこか寂しげで、駅員の姿も見当たらない無人駅だった。
「こんな大きな駅なのに無人なのね」
「まあ、田舎だしなぁ。通り過ぎた駅もほとんどバス停みたいな駅だったぞ」
電車を降りた蘭がきょろきょろとあたりを見渡し、不思議そうな顔をする。小五郎はそれに返事をしながら長旅で凝り固まった身体をほぐすように伸ばした。
その2人の後ろ姿を見ながら、コナンは蘭の言葉に内心同意していた。
(ちゃんとしたデカい駅に見えるのに、駅員がいないなんて……田舎はすげぇな)
などと、少し失礼な事を考えていた。
その横に灰原が降り立つ。
「そういやお前は何でついてきたんだよ。三重になんか思い入れでもあんのか?」
「三重にはないわ。目的地に興味があるのよ」
「ふーん」
コナンは興味がなさそうな返事をして小五郎達のそばに向かう。目的地まではまだ遠く、ここからバスに乗って移動して、そこから更にタクシーだ。
「ったく、面倒な依頼受けちまったなぁ〜」
小五郎が面倒くさそうに頭を掻きながらバスに乗り込む。コナンと灰原が続き、最後に蘭が乗り込んだ。
依頼の内容は護衛だ。誰かが命を狙ってきているから助けて欲しいと言う曖昧なものだった。それだけでは意味がわからないと断ろうとしたのだが、報酬が高額だった為受ける事にしたのだ。
「徐福館、か……。徐福ってどっかで聞いた事あるような気がするなぁ」
「秦の方士だよ。始皇帝に長生不老の霊薬を探してこいって命を受けて旅をした人。東方に船で出立したけど結局戻らなかったんだって。その東方って言うのが日本だって言う説もあって、日本のいろんなところに伝承が残ってるらしいよ」
「ああ、始皇帝の……。つーかお前、よくそんな事知ってんな。徐福なんて習わないだろ?」
「え!?あ……こ、この間テレビで始皇帝の特集やってて、徐福がチラッと紹介されてたから!」
「始皇帝の特集ぅ?ガキのくせに随分と渋いもん見てんのな」
「べ、勉強になるから!」
「コナン君偉いねぇ。私がコナン君くらいの時なんて難しいもの見てなかったのに。哀ちゃんもそう言うの見るの?」
「わたしは逃亡中見てたから」
「へえ、哀ちゃんもバラエティ見るんだね。私も見てたよ、逃亡中。闘争中も好きだったなぁ」
灰原の裏切りにコナンはギョッと目を見開いた。絶対そんな番組は見ていなかったはずなのに、わざと子供が見そうな番組名を上げたのだ。
蘭が小五郎と話し始めたのを見て、コナンは灰原に苦言を申し入れる。
「話し合わせてくれたっていいじゃねぇかよ」
「あなたが迂闊だからいけないのよ」
バスに乗っている若者のグループが楽しく話し始めたのを見て、灰原は彼らの会話に紛れるような小声で話し出す。
「西の名探偵に気付かれて、白い怪盗に悟られて、黒い殺人鬼に暴かれて……次は誰に知られる予定なのかしら?
最近あなたの家に住み始めたあの大学院生?それともポアロで働き始めたあの男?……ああ、そうだ。そろそろあの女子高生探偵に嗅ぎつけられるっていうのも考えられるわね」
「おいおいやめろよ。これ以上は勘弁だぜ」
「あなた確かアイリッシュにも見抜かれたのよね?もう少し警戒するべきだわ。組織の人間は本当に恐ろしいのよ。少し気が緩んでるんじゃないの?」
そんな事はない。そう言おうとしたが灰原にジト目で睨まれた為、その言葉は出せなかった。コナンは曖昧にアハハと笑って誤魔化した。
「笑い事じゃないわよ」
灰原はやや不機嫌そうに声を出す。
と、そのタイミングでバスが目的地に到着した。そこで降り、今度はタクシーに乗り換えて道を進む。灰原は何か言いたそうだったが、蘭と小五郎もいる為話は後にした。
タクシーが走り出すと、車窓から見える風景が次第に変わっていく。小さな商店が点在する町の中心部を抜けた。
そして10分ほど経つと、西洋風の古い旅館が目の前に現れた。重厚な石造りの外観が、長い歴史を物語っている。その横には高い崖がそびえ、下には荒々しい海が広がっている。波が崖に打ち寄せ、白いしぶきが上がっている様子が見える。
「危ないから近づいちゃダメよ」と蘭に言われ、コナンは大人しく身を引いた。
小五郎と蘭が旅館の人と何やら話している後ろで、灰原がボソッと話し出す。
「船での出来事を思い出してみなさいよ」
「船?どの?」
「クイーンセリザベスII号。イルザンナブルにシージャックされた日の事よ」
本を閉じ、灰原はコナンをじっと見る。
「ジャックザリッパーとマフィアの殺し合いを思い出してみて。あなた、何もできなかったでしょう?」
「ああ……」
コナンは何か苦いものを噛んだかのように顔をくしゃりと歪めた。今までの人生の中でもトップクラスで心に残っている出来事だ。もちろん、悪い意味で。
「仮に彼らがわたし達に敵意を向けていたら、わたし達は間違いなく皆殺しにされていたわ」
「そうだな。あの日はただ、運が良かっただけだ」
「分かる?組織の人間は、目撃者は皆殺してきたのよ。女でも子供でも容赦しない。あそこにいたのが組織の人間だったら、皆死んでたわ」
「もしもの話に意味はねぇだろ。実際、あの日あの場所にいたのは奴らの仲間じゃなかった」
「黙って聞きなさい。あなたの正体を掴んだ人達は善意であなたのことを黙ってるみたいだけどね、もしも組織に工藤新一が生きているとバレたら間違いなく殺しにくるわよ。だから貴方、工藤新一って事を隠しているんでしょう」
「分かってるよ」
「本当に?」
じっと顔を見られ、コナンは居心地が悪くなって窓の外へと目を向けた。そこには小さな中庭がある。こぢんまりとした、風情のある庭だ。
「子供の姿の私たちに出来ることなんて殆どないんだから、せめて失言くらい減らす努力をしなさい」
灰原の小言に返事をしつつ、コナンの意識は中庭へと向いていた。
(誰かいるな)
静かで寂れた旅館にいる先客。コナンは何故か、その人物が気になっていた。
その中庭は全体が綺麗に整頓されており、どこを見ても無駄のない美しさが感じられた。豪華さとは無縁でありながら、その控えめな佇まいが逆に魅力を引き立てている。
中央には小さな池があり、水面には木々の葉が影を落としている。周囲には低い生垣が整然と並び、その間に色とりどりの花々が植えられていた。風が吹くと、花びらが優雅に揺れ、かすかな香りが漂ってくる。
庭の一角には、屋根付きのスペースが設けられており、そこには木製のベンチが置かれていた。ベンチの上には一人の人影が見える。
その男は静かに座って、何やら本を読んでいる様子だった。ただそれだけのはずなのに、妙に心が騒ついた。コナンは中庭へと続く扉を開け、彼の元へと向かった。近づくにつれ、はっきりと分かった。
(なんで、コイツがここにッ……)
やや長い、癖のある銀髪。その銀髪の合間から覗く、牡丹色の鋭い瞳。黒いマスクとアンダーリムのメガネ。
(アルシエルッ!!)
コナンはすぐさま身を翻して、通報しようとした。だが左腕を掴み上げられ、あっという間に捕まった。そして殺人鬼アルシエル、ジャックの隣の席へと座らされた。
「テメーッ!」
「久しぶりだな名探偵。人の姿を視認するなり走り去るなんて、つれないじゃないか」
本を読み終わったのだろうジャックはそれを閉じると、その鋭い瞳をコナンの方へと向けた。何事かと不思議そうな顔をした灰原がこっちに向かってきて、ジャックの顔を見て目を見開いた。
「意外と迂闊なんだな、お前。一度見られた顔で呑気に読書をしてるとはよ」
「この顔が好きでね。それにしても偶然だ」
「ああ、最高の偶然だぜ。テメーをすぐに牢にぶち込んでやるよ」
「どうやってかね?今ここで通報する気か?」
ジャックは腕を組み、見下ろす。コナンが彼の問いに肯定で返すと、フッと笑った。
「何の罪で通報する気だ?なんの証拠もないと言うのに」
「武器の一つや二つ隠し持ってんじゃねぇのか?それがあれば十分だろう」
「生憎だが持っていない」
そういうとジャックは両方のポケットの生地を引っ張り出し、何も入っていない事を見せつける。ゆったりとしたTシャツにワイドパンツという非常にラフな格好をしている為、確かに隠しているものはなさそうだ。
「服の下とかは?脱いでみろ!」
「断る。誰が脱ぐか」
「……やっぱ刃物の一つくらいは持ってるんじゃねぇのか?」
コナンはジャックの体を調べようとするが、軽く防がれた。
「今回は荒事をしに来た訳ではないからな。調べ物だ」
「殺人事件の?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「何だよ、曖昧な返事だ」
「まあ……荒事になっても、素手で事足りるから問題はないがね」
蘭だって素手で相手を制圧できるのだ。確かにコイツであれば素手でも問題なさそうだ。恐らく初めてあったパーティーの時も素手で乗り込んでいたのだろう。その場にあった物、もしくは素手で幾らでも相手を殺せる程の実力者なのだ。
「それで、通報するかね?」
「当然だろ。こんなチャンス、見過ごす訳ない」
「はてさて、ボクは何の罪で通報されるのだろうか?」
「変装してる不審者」
「酷い言われようだ。変装は罪か?」
「不審ではあるだろ」
コナンが110と打ち込もうとしたところで、灰原に止められた。
「やめなさい」
「何でだよ」
「子供のいたずらと取られて終わるわよ。仮に拘置所に送られたとしても、証拠が何もない以上すぐに釈放されるでしょうね」
「さすが賢いな。その通りだ。万が一拘留請求が出されたとしても通るまい。起訴は不可能だと思うがね。ボクを捕まえられるとしたら、現行犯だ」
うぐぐとコナンは悔しそうな顔をして歯を噛み締める。
「現行犯逮捕とは犯行の途中、もしくは直後の犯人を逮捕する事だ。これは刑事訴訟法212条1項にも記されている。
もしくは準現行犯。こちらは犯人として追われている、凶器を所有している。衣服等に犯罪行為の明確な証拠がある。これらの事項が認められ、犯行直後だと明確に認められる人物を逮捕することだな。これは同条の2項に記されている。
……おや、ボクはどちらにも当てはまらないように思えるな?」
「緊急逮捕なら……」
「分かっているだろうに。ボクがやったと疑うに足る十分な証拠はあるのかね?君の証言じゃ足りないぞ」
「くっそ」
コナンは悔しそうにそう言うと、大きくため息をついた。本当は本人にも分かっていたのだ。証拠も何もないからこそ、本人はこうも堂々としていられる。ならば探偵として、コイツに明確な証拠を突きつけてやらねばならない。
そう、内心メラメラと闘志を燃やした。
「そういやお前、撃たれた怪我とか骨折はどうなったんだよ」
「おや、心配してくれるのかね」
「してねぇ。弱みを探してる」
「君に気にかけてもらえるとは嬉しいな」
「おい、難聴か?」
「もう治ったよ。しばらく休めたからね」
「だから最近お前の事件の報道がなかったのか」
「ああ、前から忙しく動き回っていたのに骨まで折れてしまって、流石に疲れたからね。万全の体調に戻すのに少し時間がかかってしまったよ。眠りが浅いのが悩みだから、ボクもこれが欲しいな。ぐっすり眠れそうだ」
ジャックは手に持つ物を持ち上げて、まじまじと眺めた。それはコナンの腕時計だった。いつの間にやら掏られていたようだ。
(いつのまに、あの時かッ!)
最初、コナンの左腕を掴み上げた時。あの時に実は腕時計が取られていたようだ。“ほら迂闊”とでも言うような顔で灰原がため息をついていた。
ジャックはカチャカチャと腕時計を弄り、「なるほど、こう使うのか」としみじみ呟いていた。
「見事な技術力だ。一瞬で成人男性を深い眠りに落とすとは、末恐ろしいものだ。この麻酔は誰が作ったのかね?」
「言う訳ねぇだろ」
「麻酔とこの腕時計は別の人物が設計したのか?素晴らしいな。確か君の家の近くに阿笠という博士が住んでいただろう?」
「さぁなぁ」
「ところで名探偵。君、麻酔を扱う資格は」
「僕子供だから難しい事分かんな〜い!」
コナンは慌てて下手くそな演技でしらばっくれると、音程の外れた口笛を吹きながら走って去っていった。ジャックは返しそびれた腕時計を手持ち無沙汰に眺めると、ふと灰原に目をやった。そしてその姿をまじまじと見る。コナンについて行くタイミングを逃した灰原はその視線に居心地が悪くなり、つい棘のある言葉を発した。
「何?あなたもペドフィリアなの?」
「失礼だな。生憎だが女性は年上の方が好きだ」
「あら、あなた男なのね」
「どうだろうな。レズビアンという可能性もある」
腕を組み、ジャックは灰原の姿を上から下までじっと見た。灰原は何となく嫌な予感がして後退る。
「君はこれをどう思う?」
ジャックは腕時計を灰原に見せた。
「別に責めている訳ではない。彼が大人と対等にやり合うには必要な物だろう」
「何が言いたいの?」
「いや……誰が作ったのかな、と。言ってしまえば好奇心さ。彼のそばに薬学に精通した人物がいるのではないかと疑っている」
「……わたし、子供だから。そういう難しい事はよく分からないわ」
「そうか?」
ジャックは立ち上がり、灰原の側に膝をついた。そしてその顔をじっと見つめる。鋭い瞳に見つめられ、灰原の鼓動が早くなっていった。
「君の専門分野だろう?シェリー」
「……ぇ」
灰原は冷や汗を流し、信じられない心地で立ち尽くしていた。ジャックの、殺人鬼の冷たい眼差しが真っ直ぐその身を貫いてくる。
心臓がバクバクと激しく鼓動し、まるで胸を突き破らんばかりだった。顔色は瞬く間に真っ青になり、全身の血の気が引いていくのを感じた。
「なに、を……」
灰原の声は震えていた。知らないと、何のことだと分からないフリをしなければならないのに、とてもそんな事はできなかった。
天地がひっくり返ったような感覚に、足元が揺らいだ。焦りと恐怖が一気に押し寄せ、喉が乾き、呼吸が浅くなっていった。
確信を持った口調だった。
そして、それに激しく動揺してしまった。だってこの人物は組織の関係者ではないはずだ。人殺しが放つ独特の冷たい空気はあったが、組織の人間のような圧は感じなかった。
それなのに、何故その名を知っているのか。考えられるのは、一つだけだ。
人殺しを殺す、殺人鬼。
(そうよ、そうだった)
当然だ。少し考えれば分かる。
(人殺しを殺すというのなら、組織の人間だって、狙っていてもおかしくはない。彼らはきっと、この世の誰よりも人を殺してきてる)
知っていたのだ、ずっと。
ひょっとしたらコナンや灰原より“組織”に関する情報を多く持っていてもおかしくはない。
油断するなとコナンに口を酸っぱくして言っておきながら、油断していたのはどうやら己の方だったらしい。
(自分がどういう存在なのか、忘れるところだった)
子供達と一緒になり、蘭や園子などの善人と接触した事で、勘違いしそうになっていた。
(わたしは、彼らとは違う)
殺人鬼は彼らを狙わない。
でも、灰原の事は狙っていてもおかしくない。
(わたしは……殺される側の人間だった)
手は下していない。などと言うのは言い訳に過ぎない。自分の研究によって何人もの人間を不幸にした事は間違い無いのだ。
(死神の刃が、ついにわたしの所に来たってこと……)
こんなあっさり終わるとは思っていなかった。だが仕方ない。先ほどコナンに言ったことだ。子供の身では出来ることなどない。ましてや相手は世間を騒がせる連続殺人鬼だからだ。
ジャックはその様子を見て、小さく息を吐き立ち上がる。
「何やら覚悟を決めている所悪いがね、ボクは君を殺すつもりはないぞ」
「……え?」
「鎌を掛けたつもりだったのだが……君はボクが思っているより幼いのか?思っていたよりも顕著な反応だ。その姿でその反応を取られると、少し罪悪感が湧くな」
「あなたにも……罪悪感なんてあるのね」
「む、少し調子が戻ってきたか」
「組織の事、知ってるんだ。どこで知ったの?」
「秘密だ」
「わたしがシェリーって、どうやって知ったの?」
「それも秘密だ」
「秘密ばっかりね。わたしのことは暴いたのに、自分の事は教えてくれないのかしら?」
「ボクは犯罪者だからな。自己中心的なんだ」
「それならわたしも犯罪者よ。教えてくれないのならここで駄々をこねて泣き喚いてもいいわ」
「それは困るな。ふむ、そうだな。……まあ、あの憎たらしい烏共の事はボクも調べているがね、君がシェリーなら分かると思うが、情報は本当に少ない。雲を掴むような心地だよ」
「でしょうね。徹底した暗殺体制と、情報統制。警戒心と秘匿性の高さ。組織にいたわたしでさえ、知る事は少ない」
「関わった人間は不要と判断されるとすぐに始末されている。死人に口無し。全く腹立たしいほどに合理的だ。ボクが情報を掴んで辿り着いた時には、すでに死体になっているのだからな」
「死体を見つけられるだけでも大したものだわ」
「褒められるのは光栄だがね。それでは全く意味がない。烏共を全て狩り殺してやらねば意味がないのだから」
「あなた1人では絶対に無理よ」
「百も承知だとも」
ジャックは遠くを見る。その視線の先はロビーだ。コナンと蘭が何やら話し込んでいるのが見えた。彼らの態度を見る限り、大した話はしていなそうである。だがそろそろ潮時だ。
「あなたがわたしを殺さないのは、わたしが彼らを撃ち壊す一因になりそうだから?」
「ああ。それにあの名探偵が認めて側に置いているのだ。ボクは彼の判断を信用する」
「……あなたは、もっと容赦ないタイプだと思ってたわ。女子供の姿でも、容赦なく首を切られるものだと思ってた。てっきり、殺されるかと」
「ボクは身勝手な殺人鬼だ。殺す基準はボク個人の価値観に基づいている。殺すにしても、君は今じゃない」
「世間では正義の執行者みたいに言われてるわよ、貴方。組織の人間を見逃してもいいの?」
「諄いな。そもそもボクは正義の執行者などではない、ただの人殺しだ。最初に名探偵にも言ったが、ボクの
「本当に、わたしを殺さないの?わたしは最低な人間なのよ?」
「君は後ろ向きだな。そんなに死にたかったのか?」
「……どうかしら?」
灰原は考える。
少し前まで、自分は真っ当に生きる善人達には関わるべきではないと感じていた。彼らと共にいると、自分がひどく場違いに思えたのだ。
早く消えてしまいたいとも思っていた。でも、コナンや子供達と接していくうちに、自分が変わっていっていると言うのも理解していた。
何度か無謀な独断行動に出て、コナンの計画の足を引っ張ってしまった事もあった。死のうとした事もあった。その度に彼はやってきて、言ってくれたのだ。
「自分の運命から、逃げない」
「ん?」
そう、逃げない。
「あなたに殺されずに済んで良かったわ。彼との約束を破らずに済む」
「約束?」
「ええ。わたしは、自分の運命からは逃げないわ。自分の手で、この因縁に決着をつけると決めたの」
それでもジンの事を考えると、手が震えた。
怖い。怖くて仕方がない。
「まあ、君がそう決めたのならそれでいいと思うが。どうしても無理になったらボクの元へ来るといい。同じ罪人の誼だ。苦しませずに死なせてやる」
「不要よ。そんな日は、もう来ないから」
そう言って、灰原は前を向いた。
その目には小さくなった名探偵の姿が映っている。何も悪くないのに過酷な運命に巻き込まれ、それでも前を向く少年の姿が。
だから灰原も、しっかりと前を向く。
「そう言う事なら、これは君の助けとなるだろうな」
パタリと、何かが灰原の頭の上に置かれた。灰原は両手をあげてそれを手に取る。
「何これ?手記?」
それは手記だった。先ほどまでジャックが読んでいたもの。恐らくは江戸時代頃の人間が書いた日記。こんなものが何の助けにと思いパラパラと日記を捲って気がついた。合間合間に現代の人間が書いたと思える文章があったのだ。
「ボクに君のことを教えてくれた人が残したものだ」
「わたしのこと?誰が、なんて言ってたの?」
「組織の研究員だそうだ。君の写真を見せてきて、ボクにこう言った。“シェリーを殺してくれ”ってね」
灰原は目を見開いた。
「その男は、君さえ死ねば薬は完成しないのだと言っていた。恐ろしい薬を作っているのだと聞いた」
「それ、正解よ。賢明な男がいたのね。あんなもの、作っちゃいけなかった」
「それが何かは知らないがね。最初は“シェリー”を見つけたら殺そうと思っていた。元より組織の人間は皆殺しにしたかったから、問題はない」
ジャックは灰原に背を向けながら、「だが」と話を続ける。
「気が変わった。狩人の目が多いに越した事はない。烏を撃ち落とすのは別に誰でもいいからな」
そしてヒラリと手を振り、「応援しているぞ」と言ってさっさと去っていった。
灰原はその背を見送って、ジャックが腰掛けていたベンチに座ると、すぐに手記を読み始めた。